日本の面影

Glimpses of Japan
失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑳
佛教の新宗派 漢文學 蔵人所と検非違使

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(2019.9.10)  (戻る)
この妻木さんの参考書でどうしても掲載しておきたいところがいくつかあったのでもう少し続きをアップしておきますね。ただ、この本は字が小さく、かなり目に負担がかかるのでもうちょっとだけに。

さて、平安時代の佛教新宗派、今じゃ最澄と空海、天台宗と真言宗、延暦寺と金剛峯寺という言葉ぐらいしか教えられておらず、その中身はさっぱり、空海の人柄や天才ぶりは完全に無視されてます。でもこの通り、この章は戦前教育ではとても力の入った部分なんです。今じゃ空海はもちろん聖徳太子の天才ぶりも無視、それどころか聖徳太子すらいなかったとされそうなほど、ひどい状況になってしまいました。左翼(学者や知識人)は日本の偉人なんでただの人間で実はクズだったとしたいわけです。戦前教育では聖徳太子も空海もとても聡明で立派な人物像が描かれていたのに、左翼教育者どもは「そんな奴ら(聖徳太子や空海)も実際は悪いことばかりしてて天才伝説も捏造だ」としたいわけです。「そんな崇高な精神の奴なんているか!」というのが皆をただの俗物にしたい左翼学者の歴史観なんです。

私の読者の皆さんは、ここを読んで、左翼の作る歴史人物像に惑わされず、しっかりした人物、子供たちが目標としうる人格を持った日本の偉人の歴史像を守ってくださいね。そしてそこには必ず歴代の天皇が絡んでいたということも。
そして嵯峨天皇、橘逸勢、空海らは書道の祖ともいえる三筆とされます。また平安時代の漢文学や学問所の状況など、現代日本ではまったく教えられないそういうのを知れば、日本の学校教育はこんなに昔からとっても優れていて、世界に比類なく歴史あるものなのだということがわかり、日本人としての誇りや自信も育まれるようになるはず。伝統の大切さも。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

天台 真言二宗の渡来
佛教は天平年間前後に極盛―桓武天皇の時に最澄・空海出づ―旧態 變(変)じて信仰 新になる―最澄 延暦寺を立つ―最澄 帰朝後 天台宗を弘む―桓武天皇 尊びて國師とし給う―後に傳教大師(でんぎょうだいし)の號を賜わる―円珍(エンチン)唐に学ぶ―帰朝後 園城寺(えんじょうじ)を興す―空海 帰朝後 真言宗を伝う―空海 金剛峯寺を立つ―六宗に天台・真言二宗を併せて八宗(コチラ参照)神佛同體説(しんぶつどうたいせつ)を進めて本地垂跡説(コチラ参照)を唱う。―佛教の精力ますます加わる―空海 後に弘法大師の號を賜わる―嵯峨皇后と檀林寺。

漢文学の隆盛
桓武天皇の御代より漸く漢文学隆盛―嵯峨天皇の御好學と書道―三筆の称―有智子(ウチコ)内親王―橘逸勢(タチバナノハヤナリ)―小野篁(ヲノノタカムラ)―都良香(ミヤコノヨシカ)―紀長谷雄(キノハセオ)―清原夏野(キヨハラナツノ)。
私立學校の興起―橘氏の學館院―和気氏の弘文院(こうぶんいん)―藤原氏の勧學院(かんがくいん)―在原氏の奨學院―各一族 子弟の教育―空海の綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)―私立學校に各家の子弟を教育す。

藤原薬子の乱
桓武天皇の崩後 皇子 平城天皇の御即位―皇弟 嵯峨天皇の御受禅―藤原薬子(クスコ)兄 仲成(ナカナリ)と平城上皇を立て奉らんとす―仲成 遂に乱を起す―薬子 自殺し仲成 誅に伏す。

蔵人所の設立
当時の政治形式に流る―嵯峨天皇 之を改めんとし給う―薬子の乱前 既に宮中に蔵人所(くろうどどころ)を設置―機密の文書を掌(つかさど)る―是より太政官の事務多く蔵人所に移る。

検非違使の設置
当時 衛府の勢力 大に衰う―蔵人所設置の後 検非違使(けびいし)を置かる―都下の警察裁判を掌(つかさど)らしめらる―検非違使廰(庁)の設置―衛府の勢力全く失わる―大寶(宝)令外の官庁設置―大寶の制度 漸く破る。

平安時代の初世
嵯峨天皇の御英明―政治の刷新を図り給う―天皇御弟 淳和天皇に御受禅―次いで嵯峨天皇の皇子 仁明(ニンミョウ)天皇立ち給う―桓武天皇より仁明天皇まで五代の間 皇威振い天下よく治まる―平安時代の盛時。

〇最澄(傳教大師)
近江の滋賀郡の人なり。早くより僧となりて、佛學を修め延暦7年 延暦寺を比叡山上に建てしが、後、詔をうけて同23年 遣唐使に随いて唐に赴き、天台山(浙江省台州府)國清寺の僧 道邃(ドウスイ)法師につきて佛法を学び、翌年 帰朝して天台宗を我が國に伝う。是より天台宗 大に弘まる。後、嵯峨天皇の弘仁13年 56歳にて寂す。清和天皇の御代に至りて傳教大師の謚號(しごう=おくりな)を賜わる。
〇空海(弘法大師)
讃岐の仲多度郡の人なり。延暦23年遣唐使に随いて唐に赴き、長安(陝西省西安府)青龍寺の僧 慧果(エクワ)につきて眞言宗を學び、在唐3年 平城天皇の大同元年に帰朝して此の宗を弘む。御嵯峨天皇の弘仁7年 紀伊の高野山上に金剛峯寺を開き、同14年 勅によりて東寺(京都の教王護國寺)を賜わる。是より眞言宗 大に行わる。後、仁明天皇 承和(じょうわ)2年62歳にして寂す。醍醐天皇の御代に至りて弘法大師の諡號を賜わる。空海 學問深く、文に長じ、書を能くし、また絵画・彫刻に巧みなり。いろは歌も其の作と伝えられ、讃岐の萬農地の堤を築きしもまた空海なりと云う。
〇延暦寺
近江志賀郡坂本村比叡山上に在りて、天台宗の本山たり。延暦4年僧 最澄 比叡山に登りて草舎を構え、同7年 桓武天皇の御為に根本中堂を建て、比叡山寺と號す。後に一乗止観院と改む、弘仁2年7月 法華堂を建て同9年 朝廷 使を遣わして4至を定め、同14年延暦寺と改め、天長元年 僧 義眞(ぎしん)を始めて天台座主に補す。かくて天暦3年根本中堂火災にかかり、康保(こうほう)3年復(ふたたび)火く本寺は歴朝の御尊崇篤く、所領多くして僧兵を養い、山法師として横暴を恣(ほしいまま)にす。後 永く園城寺等と干戈(かんか)を交えて闘乱絶えざりしが、元亀2年 織田信長 之を焼討にし、三千の法師等 殆ど殺戮せらる。天正13年 豊臣秀吉 寺領を寄せて再興を謀り、徳川家康・秀忠 父子 之に寺領を寄附し家光の功にて堂宇 旧観に復す。其の中堂・釈迦堂等 現今 特別保護建造物なり。
〇円珍
讃岐那賀郡の人にして俗姓は和気氏、弘法大師の姪(古くは甥を示す)なりと云う。幼にして書を読むを好み、15歳 比叡山に入り義眞を師として僧となる。仁寿(じんじゅ)3年 勅によりて入唐し、居ること6年 佛教の奥を極め、天安2年 帰朝す。貞観(じょうがん)5年 灌頂壇(かんじょうだん)を園城寺に設け、翌年復 仁寿殿に壇を設け、天皇及び諸大臣に灌頂(密教においては頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式)を授け、佛教を奉講す。円珍 三井寺を中興し、同10年 天台座主となる。寛平2年 少都に任じ、翌年77歳にて寂す。延長5年 智證大師の諡號を賜わる。
〇園城寺
近江志賀郡大津市の西北 三井に在りて、天台宗寺門派(延暦寺を山門と云うに対し之を寺門と云う)の本山なり。一に御井寺とも三井寺(みいでら)とも称す。天武天皇の2年、弘文天皇の皇子 大友与多王(よたのおおきみ)奏請(そうせい)して寺を置て、之を御井寺と號し、氏寺として子孫に伝う。また地名によりて園城寺と號す。後 大友氏 衰え園城寺もまた振わざりしが、天安2年 延暦寺の僧 円珍 大に之を修理し、貞観元年 三井寺と改む。同8年 朝廷 勅して円珍を始めて別当に任じ、更に俗大 別当・俗別当・俗權別当を定めて、大伴氏を之に補し給う。後 別当を長吏と改む。かくて僧 円仁(エンニン)・円珍の両徒 相争い、承保元年 奏請して戒壇院の設立を許さるや、延暦寺の衆徒 傲訴(ごうそ)して之を破却す。是より両寺 互に干戈(かんか=武器・武力)を交えてしばしば兵燹(へいせん=戦による火災)にかかる。文禄4年、豊臣秀吉 一旦 本寺を破りて寺領を没せしが、慶長4年、金堂を再建し、徳川家康・秀忠父子 堂宇・寺院を再營す。其の仁王門は特別保護物なり。
〇金剛峯寺
紀伊伊都郡に在る高野山にして、眞言宗古義派の本山なり。嵯峨天皇 弘仁7年、僧 空海 此の地に草堂を營み、同10年 大塔 造營を始め、やがて諸堂 成りて金剛峯寺と名づく。かくて空海の寂後、僧 眞然(シンネン)其の遺志をつぎ寺塔を建立して大成す。宇多法皇 此に幸し給いし後、しばしば仙洞御所の行幸あり。元亀中 織田信長 大挙 之を攻めしが、衆徒よく之を防ぎ退く。尋(つい)で天正年間 豊臣秀吉 押領の新地を創りしが、文禄3年 大に堂塔を復興す。是に於て寺宇 頗(すこぶ)る旧観に復す。明治21年 火災にかかりて哀頽(すいたい)せしが、衆徒 之が復興に勉め、現に寺院130餘宇存せり。
〇嵯峨天皇と檀林寺
皇后は橘清友の子にして、仁明(ニンミョウ)天皇の御母なり。皇后 資性寛和にして風容絶異、手を垂るれば膝をすぎ、髪は地に委ぬ。嵯峨天皇 未だ親王の時 妃となり、天皇 即位に及びて夫人となり、同6年 皇后となり給う。皇后 専ら化導(衆生を教化して善に導くこと)につとめ給い、宮中よく治まる。朝野 之を称し奉る。天皇 譲位し給い、淳和天皇 立ち給うに及びて皇太后となり、仁明天皇 即位の後 太皇太后となり給う。嘉祥(かしょう)3年 天皇 御病あるに及び、皇后 之を憂い髪を剃りて尼となり給う。此の年 天皇崩じ給い、尋で皇后また崩じ給う。御年65。太后 篤く佛を信じ、檀林寺を建て給う。よりて世に檀林皇后と称し奉る。檀林時は山城葛野郡嵯峨に在りて、皇后 唐僧 義空に之を創造せしめ給う。仁明天皇 五百戸の封を施し給い、尼寺五山の一となる。後世 廃絶して今は其の後を存せず。
〇三筆
我が國にて書道に通じ給う嵯峨天皇と橘逸勢(タチバナノハヤナリ)・僧 空海とを併せて三筆と云う。
〇橘逸勢
奈良麻呂の孫なり。人となり放誕(きまま)にして細節に拘らず、隷書をよくし宮門の榜題多く其の手に成る。延暦の末年 遣唐使に随いて入唐す。唐人呼びて橘秀才と云う。承和(じょうわ)7年但馬守となる。嵯峨上皇の御不豫に及び、東宮帯刀 伴健峯(トモノタケミネ)乃ち逸勢と謀り、皇太子 恒貞親王を奉じて東國に走る。上皇の崩後に藤原良房 人をして二人を捕えしめ、逸勢を伊豆に配流せしが、其の途中に卒す。翌年 正五位下を贈られ、仁寿3年 更に従四位下を贈らる。
〇小野篁
参議 峯守(ミネモリ)の子なり。初め馳馬(はやうま)にふけりしが、嵯峨天皇の御誡めをうけて大に慚悔(はぢくい・ざんかい)し、是より學に志し、文章生に及第して東宮學士となり弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に任ず、後 清原夏野と令義解(大寶令の解)を撰す。承和4年 遣唐副使となるや、大使 藤原常嗣 其の船を得んとし、奏して次第を換う(引き換えにする)。篁 忿(いか)りて遂に乗船せず、謡(うた)を作りて遣唐の事を刺(そし)る。此の事 嵯峨天皇の忌諱(きゐ・不興を買う)にふれ、遠流に處せらる。後 天皇 其の文才を愛して本位に復し給い、同14年 累進 従四位上に叙せらる。文徳(もんとく)天皇の御代 更に従三位に叙せらる。仁寿(にんじゅ)2年51歳にして薨ず。篁の文章 当時に秀で、また草隷に巧みなり。其の作詩の如き唐人見て之を称す。
〇都良香
父を貞繼(サダツグ)と云い、頗(すこぶ)る旧儀に諳練(あんれん)す。兄を腹赤(ハラアカ)と云い、また文才ありて文章博士となる。良香 博聞にして強記、よく文を作る。当時 風俗の矜伐(をごり)にして賢愚を分たざるを嫉(ねた)み、之が論を著わして之を辨明す。対策に及第して声名ますます高く、貞観14年 掌渤海客使となり、尋で大内記 文章博士となり、越前權介を兼ね。元慶(がんぎょう)2年36歳にて卒す。
〇紀長谷雄
弾正忠貞範の子なり。人となり頴敏(えいびん)にして18歳よく文を作る。大蔵善行・島田忠臣に詩文を學び、貞観18年 文章生に補せらる。寛平年中 文章博士となり、累進して、式部大輔兼侍従となる。宇多天皇の御代に遣唐副使となりしが、唐の乱に会いて止む。醍醐天皇即位に及びて顧問に備わり、昌泰(しょうたい)元年 天皇に群書治要を授け奉る。延喜(えんぎ)年中 累進して従三位中納言となり、其の12年68歳にて薨ず。長谷雄 文章に長じ、当時の詔勅・表牋(ひょうせん)多く其の手に出づ。世に紀納言と云い、また紀家と称す。
〇清原夏野
小倉王の第五子にして、初め繁野と云う。累進して天長3年 左近衛大将民部卿となる時に奏請して親王の為に太守國を定む。尋で大納言を歴て同9年 右大臣となる。初め藤原不比等 大寶令を撰す。年を歴て學者互に異同をなす。夏野に詔して壅滞(ようたい=とどこおること)を決し文義を解かしめ給う。夏野 乃ち藤原常嗣等と論辨折衷して令義解十巻を上る。承和4年 56歳にて薨ず。
〇滋野貞主
大同年中の初め文章生に及第し、弘仁年中東宮學士となる。天長年中勅を奉じ、諸書と古今文書とを集め、秘府略一千巻を撰す。また経國集二十巻を撰上す。仁明天皇の御代 参議に進みて便宜14年を陳す。嘉祥の初年、大宰府吏の不良等を救うの議を奏し、尋で文徳天皇の御代に正四位下相模守となり、仁寿2年68歳にて卒す。
〇有智子内親王
嵯峨天皇の皇女なり。博く書を読み文をよくし給う。弘仁元年 賀茂の斎院となり給う。同14年天皇内親王の山荘に幸し、文人に命じて詩を作らしめ給う。内親王 直に詩を賦し給い、天皇 之を見て大に賞し三品を授け、御製の詩を賜わる。時に内親王 御年17。尋で天長8年 職を辞して嵯峨の西荘に居給い、仁明天皇 即位に及び二品に進めて廃田120町を賜わる。承和14年 41歳にて薨ず。其の詩作 載せて経國集に在り。
〇学館院と弘文院
学館院は、嵯峨皇太后(檀林皇后)其の弟 右大臣 氏公(ウヂキミ)と謀りて學舎を設け、之を學館院と名づけて橘氏の學問所となし給いしに始まる。康保(こうほう)年中 参議 橘好古(ヨシフル)の奏請によりて大學寮の別曹となり、好古、院の別当となる。別当は橘氏より補せしが、同氏の衰ふるに及び、藤原氏の人 之を掌(つかさど)るに至る。弘文院は式部 少輔 和気廣世(ヒロヨ)が父 清麻呂の遺志をつぎ、和気氏の為に大學の南なる私宅に設けしなり。私學中 最古のものなり。建設の年代 詳ならざるも、延暦の末年以後なるべし。
〇勸學院と奨學院
嵯峨天皇の弘仁12年、右大臣 藤原冬嗣(フユツグ)自封をさきて藤原氏 窮乏のものの為に設けし所なり。藤原氏の盛時には、私學を以て其の勢 大學の上に出でしと云う。奨學院は陽成(ようぜい)天皇の元慶5年 平城天皇の皇子 阿保親王の子 在原行平(アリワラノユキヒラ) 其の私宅を學舎とし、以て王室の子弟 及び在原氏の學問所とす。在原氏の衰うるに及び、大學寮の南曹となり、應和3年 大納言 源高明の請によりて年官を給せられ、其の長官を別当と云う。源氏公卿 第一の人を以て之を補す。崇徳天皇の御代 村上源氏の中院右大臣 雅定 之に補せしより、毎に其の家の人を以て補するに至る。
〇綜藝種智院
淳和天皇の天長5年、僧 空海が藤原三守の宅地に創立せし所なり。綜藝は衆藝を兼綜するの義にして、主として佛道を説き儒学等をも教えたり。故に教師には僧侶以外の學者もありしなり。
〇蔵人所
弘仁元年3月の創立にして、機密の文書を掌る所とす。長官を別当と云い、頭・蔵人等の職員あり。初め蔵人は、校合せる書物を蔵むる校書殿内に在りて之を掌りたり。然るに後に服御の器物をも此に置きて蔵人 之を持ち運びしより、遂には機密の政治にも與ることとなり、やがて詔勅の伝宣に関係し侍従の職をも務むるに至る。平城天皇の御代に藤原薬子 寵を得、其の兄 仲成また勢を恃(たの)みて遂に朝政を紊(みだ)る。嵯峨天皇 即位に及び、蔵人所を置きて藤原冬嗣・巨勢野足(コセノノタリ)を之が頭とし以て政治の刷新を図り給う。是より蔵人所は永く置かるることとなれり。
〇検非違使と庁宣
姦民盗賊等を追補し、非法をも検察するの職なり。弘仁年中 始めて之を置き、承和元年 検非違使局を設けて別当を補す。別当は即ち長官にして、後 此の局を使庁と云い、其の宣旨を庁宣と云う。庁宣は、別当宣とも云いて勅宣に准ぜらる。
〇令外の官
蔵人所・検非違使の設けられしより、刑部省・衛府・弾正台・京職の文掌 及び少納言等の職掌はやがて此の所に移り、大寶令の変化を来すに至る。是れ等の官は大寶令にて定められざる其の以外のものなるを以て、之を令外の官と云う。
〇比叡山に関する本邦重要事件
此の山は近江滋賀郡坂本村に在り。山上に延暦寺を立てしより比叡山は延暦寺の號となり、延暦寺を比叡山寺とも称す。延暦4年 僧 最澄 登山して草舎を設け、同7年根本中堂を建てて比叡山寺と號し、後、一乗止観院と改め、弘仁14年 更に延暦寺と改む。天長元年 僧 義眞 天台座主に補す。同10年義眞 寂するや、円珍を替補せんとせしが衆僧聴かず、朝廷 巳むを得ずして之を止む。後、円珍 三井寺を興して天台の別院とす。斯くて延喜2年宇多法皇 延暦寺に幸し、尋で再び幸して舎利會を設け給い(天暦(てんりゃく)3年 根本中堂災にかかり康保(こうほう)3年復 火に逢う)永延(えいえん)2年 一條天皇もまた行幸して灌頂(かんじょう)戒を受け給う。かく本寺は歴朝の崇敬厚くして所領多かりしかば、是より先 巳に数多の僧兵を養う。世に之を山法師という。山法師等 少しく意に満たざるものあれば、或は嗷訴(ごうそ)し頗る暴状を極め、またしばしば三井寺の僧徒と互に攻争す。鳥羽法皇も山法師を三不如意の一とし給う。元弘元年 山法師等 後醍醐天皇の命を奉じて鎌倉の兵を防ぎ、延元元年 天皇 此に行幸し給い、尋で楠木正成 湊川に敗れて足利尊氏の命を奉じて鎌倉の兵を防ぎ、延元元年 天皇 此に行幸し給い、尋で楠木正成 湊川に敗れて足利尊氏の入京するに及び、天皇 難を比叡山に避け給う。斯くて元亀2年 浅井・朝倉二氏の織田信長と争うや、山法師二氏に力を戮(あわ)せて信長を討たんとす。是に於て信長 之を攻めて僧徒を殲(せん)にし、三千の大衆 殆どつく。後に豊臣秀吉 寺領を寄附して再興を謀り、天正17年 山門 始めて成る。徳川氏また其の遺志をつぎ寛永7年に至りて諸堂 悉(ことごと)く落成し、稍(ようやく)旧観に復するを得たり。

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