真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ㉖
刀伊の入寇 前九年 後三年の役
(2019.9.22) (戻る)
いつもありがとうございます。このシリーズ、前回の24章から一つ飛んで、26章にいきます。ちなみに25章は「平安時代の文物」であり、遣唐使の廃止により漢文学が衰え始めて国文学が発達していったことなどに触れられています。和歌文化が極まり、物語から日記や随筆など、多彩な文化に彩られた時代ということで大筋のところは皆様もご存知の通りでしょう。
さて今日の刀伊(とい)とは、今の中国東北部、いわゆる満洲辺りにいた女真族と呼ばれる民族のこと。元寇以外、現代日本では外国からの侵攻があったことが全く教えられていません。今日の刀伊の入寇(寛仁3年:1019年)とその前に起こっていた新羅の入寇(新羅が存続していた811年から935年までの間、新羅の賊が幾度も日本各地を侵した事件)など、防衛の重要性を認識せしめるためにも本来、義務教育で教えるべき史実でしょう。
そして現代ではなじみのない武将 八幡太郎義家こと源義家やその弟 新羅三郎義光こと源義光などの源氏のルーツとなった人々が歴史に登場しはじめ、奥州藤原氏もこの頃起こります。前回の承平天慶の亂に続く今回の前九年 後三年の役で武士は武家としてその地位や権威を固め、時代が大きく変わっていきます。
『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より |
---|
刀伊(とい)の入寇 外國との関係 既に全く絶ゆ―京都の公卿 時に榮花の夢に耽る―後一條天皇の時に刀伊の入寇―刀伊は靺鞨種(まっかつしゅ)―アムル地方に在りし昔の粛慎(しゅくしん)の一部―今の露領 黒龍江辺に住む―寛仁(かんじん)3年 突然入寇す―五十餘隻の兵船にて来襲す―先づ対馬・壱岐を侵掠(しんりゃく)す―國司 及び島民多く斬殺に遭う―進みて筑前・肥前に迫る―事 京都に聞えて上下 大に驚く―大宰權師 藤原隆家(タカイエ)大蔵種材(オホクラタネキ)等と防戦に努む―刀伊 遂に遠く遁(のが)れ去る―隆家の子孫 土着して後に菊池氏を称す 平忠常の乱 前九年の役 清原武則 鎮守府将軍に任ず―安倍氏の旧地を領有す―武則の孫 眞衡(サネヒラ)家をつぐ―白河天皇の時に真衡の一族(真衡異母弟 家衡叔父 武衡と争う)争を生ず―奥羽また乱る―義家は陸奥守兼鎮守府将軍―義家眞衡を援けて家衡(イエヒラ)・武衡(タケヒラ)を攻む―賊 勢い熾(さかん)にして義家の軍利あらず―初め藤原秀郷六世の孫 清衡(キヨヒラ)は家衡を助く―後に清衡 義家に降る―義家 陣中に剛臆(ごうおく)の坐を設けて将士を激励す―義家の弟 義光また来りて兄を援く―寛治元年 義家 遂に家衡・武衡を滅す―奥羽の亂 平定―(後三年の役の称) 陸奥の藤原氏 |
〇藤原隆家 館址は陸中の西磐井郡平泉村に在り。即ち平泉驛(駅)高屋の北高館の南に当る。初め鎮守府将軍 藤原清衡は膽澤(いざわ)・江刺・和賀・稗抜・志波岩手の六郡<を領し、江刺郡豊田館(藤里村)に居りしが、嘉保元年 此の平泉館に移りぬ。之を奥御館(おくのみたて)と称す。是より子 基衡 孫 秀衡 相次ぎて曾孫 泰衡に至れる約96年の居館たりが、文治5年 泰衡 源頼朝に攻めらるるに及び、遂に此の居館を焼きて遁走す。 〇刀伊の入寇 前出に要領を記したれば其の所を見るべし。尚 之に我が平安朝の頃、高麗の遺民の起りて其の勢の盛なりし時、刀伊も其の命を奉じたりし事ありしを補い、且つ藤原隆家 大蔵種材の各項を参考すべし。 〇前九年の役 前出に見ゆ。 〇武士の起源(次に武士の興起と王朝末の武權勃興の主因とを記す) 藤原氏他氏を排斥して一門 樞要(すうよう)の地位を占め、獨り政権を擅(せん)にせしより、朝臣 榮華にふけりて詩歌・管絃の遊に日を送りたれば、世に所謂 延喜(醍醐の朝)天暦(村上の朝)の治と称して京都は太平無事の如くなりしも、其は表面のことのみにして廷臣公務を怠りて専ら私利を營みたり。されば皇族にして姓を賜りしもの、或は才幹あるものの京都に志を得ずして地方に赴任し、やがて其の地に土着して豪族となれるもの多くなれり。地方にありては、早くより班田収授の法 廃れて、新開の地は言うも更なり天下の土地また荘園(コチラ参照)の名の下に私有地となりて國庫の収入減少し、従いて朝威ますます衰え、中央政府の令 地方に及ばず、國司・郡司は各私利を恣(ほしいまま)にして不法の税を徴し、裁判公平を失い、盗賊 各所に蜂起するも官兵 既に脆弱(よわく)にして之を制すること能わず、人民塗炭の苦をなすに至れり。是に於て地方土着の豪族は、私に兵を蓄えて武技を練り、弓馬の術を習い以て自衛の策を講ぜり。之を武士の起原(武士の興起)とす。 斯くの如く在廷の臣 皆 娯楽に日を送りて武事を卑(いやし)みしかば、地方政治紊乱(びんらん)して騒擾(そうじょう)しばしば起り、武官 之を鎮定するを得ざるも甚だしく意に介せず、常に之を源平二氏に委ねたり。即ち承平天慶の亂(コチラ参照)に平貞盛は将門を誅し、源經基は藤原純友を滅ぼしたるが如き其の例なり。是等 後に皆 鎮守府将軍に任ぜられて、其の名 漸く著わる。斯くて經基の孫 頼信は平忠常の亂を平げ、頼信の子 頼義 頼義の子 義家は前九年の役に安倍頼時・貞任を誅し、後三年の役に義家は清原武衡の乱を平げ、而も恩威を以て部下を率いしかば、東國の武士ますます之に信服し、源氏の勢 盛となれり。而して平氏は前に平将門の叛あり、後に平忠常の亂ありて、源氏に比して頗(すこぶ)る普請の状態に在りしも、延暦・興福・園城・東大諸寺の僧兵、其の暴横の甚だしきに及び、源氏と共に朝命を奉じて之を鎮撫し、且 京都の守衛に任じたり。かくして貞盛六世の孫 忠盛に至り、しばしば山陽・南海の海賊を平げて其の威を両道に振い、殊に鳥羽法皇の親任を被りて昇殿をも聽されて家名漸く掲り、遂に源氏と抗することとなれり。かくて保元・平治の乱亂にて武士の地位 頗る進み、平氏は藤原氏に代りて政権を掌握するに至る。是れ源平二氏の精力を得るに至りし理由にして、また王朝の末 武權勃興の主因なるものとす。 |
(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ㉗ 後三条天皇 院政 僧兵
—————————————————————————–
(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ㉔ 地方の情況 承平天慶の亂
◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑳ 佛教の新宗派 漢文學 蔵人所と検非違使
◆朝鮮人は、朝鮮半島に住んでいた古代日本人を蹂躙した侵略者!
◆竹島を武力行使で即奪回せよ! そして、まずは容易に取り返せる古代における朝鮮半島の日本府“任那”を日本史上に奪還し、日本人に再教育せよ! ~ 韓土の日本領も奪回! 朝鮮半島にある前方後円墳
◆満洲は日本の生命線だったのです ~ 押しつけられた、日本軍による南満洲鉄道爆破 自演説の虚偽
◆戦前の道徳教科書『修身』に見る加藤清正の武勇伝 ~ 自虐史観の正反対から見る豊臣秀吉の朝鮮侵攻
◆水面下で進む中国の人口侵略 ~ 日本の女は悪魔の洗脳で家庭離れ
◆隠蔽されてた尖閣沖 中国漁船と海上保安庁巡視船の衝突ビデオが流出! ~ 流出犯を逮捕すべきか? 投票開催中!