日本の面影

Glimpses of Japan
失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

戦前の日本史教科書準拠 参考書より ㉗ 後三條天皇 院政 僧兵

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(2019.9.25)  (戻る)
いつもありがとうございます。この参考書からのシリーズは今日で最後になるかもです。この本は文字が小さく、見るのがしんどいですね。戦前の国史教科書を元にしたシリーズの方は今後も継続していきたいと思ってます。

後三條天皇と言われても聞いたこともない方が多いのではないでしょうか。平安末期の日本を中世につないでいった曙、戦前教育ではとても重要な天皇であり、院を開いて藤原氏の専権を抑え、さらには年貢や商売上の計量などが自由勝手で統一されてなかった体積の測量制も整備した天皇なんです。長さの尺貫に対して体積(容量)は斗升。それが天皇の命で定められた。だから戦後普及したメートル法も、その深い意味あった伝統の破壊であり、古来、日本はどこを見ても重要なところは天皇が関わっていたことが伺いしれます。今の教育では院政といえば白河法皇(後三条天皇の第一皇子)からとされますが、現代歴史教育で抹殺された後三条天皇こそ母が藤原氏と血縁のないおよそ二百年ぶりの天皇であり、藤原氏を抑える何らかの意図を持っていたことは間違いなく、戦前教育通りここの読者なら院政は後三条天皇からと覚えておきましょう。北畠親房の神皇正統記でもそう書かれています。
そして藤原氏が衰えても源平武士勢力が伸長しはじめ、それに加えて武士にも劣らぬ力を持つ僧兵の出現した時代です。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

後三條天皇
後冷泉天皇の崩後 皇弟 後三條天皇のご即位―醍醐天皇以後の天皇は御母藤原氏―天皇の御母は三條天皇の皇女―天皇の御性質剛健厳明―才學にすぐれ給う―皇太子に立ち給いし時、関白 藤原頼通の不平―東宮にまします二十年―大江匡房(マサフサ)に古今の治體を學び給う―御即位後 痛く藤原氏の權力を抑損(よくそん)せんとし給う―天皇の中宮は後一條天皇の皇女―源師房(モロフサ)等の御信任―頼通 既に宇治に退去―関白 教通(ノリミチ)も其の位に在るのみ―權門・社寺等の荘園増加―地方政治の紊亂(びんらん)―記録所の設置―由来不明の荘園と政治上妨害の荘園との停止―荘園新置の禁止―國司の重任と賣官(ばいかん)との禁―沽價(こか)の法を定め―斗升(とます)の画一―奢侈(しゃし=度を過ぎてぜいたくなこと)の戒飭(かいちょく=慎ませること)―風紀改まりて皇威の伸張―院中に政を聽かんとの思召―皇子 白河天皇に御譲位―上下天皇の崩御を惜み奉る―前関白 頼通また大に悼み奉る。
院政
白河天皇の御性質 剛毅果断(こうきかだん=意志がしっかりしていて思い切って事を行うこと)―政治の御親裁(天皇や大名などが自ら裁決を下すこと)―藤原氏勢力の衰微―皇子 堀川天皇に御譲位―大事は院宣(いんぜん)にて決せらる(院政の始)院庁(いんのちょう)と院司(いんし)―院政は堀河・鳥羽・崇徳の御三代(前後四十餘年間)院宣は詔勅よりも重し。
白河法皇の華奢と御崇佛
白河上皇深く佛教御信仰―白河上皇の御剃髪(ごていはつ)(法皇)の院政前後四十餘年―法皇の豪奢遊幸(ごうしゃゆうこう)―離宮及び数多の寺塔建立―多く佛像を造り しばしば法會を營まる―公卿 皆また驕奢に流る―國用足らず弊政起る―賣官再び行わる―朝威また衰う。
寺院の富強と僧兵の横暴
上下佛教に帰依し寺院の財産富む―寺院の荘園併有と僧侶の専横―延暦・園城・興福・東大諸寺の領地廣大―出家の制 早く壊る―無頼(ぶらい)の徒 寺門に投ず―僧侶を装い佛法保護の名の下に武藝を練る―諸大寺多く僧兵を置きて武器を蓄う―其の勢い漸く熾(さかん)―延暦・興福・園城諸寺は國家の鎮護相家の氏寺―其の威 最も盛―是等の諸大寺互に軋轢闘争(あつれきとうそう)―横暴 甚だしく遂に勅命を奉ぜず―大擧して京都に亂入―日吉(ひえ)の神輿(しんよ)と春日(かすが)の神木(しんぼく)―朝廷に強訴(ごうそ)―白河法皇 不如意の御歎(おんなげき。賀茂川の水・雙六(すごろく)の采(さい)・山法師)―院中に北面(ほくめん)の武士を置く―僧兵の暴行を鎭め京都を守衛す―源平二氏は武士の棟梁(とうりょう)―源平二氏京都に勢力を得。

○後三條天皇の御事蹟
御冷泉天皇の崩後、皇弟 御三條天皇 即位し給う。天皇は後朱雀天皇の皇子にして、御母は三條天皇の皇女 禎子内親王なり。天皇 頗(すこぶ)る剛健厳明にして、學藝に秀で給う。初め東宮に立ち給うや、関白 藤原頼通は天皇の藤原氏の御出にましまさざるを以て、甚だ不平にして、古来 東宮に傳われる寶剣(壺切剣)を天皇に上らざりき。天皇は一剣 何かわせんとて毫も(少しも)意に介し給わず、常に藤原氏の専恣を憤り給う。かくて東宮にまします二十餘年、大江匡房につきて大に古今の治體を學び給う。御即位の後は匡房等と謀り、藤原氏の權を抑えて大權の恢復に力を用い給う。当時 權門・勢家・社寺等多くの荘園を占有して其の弊害甚だし、天皇 記録所を太政官に設けて之が訴訟を親裁し、且つ新置の荘園を停め給う。尋(つい)で國司の重任及び成功を禁じ、沽價の法を定め、斗升を画一し、また常に倹約を以て下を率い、奢侈の風を矯正し給う。是に於て朝威ますます盛になり、紀綱 大に張らんとせしが、在位 僅に五年にして皇子に譲位し給い、間もなく崩じ給う。此の時、天下皆 之を惜み奉り、頼通すら國家の不幸 之より甚だしきはなしとて大に歎き奉れり。
○大江匡房
式部大輔匡衡(まさひら)の曾孫なり。頴悟(えいご)絶倫にして8歳の時 史記・漢書に通じ、11歳にして詩を作る。世に神童と称す。文章得業生に補し式部少丞に任ず、才を負いて世を憤り、跡を山林に晦(くら)まさんとせしが、權中納言 藤原經任(つねとう)之を論止す。御三條天皇 東宮に居給う時、學士となり文學を講論し、天皇即位に及びて蔵人となる。尋で左衛門權佐となるに及び、京師盗賊減少し路人剽掠(ひょうりゃく=脅して強奪すること)の忠なきに至る。後 累進權中納言兼大宰權師となり、尋で中納言を止め天永2年 大蔵卿を兼ね、此の年 71歳にて薨ず。世に江師と称す。匡房 和歌をよくし、博識強記、藤原伊房(これふさ)・藤原為房(ためふさ)と共に名を齊(ひと)しくし、時人 之を三房と称す。
○記録所
記録荘園券契所とも云いて諸國荘園の弊害を矯正せんが為に、延久元年閏(うるう)10月始めて太政官廳(庁)に設らる。白河天皇譲位の後、院中 政を聽き給うに及び、記録所のこと自然に廃せらる後、藤原信西(シンゼイ)等の議にて保元元年再興せられ、後には荘園の外、すべての政務訴訟をも聽断する所となる。
○重任・成功
國司の任期(始4年後6年)尽くるに至り、造營等の賞を上供して更に再任を奏請するを重任と云い、また朝廷にて造宮・造寺 其の他臨時の費を要し、國庫乏しき時に私物を上りて其の功を成し官を申請するを成功と云う。藤原氏の擅權(せんけん=権力をほしいままにする)甚だしきに及び、荘園増加して地方政治の衰微とともに重任・成功盛に行われしかば、御三條天皇 之を停止し給う。天皇御譲位の後、白河天皇の御代に土木盛に起りて國用不足し、再び重任・成功多くして賣(買)官のことまた行わるに至る。
○斗升の制
古来 斗升(とます)の制ありしも、後 漸く紊乱(びんらん)せしかば、朝廷 之が改良を企てられしが、遂に行われず。後三條天皇 其の違濫(みだれ)を防がんが為に、延久4年 廷臣をして桝を徴さしめ、親しく簾を折りて之が寸法を定め給う。所謂 延久の宣旨桝(せんじます)是なり。此の延久宣旨桝は後の京桝に比すれば、其の一斗は六升二合六勺(しゃく)五才餘に当ると云う。
○藤原頼通
摂政 道長の長子なり。三條天皇の時 累進權大納言となり、後一条天皇の時 父に代りて摂政となり間もなく関白となる。かくて後冷泉天皇の康平4年 太政大臣となりて翌年 之をやむ。頼通 宇治の別荘を捨てて寺とし之を平等院と名づく。御冷泉天皇も此に幸し給いしことあり。頼通 父祖の餘烈によりて朝命を専制し、其の驕侈(きょうし=おごってぜいたくすること)父にすぐ。嘗て高陽院を作るや、其の華麗比なきと称せらる。然るに御三條天皇 東宮に立ち給うに及び、頼通 之を憚(はばか)りて遂に宇治に屏居し、延久4年剃髪し承保元年 83歳にて薨ず。
○藤原教通
関白 頼通の弟なり。後一條天皇の時に内大臣となり、御冷泉天皇の朝に左大臣となり頼通に代りて関白となる。御三條天皇 即位に及び、関白を辞すれども聽されず、其の左大臣を辞す。天皇 國司の重任を禁じ給うに当り、教通 南圓堂を作らんとして之が再任を請う。天皇 震怒し給いて其の奏を却(しりぞ)け給う。教通また色然(いかる)として起ち、諸藤原氏また皆起ちて教通に隨(したが)いて出づ。天皇巳むを得ず之を許し給う。延久2年 太政大臣となり尋(つい)で辞し、承保2年 歳80にて薨ず。
○院政と院泉
院政は上皇 若くは法皇の院中にて政務を聽断し給うを云う。院政は御三條天皇 藤原氏の専權を制せんとして皇子 白河天皇に譲位し院にて政を決せんとし給うに濫觴(らんしょう=事のはじまり)す。然るに天皇 譲位の後 間もなく崩じ給い、白河天皇 御父の志をつぎ給い、皇子 堀河天皇に譲位し給い、鳥羽の離宮に居て政を聽き給う。之を院政の始とす。是より天皇譲位の後 多く院政を行い給うこと例となる。院宣は院の宣旨(さた)にして、院中の有司が之を奉じて下知する文書を云う。白河天皇御譲位の後、政を院中に聽き給いしより院政始めて起り此 院宣を以て天下の大事を決し給いしかば、其の重きこと詔勅に踰(こ)ゆるに至る。院政を行う所を院聽と云い其の職員を院司と云う。
○院廳(庁)の職制
院司は嵯峨天皇 御譲位の後、承和2年 安倍安仁(ヤスヒト)を以て院の別当とし給いしに始まる。白河上皇に至りて院司 大に備わり、別当を長官とし、其の下に執事・年預・判官代・蔵人・非蔵人・主典等の官を置かる。是は皆 正官にあらずして宣旨を以て之を補せらる。
○僧兵
僧侶の武器を持ち戦闘に従うものを僧兵とす。之を一に法師武者とも云う。袈裟(けさ)にて頭を裹(つつ)み甲冑を著(つ)け武器を執れる装、殆ど他の兵士と異ならず。宇多天皇の時に、対馬の僧の軍事に従いしをありしが、村上天皇の朝に至り天台座主 慈恵(ジケイ)なるもの僧徒修學に堪えざるものを選び、佛法擁護の為に武技を練習せしめたり。是より僧兵 漸く盛となる。一條・鳥羽両天皇の時、各禁令を下し給いしも行われず。後白河天皇の保元の亂以後には、朝廷 之を召し其の力によりて事を成さんとし給うに及び、僧兵ますます熾(さかん)となりぬ。
○日吉の神輿
延暦寺の僧徒が不平の事ありて之を朝廷に訴えんとするに当り、武装をなして日吉の神輿を奉じ、宮闕(きゅうけつ=皇居)を(たた)きて強請するを云う。世に之を神輿振と云う。此事 堀河天皇の頃より始まる。其の強請する時に当り禁衛の兵(皇居の兵)若し神輿を犯すあらば、たまたま過失と雖(いえ)ども黜罰(つみす・ちゅつばつ= 退け罰すること)せらるを常とす。後、元亀2年 織田信長の比叡山を焼討するに及び、其の弊害始めてやむに至る。
○春日の神木
神木は一に靈木と称す。大抵 神社の境内にありて、注連(しめ)を施し欄を設けて敬崇する樹なり。之には榊・杉・松・楠・槻(つき)等種々あり。中世以後に至り、興福寺の僧徒及び春日神社の神人等 事を朝廷に訴うる時、其の神木を捧持して神體に擬(ぎ)し之を移動す。所謂 神木の動座 是なり。其の入洛して或は禁闕(皇居の門・禁門)を犯し或は權門を叩きて嗷訴(ごうそ)することあり。之を世に神木の入洛と云う。其の入洛中は朝廷専ら謹慎の意を表し給い、藤原氏の公卿為に奔走して、聽納せられんを奏請し、其の歸座(もとの座に帰ること)に及びて朝廷奉幣使を遣わし給うを例とす。
○北面の武士
北面は院中を警衛せる武士の諸所なり。白河院の時 始めて置かる。上北面・下北面の別あり、上北面は多く四位に進み、下北面は五位・六位とす。北面を任ずる時を北面始と云う。是等は諸國の武士より之に充てらる。後鳥羽院の時 さらに西面武士を置かる、かくして北面の称は明治3年に非蔵人と共に廃せらる。
○藤原氏 政権掌握の由来及び権力の消長
藤原氏は鎌足の大功を建てし以来 大に榮え、其の子 不比等は持統天皇以下の四朝に歴任し、其の女宮子娘は文武天皇の夫人となり、宮子娘の妹 光明子は聖武天皇の皇后となりて孝謙天皇を生み奉る。是より藤原氏皇室の外戚となりて威權を有するに至る。不比等の四子四家に分れ、各朝廷に仕えて顯要(けんよう=地位などが高く重要であること)の職に列す。就中北家に冬嗣の出づるに及び、嵯峨天皇の御信任を蒙り、其の女 順子は仁明天皇の皇后となりて文徳天皇を生み奉る。是より先き舊(旧)家は、既に藤原氏に拮抗すること能わず。而も藤原氏 機会毎に他氏を排斥して家門の隆盛を圖(図)りしかば、冬嗣の子 良房人臣を以て遂に始めて太政大臣となる。而して其の女 明子 文徳天皇の皇后となりて清和天皇を生み奉り、天皇の時 良房人臣を以てまた始めて摂政となる。尋で良房の子 基經は陽成天皇の時に外舅(がいきゅう=妻の父)を以て摂政となり、宇多天皇の朝に関白となる。基經の薨後一時 関白を置かれざりしも、朱雀・村上両天皇は其の女 穩子(おんし・やすこ)の出にましまし、朱雀天皇の時 其の子 忠平 摂政となり関白となる。是より政權 全く藤原氏に歸し、代々の天皇は其の出にましまし、朝廷顯要の地位は其の門族の占有する所となる。かく藤原氏政権を其の一門に占むるに及び、やがて兄弟・伯姪(古くは甥のことを指す)之が争奪を事とし、道長の時 其の全盛を極むるに至る。物盛なれば衰う、藤原氏の華榮驕奢も御三條天皇の時に及びて漸次に衰運に傾きぬ。此の時 道長の長子 関白頼通 既に宇治に退居し、其の子 教通 関白たりしも員に備わる(職や地位に就いても実権のない状態になること)のみ、かくて院政始るに及び、政權全く院中に在りて、藤原氏は共に摂政・関白の空職を襲くに過ぎざることとなれり。

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