日本の面影

Glimpses of Japan
失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

特攻隊の青春群像 映画『 決戦の大空へ 』と、フィリピンの神風記念碑

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(2010.9)
戦時下の美しい青春群像 映画 『決戦の大空へ』(詳しくは右画像クリック)
当時の少年少女がリアルタイムでそのまま出てくる

海軍飛行兵養成所 予科練での生活・学習ぶりと、訓練生たちの憩いの場である倶楽部の人々との交流が描かれています。
もちろんご周知の通り、予科練卒業生はその後の特攻隊員の中核とされていきます。
戦時下の1943年に作られた戦意高揚のための国策映画ですが、人物描写も秀逸、とても爽やかな佳作。
特攻の決行は1944年からですので、この映画の頃はまだ特攻隊が編成されていません。
映画の最後、子供が「ボクも予科練に行く」と言い、お母さんが喜ぶ姿に、その後を知る私たち、何とも儚く悲しいものがこみ上げてきます。お子さんをお持ちの方だと、涙なくして見れないのではないでしょうか。
今に比べ、昔の若者たち、どれだけピュアだったことか・・・
聖女と呼ばれた原節子も出演。ぜひ一度、買ってもレンタルでもいいので、DVDご覧になって下さいませ。

映画『 決戦の大空へ 』 より 1943年(昭和18年) 『若鷲の歌』あり
出演:原節子、高田稔 他

別名「予科練の歌」と呼ばれる、お馴染みの挿入歌 『若鷲の歌』は大ヒットしました。当時の予科練(よかれん)の厳しい訓練風景や学校の様子、教官や子供たちの言葉使いまでリアルで見れますよ ^▽^)


神風特攻隊だって、絶対にムダになんかなってない!
特攻隊員は海外でも神!
その英霊、軍神が世界をどれだけ変えたことか

◆    ◆    ◆    ◆    ◆    ◆    ◆
『フィリピン少年が見たカミカゼー幼い心に刻まれた優しい日本人たち』(桜の花出版)より(詳しくは右画像クリック)
フィリピンに建てられたカミカゼ記念碑

フィリピンの首都マニラをしばらく北上して、市街地から出ると広大な田園地帯が広がっている。南国の豊かな日差しを浴びて、元気のよい緑が広大な平地から遠くの山々を覆っている。
南九州から沖縄、台湾の景色と明らかな連続性を感じさせる。
さらに北上すると、広大な平野の中の道路脇に、ポツンと小さな霊園のような敷地がある。
四角い壁に囲われた中に横に長い石碑が立っている。
筆者が訪れた時には、車の交通もまばらで、あたりは静かだった。

これがフィリピン人ダニエル・ディソンが奔走してフィリピン政府により建立されたカミカゼ記念碑である。このあたりは先の大戦中、日本軍が使用していたマバラカット飛行場であり、ここから最初の神風特別攻撃隊が飛び立った。記念碑には、ディソンが書いた次のような碑文が記されている。

『第二次大戦終結までに、カミカゼはアメリカ軍艦を総計322隻撃沈または大破、9000人以上の海軍軍人を戦死させ、一方、5000人のカミカゼ隊員の内4600人が自殺攻撃にて戦死した。カミカゼは、世界史上比較しうるもののない全く大胆不敵なものであった』

歴史的調査が明らかにしたところによれば、カミカゼを支えた信条とは、世界のすべての民族に対する機会の均等と親睦が、自らの死によって実現されることを心底から願って自らの身を捧げたカミカゼ志願者達の思いである。

ディソンが大戦中に日本軍人と出会ったのは11歳の時であった。一人のフィリピン少年はどのような思いで、このような記念碑を造るに至ったのであろう。

12月の深い青色の空に白く輝く機体

1941(昭和16)年12月8日、午後1時頃、昼食を終えたディソン少年が立ち上がった所で、突然地面が揺れ、窓がガタガタと鳴った。祖父が「地震だ、地震だ」と叫んだ。

その後に、ゴーという低い轟音がして、続いて、ポップコーンが破裂するような音が空から降ってきた。窓に駆け寄って空を見上げると、小さな破裂した煙がいくつも見え、そのはるか上に爆撃機の編隊が二つ見えた。初めて見る日本軍だった。地震だと思ったのは、その爆撃機が落とした爆弾だった。近くにあるクラーク飛行場は、アメリカ軍の極東での主力基地である。そこを日本軍が急襲したのだった。

祖父は「何故日本がこんなところを攻撃できるんだ。日本はずっと遠くにあるはずじゃないか」と叫んでいた。祖父は新聞で日中戦争の事を知っており、また近くに住む中国人が日本人は残虐だと触れ回っていたので、日本軍をとても恐れていた。

もちろん私は日本軍をとても恐れてはいました。しかし、その時心の中では密かに日本軍のことを賞賛していました。
何しろ決して敗れないはずの白人を、私達と同じアジア人の日本人がやっつけているのですから。
私達は皆、日本の爆撃機の数を数えていました。私はその光景を忘れません。12月の深い青色の空に機体が白く美しく見えました。

日本兵から貰った乾パンと金平糖

年が明けて1月1日、日本軍がディソンの住むアンヘレスの町にもやってきた。アメリカ軍とその指揮下にあるフィリピン兵たちは、散発的な抵抗をしながらも、南に逃げていった。

ディソンの一家は戦闘を逃げて、深い谷間に数日隠れていた
が、ようやく静かになったので、町に戻ってきた。町には大勢の日本兵がいた。ディソン少年の伯父はマニラで日本人と働いたことがあるので、「『アリガト』と」と、教えてくれた。
そこで、ディソンらが「アリガト! アリガト!」と言うと、日本兵はみな笑い出した。何かひどい扱いを受けるのではないかと心配していたディソンは、少しほっとした。

日本兵たちは、ポケットから何かを出して、子供達に渡した。
ディソン少年も一つ貰ったが、それは布でできた小さな袋で口をひもで縛るようになっていた。巾着である。明けてみると、小さな四角いビスケット(乾パン)と砂糖のボール(金平糖)が入っていた。
それが、ディソンが日本兵からもらった最初のものだった。

日本軍将兵とフィリピンの子供達

やがてディソン少年は、日本兵たちとバスケットボールをしたり、また知り合いが日本軍の炊事場で働くようになると、その手伝いをするようになった。
ヤマカワ中尉という25歳くらいの人が、ディソンを自分の弟に似ていると言って、可愛がってくれた。よくディソンの手をとって、一緒に散歩をした。
ある時、ヤマカワ中尉はディソンが描いた絵を見て、「うーん、ベリーグッドじゃないか」と言った。そして時々、白い紙を鉛筆をくれて、自分や部下の絵を描かせた。

妻子を故郷においてフィリピンに駐屯している日本軍将兵たちにとって、フィリピンの子供達は心を和ませてくれる存在だったようだ。

後にディソンの妻になるエンリケッタも、アンヘレスのすぐ南のポラックという町に住んでいて、似たような経験をしている。近くに日本軍の飛行場があり、毎日そこに行って、雑草を引き抜く仕事をしては1ペソ貰う。やがて背の低いがっりとした体格の日本兵が、エンリケッタによくキャンディーやクッキーをくれるようになった。

エンリケッタは飛行士たちとも仲良しになった。飛行士の一人はエンリケッタを抱き上げて、戦闘機の翼の上に乗せ、その特設ステージで、エンリケッタは得意の歌と踊りを披露した。
司令官のマエダさんはそんな光景をいつも見ているだけだったが、ある時、エンリケッタが熱を出して二日も基地に行かないでいると、トラックで家まで見舞いに来てくれた。そして袋一杯のキャンディーとクッキーを置いていってくれた。

鉢巻きをした日本軍の飛行士たち

しかし、1944(昭和19)年になると、戦局が悪化し、食糧事情も悪くなっていった。共産ゲリラや親米派ゲリラの活動が活発になり、親日派の市長や警察署長、そして日本兵の暗殺が行われるようになった。日本軍そのものが幹線道路で待ち伏せ攻撃を受けるようになり、日本の将兵は疑い深くなっていった。
ゲリラを支援した人間や、ゲリラとの疑いをかけられた人々が処刑された。

9月21日、アメリカ軍の飛行機がアンヘレス周辺にあるすべての飛行場を爆撃した。それからは毎日、空襲があった。
その頃から、アンヘレスで鉢巻きをした日本軍の飛行士たちを見かけるようになった。日本の、彼らと街で会うと、お辞儀をしていた。

ある晩、この飛行士たちが泊まっている家からピアノの伴奏が始まり、いろいろな軍歌が聞こえてきた。悲しい調子の曲も流れた。その一つが「海ゆかば」だった。そして翌朝、彼らは飛び立つと、二度と帰ってこないのだった。
こうした事が繰り返されたが、ディソン少年を含めフィリピン人たちは、彼らがどういうことをしているのか、知らなかった。

運命を変えた一冊の古本

1945(昭和20)年1月28日、アメリカ軍がアンヘレスを解放した。アンヘレス周辺には、敗走し、部隊からはぐれた日本兵たちがうろうろしていたが、ゲリラや米軍などに容赦なく殺されていった。

2ヶ月もするとアンヘレスでの生活ももとに戻った。ディソンはしばらくアメリカ軍の身の回りをする仕事をしていたが、6月には高等学校が再開されたので、仕事を辞めて、学校に通い始めた。

1946年7月4日、フィリピンは独立したが、経済はアメリカ人に牛耳られ、独立とは名ばかりのものだった。共産ゲリラが政府を攻撃し、街を爆弾などで襲う事件が頻発した。

ディソンはフィリピン大学の美術学部の奨学生に選ばれた。
美術の勉強の傍らで、歴史にも興味を持つようになった。そして、フィリピンの歴史を掘り下げていくと、全く教えられてい なかった事をいくつも発見した。
たとえば、フィリピンは16世紀にスペインによって植民地化される前に西洋文明とは違った文明を発達させていた。その事を知っただけで、フィリピン人としての誇りを感じた。アメリカの植民地時代には、常にアメリカ人の下にいて、その顔色をうかがっており、かつてフィリピン人の誇りを持ったことはなかった。

1963年に大学を卒業すると、画家になるための修行をしながら、伯父と伯母が始めた会社に勤め始めた。
1965年、35歳の時、ディソンの兄がマニラの路上の古本屋で、一冊の古本を買った。それがディソンの運命を変えた。

「何かをしなければいけない」

その本は『ディバイン・ウインド(神風)』というタイトルのアメリカで出版されたポケット版の本だった。猪口力平(元大佐)・中島正(元少佐)著『神風特別攻撃隊』の英訳版である。
この本を兄から借りて読んでみて、ディソンは衝撃を受けた。
クラーク飛行場やアンヘレス、そしてその隣町でカミカゼが生まれたマバラカットについて書かれていた。
少年の時に見たあの鉢巻きをした飛行士達がカミカゼだったのである。

読み進むに従って、私はこの本により深く結びつき、カミカゼの飛行士達に驚き、心が動かされていきました。私はカミカゼの意味について深く知っていきました。
そして、本の最後で、カミカゼの飛行士達の遺書に行き当たりました。
これらの遺書を読むと、私はカミカゼのことを記録し残していくために何かをしなければいけないと強く思うようになったのでした。

カミカゼの記念碑建立

ディソンは、著者の猪口氏や中島氏と手紙をやりとりして、カミカゼが1944年10月20日にマバラカットで誕生したことを確認した。

息子達の教育費で生活の方は苦しかったが、そんな中でディソンは政府に、カミカゼが初出撃した飛行場の跡地に記念碑を建立するよう働きかけた。妻のエンリケッタも学校の教師をしながら、ディソンの活動を支えてくれた。幼いころ、日本の飛行士達と遊んだ記憶が、無意識のうちにそうさせたのかも知れない。

しかし、状況は最悪だった。ディソンは体調を崩し、1971年には会社を辞めた。翌年、マルコス大統領がフィリピン全土に戒厳令を敷き、アンヘレスも共産ゲリラの活動で治安は最悪だった。そんな混乱の中で、もし政府関係者が反日の人間だったら、ディソンも逮捕されるかもしれない。

1973年、ようやくチャンスがやってきた。マルコス大統領が日本からの投資を呼び込もうと、マニラの南郊2時間の場所に日本将兵の慰霊碑を建てる事を許可したのだ。ディソンはマルコス政権の観光局長に会って、カミカゼの記念碑を建てる事の方がずっと重要であることを説いた。局長は賛同した。一週間も経たないうちに観光局のジャーナリストが取材にやってきて、ディソンがカミカゼについて話した内容を全国版の新聞に掲載してくれた。

こうして1974年にかつてのマバラカット東飛行場の跡地に「第二次大戦に於いて日本神風特別攻撃隊機が最初に飛び立った飛行場」という碑文が入った記念碑が建立された。

観光局のジャーナリストが記念碑完成を報道すると、アメリカやカナダ、シンガポール、スペインなどから記者が取材にやってきて、カミカゼ記念碑を世界中に報道した。それで世界各地から観光客やジャーナリストがやってくるようになった・・・  (抜粋終り)

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(2011.7.16)
茨城の阿見町というところに、予科練平和記念館というのがあります(詳しくは右画像クリック)。ご興味ある方、ぜひ一度ご来訪ください。
この土浦が舞台の下動画、映画『決戦の大空へ』(1943)オリジナル『若鷲の歌』、何度聴いてもいいですね ^▽^) ぜひご覧ください。
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(2012.9.2)
予科練平和記念館、ただいま人間魚雷「回天」展が開催されてますよ。

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(2013.8.30)
『若鷲の歌』は子供も大好きで、よく聴きたがるし、ここでピアノ弾き語りで歌ってますし、カラオケでも歌う度、大喝采を浴びます ^▽^)
まだ下の動画を見られてない方、ぜひ一度ご覧くださいね。
予科練平和記念館、ただいま「空をめざした少年たち 陸軍少年飛行兵と予科練」展、開催中です。

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(2014.7.7)
ご紹介の予科練平和記念館、今夏もイベント開催されてます。随時、いろんなイベントが開催されてるので近隣の方はぜひ行かれてみてくださいませ。行けない方は、ぜひサイトだけでも ^▽^)

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(2020.6.5)
いつもありがとうございます。
予科練平和記念館、ずっと休館されていましたが、やっと来週火曜の9日から再開されるようです。

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◆軍歌『若鷲の歌』 = 「予科練の歌」を、6歳の子供にピアノ弾き語りで歌ってもらいました!

◆『松本零士 父に見た本物のサムライ魂』 子供には宮崎アニメでなく松本零士

◆霞ヶ浦 特攻隊のふるさと 土浦(阿見) 予科練跡巡り

◆何よりも、独立自尊の精神を叩き込むのが保守でしょうが!~ 国旗、国歌、天皇より、先に来るもの

◆【保存版】愛国保守派オススメ・スポット特集 ~ 子連れもカップルもOK!

◆朝鮮・同和・原爆・弱者 ← 左翼の食い物 ~ 利権あさりと誹謗中傷に明け暮れる左翼

◆天皇陛下万歳! 大日本帝国万歳! ~ 愛国者なら大ヒット作『明治天皇と日露大戦争』は必見!

◆左翼の勝利は日本と天皇の死を意味する ~ 反日マスコミ VS ネット世論

◆あなたは反米? 親米? それとも反ユダヤ?① ~ マッカーサーとパチンコと朝鮮人

◆日本のGDP 外需が内需を支えている ③ ~ 決して戦前も、ひどい軍事国家ではなかった

◆日本人の心を奪われた日本人 ~ 世界最強だった日本軍 ~ 守るものを失った日本人

◆亡国のシナリオ ② ~ 日本を、過去に滅んだロマノフ朝やハプスブルク帝国になぞらえたパターン

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この記事に対するコメント

  • 【前サイトURLのこの記事へのコメント】

    こんにちは。
    昔の俳優さんって、どうしてこんなに立ち振る舞いに品があるのでしょう! 清潔感とてもいうのでしょうか?
    「カミカゼ」 私も読みました。
    まる子 | 2010/09/17 4:54 PM

    ◇夕方になると、山が鳴るんだぞ。ドロドロドロと雷のような音が洞窟まで響く。
    そらっ、特攻隊がきたっ、と洞窟をとび出す。山へのぼるとなぁ、日本軍の陣地は闇に包まれているのに、海の上には真赤な雲がたなびいている。
    敵の全艦隊が主砲、副砲を含めて対空砲火を射ち上げているのだ。
    幾千、幾万の曳光弾が噴水のように飛び交って、艦隊の上空は火の雲を浮かべたようなんだ。
    うん、その対空砲火が、ドロドロと山まで揺り動かすわけだ。
    そんなすごい砲火をくぐって、しかもサーチライトの交錯にとらえられて、ポツンと白く米粒のように機体を光らせたまま、わが特攻機が飛んでいるんだ。
    あっ思う間に、ボウッと炎を噴いてゆらめきながら海に落ちるものもあるし、低くまっすぐに敵艦に突っこんで、高い火柱をあげるものもある。
    空半分を火の海とした曳光弾もやがてまばらになる。
    大太鼓を打ち鳴らすような砲声もはたりとやむ、そのあとの静寂は、なんともいえないなあ。
    やったなあ、ご苦労さんと、なかには地面に手をついて沖のほうを拝むものもある。
    みんなそれに習った。
    晩になると、いつも特攻機を拝みにゆく、拝みにゆくんだ。すごいもんだよ。それは…
    新聞で大戦果を見せられ、如実に特攻機が突入する凄愴な場面の話を聴き、「天一號作戰」は将兵の心の中でまたはなやかな生命をよみがえらせた。
    沈みきっていた心に灯がともり、誰の顔も明るくなった。頬までがつややかに見えた。…
    古川成美「沖縄の最後」より | 2010/09/17 6:57 PM

    最近別のブログ(ねずきちのひとりごと)から英霊達の声を集めた感動的な動画を発見しました。
    特に、一番最初の21歳の特攻隊員の言った言葉が実に感動的でした。
    http://www.youtube.com/watch?v=FriNRAPenCM&playnext=1&videos=BI8rrkE7azQ
    saika | 2010/09/17 9:47 PM

    つい2,3年前までは私もかなり左翼脳で、「特攻=国に殺された被害者」と思い込んでいました。
    今はそんなことはありません。
    気づいたきっかけは左翼ブロガーさんのおかしな発言だったのですが、それまでは人を疑ってはいけないと思い込んでいました。
    それで思うのは、まだお花畑にいる人はこんな映画を見ても、まったく違う取り方をするということです。
    私の祖父は戦死していて顔は1枚の写真でしか知らないのですが、その写真は出征時に撮られたらしい軍服姿でした。
    先日、実家に帰った時に、親戚のおばさんと話していたら、祖父の記憶は出征の時しかない、と言っていました。
    悲しいというより、大勢が集まって楽しかった記憶だったようで、複雑な顔をしておられました。
    戦時中は、出征に行くのは晴れがましいことだったのですね。
    viola | 2010/09/18 6:46 AM

    [世界史的に日本を見ると]
    かのマルコ・ポーロが「黄金の国ジパング」として西欧に紹介して以来、
    彼らは「ジパング」を求めて大航海時代に突入、
    熾烈な帝国主義競争においては人道無視の奴隷制、植民地政策を推し進めていきました。
    そうした過程で生まれたアメリカとの数奇な出会い。
    際どいところで目覚めた日本は奇跡的な発展を遂げてアジアを救う指命をになうことに…。
    そして、米英蘭を敵に回した大戦争に突入。
    武士道にもとる卑劣な民間人虐殺や無差別攻撃を受けながら、
    究極の自己犠牲精神の発露たる「特攻隊」で抵抗。
    2発の原爆投下でやっと降伏させたと安心したら、
    目覚めたアジア、アフリカの有色人種が次々と反抗して独立!
    世界史的に見れば、つくづく日本は凄い国だと思います。
    まさに「神が作った国」としか言いようがありません。
    愛国志民 | 2010/09/20 10:20 AM

    私は、以前は特攻するより、爆弾で攻撃する方が効率良いのではないかと考えていましたが、特攻の方が遥かに効果があることを最近しりました。
    coffee | 2011/07/16 4:56 PM

    ここを見ている方へ
    よかったら「永遠のゼロ」という小説を読んでみてください。特攻隊がテーマの小説ですが、私は寝食を忘れて読みふけってしまいました。
    レビューはネットのあちこちで見ることができます。
    ぶんぶく | 2011/07/16 7:55 PM

    ぶんぶくさん、「永遠のゼロ」読んで見ようと思います。
    地方志士 | 2011/07/17 4:37 AM

    40年ほど前、軍歌が歌謡曲として唄われていてTVの歌番組でも
    普通に軍歌が流れていました。
    そんなこともあって当時、小学生だった自分のまわりでも、断片的
    ですがみんなで口ずさんだものです。
    今ではそんな光景ありえないですけど・・・・。
    tatsuya1963 | 2011/07/17 6:31 AM

    ◆今年も8月15日が廻って来ます。
    今や、90歳前後となられた大東亜戦争の勇士の方々は、
    先に行った戦友のため、後に続く我々のために
    最後の一兵に至るまで参拝を続けるのです。
    ●大東亜聖戦の歌●
    作詞 中村 粲☆作曲 高澤 智昌
    ●平成十一年[1999年]に発表された軍歌です。作詞された中村 粲氏曰く「二十世紀最後の軍歌」だそうです。
    1. 黒竜江の流血に 二十世紀の東洋は妖雲の下明けゆけど 支那は眠れり朝鮮も白禍の脅威夢の中
    2. 四百余州と大八洲 共に睦みて栄えんと声励ませど耳貸さず 泰西人に阿りて支那は亜細亜を忘れたり
    3. 満漢侵す露を討てと 皇師は進む鶏林を はた黄海の波分けて 旅順奉天対馬沖 屠れる敵は幾万ぞ
    4. 萎えゆく東亜救はんと 差し伸ぶ手をば逆恨み 洋夷赤露の威を恃み 我を蔑する支那なれば満蒙の地嵐呼ぶ
    5. 広袤千里満洲は 扶餘高句麗の昔より兵争絶ゆる暇なきが 大同協和の国建ちて興安嶺に光さす
    6. 銃声響く盧溝橋 隠忍の我侮りて抗日叫ぶ蒋と毛 わが喉元に刃擬すABCD包囲陣 7. 遂に来れり決戦の 火蓋切つたる真珠湾 シンガポールもフィリピンも ジャワも一撃なびき伏す米英蘭は跡もなく
    8. わが皇軍の進撃に 凱歌は上る大東亜 白き鉄鎖を断ち切りて 十億の民起つところ山河新たに生命あり
    9. 満蒙支那に南溟に はた朔北に山ゆかば草むすかばね海ゆかば 水づくかばねと若きらが いゆき捧げしその命
    10. 四歳に亘る勇戦も 衆寡敵せず皇軍は矢弾盡き果て花と散る されど揺がず大亜細亜 独立の意気天を衝く
    11. 武運拙く敗れしが 見ずや亜細亜のこの歩武を 一髪土に残らずも 嗚呼大東亜聖戦の誇りや高し我が心
    http://www.youtube.com/watch?v=9YQYxQMypn0&feature=related
    最後の一兵まで… | 2011/07/19 6:07 PM

    私の亡き父は、予科練に志願し、出撃する寸前で敗戦となりました。子供の頃は、父が持ち返った飛行帽を被って遊んだものです。
    亡き父の
    形見なりけり
    飛行帽
    国を守れと
    叱責の声
    草莽隊日記峰たけし | 2012/03/17 4:59 PM

    私自身この記事でフィリピンのカミカゼ記念碑のことを知ったのですが、このような記事こそもっと多くの日本人に知ってもらいたいです。
    しまりす | 2012/03/19 11:55 PM

    今と昔(まだ戦前を知っている人は周りにいるが)余りの違いに涙が出てくるのを止められません。
    勿論、現在日本人の不甲斐なさを見ているからです。
    爺さんも婆さんも、既に今の人になって不満ばかり言っています。お金ない、孫が言うこと聞かない体が痛い、悪い。
    お金が無いのは新車すぐ買い換えたり、海外旅行入ったり、20年で家建て替えたりの使いすぎ。
    孫が馬鹿なのはあんた達と息子と嫁が馬鹿だから。
    体が痛い悪いのは長年の不摂生と年だから。
    酒飲んでカラオケ行って演歌歌って、好きなことやって愚痴など言うな。
    !!!たまには軍歌歌え!!!
    それこそ、特攻に限らず、戦死した同年輩にあい済まぬと思わないのか。
    抜かしを知っている若者。 | 2012/03/20 1:09 PM

    上の 名前が間違った。
    訂正します。
    誤  抜かし
    正  昔
    昔を知ってる若者 | 2012/03/20 10:17 PM

    「今の日本を見たら英霊が泣きます」と思っていても、口に出したら「馬鹿なことを」と総スカンです。
    しかし、かくも堕落しきったこの日本のありようは、英霊でなくとも情けないと思わずにはいられません。
    思えば、英霊は偉大でした。特攻は本当に日本を救ったのです。
    相手に「日本軍はかくのごときあり」との恐怖感を持たせ、戦後の今になっても”抑止力”になっているのです。
    しかし、われわれのあまりにもふがいなさに、近隣諸国は「日本恐るるに足らず」と思い始めているのではと、私は心配でならないのです。
    赤木 | 2012/09/03 11:35 AM

    三鷹市で防災訓練に迷彩服の自衛隊が参加するのを市民団体が抗議したというニュースをネットで見ました。「カレーライスは住民の手で」「自衛隊ではなく専門の救助隊を」というバナーを持って立ち,ビラを配布していたそうです。悲しいことです。そして驚きました。なんということをいうのでしょうか。
    迷彩服じゃなく専門の救助隊を,などとはあまりに自衛隊のはたらきをアタリマエにし,感謝することをわすれている言葉だと思います。
    ボランティアだけで,なんとかなりますか?自衛隊が軍国主義を救助した住民に強要しましたか・あまりのわがままさにとても憤りを感じ苦しく思います。
    ぶんぶくちゃがま | 2012/09/04 12:15 PM

    特攻は日本人でないと出来ないと思います。
    欧米人は理解出来ないし批判するでしょうが勝手に言わせておけばいい。
    あと戦争から生還した人を批判するなと言われますがお国の為に一命を捧げた英霊の前には生還者がワンランク落ちるのは当然。
    日本は欧米とは価値観が違うんです。
    欧米はキリスト教ですから自殺を禁じているから日本の自己犠牲精神が理解不可能。
    端くれ | 2013/08/30 10:31 PM

    ↑神風は欧米どころか(特亜以外の)世界で賞賛されていますよ。
    人は二度死ぬ生き物だけど、神風特攻隊は未だに二度目の死に至らない。
    自己犠牲精神は共同体(文明)に最も必要な屋台骨だから、比較的文明的な西洋人が解らないハズは無いよ。
    通り過ぎるオタク | 2013/10/02 7:44 PM

    君を忘れないもつくづくいい作品だと思います。
    その何かを守るために、の台詞が胸にしみたから。
    軍歌では父よあなたは強かったが好きです。
    名無し | 2014/02/11 11:07 PM

    兵庫県尼崎市大西町3-17-32-504に10年前に住んでいた樋口運送の樋口敦、樋口あきら、樋口えりかと尼崎市医療生協病院に10年前に小児科外科にいた看護婦に思考盗聴、集団ストーカー、ハイテク兵器で頭に強すぎる電流を流されて頭を締め付けられたり重くされていて苦しいです
    人を遠隔から操るブレインマシンというそうです生体電流さえ分かれば誰でも思考盗聴できるんやでと樋口えりかが音声送信してきます
    ハイテク兵器被害者 | 2017/04/28 7:57 AM

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