日本の面影

Glimpses of Japan
失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑪
第三十二 後奈良天皇

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(2019.7.16)  (戻る)
戦国時代の不憫だった皇室や公卿のエピソード、戦後教育ではまったく教えられていません。当時のひどい状況でも陛下、後奈良天皇は民を思って祈られていた。このことを知って国民があらためて皇室や歴史上の天皇への敬意を持つということも大切ではあるのですが、本当はこういう話、どんな人が一番に読んでおくべき、知っておくべきでしょう。確かに国民も知っておかねばならないでしょうが、最もこういう話を知っておかなければならないのこそ御皇族の方々ではないでしょうか。今の御皇族はこういう話をはたして知ってるのでしょうか。
皇女と結婚しようとする怪しい男に多くの国民が不信感を持ってるのに、当の眞子様はもちろん、佳子様まで「お姉ちゃんの恋が成就しますように」なんてノー天気なチャラいことを仰せになってる。もっとも私は今の秋篠宮家はすべて北朝鮮系がスリ替わったニセモノだと認識してるので、ニセの悠仁様が天皇になった時点で日本の皇室は完全に終わると見なしてます。皇女が変な男に入れ込んで国民を騒がせるような現状、「(安易に体を許して男に狂ったり、気高い気品もない)今の皇族って、もう教育がなってないじゃないか」というより、秋篠宮家がニセモノであれば当然だし、そんなもの自体どうだっていいという話になります。これまでの本物の御皇室への崇敬の念を持ってればいいんです。日本の素晴らしい高貴なる真の皇室は確かに存在していたんです。今の御皇族が明治帝や後醍醐帝への敬意を持ってるかどうか、非常に怪しい。秋篠宮家はキリスト教のICUなんかに大切な内親王殿下をおやりになってるわけですが、何を考えてるのでしょう。皇族がキリスト教徒になってるのでしょうか。なんなんでしょう、いったい。学習院が反日左翼に乗っ取られてるからと国際基督(キリスト)教大学(=ICU)なんかに通わせ始めてた時、喜んでたあいつらも、いったいなんなんでしょう。それに外国への留学なんてどうだっていいんです。語学なんか皇族が出来ようと出来まいがどうだっていいんです。被災地慰問なんてのもどうだっていいことなんです。
眞子様は変な男に熱を上げて、佳子様もパンツを見せてハダカ同然で下品なフィギュアスケート、おヘソを出してあんな格好で踊り狂って……このチャラチャラした今の皇族ってなんなんでしょう。秋篠宮様はなぜそんなことを御承諾になったのでしょう。このままでは悠仁様についてはもっとひどい事態になるであろうと思ってます。陛下のため死んでいった忠霊のための靖国詣ですらされない日本の皇室、なんなんでしょう、いったい。対して、我が身を捧げて散っていった楠木公や新田公のため、たとえ不利になっても断固として邪な足利に頭を下げなかった後醍醐帝。威力を誇示する武士にさえ決して媚びなかった後醍醐帝の揺るぎない日本再興への思い、隠岐にまで流されても屈せず、強靭な精神力でもって信念をまっとうした真の大帝の偉大さを今一度考えていただきたいです。

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

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尋常小学 国史より ⑪ 第三十二 後奈良天皇(ごならてんのう)

公卿の苦しみ
戦国時代には、北條・武田・上杉・毛利の四氏の外にも、豪族が所々にたてこもって、互いに土地を奪いあい、いつも戦争が絶えなかった。それ故、国々にある公卿の領地はいうまでもなく、皇室の御料地でさえ、いつのまにか、勢力のある豪族におかされるという有様であった。ところが、幕府も貧しくて、皇室の御費用をさし上げることが出来なかったので、公卿のうちでも、縁をたよって地方に下るものが多く、京都に残ったものは、衣食にも事かくほどであった。ある時、身分のある公卿に面会を申しこんだ人があった。その人は、「この寒い時候に、夏の着物では面目ないから。」と、ことわられたので「いや、それで結構です。」といって、会ってみると、公卿は、素肌に蚊帳(かや)をまとっていたそうである。当時の公卿が、どんなにあわれな暮らしをしていたかは、この話からでも、おほかた知ることが出来よう。
朝廷が衰えられた
後奈良天皇の御代には、朝廷は取分け衰えていられたので、御所の築地(ついぢ)が破れても、これをつくろうことが出来ず、賢所(かしこどころ)の御(み)あかしの光は、遠く三條の橋から見えたといわれている。こういう御有様であるから、おそれ多くも、天皇の毎日の御用さえ御不自由なことが、たびたびであったという。
天皇は御儀式を御再興なさった
けれども、天皇は、このように乏しい御費用の中からもなほ御倹約をなさって、長い間すたれていた朝廷の御儀式を御再興になった。それのみか、伊勢神宮の御建物がたいそうあれていたので、これをお造りしようとお考えになった。けれども、御心のようにならなかったので、いたしかたなく伊勢には奉幣使(ほうへいし)をさし向けて、そのわけをことわらせられた。殊に、天皇は、御あわれみの御心の深い御方であった。それ故、たまたま少しの貢でもさし上げるものがあると、これをすぐ皇族や公卿に、お分ちになった。
天皇の御仁徳
また、日頃 大御心(おおみごころ)を萬民の上におそそぎなさることも、ひととおりでなかった。ある年、長雨が降り続いた上に、悪病がはやり、そのために大勢の人が死んだ。天皇は、これを深く御心配になって、御みづから経文を写して国々にお下しになり、そのわざわいがとれるように祈らしめられた。天皇が、御身のお苦しみを少しも御心にかけられず、ただ一心に萬民をおめぐみくださった御仁徳のかたじけなさには、一人でも感泣(かんきゅう)しないものがあろうか。

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(続き)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑫ 第三十三 織田信長

(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑩ 第三十一 毛利元就

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑨ 第三十 上杉謙信と武田信玄

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ① 第二十二 後醍醐天皇

◆戦前の日本史教科書準拠 参考書より ㉗ 後三條天皇 院政 僧兵

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑦ 第二十八 足利氏の衰微

◆スリ替えられた秋篠宮家。消えた本物の秋篠宮殿下。拉致か、それとも……

◆フランス革命に見る人権派による残虐な子供の管理 ≪ルイ十七世の惨劇≫ ~ キチガイ左翼組織 児童相談所に拉致された子供たちを一刻も早く取り返せ!

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑰ 和氣淸麻呂(朝廷に於ける僧侶の勢力)

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑮ 奈良奠都 (史書撰修) 隼人 及 西南諸島の服属 (支那との交流)

◆フェミ左翼、グローバル反日勢力に乗っ取られた大相撲 ~ 悪の巣窟 評議員制度、協議会、第三者委員会、放送倫理委員会BPO等も

◆大日本帝国の唱歌を歌い継ごう! ⑦ 10月17日は神嘗祭 ~ 唱歌『神嘗祭』を10歳の子供にピアノ弾き語りで歌ってもらいました!

◆失われた日本人の精神性と天皇の祈り① ~ 信仰とは信条を持つこと。神を信じる否かは関係ない ~ 母と子が父の無事を祈る『里の秋』

◆『ぐりとぐら』 『こどものとも』の児童書 福音館は反日出版社 ~ 天皇を貶め、自虐史観に満ちた子供向け絵本

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真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑩
第三十一 毛利元就

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(2019.7.14)  (戻る)
一本の矢は容易に折れるが、三本まとめてでは折れにくいのだと、三人の息子に一族の結束を説いた三矢の教えで知られる毛利元就。とってもいい話ですよね。兄弟仲がよくなるかは親次第だと私は確信してます。これは兄弟間だけではどうしようもない問題なんです。その上にしっかりした親がいるかどうかでその運命は決まるんです。建武の中興から吉野時代にかけての吉野朝側(悪しき現代教育ではいわゆる南朝と呼ばれる方)の一族も皆、とっても結束が強かったんですよ。誰もが美しい生き方をしています。対して逆賊 足利側は兄弟、親子で殺し合い。それだけでも吉野朝(南朝)と足利(北朝)のどちらが道に叶っていたかおわかりですよね? 源氏と平氏でも、平氏は一族とても仲がよかった、けれど源氏は平家に勝利しても知っての通り兄弟間でさえも猜疑心が強いせいで、すぐに先細り、滅んでしまいます。たとえ戦に勝利しても一族の基盤が危ういとやっぱりほころびが出てしまうのでしょう。対して北條氏はきっと一族仲がよかったのでしょうね。

毛利氏は中国地方で一大勢力を築きましたが、後の秀吉の台頭で、残念なことにその繁栄が断たれることになってしまいます…… ただ、豊臣秀吉も晩年は大切だったはずの甥 秀次(ひでつぐ)を死なせてしまうし、そんな風になると、きっと周りからも信頼を失っていくことになるのではないか……だから豊臣は関ケ原で破れてしまう。
興味深いことに歴史とは、こういう風に見ていくと決して一族の仲いいところが残っていくわけでもないし、同族にまで非道なことをやるところがたとえ一時的に勝利しても、禍根が根深く、その繁栄は短命というのも概ね真理なのでしょうね。後の徳川が長く続いたのも、それまでと違って一族の結束が乱れる元を徹底的に排していったことにあるのではないか、家康は歴史を見てそういうところに気づいていたのでしょう。徳川では家康の言いつけにより、跡継ぎは長男というのを(他にすぐれた兄弟がいても)何より優先させていました。

また注意すべきは、戦前の教科書では各武将たちの皇室への貢献が如何であったか、その点が大変重視されて書かれています(上杉謙信と武田信玄も京都詣することにこだわっていました)。これは後の信長や秀吉らの項でも同じように続きます。

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

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尋常小学 国史より ⑩ 第三十一 毛利元就(もうりもとなり)

東国で、北條・上杉・武田の三氏が互に勢をはりあっていた時、西国では、毛利元就がだんだん勢力を増していた。
元就の生い立ち
元就は大江匡房(おおえのまさふさ)の子孫で、その家は代々 安藝(あき)にあった。元就は、幼い頃から大きな志をいだいていた。十二歳の時、厳島神社に参詣したが、従者(じゅうしゃ)が何ごとか一心に祈ったのを見て、「何を祈っていたのか。」と尋ねた。従者は、「若君に、中国を平げさせていただきますようにと、祈りました。」と答えた。すると、元就は、「お前はなぜ天下を平げさせていただくようにと、祈らなかったか。天下を平げようと志しても、やっと中国ぐらいしか取れない。中国を平げようと志したのでは、どうして中国を取ることが出来るか。」といって、大いに戒めたということである。元就は、成人するにつれて、智力も勇気もともにすぐれ、またたいそう部下をかわいがったので、人々は、皆、心からなついた。
大内氏の乱れ
これより前に、長い間 中国で勢を振るっていたのは、周防の大内氏であった。大内義興(よしおき)は、数箇国を領して、たいへん富強であって、その城下の山口は、京都をしのぐほどにぎわった。これに引きかえ、その頃の京都は、大いに衰えていて、朝廷でも御費用が足らないので、第百五代 後奈良天皇は、久しく御即位の礼をお挙げになることも出来ないような、おそれ多い御有様であった。この時、義興の子の義隆(よしたか)は、その御費用をさし上げて、忠義をつくした。けれども、義隆は富強をたのんで、しだいにおごりにふけり、軍備を怠ったので、しまいには、その家臣である陶晴賢(すえはるかた)に害された。
厳島の戦
この頃、元就は義隆の部下であった。そこで、すぐ義兵を起して晴賢の大軍を厳島におびきだし、風雨の夜にまぎれて島におし渡り、不意にその陣に攻入って、とうとう晴賢をほろぼしてしまった。世にこれを厳島の戦といっている。

元就の勢がよくなった
元就は、その勢でたちまち周防(すおう)や長門(ながと)などの国々を取って大内氏に代わったが、また兵を出雲に出して尼子(あまこ)氏と争い、七年の間も富田(とだ)の城を囲んで、とうとうこれを従えた。そこで、毛利氏は、中国や九州で十箇国餘りを領することになり、大内氏よりもはるかに強くなった。
御即位の費用をさし上げた
けれども、元就は少しもおごる心がなく、よく大義をわきまえて、第百六代 正親町(おほぎまち)天皇が御即位の礼を行わせられる時には、その御費用をさし上げて、忠励をはげんだ。
三人の子を戒めた
またある時、その子 毛利隆元(たかもと)・吉川元春(きつかわもとはる)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)の三人に、互に仲よく助けあって毛利家を守ってゆくようにと、ねんごろに言い聞かせた。隆元は父にさきだって死んだので、その子の輝元(てるもと)が家をついだ。元春・隆景の二人は、心を一にしてこれを助けたので、毛利氏は元就の死んだ後でも、その勢は少しも衰えなかった。

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(続き)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑪ 第三十二 後奈良天皇

(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑨ 第三十 上杉謙信と武田信玄

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑫ 第三十三 織田信長

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑧ 第二十九 北條氏康

◆子供たちへ仲のいい兄弟姉妹を育てる術を教えておかなければいけない ~ 一人っ子の増えた現代だからこそ

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ④ 第二十五 北畠親房と楠木正行

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ② 神武天皇

◆昨年の国内旅行から ~ 奈良、京都、宮島、姫路、萩……

◆武士の子女教育カリキュラム ~ 貝原益軒『和俗童子訓』より

◆童謡・唱歌 8歳 ピアノ弾き語り 『里の秋』『めだかの学校』

◆四国各所でハングルのシールが貼られまくり、それを剥がすよう促した紙が貼られていたということですが

◆“道徳教育”と称して進められる、これからの日本人家畜化教育について ~ もはや大多数の家畜化は逃れらない

◆“道徳教育”と称して進められる、これからの日本人家畜化教育について ~ もはや大多数の家畜化は逃れらない

◆家庭内における戦前の教育再現 ~ わが家で使ってる子供用教本 ~ 修身と国語副読本

◆「女は若い時に結婚して子供を産むべき」と発言した市議に謝罪させるのでなく、それを女性蔑視・人権侵害と騒ぐ連中こそ退場、粛清すべき!

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真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑨
第三十 上杉謙信と武田信玄

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(2019.7.11)  (戻る)
現代でも今のところ、戦国武将で最も名が知れてる上杉謙信と武田信玄。でも、現代の学校教育で教えられてるのはせいぜいその名前だけ。そんなものだけいくら覚えても、子供たちの成長に何かつながったりとか、そういうのはまるでないでしょう。少なくとも戦前の教育では謙信と信玄の生い立ちや人柄などが何より重視されて教えられていました。英霊たちや先人は、誰もが今日の内容をその小学生時代に学んでいたわけです。すなわち尋常小学国史や当時の学習書を読んでおくことで、英霊たちと同じ精神土台を持った日本人に現代でもなれる。それをやることによって初めて本当の意味で英霊たちと現代に生きる私たちが、その思いでつながることが出来るのです。それなのに「最新の研究ではこうだ」「今までの説は間違っていた」云々の話、私にとって何の意味もないんです。そんなことを続けることによって歴史はどんどん改ざんされ、日本人としてのアイデンティティーが消滅してしまうんです。

そして、先人の学んでいた教科書で学ぶ……それだけのこともやらないで、単に「日本史教科書の名称を戦前と同じ【国史】に戻すべきだ(だけどその内容は戦前のものとは似ても似つかない本)」、そんなこと言ってる奴はただのバカか、確信的な“日本”を消したい撹乱誤誘導の工作員でしかありません。

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

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尋常小学 国史より ⑨ 第三十 上杉謙信と武田信玄

謙信の生い立ち
北條氏と肩を並べて勢いを争っていたのは、越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)である。謙信は、もと長尾氏で、平氏の出であるが、その家は、代々 上杉氏に仕えて越後にいた。父を長尾為景(ためかげ)といい、謙信はその二男である。うまれつき大胆で、たいそう勇気があった。幼い時に、父が戦死して、兄の晴景(はるかげ)が家をついだが、柔弱であるため、とかく部下に軽んぜられて、国中がたいへん乱れた。そこで、謙信は、僧となって、他の国々を見て歩き、やがて越後に帰って兄に代り、国内の乱を平げて、進んで近国をも従へ、その勢はなかなか盛になった。後、上杉憲政(のりまさ)が北條氏康に追われて謙信をたよって来た時、その家名をくれたので、長尾氏を改めて上杉氏を名のることになったのである。
小田原に迫った
これから、謙信は、憲政のために、たびたび兵を関東に出して北條氏と戦った。ある時など、はるばる小田原の城下近くまで攻め寄せたことがあったが、敵は謙信の武勇に恐れいって、途中一人として防ぐものもなく、まるで無人の原を行くような有様であった。
信玄の生い立ち
この頃、甲斐に武田信玄(たけだしんげん)がいた。その家は、新羅三郎義光から出て、代々甲斐の領主であった。信玄は、幼い時から謀にすぐれていた。十六歳の時、父の信虎(のぶとら)に従って信濃に攻入った。信虎は八千の兵を率いて攻めたが、敵は堅く城を守ってなかなか屈服しなかった。
信濃を取った
ところが、信玄は、わづかに三百の小勢で謀をめぐらし、不意打をして城をおとしいれた。ほどなく父に代って、よくその国を治め、またしだいに信濃を攻取ったから、信濃の村上氏らは、越後に逃げて謙信に助けをたのんだ。
川中島の戦
謙信は、村上氏らのために、たびたび信濃に攻め入って、信玄と川中島で戦った。中でも、ある年の秋の戦に、謙信が、一万三千の兵を従へて川中島に陣を取っていると、信玄は、二万の大軍を率いてこれをはさみうちにしようとした。謙信は、ただちにその謀をさとって、不意に信玄の陣に攻め入り、みづから太刀を振るって信玄めがけて切りつけた。信玄は軍配団扇(ぐんばいうちわ)でこれを防いで、やっと危いところを逃れることが出来た。

謙信が敵に塩を送った
かようにして、長い間その勝敗は決まらなかった。謙信は、信玄とこれほど激しく戦っていても、甲斐の人民が塩が不足して苦しんでいることを聞くと、たいへん気の毒に思い、越後からわざわざ塩を遅らせた。人々はその義理のあついのに、深く感心した。
信玄は望をとげないで死んだ
信玄と謙信は、めいめい、折さえあれば京都に上って、天下に号令しようと望んでいた。そのため、信玄は、盛に近国を攻め取り、はては駿河を合わせ、遠江(とおとうみ)に進み、さらに三河(みかわ)に入ったが、たまたま病にかかって、国に帰る途中で死んだ。謙信は、これを聞いて、よい相手を失ったといって、たいそう惜しんだということである。
謙信も目的を果たさないで死んだ
謙信もまた、越中や能登などの国々を取り、大兵を率いていよいよ京都へ向おうとした。ところが、出発まぎわになって、急病で死んだので、とうとうその目的を果たすことが出来なかった。

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(続き)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑩ 第三十一 毛利元就

(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑧ 第二十九 北條氏康

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑦ 第二十八 足利氏の衰微

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ② 第二十三 楠木正成

◆戦前の小学歴史教科書準拠 学習問題から ⑤ 仁徳天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ④ 日本武尊 成務天皇

◆コスプレやるのはバカの証。ハロウィンもコミケも単なるバカの集まり ~ コスプレより中身にこだわれ!

◆仁・義・礼・智・忠・孝……五倫、四徳、五条、四端の心から道を修むる ~ 侍が学んだものを学び、偉大な先人たちと志を一にす

◆子供が小さいうちに、本物の格闘技を見せておこう!

◆7歳子供 ピアノ弾き語り 軍歌編 ~ 『露営の歌』

◆朝鮮ピンクに注意! ~ もはや極刑に処すべきひどさの朝鮮系色使い

◆女の子しかいなくとも、家を継いでくれる男の子を産んでくれる可能性あることまで考え、女らしい立派な女の子になるよう育てましょう

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真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑧
第二十九 北條氏康

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(2019.7.5)  (戻る)
さて、前からやっおきたいと思ってましたが、中断してました戦前の歴史教科書【尋常小学 国史】の続き、いわゆる戦国時代の辺りから再開していきます。
今日のような話も、一般の方は知らなくとも、武将オタクは結構くわしかったりするかもしれない。そういう人が読まれてきた本にはその人物について、いいことも悪いこともいろんなことが出てたりするでしょう。ではどこに真実があるのでしょう。真実とはなんだと思いますか? そういう歴史上の人物たちというのはどういう人たちであったか、いくら研究しても答えというのは見つからないんです。数学や物理学のようにはいきません。永遠にそうなんです。聖徳太子が抹殺、歪曲されようとしてるように、その人物の実際はこうだったなんて、連中によって都合よくデタラメが真実のように次々改変されていくだけなんです。(現代考古学なんてデタラメに満ちていて)今のわけのわからないエセ学者だらけだと尚更。では真実はどこにあるのか…… それは戦前の教科書にあるんです。真実は、(もちろん英霊たち含め)戦前の人々はこれを読んで学んでいたということです。これは紛れもない真実です。さまざまな歴史上の話について、事実がどうだったかとかグチャグチャぬかす奴がいたりするわけですが、そんなことは私にとってまるで問題じゃないんです。古事記、日本神話を読んで「こんなのありえない」「どうせ作り話じゃん」とか唯物論者どもは言うでしょう。今じゃ縄文式土器は世界一古い土器とか、1万年以上前から存在した世界最古の文明 縄文文化とか、俗物どもをだまくらかすための工作がどしどし仕掛けられてる。私にとってそういう胡散臭い者どもの能書きたれ、どうだっていいんです。そんなのはどうせまたどんどん書き換えられて結局、ああだった、こうだったと、(邪馬台国があっちだ、こっちだ等の類の下らない話と同じように)いつまでも騒ぎ続けられるだけで、そんなものに付き合わされて日本人はどんどん暗愚になっていくんです。心の拠り所、横文字でいうならいわゆるアイデンティティーとすべきものが失われていくわけです。

真実はどこにあるのか。日本神話はおよそ二千年も前から存在し、継承されてきた、それこそが紛れもない真実です。だからそれを大切にしなければいけないんです。先人たちに思いを馳せる、尊敬の念を持つ、先人の思いや考え方につながってみたいという方は、その紛れもない真実に気づいて(そんなことわかってるという方もおられるでしょうが)、先人たちの学んでいたものを大切にされてくださいね。ここを読みさえすれば、偉大な先人たちと思いを一にすることが出来る、逆にここを読まなければ、いくらいろんな本を読んでも変な知識ばかり頭に貯めこんでいくだけで、いつまで経っても先人たちと思いがつながることは出来ないままだということ。

さて、室町幕府「足利氏の衰微」に続いての今日は、北條早雲から三代にわたって名を轟かせた戦国武将、北條氏康。

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

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尋常小学 国史より ⑧ 第二十九 北條氏康(ほうじょううぢやす)

戦国時代
応仁の乱がやんだ後、多くの大将は、めいめい自分の国に引きあげて、なほ互いに争っていたが、将軍の威勢が衰えているので、これを抑えることが出来なかった。この間に、英雄が四方にきそい起こり、およそ百年の間、国々に戦乱は、ほとんど絶え間がなかった。世にこの時代を戦国時代というのである。
北條早雲が起った
こういう時勢に、まず起こったのは、北條早雲(そううん)である。早雲は、平氏で、はじめ伊勢にいたので伊勢新九郎(いせしんくろう)といった。生まれつきすばしこい人であるから、早くから時勢を見ぬいて、家を興そうと考へ、六人の勇士をひきつれて駿河に下って来たが、その頃 東国がたいへん乱れていたのにつけいって、急に奮いおこり、伊豆を取って北條にいた。そうして、惜しげなく金銀をまいて人望をあつめ、また北條氏の子孫ととなえて、ますます士民をなつけた。早雲は、続いて相模を取ろうと考え、使を小田原(おだわら)城にやって、鹿狩といつわって箱根山を借りうけ、大勢の兵士を猟師の姿にかえて山に入りこませ、不意に小田原城に攻め寄せた。城主は大いに驚き、あわてて逃げ去ったので、早雲は、やすやすと城を奪つてここに移った。それからおいおいに相模を従えて、勢を東国に振るうようになった。
氏康の修養
早雲の子の氏綱(うぢつな)は、父に似て勇武な人で、兵を武蔵(むさし)に集め、上杉氏を破って、江戸や川越などの城をおとしいれた。氏綱の子の氏康は、十二歳の頃まではたいへん臆病であった。後、これを深く恥じ、大いにいくさのことを習って、とうとう勇気のある立派な人となり、父の後をついで、ますます勢を盛にした。

川越の戦
この頃、上杉朝定(ともさだ)や憲政(のりまさ)らが、川越城を取り返そうとして、八万の大軍をひきいて攻め寄せた。北條氏の将は、固く城を守って、半年も持ちこたえたが、そのうち、城中の兵糧がだんだん乏しくなった。そこで、氏康は、自ら小田原から助けに行ったが、その兵はわずかに八千ぐらいいの小勢であったので、敵の大軍には到底手向かうことが出来なかった。そこで、わざと仲直りを申し込んで、敵に油断をさせ、夜中に急に攻め寄せて、大いにこれをうち破った。この時、朝定は戦死した。憲政は、いったん上野に逃げかえったが、ほどなくまた氏康に攻められて、越後へ走った。
氏康はよく国を治めた
これから後、氏康はますます他の国々を攻めて、大いに領地を広めた。氏康は、戦が上手なばかりでなく、国を治めることもすぐれていて、つねづね部下をかわいがり、よく領内の人々をめぐんだ。それ故、人々は、皆 氏康になつき、他の国々からもその政治をしたって、われ先にと小田原に集って来る者が多かったということである。早雲が起ってからおよそ六十年ばかりで、その領地は、伊豆をはじめ、相模・武蔵・上野などの国々にまで広まった。

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(続き)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑨ 第三十 上杉謙信と武田信玄

(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑦ 第二十八 足利氏の衰微

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑩ 第三十一 毛利元就

◆戦前は逆賊歴史学として処罰されてた、左翼学者による皇統否定の「縄文・弥生」時代の敗戦後の普及 ~ 汚染される皇室。救う手だては皇室奪回

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑥ 第二十七 足利氏の僣上

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑤ 第二十六 菊池武光

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑤ 朝鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

◆戦前の絵本から ~ 真実の日本軍。最強だったその勇姿 ②

◆忠臣の象徴 楠木正成公を称える唱歌『青葉茂れる桜井の』(櫻井の訣別)を10歳の子供にピアノ弾き語りで歌ってもらいました!

◆さよなら“政治”。 民主主義を掲げる奴を信用するな! ~ “民主主義”による選挙とは、「こんなクズしかいないけど、こんなかから選んでね」というのが本質的な正体

◆丸山穂高議員の「北方領土は戦争して取り返すしかない」発言問題について ~ 北方領土問題もそれに取り巻いてるのは利権に群がるエセ島民ばかり

◆戦前の小学歴史教科書準拠 学習問題から ② 神武天皇

◆いらない性教育。子供の人格破壊を目指す日本の学校教育

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真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑦
第二十八 足利氏の衰微

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(2017.4.8)  (戻る)
さて、アッチ系のニセモノ国史研究家やインチキ保守知識人とかが蔓延ってますが、本物の【尋常小学国史】より第7回目の今回は、かつてない応仁の大乱のさなか、足利幕府のあだ花のような義政の時世。自分が世を乱した張本人でありながらそれを放置し、戦のさなかも贅に遊びに耽っていた、大変たわけた将軍です。
この後は戦国時代に突入し、国史教科書では北條氏康、上杉謙信と武田信玄、毛利元就の章と続いていきますが、戦国期については今も軍記モノや戦国武将ネタで割とよく知られているので、いったん割愛します。戦国時代の間も皇室不遇が続きますが後奈良天皇による再興がなされ、織田信長の登場によって皇居も再建されます。
次にやるなら、その辺りからにしましょうか。原稿は本章までしかアップしてないので、いったんお休みにします。私にはブログランキング上位に上げさせられる余裕資金なんてないし、あるのは思いだけ。自ら腕を振る以外何もできません。ご支援よろしくお願いします ^▽^)

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

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尋常小学 国史より ⑦ 第二十八 足利氏の衰微(すいび)

義政が政治に怠った
義満から四代たって、義政の代となった。義政はわづかに9歳で家をつぎ、ほどなく将軍となったが、少しも政治に心を入れなかった。たまたま大風や洪水があって、五穀がみのらない上に、悪病が流行って、人民が非常に困っているのに、義政は一向 憐みの心がなかった。かえって大金をかけて盛に室町の邸の普請(ふしん)などをしたので、第百二代 御花園(ごはなぞの)天皇は、たいそうご心配になって、これを戒められた。さすがの義政もこれにおそれいって、いったん工事をやめさせたが、なほたびたび花見の宴などを開いて、おごりにふけっていた。それ故、費用が足らず、人民からたくさんの税を取立てたので、人々の苦しみはますますつのり、世の中はいよいよ騒がしくなった。
足利家の相続争
義政は、三十歳ぐらいになると、はや政治に飽いてきた。けれども、まだ子がなかったので、弟の義視(よしみ)を養子とした。そうして、義視に将軍職を譲ろうと考え、細川勝元にこれを助けさせた。この時、義政は、この後たとい子が生まれても、けっして義視を退けるようなことはしないと堅く約束した。ところが、まもなく実子の義尚が生まれると、その母は、どうかして義尚を立てようと考え、山名宗全が勝元におとらない勢があるのを見て、これに義尚をたのんだ。
細川勝元と山名宗全とが対立した
足利家の相続の争は、そこで、細川氏と山名氏との争となったのである。

応仁の乱
紀元2127年、第103代 後土御門(ごつちみかど)天皇の応仁元年に、勝元も、宗全も、めいめい味方の大軍を京都に呼び集めた。そうして、勝元は、室町の幕府に入ってここに陣を取り、その兵はおよそ16万、宗全の陣はその西にあって、その兵はおよそ11万であった。これから、両軍は11年の長い間、戦ったが、その間に、宗全や勝元は続いて病死し、後には、両軍の将士らも戦争に飽いて、次第に国々に引き上げていった。京都の騒ぎは、そこで初めて静まった。世にこれを応仁の乱というのである。

大乱の後の京都の有様
この乱のために、幕府をはじめ、名高い社や寺、その他たくさんの建物は、たいてい焼けてしまって、花の都もあわれ焼野(やけの)の原となった。ある人が、この変りはてた有様を嘆いて、

汝(なれ)や知る 都は野べの 夕雲雀(ゆうひばり)、あがるを見ても 落つる涙は。

と詠んだ。
銀閣
こういう大乱の中でも、義政はなほおごりをやめないで、後に、京都の東山(ひがしやま)に別荘を造り、義満の金閣にならって、庭の中に銀閣を建て、茶の湯などの遊にふけり、むだに月日を送っていた。
幕府が衰えた
それで、幕府の財政はますます苦しくなり、将軍の命令は、ほとんど行われないようになった。

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(続き)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑧ 第二十九 北條氏康

(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑥ 第二十七 足利氏の僣上

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑤ 第二十六 菊池武光

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ④ 第二十五 北畠親房と楠木正行

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ② 第二十三 楠木正成

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ① 第二十二 後醍醐天皇

◆日本女性の魅力を引き出す、着物での美しい所作、歩き方 ~ 映画『忠臣蔵』より

◆映画『Sayonara』 愛を貫いて死を恐れない、ヤマトナデシコ~ 変れば変るもの。日本人の美意識

◆謡曲の魅力 ~ 日本人の心としての能の世界

◆往年の日本映画を子供が見はじめました! ~ 『山椒大夫』 『隠し砦の三悪人』

◆『お正月』の歌に見る、日本の子供文化の完全崩壊!~ 独楽、羽根つき、凧揚げ、マリつき・・・どこいった!?

◆戦前の道徳教科書『修身』に見る加藤清正の武勇伝 ~ 自虐史観の正反対から見る豊臣秀吉の朝鮮侵攻

◆男の子がいるなら五月人形と鯉のぼりを飾ろう!~日本の伝統文化を形にして意思表示を

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真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑥
第二十七 足利氏の僣上

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(2017.4.1)  (戻る)
これまでの吉野朝の足利への奮戦、いかがですか? 今の学校で教えられていない華麗な吉野側の武将たち。対して己の利得のためだけに集まった烏合の衆 足利陣営。この通り、吉野朝 官軍側は親子兄弟揃って忠義をまっとうし続け、理想を体現化した集団。対して足利側は利得に目が眩んで帝に叛き、兄弟でも殺し合うような、疑念と背信うずまく規律なき集団。ここまで読まれれば、どうして私が戦前の国史(日本史)教科書の建武の中興をここに掲載しなければならないと考えていたか、しっかりおわかりになれたことと思います。今の学校教育は唯物的でそのような人の心に触れる歴史教育がされておらず、南北朝時代ではなく吉野時代、南朝ではなく吉野朝と呼んでいた戦前までの教育を知っておかないと、先人たちと心をつなげることができないのです。しかもその辺の情報でも大概が、吉野側の武士は皆、惨めな死に方したとか、後醍醐天皇は傲慢だったとか、非常に恣意的に書かれています。逆に尊氏の方が立派で人に好かれるタイプだったとか、悪意のイメージ作りムチャクチャ。先の大戦で英霊たちが皆、惨めな無駄死にしたとするような、自虐左翼史観と共通の描かれ方がなされているのです。これでは稀有で偉大な後醍醐帝や吉野の英雄武将たちへの敬意が育つはずもありません。
正当だった吉野朝、しかし正義が勝つとは限らず、賊軍 足利側が事実上の勝利をおさめるわけですが、以後の義満も天皇ないがしろで支那に対して国王を名のるありさま。この不徳な流れは後の応仁の乱、下剋上・戦国時代突入と、国全体の混乱につながり、足利室町の時代は乱れに乱れ、やがて室町幕府は織田信長に滅ぼされることになります。

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

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尋常小学 国史より ⑥ 第二十七 足利氏の僣上(せんじょう)

尊氏の無道
尊氏は、さきに後醍醐天皇からお手厚い恩賞をいただきながら、その御恩を忘れて、朝廷にそむき、忠義な人々を殺し、おそれ多くも皇族を害し申すようなことさえした。かような無道の行が多かった上に、自分の家をもよく治めることが出来ず、兄弟互いに憎みあい、はては弟の直義を毒殺してしまった。部下の将士もたびたびそむき、また互に争っていたので、いつも騒ぎが絶えなかった。その間に、足利氏は、尊氏の子 義詮(よしあきら)から孫の義満(よしみつ)の代となった。
細川頼之が義満をたすけた
義満が年ようやく十歳の時、父 義詮は重い病にかかって、もはや回復の望がなくなったので、日頃 信頼している細川頼之(ほそかわよりゆき)に遺言して、義満をたすけ導かせることにした。頼之は、足利市の一族であるが、いたってつつしみ深い人であったから、義満のそばに仕えている人々には、常におごりを戒め、またわがままな大名をおさえるなど、真心こめてその主をたすけた。それ故、これから足利氏の基はだんだん固くなった。
後亀山天皇が京都におかえりになった
義満は、やがて使を吉野にさしあげて、天皇に、京都へおかえりなさるようにお願いした。後村上天皇の御子 第九十九代 後亀山天皇は、かねがね、長い間の戦乱で、万民が苦しんでいることを不憫(ふびん)に思っていらっしゃったので、ただちにその願をお許しなさって、京都におかえりになり、神器を第百代 後小松天皇にお伝えになった。時に紀元2052年(元中9年)、後醍醐天皇が吉野へ行幸をなさってから、およそ60年ばかり経っていた。今までたいへん乱れていた世の中も、これから、やっと静まった。けれども、義満は征夷大将軍となって、大いに勢を振るうようになり、ふたたび武家政治の世となった。
義満がおごりをきわめた
義満は、まもなく将軍職を子の義持に譲ったが、自分は太政大臣になりたいと望んだ。武人で太政大臣に任ぜられたことは、平清盛から後 全く例がなかったのである。それにもかかわらず、義満はたびたび朝廷にお願いして、とうとう望をとげた。
金閣
このように、義満のわがままは次第につのり、はてはおごりの生活にふけるようになった。その室町(むろまち)の邸は、この上ない立派なもので、庭には美しい花がたくさん植えてあったから、人々はこれを花の御所といった。義満はまた、京都の北山(きたやま)に別荘を造り、庭に三層の楼閣(ろうかく)を建てて、壁といわず、戸と言わず、すべて金箔(きんぱく)で張りつめた。その美しさは、言葉にも、筆にもつくせないほどで、人々は、これを金閣と呼んだ。義満は髪をそってここに住み、なほ政治をとっていたので、朝廷の官吏も、皆 義満の威勢に恐れて、この別荘に来てその命令を受けるという有様であった。
義満の僣上(僣上とは、身分をわきまえない、さしでた行為をすること)
義満は、勢の盛なのにまかせて、臣下の分をわきまえぬわがままな行が、いよいよ多くなった。かつて比叡山に登った時などは、関白以下の公卿を従えて、おそれ多くも上皇の御幸(みゆき)の御儀式にまねたほどであった。
義満が國體をかろんじた
この頃、支那は、元がほろびて明の時代となっていた。義満は使を明にやって交際をはじめたが、明主(みんしゅ)が義満を指して日本国王といっても、義満は別にはばかる様子もなく、自分からも進んで日本国王と名のって、書を送った。わが国には、天皇の外にまた国王があろうか。義満の行は、実にわが國體(こくたい)をかろんじたものというべきである。

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(続き)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑦ 第二十八 足利氏の衰微

(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑤ 第二十六 菊池武光

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ④ 第二十五 北畠親房と楠木正行

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ③ 第二十四 新田義貞

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ② 第二十三 楠木正成

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ① 第二十二 後醍醐天皇

◆戦後の歴史教育を捨てよう。 歴史教育 再興 ① 永久保存版 戦前の国史(日本史)学習年表

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑦ 朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

◆日本人の美意識が結集!溝口健二『雨月物語』~ 品が悪くなった日本女性

◆そもそも革命とは ~ フランス革命に見る民衆とマスコミの狂気

◆男女観・家庭破壊の行着く先 ~ 夫婦別姓で家族の安心と信頼は消滅

◆世界が憧れた日本の家族の絆 ~ 小津安二郎映画に見る世界

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真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より 中世~近代 【目次】

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(2017.4.14)
真実の日本の歴史【尋常小学 国史より】シリーズ、ページが増えた時のため、掲載分の目次をアップしておきます(尚、参考までに右画像は尋常小学国史 上下巻分の全目次。クリックで拡大)。
中世以降の分では、このように国史教科書から掲載利用してるのに、なぜ、神代~古代までの分では、当時の日本史(国史)参考書から掲載したのかといいますと、神代から古代については、当時の国史教科書ではここの読者には内容が浅すぎると思えるからです。当時の尋常小学国史では、神代がいきなり天孫降臨から始まったりしてるし、内容が薄いんです。中世以降は、当時の国史教科書でも内容が割としっかりしてるので、そこから利用していきます。

今の歴史教育では、ごく上っ面の表面的、語句や人物名とかしか教えられていないため、有機的につながった役に立つ知識が得られず、心の教育や皇室の由来や天皇の担ってきた役割がまるで学べません。ぜひ基礎的な知識として当時の教科書、参考書から学んでください。引用の絵や資料もすべて戦前当時の教材からです。ここの読者は戦前の教育を受けた人々と、その心や思いでそのままつながることが出来るんですよ。ここはなんて素晴らしいサイトなんでしょう (^▽^

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戦前教科書 尋常小学 国史より 中世~近代【目 次】(随時更新)

1 第二十二 後醍醐天皇

2 第二十三 楠木正成

3 第二十四 新田義貞

4 第二十五 北畠親房と楠木正行

5 第二十六 菊池武光

6 第二十七 足利氏の僣上

7 第二十八 足利氏の衰微

8 第二十九 北條氏康

9 第三十 上杉謙信と武田信玄

10 第三十一 毛利元就

11 第三十二 後奈良天皇

12 第三十三 織田信長

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◆大日本帝国の唱歌を歌い継ごう! ⑧ 10月30日は教育勅語発布日 ~ 教育勅語を称える、唱歌『勅語奉答』を10歳の子供にピアノ弾き語りで歌ってもらいました!

◆キュートな教育勅語のご紹介 ~ 9歳 教育勅語 読誦

◆日本が好きな親なら子供には教育勅語! ~ 小学生以上なら暗唱できるよう覚えさせてみませんか?

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ① 神代 皇基の遼遠

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ② 神武天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ④ 日本武尊 成務天皇

◆戦後の歴史教育を捨てよう。 歴史教育 再興 ① 永久保存版 戦前の国史(日本史)学習年表

◆シリーズ「戦前の小学歴史教科書準拠 学習問題から」 目次 ~ 戦前の小学歴史学習附図 全編ダウンロード出来ます。

◆武士の子女教育カリキュラム ~ 貝原益軒『和俗童子訓』より

◆“道徳教育”と称して進められる、これからの日本人家畜化教育について ~ もはや大多数の家畜化は逃れらない

◆左翼教育者が持ち上げる、フランス革命を引き起こしたルソーの人間獣化思想 ~ ルソー生誕300年で、日教組やPTA左派が暗躍中

◆性善説的な視点に立った教育勅語、「修身」道徳教育の補完としては、「毒をもって毒を制す」のマキアベリズムこそ最適

◆家庭内における戦前の教育再現 ~ わが家で使ってる子供用教本 ~ 修身と国語副読本

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真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑤
第二十六 菊池武光

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(2017.3.31)  (戻る)
大楠公、小楠公、新田義貞、北畠顕家……吉野朝廷の忠臣たちの利欲にとらわれない美しすぎる生きざま。これが戦前の人々の尊敬を集め、その模範となった生き方です。
けれども親子またいで武将たちが奮戦する中、吉野側の勢力は次第に衰えてしまいます。そんな中、最後まで素晴らしい働きをし、勢いあったのがこの菊池氏一門。だけど菊池武光にいたっても、今の学校ではまるで教えられていませんよね。

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

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尋常小学 国史より ⑤ 第二十六 菊池武光(きくちたけみつ)

肥後の菊池氏
朝廷では、たのみにしていた正行(まさつら)や親房(ちかふさ)のような忠臣がつぎつぎに亡くなったばかりでなく、国々の官軍もまた、たいてい衰えたが、ひとり九州では、官軍の勢いがなお盛であった。先に弘安の役に武勇の誉をあげた菊池武房(たけふさ)の孫の武時(たけとき)は、元弘3年、国々に勤王の軍が起こった時、早くも義兵を肥後に起し、わづかな兵を率いて博多の賊を討ち、はなばなしい戦死をとげた。これが九州で起った勤王の軍のさきがけで、その後、武時の子らも、皆よく父の志を受けついて忠義を尽くした。
武光が懐良親王をお迎え申した
時に、後村上天皇の御弟 懐良(かねなが)親王は、西国の官軍を統(す)べられるために、九州へお下りになった。武時の子の武光は、これを肥後にお迎え申し、親王をいただいて、たびたび賊軍と戦い、その勢がおいおい盛になった。尊氏はそのなりゆきを心配して、自ら武光を討とうとしたが、まだ出かけない中に、病にかかってにわかに死んだ。


筑後川の戦
菊池氏の勢いはいよいよ強くなり、武光は親王をいただいて兵を筑後に進め、賊の大将 少弐頼尚(しょうによりひさ)の軍と筑後川をはさんで陣を取った。武光は川を渡って戦をしかけたが、頼尚は陣を堅うして、なかなか戦おうとしなかった。そこで、武光は、さっそく兵を分けて攻めることとし、自分は親王といっしょに、敵の中堅(ちゅうけん)をめざして突き進んだ。この戦は大変激しく、親王は御身に三箇所までも傷を負われたほどであった。武光は、馬が傷ついた上に、冑(かぶと)がさけたので、敵を斬ってその馬と冑を奪い、死を決してめざましく戦った。そのため、さすがの敵もささえきれずに敗れ退き、頼尚は本国筑前に逃げ帰った。世にこれを筑後川の戦というのである。
子孫つぎつぎに朝廷の御ためにつくした
武光は、なおも親王をいただいて筑前に進み、頼尚を走らせて大宰府に入り、さらに京都へ向かおうとしていたが、その後まもなく、亡くなった。せっかく勢づいてきた九州の官軍は、これからだんだん衰えていった。けれども、武光の子孫はなお長い間朝廷の御ために力を尽くした。肥後の菊池神社は、この菊池氏一族の忠臣をまつったお社(やしろ)である。

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(続き)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑥ 第二十七 足利氏の僣上

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◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ③ 第二十四 新田義貞

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ② 第二十三 楠木正成

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ① 第二十二 後醍醐天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑦ 第二十八 足利氏の衰微

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑥ 仁徳天皇と雄略天皇 顕宗 仁賢 両天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ① 神代 皇基の遼遠

◆大東亜戦争(太平洋戦争)の起こったわけ (完答)

◆仏教も乗っ取る、反日・フェミ・同和・在日朝鮮人 キチガイ勢力の猛威~ 部落差別につながるからと、廃止が進められる“お清めの塩”

◆親次第で自虐史観なんてどうにでもなる ~ 日本のおかげでアジア諸国の独立が早まった・・・そんなことで喜んでるのも自虐史観の亜種にすぎない

◆『昔の日本はアメリカと同じくらい広かった!』~ 日本人としての自信を持たせた祖母の言葉

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真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ④
第二十五 北畠親房と楠木正行

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(2017.3.29)  (戻る)
北畠親房の『神皇正統記』(詳しくは右画像クリック)は世界に名だたる名著であり、ドイツの學者 ハウスホーファーはダンテの『神曲』と並ぶ東西の偉大な書物と評してます。
尚、楠公夫人が正行をさとしたエピソードは有名で、楠木正成の首が足利尊氏から送られてきて、ショックを受けた子の正行が父の後を追って自決しようとしていたところ、お母様の楠公夫人に、今、死するのでなく、父への忠義をまっとうするよう戒められた場面になります。

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

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尋常小学国史 第二十五 北畠親房と楠木正行

北畠顕家が戦死した
新田義貞が戦死する少し前に、北畠顕家(きたばたけあきいえ)もまた戦死した。さきに、顕家は、尊氏を九州に走らせてから後、ふたたび義良(のりよし)親王をいただいて陸奥に下り、霊山城(りょうぜんじょう)にたてこもっていたが、天皇が吉野に行幸をなさったことを知ると、また親王をいただいて京都へ向かい、所々で戦って敵を破った。けれども、その兵は、たびたびの戦にたいへん疲れて、都に攻め入ることが出来ず、顕家は和泉(いづみ)の石津(いしづ)で戦死したのである。時に、年ようやく二十一であった。
親房らが海路で東国へ向かった
こういうように、顕家や義貞らの忠臣がつぎつぎに戦死したが、後醍醐天皇は、御志いよいよ堅く、顕家の父 親房(ちかふさ)らにいいつけて、また義良親王をいただいて陸奥に下らせ、官軍の勢を取り戻させようとおはかりになった。親房らは、伊勢から海路で東へ向ったが、途中で大風にあい、親房の船は常陸に着き、親王の御船は伊勢に吹き戻されたので、親王はそのまま吉野へお帰りになった。
後醍醐天皇がおかくれになった
たまたま、天皇は御病におかかりになった。この時、まだ国々に朝敵がはびこって、世の中が騒がしいので、これをたいそう残念にお思いになりながら、とうとう行宮でおかくれになった。そこで、義良親王が御位をおうけつぎになった。第97代 後村上天皇と申し上げる。
親房が神皇正統記をあらわした
その頃、東国の武士はたいてい賊に味方していたので、親房は陸奥に進むことが出来ず、常陸の関城(せきじょう)で賊兵に囲まれた。親房は、昼夜 賊を討つ謀をめぐらしながら、そのひまひまに、神皇正統記(じんのうしょうとうき)をあらわし、「天照大神から後村上天皇に至るまでの御血統の由来を述べて、君臣の大義を明らかにした。そのうち、まもなく城も落ち着いたので、親房はのがれて吉野に帰り、これから楠木正行らと力を合わせて、ともどもに天皇をお助け申し上げた。
楠木正行が四條畷(しじょうなわて)で戦死した
正行(まさつら)は、さきに十一歳の時、桜井の駅で父に別れ、国に帰ってからは、よく父の遺言を守って、つねづね朝敵を滅ぼそうと心がけて、一生懸命に励んだ。ようやく成人してから後村上天皇にお仕えして、たびたび賊軍と戦って、これをうち破った。取分け、摂津の瓜生野(うりゅうの)の戦では、賊兵が大いに敗れ、先を争って逃げる時、あわてて川に落ちて流れるものが五百人余りもあった。正行は、これを見てたいへん気の毒に思い、部下の者にいいつけて、これを救わせ、一々親切にいたわって送りかえした。こういう有様で、官軍の勢はますます強くなって、今にも京都へ迫ろうとした。尊氏は大いに恐れ、高師直(こうのもろなお)にいいつけて、急ぎ大兵を率いて正行に当らせた。そこで、正行は、ただちに一族 百四十人ばかりを連れて、吉野にまいって天皇に拝謁し、また後醍醐天皇の御陵に参拝して御暇乞(いとまごい)を申し、如意輪堂(にょいりんどう)の壁板に一族の名を書きつらねて、その末に、

かへらじと かねて思へば梓弓、なき数にいる 名をぞとどむる。

という歌をしるし、死を決して河内に帰り、賊軍と大いに四條畷で戦った。この時、正行はどうかして師直を討ち取ろうと考え、たびたびその陣に迫ったが、身に多くの矢きずを受け、力もつきはてたので、とうとう弟の正時と刺しちがえて死んだ。時に、正行は年ようやく二十三であった。
正行の忠孝両全(両全とは、君主への忠義と両親への孝行をどちらも果たすこと)
前年、正行に救われた賊兵は、深くその恩に感じ、正行に従ってこの戦でことごとく討死した。実に正行のような人こそ、勇も仁もある立派な武士で、忠孝の道を全うした人といわねばならぬ。こうして、楠木氏は正行の死んだ後も、その一族は、皆、真心こめて長い間、朝廷の御ためにはたらいた。今は、四條畷神社に正行をまつってある。

親房がなくなった
この後は、親房がひとり官軍の中心となって、大いに忠義を尽くしたが、まもなく病にかかってなくなったので、これから官軍の勢はいよいよ衰えるようになった。摂津の安倍野神社や岩代の霊山神社に、親房父子をまつってある。

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(続き)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑤ 第二十六 菊池武光

(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ③ 第二十四 新田義貞

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ② 第二十三 楠木正成

◆忠臣の象徴 楠木正成公を称える唱歌『青葉茂れる桜井の』(櫻井の訣別)を10歳の子供にピアノ弾き語りで歌ってもらいました!

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ① 第二十二 後醍醐天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑥ 第二十七 足利氏の僣上

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑦ 第二十八 足利氏の衰微

◆昨年の国内旅行から ~ 奈良、京都、宮島、姫路、萩……

◆本物の“大和撫子”入門 ③ ~ 我の否定、徹底した自己犠牲精神 新渡戸稲造『武士道』より

◆日本女性の魅力を引き出す、着物での美しい所作、歩き方 ~ 映画『忠臣蔵』より

◆日本が好きな親なら子供には教育勅語! ~ 小学生以上なら暗唱できるよう覚えさせてみませんか?

◆霞ヶ浦 特攻隊のふるさと 土浦(阿見) 予科練跡巡り

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真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ③
第二十四 新田義貞

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(2017.3.28)  (戻る)
(尋常小学国史より)第3回は、楠木正成と並び、後醍醐帝の吉野朝(南朝ではなく吉野朝が正しい呼び方。この時代は南北朝時代でなく、吉野時代と戦前まで呼ばれていた)を代表する忠臣 新田義貞。吉野側武士の事実上の統領のような存在でしたが、戦後の現代では楠木正成と仲が悪かったとか、足利尊氏に比べて人望がなかったとか、いろいろ言われたりしてますが、そりゃあ、武家政治の利よりも後醍醐帝への忠をとる吉野朝側の高貴な忠君武将なのですから、天皇を無視して武家政治をチラつかせる足利になびく賊軍武士どもからの評判が芳しくなかったのは当然。「武士は金と利(褒美など)のためだけに動いてた」なんてのたまう戦後の唯物論 歴史学者どものデタラメ妄言はすべて捨て去って、鎌倉倒幕に最も功績があり、後醍醐帝への忠義を全うした華麗な吉野朝側武士を代表する一人としてしっかり覚えておきましょう。

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

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尋常小学国史 第二十四 新田義貞(にったよしさだ)

名和長利が戦死した
湊川の戦に、新田義貞も敗れて京都に退いたので、天皇は再び比叡山へ行幸をなされ、尊氏は進んで京都に入った。官軍は、これを取り返そうとしたが、失敗して、名和長利らは戦死した。長年は、今、伯耆(ほうき)の名和神社にまつってある。
後醍醐天皇が吉野に行宮をお定めになった
尊氏は京都に入ると、賊の名をさけるために、豊仁(とよひと)親王を立てて天皇と申し上げていた。けれども、ほどなく、偽って朝廷に従うように見せかけ、後醍醐天皇に京都へおかえりなさるようにお願い申し上げた。天皇は、かりにその願をお許しになって、京都におかえりになったが、まもなく神器を御身にそえて、ひそかに吉野に行幸をなされ、行宮をここにお定めになった。
義貞が北国に向った
さきに、天皇は、比叡山の行宮で、義貞を召して、北国におもむいて回復をはかるよう、おぼせつけになった。義貞 涙を流して感激し、すぐ一族のものと一緒に、皇太子 恒良(つねなが)親王と皇子 尊良(たかなが)親王とをいただいて、北国に向かった。途中、木目峠(きのめとうげ)を越えたが、折あしく吹雪がはげしくて行軍(こうぐん)の苦しみは非常なものであった。取分け、河野(こうの)の一族は、にわかに敵に出あったので、戦おうとしたが、馬は雪にこごえて進まず、兵士は指をおとして弓を引くことが出来ず、進退きわまって、主従三百人余り、一人も残らず討死(うちじに)した。
義貞はやうやう越前の敦賀(つるが)に着き、金崎城(かねがさきじょう)にたてこもった。ところが、ここもほどなく賊軍に囲まれて、城が危なくなったので、子の義顕(よしあき)を残して城を守らせ、自分は杣山(そまやま)に行って兵を募った。けれども、その間に、兵糧がなくなって、城がおちいり、尊良親王は義顕らと共に御自害なさった。皇太子は、捕らわれて京都へ送られなさったが、とうとう尊氏のために害せられたもうた。
義貞が藤島で戦死した
義貞は、こういう不幸せにあっても、少しもくじけず、杣山から奮いたって、たびたび賊軍と戦ってこれを破った。その後、藤島の戦に賊の勢が強くて、官軍は今にも敗れそうになってきたので、わづかに五十騎を従えて、急いでこれを救いに行った。途中、三百騎の敵兵に出あい、大いに奮戦したが、乗っていた馬が、矢にあたって泥田の中に倒れたので、義貞はすぐ起きあがろうとすると、その時、運わるく、飛んで来た一筋の矢が額にあたった。さすがの義貞も、もはやこれまでと覚悟して、自ら首をはねて、いさぎよく死んだ。時に、年三十八であった。これから、北国の官軍は、中心とたのむ大将を失って、全く衰えてしまった。今、福井の藤島神社には、義貞がまつられている。

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