日本の面影

Glimpses of Japan
失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑰
和氣淸麻呂(朝廷に於ける僧侶の勢力)

 ←はじめにクリックお願いします m(__)m

(2019.4.5)  (戻る)
戦後、現代歴史教育では教えられなくなった和氣淸麻呂(ワケノキヨマロ・和気清麻呂)の忠節。戦前は専横極めた蘇我氏や藤原氏に加え、道鏡による皇室乗っ取りの危機を救ったということで、とても重要な人物とされていました。女帝 称徳(=孝謙)天皇に取り入った僧 道鏡は意のままに権勢をふるい、自らが天皇になろうとまでしましたが、和氣淸麻呂によってそれは食い止められました。今の義務教育でもきちんと教えるようにして、日本人は危機意識に目覚める必要があります。国民から皇族までたぶらかそうとするマスコミは悪の組織。皇室自身も平和ボケとでもいうか、危険な状態にあると思います。エラそうな言い方ではありますが、きっと多くの方が同じことを感じておりましょう。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

孝謙天皇
聖武天皇の皇女 孝謙天皇の御即位―佛教の御信仰―藤原不比等の孫 仲麻呂 信任せらる―仲麻呂 姓名を恵美押勝(エミノオシカツ)と賜わる―仲麻呂 威権を振う―天武天皇の皇孫 淳仁天皇に御譲位―孝謙上皇 尚 政を聴断(ちょうだん)し給う。

藤原仲麻呂の反
僧 道鏡 孝謙上皇の御親任をうく―道鏡の威権 日に加わる―仲麻呂 叛きて兵を近江に挙ぐ―仲麿の誅―淳仁天皇 廃せられ給う(淡路に遷幸)―太上皇の重祚(じゅうそ・一度位を退いた天子が再び位につくこと)称徳天皇。

僧 道鏡の無道
道鏡 太政大臣禅師となる―法王の位を授かる―飲食・衣服天皇の供御(くご)に准ず―恣に大政を決す―太宰主神習宜阿曾麻呂(ダザイノカムツカサスゲノアツマロ)道鏡に媚ぶ―宇佐八幡大神の神託を佯(いつ)わる―道鏡を皇位に即かしむれば天下泰平ならんと奏上す―道鏡 遂に非望を懐(いだ)く。

和氣淸麻呂の忠烈
天皇 阿曾麻呂の言に惑わせ給う―淸麻呂を宇佐に差遣―路豊永(オホヂノトヨナガ)・藤原百川(モモカワ)淸麻呂を勵(励)ます―淸麻呂 帰りて神教を奏上す―淸麻呂 大隅に流さる―淸麻呂の姉 廣蟲(ヒロムシ・法均尼)また備後に流さる―道鏡 遂に非望を遂ぐる能わず。

光仁天皇
称徳天皇の崩御―藤原百川等 天智天皇の皇孫を皇太子に立て奉る(光仁天皇)―道鏡の貶斥(へんせき・官位を下げて退けること)造下野薬師寺別当(ぞうしもつけのやくしじべっとう)となる―阿曾麻呂の左遷(多褹島守・種子島守)淸麻呂の召還(本官に復せらる)―法均尼(ホウキムニ)の召還―皇太子の即位―淸麻呂の重用―護王神社。

〇和氣淸麿の誠忠
備前の人にして、其の先は垂仁天皇の皇子 鐸石別(ヌデシワケ)命に出づ。称徳天皇の御代に、従五位下 近衛将監となる。神護景雲3年、大宰府の神祇を掌れる習宜阿曾麻呂 道鏡に媚び、宇佐八幡の神教といつわり、道鏡をして皇位に即かしめ給わば天下太平ならんと奏上す。道鏡 之をききて非望をいだく。天皇 淸麻呂を宇佐に遣わして更に神教を請わしめ給う。時に道鏡 淸麻呂を誘うに利を以てせしが、淸麻呂 路豊永の言を聞きて深く心に決する所あり。其の宇佐より帰るや、直に神教をのべて、道鏡の如き無道の人は早く除くべきことを奏上す。道鏡 大に怒り、淸麻呂の本官を奪いて大隅に流し、遂に其の途中に之を殺さんとす。既にして称徳天皇 崩じ給い、道鏡の奸悪(かんあく)あらわれて造下野薬師寺別当に貶せられ、淸麻呂は召還されて本官を復せられる。かくて桓武天皇の御代に、平安奠都の地を相(みる)し従三位民部卿に任ぜられて功田二十町を賜わり、延暦18年 67才にて薨ず。其の薨ずるや、天皇 正三位を贈り給い、孝明天皇の御代神に祭りて護王大明神と崇め給い、明治31年 朝廷更に正一位を贈り給う。護王神社は京都市に在りて明治7年 別格官幣神社に列せらる。
〇路豊永
先は敏達(びだつ)天皇の皇子 難波王に出づ。天武天皇の御代に眞人の姓を賜わる。豊永 嘗て道鏡の師たり。淸麻呂の宇佐に赴くに当り。淸麻呂に語りて曰く、道鏡 若し天位に登らば吾 何の面目あって其の臣たる可けんや、吾二三子と共に今日の伯夷(ハクイ・支那の殷の人・殷滅び遂に餓死す)とならんのみと。淸麻呂深く其の言を然りとし、決心する所ありて常に忠烈の志を懐しきと云う。
〇藤原百川
式部卿 宇合の子にして幼より器度あり。神護年 中山陽道 巡察使となり、奏して本道の郡傳路 遠くして民苦多きを以て驛(駅)送に復せんことを請い、また長門の豊浦・厚狭(あさ)等 養蠶(蚕)によきを以て、調銅を停めて綿を諭(さと)せしめんことを乞いて許さる。孝謙天皇 崩じ給いて皇嗣 未だ定らざるや、百川は白壁(シラカベ)王(天智天皇の皇孫)を立てんとす。右大臣 吉備眞備 異義ありしを以て、百川 兄 良継 及 従兄 左大臣 永手と密議して白壁王を迎え立つ。之を光仁(こうにん)天皇とす。寶亀2年 大宰師となり、尋(つい)で参議に拜す。天皇 皇太子を廃し給うに及び、百川 山部王を立てんことを奏請す。衆議為に頗(すこぶ)る紛紜(ふんうん・物事が入り乱れること)たりしが、百川 固く前議を執り殿前に立つ四十餘日に及ぶ。天皇 其の誠悃(せいこん・まこごろがこもっていること)に感じて遂に其の請を許し給う。尋で従三位式部卿兼中衛大将となり、内外の機務に輿聞す。同10年 48歳にて薨ず。天皇 悼惜して従二位を贈り給いしが、延暦2年 朝廷 更に右大臣を贈り給う。
〇法均尼
旧名を廣蟲(ヒロムシ)と云い、淸麻呂の姉なり。人となり貞順にして節操なりしかば、孝謙天皇に愛信せらる。天皇 落飾し給うに及び、廣蟲また薙髪(ちはつ・髪をそり落とすこと)して法均(ホウキム)と改む。藤原仲麻呂の誅せらるや、之に黨(とう・党)して斬に当てられしもの数百人に達す。法均 天皇に諌め奉り、其の死を減じて流に處(処)す。乱後 飢疫して民間に棄児多し、法均 人を遣わして之を收養する八十三児に及ぶ。尋で淸麻呂大隅に流さるに当り、法均また備後に流さる。光仁天皇 踐祚(せんそ・皇嗣が天皇の地位を受け継ぐこと)に及び、召し還されて従四位下典蔵となる。天皇 嘗て嘆称(たんしょう・優れたものとして感じ入ること)し給うて曰く、諸侍従は毀譽(きよ・貶すことと誉めること)紛紜たりしに、法均 人の短を言わずと。かくて正四位上典侍に進み、延暦18年 70歳にて卒(しゅつ)す。天長2年正三位を贈らる。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑱ ~ 平安奠都 蝦夷の鎭定

  ← 応援クリック宜しくお願いします m(__)m

—————————————————————————–
(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑯ 聖武天皇 奈良時代の佛教文物

◆戦前の小学歴史教科書準拠 学習問題から ② 日本武尊

◆いらない性教育。子供の人格破壊を目指す日本の学校教育

◆日本の繁栄を信じて、ふるい立った英霊たちの思いにつながりましょう ~ 貴方も英霊たちの本当の仲間になるために

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ④ 第二十五 北畠親房と楠木正行

◆ほざくな! ニセ秋篠宮! ~ 朝日/北朝鮮に拉致されスリ替えられた、世界小市民として皇室破壊、日本解体に利用されるニセ秋篠宮家

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑪ 蘇我氏の無道

◆マスコミの売国クズぶりは前から腹立たしいが、特にこの国賊クソ朝日のしつこい超偏向報道ぶりはなんだ!!

◆【超拡散希望!】 婚外子相続差を違憲とした裁判官を裁こう!

◆今のまま側室を設けると、皇室崩壊を招きそう ~ 三船敏郎の愛人 喜多川美佳と、その娘 三船美佳に見てみよう

◆次期宮内庁長官は創価系!? ~ 女性宮家の創設どう思う? ~ 狙われる皇室。皇室乗っ取り警報!

トップ | 真実の日本の歴史 上代 ~ 中世 | permalink | comments(0) |

真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑯
聖武天皇 奈良時代の佛教文物

 ←はじめにクリックお願いします m(__)m

(2019.4.2)  (戻る)
新元号は令和、万葉集からの引用であるのだと昨日発表。奇しくも、この【真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より】シリーズを更新しようと考えていた折、ちょうどこの『奈良時代の文物』を公開しようと校正を進めていたタイミングで…… 天平の先人たちの大きなエネルギー、その強い波動がきっと私のところにまで及んできていたのでしょう。しっかり受け止められる感受性あってよかった! ここをご覧の皆様もそんな私とつながれてよかったですね ^▽^) 続編はもういいかなと思っていたこのシリーズ、でも、続きを書こうと考えあらため、原稿はかなり前からザッと写してはあったものの、日本史上においても稀有、絢爛豪華な文化が育まれた「奈良時代の文物の章」は分量がすごく多いこともあって、校正が大変なため延ばし延ばしにしていたのですが……
先人の思いに通ずるためにも、今日の内容はしっかり勉強しておきましょう。
さて、先人から選ばれし預言者 ロデムですが(笑)、私は次の元号まで見られるでしょうか。子供に託すしかありませんね。

ところで皆さんは「鞠(まり)」と言って思い起こされるものって何ですか? 私にとっては大化の改新、中大兄皇子と藤原鎌足が懇意になったきっかけこそ蹴鞠。大化、天平の時代から日本に鞠は存在していました。初めて元号を定めし天智天皇。だから今回の記念ランキングバナーは鞠。中大兄皇子の蹴鞠の会が催されたページにも鞠のバナーを貼っておきましょう。

『最新 日本歴史解釈 』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

聖武天皇
文武天皇の皇子 聖武天皇の御即位―天皇深く佛教を信じ給う―丈六の仏像と七重の層塔―諸國に僧尼(そうに)の両國分寺を設く―之に寺領を輿(与)う―奈良に東大寺の建立―金銅の大佛安置と大佛殿―三寶(宝)奴(さんぽうのやっこ)―戒(かい)を受けて沙彌勝満(シャミノシャウマン)と呼び給う。

光明(コウミョウ)皇后
天皇の皇后は藤原鎌足の孫女(不比等の女にて光明皇后)―古来の皇后は概ね皇族―鎌足父子 朝廷に大功を建つ―始めて藤原家より皇后出づ―皇后 篤く佛教を信じ給う―慈悲の御心 深し―施薬院(せやくゐん)・悲田院(ひでんゐん)―孤児・貧病者の救療(慈善事業)
佛教の興隆
聖徳太子の興隆以後 漸く弘まる―造佛と寫(写)経―六宗 行わる―東大寺・西大寺・薬師寺の諸大寺建立―上流間の帰依―藤原不比等また早く興福寺を立つ―不比等の子 武智麿(ムチマロ)も佛教を信ず―印度・支那より渡来の名僧―名僧の輩出―良弁(リョウベン)と行基(ギョウキ)―無道の僧侶―玄昉(ゲンボウ)―藤原廣嗣(ヒロツグ)の反―大野東人(オホノノアヅマント)之を平ぐ―多賀城―玄昉の貶斥(へんせき)―吉備眞備(キビノマキビ)の左遷。

美術工芸の進歩
美術・工藝の進歩―寺院の建築―佛像の彫刻及び鋳造―絵画・織物・刺繍・漆器・硝子器の製作―制作物の壮麗巧妙(天平時代)―正倉院と其の御物―奈良市内外の寺院の堂塔と其の存在の美術品―印刷術 起る―木版の印刷佛経。

文學の隆盛
遣唐使の往来繁く―留學性の入唐多く―漢學の進歩を促す―和漢混合文(古事記・風土記)―宣命文(せんみょうぶん)―詩文の功妙―粟田眞人(アワダノマヒト)―吉備眞備―阿倍仲麿(アベノナカマロ)―太安萬侶(オホノヤスマロ)―石上宅嗣(イソノカミノヤカツグ)―淡海三船(オフミノミフネ)等の輩出。持統天皇の頃 和歌流行す―柿本人麿(カキノモトノヒトマロ)の先駆―山部赤人(ヤマベノアカヒト)―山上憶良(ヤマノエノオクラ)―大伴家持(オホトモノヤカモチ)等の輩出―萬葉和歌集の撰。

風俗の華美
文物の進歩に伴いて風俗華美に趣く―世人 唐風を好む―左衽(さじん)の着物 右衽(うじん)となる―袖濶(ひろ)く裾長し―古風の板簷(いたぶき)及び草葺(くさぶき)も瓦屋に改め丹聖(たんあ)を塗る(五位以上の人及び富人)

〇國分寺
聖武天皇の天平13年3月、詔して諸國に国分僧寺と国分尼寺とを建てしめ給う。其の僧寺を金光明四天王護國寺と云い、其の尼寺を法華滅罪寺と云い、また単に前者を国分寺と云い、後者を法華寺と云う。此の国分寺は、天下一切の禍を除かん為に建てしめ給いしものにして、当時地方政治の中心なる國府附近に置かしめられ、國毎に正税を割きて之に入れ、其の利息を以て造寺の用に充てしめらる。されど國司等多く怠慢にして命を奏ぜざりしかば、早くより衰亡に属し、其の一度亡びたるものは、殆ど再建せらるることなし、現今の村名及び字名に、なほ國分若くは国分寺の称あるは、蓋(けだ)し昔時 国分寺の在りし縁由の地なるもの多し。
〇東大寺
大和奈良市に在り。所謂 奈良七代寺の一にして、今は華厳宗の総本山たり。本尊を金銅盧舎那(るしゃな)仏像とし、世に之を奈良大佛と云う。聖武天皇 佛法興隆の為め、天平13年 此の大佛の造立を企て給い、やがて之が工事起りて天平勝寶(てんぴょうしょうほう)元年に成る。大佛殿は天平19年に工を起し、天平勝寶4年に成る。治承(じしょう)4年 兵火にかゝりしが、僧 重源 起巧して、建久6年に成る。永禄10年 再び兵火にかかりしが、公慶上人また工を起して寶永5年に成る。現存のもの即ち是なり。其の銅 燈龍・三月堂・二月堂・開山堂・鐘楼・浄土堂・大湯屋・南大門・戒壇院等は、今或は国宝たり、或は特別保護建築物たり。
〇三宝奴
佛・法・僧の三を三寶(宝)と云う。佛寶は一切の佛陀(ぶつだ)にして法寶は佛の設ける教法また僧寶は其の教法に従って修行するものを云うなり。
〇光明皇后
藤原不比等の二女にして、聖武天皇 皇太子の時の妃となり給う。天皇即位に及びて従三位を授けられて夫人となり、高謙天皇を生み給う。尋で正三位に叙し、天平元年皇后となり給い、孝謙天皇 受禅の後 皇太后となり給う。かくて天平宝字4年6月崩じ給う。御年60 皇后 幼にして聰彗(そうけい・才知にすぐれること)、體貌(たいぼう・姿と顔だち。容貌。)殊麗にして光耀あるが如きを以て、光明皇后と申すと云う。皇后 天資慈仁にして深く佛を信じ給い、天皇に勸(勧)めて東大寺を建て、諸国に国分寺を置き、また悲田院・施薬院を設けて、天下飢病のものを療養せしめ給う。
〇施薬院と悲田院
施薬院は施療所にして、諸國の薬草を買取して窮民の病を治療する所なり。光明皇后及び藤原不比等の仁恵に起り、天平2年4月始めて設けらる。初め大和奈良京に在りしが、後 平安京に移さる。長官を別当と云い、藤原氏の人を之に任じ、其の下に判官・主典・醫(医)師等を置く。悲田院は孤兒病者の救養所にして、施薬院の別所として同時の創立なり。
〇六宗と八宗
六宗は華厳(けごん、聖武天皇 天平8年 唐僧 道璿(ドウセン)之を伝う)律(りつ、孝謙天皇 天平勝寶5年 唐僧 鑑眞 之を伝う)法相(ほっそう、孝徳天皇 白雉4年 元興寺の僧 道昭(ドウショウ)入唐して之を伝う)三論(さんろん、推古天皇33年 高麗僧 慧灌・エカン 来朝して之を伝う)成實(ジョウジツ、推古天皇の朝 三論宗と提携して伝わる 伝者未詳)倶舎(ぐしゃ、斉明天皇の朝 僧 智通・智達 二人入唐して之を伝う。或は桓武天皇の朝 僧 明全・ミョウゼン 之を始むと云う)にして之を南京六宗とも云う。之に天台(てんだい、桓武天皇 延暦24年 僧 最澄 帰朝して之を伝う)眞言(しんごん、平城(へいぜい)天皇 大同元年 僧 空海 帰朝して之を伝う)二宗(北京二宗)を併せて八宗と云う。
〇興福寺
山科(やましな)寺とも厩坂(うまやさか)寺とも云い、大和 奈良市に在りて法相宗の大本山たり。初め藤原鎌足、斉明天皇の御代に造立して釈迦佛を安置せんとし成らずして薨ず。天智天皇の御代、夫人 鏡女王寺を起して佛像を安置し、山科寺と云う。天武天皇の御代、大和飛鳥の厩坂に移して厩坂寺と云いしが、元明(げんめい)天皇の和銅3年、更に今の地に移して興福寺と改称す。藤原氏の氏寺として世々の崇敬厚く、境内の堂塔 頗(すこぶ)る壮麗なりしが、元慶(がんぎょう)2年以後、しばしば火災にかゝり、殊に藤原氏 昔日の勢力なくして大に衰え、徳川幕府の時は幕府の寺碌をうけて僅に之を維持せしのみ、現存のものは、北円堂、南円堂・東金堂・三重塔・五重塔などにして、是れ等 大概 特別保護建造物となり、其の堂塔に在る佛像は国宝のもの多し。
〇藤原武智麿
不比等の長子なり。和銅・霊亀年間 従四位上 近江守たりしが、養老年中累進して従三位中納言となり、天平元年 大納言に転じて大宰師を兼ね。6年従二位右大臣となる。9年 痘瘡を病むや、朝廷 詔を下して天下に大赦し、正一位左大臣に任じ給う。即日 薨ず。年58。武智麿の第(屋敷)は兄 房前の南隣に在りて南家と称し、房前を北家と称し、弟 宇合(ウマカイ)式部卿に任ぜしを以て式家と称し、また其の弟 麿は左右京大夫となりしを以て、京家と称す。
〇僧 良弁
近江志賀軍の人にして、華厳(けごん)宗の開祖なり。5歳の時に學に志し、長ずるに及びて僧 義淵(ギエン)に法相の宗義をうけ、後 慈訓(ジクン)を師として華厳の奥旨を授かる。既にして東山に小堂を構え、此に退隠して日夜修行す。聖武天皇 其の徳風を聞召し、勅して羂索(けんさく)院を賜わる。即ち名を改めて金鐘寺と称す。後、華厳 弘通の道場となり、天皇 良弁の勧化によりて此に東大寺を建て給う、良弁 始めて東大寺の別当となりて本務を司り、官僧 都より進みて僧正となる。寶亀4年 85歳にて寂す。
〇僧 行基
和泉の人にして、薬師寺 菅原寺等に住す。其の佛教を説くや、道俗(どうぞく・僧侶と俗人)之に追随するもの多く、時人 之を菩薩と呼ぶ。其の諸國を巡行するに当り、所々に寺を建て、過ぐる所 橋を架し道を修め、地溝を作り、堤防を築き、航路を開くること多し。就中 西國航行者の便を図り、播磨の室津より摂津の淀川尻迄の行程を定めしか如きは、著名なるものなり。天平17年 始めて大僧正となり、21年 天皇に菩薩の戒を授け奉る。此の年(天平感寶・てんぴょうかんぽう元年)82歳にて寂す。
〇本地垂跡
奈良の朝の頃より僧侶が神佛調和を図るが為めに。佛は本地にして權(権)に跡を垂れて神に顕(あらわ)れしなりと説くに在り。初め僧 良弁は巧に神佛の混合を説きしが、行基また夢に託して、天照大神は盧遮那佛(るしゃなぶつ)の権化(ごんげ)なりとの説を立つ。是れ本地垂跡説の権輿(けんよ・はじめ)にして、後 最澄・空海等 専ら此の説を唱えたり。
〇藤原廣嗣の反
廣嗣は宇合の長子なり。典籍に博覧にして、仏教に兼通す。また武芸に巧にして兵法を習う。天平年中 従五位下 大和守となり、太宰少弐に遷る。時に吉備眞備(キビノマキビ)・僧 玄昉(ゲンボウ)大に信任せられ、勢力 藤原氏を凌がんとす。廣嗣 此の二人に嫌焉(けんゑん)たらず、天平12年 上表して時政の得失を論じ眞備・玄昉を除かんことを請いしが省られず。九月 廣嗣 遂に兵を挙げて反し、兵を発して上京し、以て君側を掃除せんとす。朝廷乃ち大野東人を将として之を討たしめ給う。東人 九州に至りて廣嗣と戦い、11月 之を斬る其の輿黨(与党・なかま)もまた平ぐ。
〇大野東人
果安の子なり。和銅年中 新羅の使の来朝するや、東人 騎兵を率いて之を迎う。神亀の初年 陸奥の蝦夷の反するに及び、藤原宇合に従いて之を討ち、且つ建議して多賀城を築きて蝦夷の防遏(ぼうあつ)に備う。功を以て従四位下 陸奥鎭守府 将軍兼按察使(あぜち)となる。天平年中、在鎭の兵の功を錄して冠位を授け、以て後 人を勸めんことを奏請す。尋(つい)で藤原麻呂に従い諸國の兵を率ゐて蝦夷を伐ち、之を降しぬ。蓋し東人の計多きに居る。是に於て麻呂 奏して東人に多賀城に鎭せしめ、且つ大和守を兼ねしむ。11年累進して参議となる。尋で太宰少弐 藤原廣嗣の反するや、大将軍となって之を平げ、13年功を以て従三位に叙せられ、翌年遂に薨ず。
〇多賀城
旧址は陸前宮城郡多賀村大字市川(塩釜町西南一里)に在り。是れ鎭守府及び陸奥國府の在りし所なり。多賀城碑(天平寶宇6年鎭守府将軍 藤原朝獦(アサカリ)等の造る所)及び職原抄(北畠親房の著)には、神亀元年 大野東人の築きし所となす。されど続日本紀(コチラ参照)の養老6年に既に陸奥鎭所のこと見ゆ。此の鎭所は即ち鎭守府の城営なれば、神亀元年以前に既に築城せるものなりとの説あり。
〇吉備眞備
其の先 吉備津彦命(コチラ参照)より出づ。眞備、霊亀2年遣唐留学生となり、養老元年 唐に赴き、在唐19年、經史を研究し衆芸を修習し、当時 学生の名を唐に著わせしもの、眞備と安倍仲麿との二人のみ。天平7年帰朝して唐禮(礼)・暦書・楽書等を上る。是より大學助・中宮亮(すけ)に任じ、孝謙天皇の東宮に居給うに当り、學士となりて礼記・漢書を授け奉り、右京大夫・肥前守等に歴任し、天平勝寶4年 遣唐副使となりて再び唐に赴く。帰るに及びて正四位下 太宰大弐となり、建議して筑前怡土(いと)城(筑前糸賀郡怡土村)を築き、其の事に専当す。恵美仲麿(藤原仲麻呂)の反に及び、入りて軍事に参し、累進して従三位参議に任じ、神護2年 中納言・大納言を経て、従二位右大臣となる。かくて称徳天皇 崩じ給い、藤原永手(ナガテ)・藤原百川(モモカワ)等 相謀りて、光仁天皇を立て奉るに及び眞備 致仕を請い、寶亀6年82歳にて薨ず。
〇正倉院
正倉は諸倉中の重なるものにて、貴重品を納むる所を云い、院はなお家屋の意なり。故に正倉院は、大蔵省を始め諸國・諸寺等に在りしなり、而して東大寺の正倉院は、奈良東大寺大仏殿の北に在りて、間口十八間八寸四分、奥行五間一尺二寸、高五問、床下九尺、一棟三口の校倉(あせくら)なり。之を三ッ倉とよぶ。三陵(さんりょう)の木材にて井桁の如くに組みたて、三口あるを以てなり。其の起原未詳なるも、勝寶8年以前の建築にかゝるものゝ如し。此の正倉院には、聖武天皇の御遺物を始め貴重の品を納めたれば、朝廷厚く保護し給い、其の開閉は勅使を遣わし勅封を以てし給い、寺家をして濫(みだり)に開閉することなからしめらる。よりて勅封蔵とも云う。維新後、内務省に之を管せしが、明治17年宮内省の書簡に属せり。
〇木版の印刷の始
木版の印刷は、我が國にも早くよりありしが、現存のものは、孝謙天皇の神護景雲4年(寶亀元年)に成りしものを最古とす。此は天皇弘願を発し一百萬基の小木塔を作らしめ給い、其の中に納むべき四種の陀羅尼(経文)を印刷せしめ、神護景雲4年に十大寺(大安・元興・弘興・薬師・四天王・興福・法隆・崇福・東大・西大の十大寺を云う)に分置せしめ給いしものなり。よりてまた之を木版の印刷の始ともなす。
〇宣命文
宣命とは天皇の命(みこと)をうけて、之を人民に宣するの義にして、特に漢文体のものを詔勅と云い、國文体のものを宣命と称することゝなれり。其の書体は古事記・萬葉集の如く、漢字の音訓を並用せるも、専ら其の訓を用ゐ語尾・助辞等に音を假(仮)り用ゐて、之を細書す。之を宣命書と云う。宣命は立后・立太子・大臣の任免・神事・大赦・改元等の時に用ゐられたり。
〇粟田眞人
先は天足彦國押人命(アメタラシヒコクニオシヒトノミコト・孝昭天皇の皇子)に出づ。眞人 學を好みて文を能くし、進止また容あり。持統天皇の御代 累進して筑紫太宰となる。文武天皇の御代に、大寶律令の撰定にあづかり、大寶元年 遣唐執節使となる。其の筑紫に至るや、偶 風浪 悪しくして発すること能わず、翌年 再び唐に赴く。其の長安(支那の都)に至りて則天武后に見ゆるや、唐の廷臣 皆 眞人の温雅を称す。慶雲元年 帰朝して大和の田二十町穀一千石を賜わり、翌年 従三位 中納言となり、和銅の初年 正三位 太宰師となりて養老3年に薨ず。
〇阿倍仲麿
中務大輔 舩守の子なり。性 聡敏にして読書を好む。霊亀2年16歳にして遣唐留学生となる。其の赴きて学ぶや、姓名を朝衡(チョウコウ)と改めて唐廷へ仕え、累進して秘書監となる。勝寶年間、遣唐大使 藤原清河に従いて帰朝せんとす。海上 風に遭いて安南に漂い、また唐に至る。唐廷 更に光録大夫兼御史 中丞北海郡開國公とし、食邑三千戸を給するに至る。寶亀元年 遂に唐に卒す、年70。仲麿 唐に在る50餘年、王維・李白等の名士に交り、身 栄貴と雖(いえど)も常に帰を思うて巳まず。嘗(かつ)て月を望み和歌を詠じて曰く、あまの原 ふりさけ見れば かすがなる みかさの山に出でし月かも。と。承和(じょうわ)3年 朝廷 遣唐使に命じて、正二位を贈らせ給う。
〇石上宅嗣(イソノカミノヤガツグ)
左大臣 麿の孫なり。性 朗悟にして姿儀あり、博(ひろ)く經史に渉り文を能くしまた書に巧みなり。称徳天皇の御代 累進して参議より縦三位兼式部卿となる。寶亀の初年 大宰師となりしが、復入りて式部卿に還り中納言に任じ、11年大納言に進む。天應元年53歳にして薨ず。宅嗣 淡海三船(オウミノミフネ)と共に能文を以て併せ称せられ、其の詩賦数十首世に伝わる。嘗て宅を捨てて寺とし、其の寺内に一院を建てて儒書を蔵め、芸亭と名づけて読書のものに便にす。
〇淡海三船
葛野王(カドノオウ・弘文天皇の皇子)の孫なり。初め諸王たりしが、勝寶3年 姓を淡海眞人と賜わる。寶字年中、参河・美作・近江等の守介を経て中務大輔となり、神護2年 功田 二十町を賜わる。尋(つい)で寶亀年中、刑部大輔より大判事をへて大学頭兼文章博士となり、延暦の初 刑部卿に進み、同4年64歳にて卒す。三船 性 聡敏にして、群書に渉りよく文を属す。嘗て敕(ちょく)を奉じて神武天皇以来の諡號(しごう)を奉撰せしと云う。
〇柿本人麿
先は天足彦國押人命(孝昭天皇の皇子)に出づ。敏達天皇の御代に、其の家門に柿樹ありしにより此の氏名あり、起元1320年の頃に生れ、元明天皇の和銅3年頃に没せしものゝ如し。叙位・任官は其の伝わるものなくして未だ詳ならず、和歌に巧にして世に歌聖と称せらる。其の諸国を歴遊するや、過ぐる所 詠歌せざるなし。其の作 多く萬葉和歌集に見ゆ。
〇山部赤人
伊豫の来目部小楯(クメベノヲタテ)の後なり。紀元1350年の頃に生れて、天平8年の頃に没せしものゝ如し。官位未だ詳ならず、和歌を以て聞え、人麿と名を斎(ひと)しくし、山柿と称せらる、論者曰く、人麿は赤人の上に立ち難く、赤人人麿の下に立ち難しと、後世 称して和歌の仙と称す。其の詠歌多く萬葉和歌集に見ゆ。
〇大伴家持
大納言 旅人(タビト・コチラ参照)の子なり。寶亀11年 累進して参議兼右大辨(弁)となる。天應元年 東宮大夫となり従三位 左大辨となりしが、延暦元年 事を以て官を奪わる。既にして参議東宮大夫に復し、陸奥按察使鎮守府将軍を兼ね、翌2年中納言に任ず。3年持節征東将軍となりしが、翌年 薨じぬ。家持 和歌をよくして萬葉和歌集二十巻を撰す。
〇山上憶良
先は天足彦國押人命(孝昭天皇の皇子)に出づ。大寶の初年 遣唐少錄となりて遣唐使 粟田眞人に従い、霊亀年中以後、伯耆(ほうき)守 東宮侍読を経て聖武天皇の御代に筑前守となる。憶良 文をよくし和歌に巧みなり。其の詠歌 多く萬葉和歌集に見ゆ。憶良は生年を人麿と同じくし、死時は赤人に近し(天平5年74歳にて卒す)。
〇萬葉和歌集
主として舒明天皇より淳仁天皇まで凡そ130餘年間の和歌を集む。上は天皇・皇后・皇子より、下は群臣・百官・僧侶・田夫・野人に至る迄 幾百千人の多きに及び、其の数4500餘首に達して之を二十巻に編す。(仁徳天皇 雄略天皇の御代のもの2、3首を収む)此の編者につきて諸説あり、或は橘諸兄(モロエ)となせるもあれど、家持の歌集にして勅撰ならぬこと確なりとす。集中の著名なる作者は、柿本人麿・山部赤人・山上憶良・大伴家持・大伴旅人・橘諸兄を始め、志賀皇子・湯原王・額田女王等あり。其の他 雄略・舒明・孝徳・天智・天武・持統・元明・元正・聖武 諸天皇の御製もありて、後世 和歌を言うもの、取って以て模範となす。
〇奈良時代の文學
推古天皇の時 隋に使を遣わされしより、直接に支那の文明を我が國に伝うるに至りしが、舒明天皇以来 支那に派せられし遣唐使によりますます彼の文物を輸入したり。是に於て漢文學 大に発達し、學生は大學・国學等にて養成せられ、是れ等の結果として、我が國に於て始めて國文・漢文(推古天皇の朝に天皇記・國記等の編纂ありしも蘇我氏の滅亡と共に焼失して伝わらず)の書籍出現し、學者また輩出せり。其の書籍中 國文のものには、萬葉和歌集・古事記(コチラ参照)・風土記・宣命文の類ありて、漢文のものには日本書紀(コチラ参照)・懐風藻・詔書・勅書の類あり。而して學者には、吉備眞備・阿倍仲麿の如く才學 最高きものあり。柿本人麿・山部赤人・山上憶良・大伴旅人の如く和歌に妙を得たるものあり。此の外 当時の歌を輯(あつ)めて懐風藻と題せし淡海三船・萬葉集を修めし大伴家持もまた著名なり。
〇奈良朝の音楽
三韓 我に服属せしより彼の學問・技藝伝来し、従いて楽人もまた渡来して推古天皇の時に百済の樂人 味麻之(ミマシ)我に帰化せり。其の後 唐との交通 漸く盛となるに及びて遣唐使も次第に派せられしかば、彼の國 当時の楽をも此の方に伝えたり。天智天皇の時より大寶年中に至りて令條の定るや、治部省の被管に雅楽寮を置き、其の職員に寮・頭以下の唐楽師・高麗・百済・新羅の各楽師等(以上の職員中 楽師・楽生は支那三韓の正楽・俗楽を教習して同じく公宴の用に充つる也)を設け、内外の楽を此の寮に掌(つかさど)る所となる。是より我が國の古風を大歌・立歌ととなへて厳しく朝會(会)に用ゐ久米舞・東舞等は大嘗會 若は大社の神事に行わせられ、唐及び三韓の楽は、仏會 若は内宴に用ゐ給うに至る。聖武天皇の時、天竺の僧 婆羅門(バラモン)渡来して佛法を弘むと共に、また彼土の楽をも伝う。天皇篤く佛教を信じ給い、東大寺 盧遮那佛の開眼式の大會を始として、斎會(さいえ)に唐土・三韓の楽を用ゐ給い、臣民もまた佛教を崇め心を之によするもの多くして上下 此の楽を弄ぶに至りたり。
〇奈良朝時代の學問・技藝の発達
奈良時代には奈良に大學あり、地方には國學ありて學問 大に進み 學者輩出して種々の書籍 著わる。中にも吉備眞備・阿倍仲麿・石上宅嗣・淡海三船等の學者 相踵(あいつ)いで出で、日本書紀・古事記・風土記・懐風藻・萬葉集などの書籍著述せられ、漸く學問の進歩と共に、醫(医)師・針師・按摩師・呪禁師の術 発達し、佛法の隆興に伴いて寺院・佛像の造作 盛となり、建築・土木の術 大に進歩したり。其の遺物は今尚 存し、1200年前の発達を見るを得べきなり。(尚 奈良朝の學問発達 及び音楽をも参照すべし)
〇奈良時代に於ける皇位継承の事變(変)
奈良時代に於ける皇位継承の事変とも云うべきは、聖武天皇の崩後 淳仁(ジュンニン)天皇の即位に至るまでの皇嗣の議なりとす。初め聖武天皇の崩じ給うや、遺詔して天武天皇の皇子 新田部王(ニイタベオウ)の子 道祖王(フナドオウ)を皇太子とし給う。然るに王 諒闇(りょうあん・天子がその父母の喪に服する期間)にありて素行修まらず、よりて天平寶宇 元年3月 之を廃し、更に群臣をして皇嗣を議せしめ給う。藤原豊成・同 永手等は道祖王の兄 鹽焼王(シオヤキオウ)を立てんとし、文屋珍努(フンヤノチヌ)・大伴古麿等は天武天皇の皇子 舎人親王の子 池田王を立てんとす。時に孝謙天皇の殊遇(しゅぐう・他より特別によい待遇)を得て勢力ある藤原仲麿(豊成の弟)あり、仲麿 之を叡慮に問いて、池田王の兄 大炊王(オオイオウ)を皇太子となすの勅命あるに至る。大炊王の妃は仲麿の亡男 眞従(マヨリ)の寡婦 粟田諸姉(アワタノモロエ)にして、仲麿の勤むる所なり。よりて此の勅命あるは、蓋(けだ)し仲麿の攻略に出でたるなり。尋(つい)で仲麿 無道にも漸く皇族を除かんとして流言を放ち、橘諸兄また其の禍にかゝらんとす。諸兄の子 奈良麿は廃太子 道祖王及び鹽焼王・大伴古麿等と謀り、皇太子と仲麿とを除きて黄文王を立てんとす。黄文王は、天武天皇の皇子 高市皇子の子にして山背王の兄なり。時に山背王 事によりて黄文王を怨むる所ありしかば、奈良麿等の謀を仲麿に密告す。是に於て謀成らずして道祖王・黄文王等多く杖死し、その他皆罪せらる。是より仲麿威権ますます熾(さかん)にして、孝謙天皇 御位を大炊王に禅(ゆず)り給う。淳仁天皇 是なり。後 仲麿 叛を謀りて誅せられ、淳仁天皇また淡路に還され給う。時に天平寶宇8年10月なり。
〇奈良 平安 両時代と江戸幕府時代との概況及び相違の点
既に奈良時代の文学の條に述べたる如く、奈良時代には漢学漸く盛になりて、吉備眞備・阿倍仲麿・石上宅嗣・淡海三船等の如き学者あらわれ、日本書紀・懐風藻等 漢文の書 編纂せられ、詔書・勅書の数また漢文なりき。平安時代に及び、其の初期は漢学 尚 盛にして、僧 空海・小野篁(オノノタカムラ)・都良香(ミヤコノヨシカ)・菅原道眞・三善清行(ミヨシノキヨユキ)・紀長谷雄(キノハセオ)等の學者輩出して其の名高く、凌雲集・文華秀麗集・扶桑集・本朝文粋(ほんちょうもんずい)・本朝麗藻・都氏文集・菅原文草等の詩文集もまた数多著われたり。漢文の國史には続日本紀・日本後紀・続日本後紀・文徳寶録・三代寶録 相続きて著われ、古語拾遺・令義解(りょうのぎげ)・三代格式等出でしが皆 漢文なり。されど國文は、此の時代に殊に隆盛にして、漢文やがて衰え、其の末期 武家の勢力 盛となりては、甚だ不振の状態となりたり。徳川家康の出づるや、学問の必要を感じて之を奨励し、夙(つと)に藤原悍窩(セイカ)・林道春を用い、大に心を文教に留め、之が興隆を図りき。是に於て學問 蔚然(うつぜん)として勃興し、学者輩出せり。而して林家は程朱の派(朱子学)を以て官學とし、すべての儒者は此の説を以て講ぜんとす。是に於て其の説を非として復古派は伊藤仁斎 其の子 東涯にて主唱せられ、古文辭學派には荻生徂徠ありて、其の門下に太宰春台・服部南廓・山縣周南あり。王陽明派には中江藤樹・熊澤蕃山あり。折衷派に井上蘭台・片山兼山あり。局外中立の地位に在る学者には木下順庵の門下なる新井白石・室鳩巢(ムロキュウソウ)・雨森芳洲等あり。また徳川光圀の學問奨励によりて、其の藩学 所謂 水戸學には、朱之瑜(しゅしゆ)・安積澹泊(アサカタンパク)・栗山潜鋒(クリヤマセンポウ)ありて諸派 各起るに至る。概して江戸時代は、実に儒学隆盛の時代にして、漢文學は貴族の手を離れて平民的となり、藩學の主要なる學問となりしなり。尚 奈良・平安 両時代の漢文は支那より輸入せられしものを習得するに過ぎずして、貴族社会に重に行われて詩文・詞華を主とせしも、徳川時代には研究的となりて、己に貴族の手を離れて平民一般に普及し、恰も実用的に力を注ぐに至れり。
〇天平時代
天平は聖武天皇の時の年号にして、神亀6年8月 改元せらる。かくて20年をへて孝謙天皇の時に、天平感寶と改元あるに至る。此の間に於て、佛教の盛なるにつれて美術・工藝 著しく進歩し、寺院の建築・佛像の彫刻・鋳造を始め、絵画・織物・刺繍・漆器等、皆 巧妙美麗の域に達せり。よりて美術史上よりこの時代を天平時代と云うなり。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑰ ~ 和氣淸麻呂(朝廷に於ける僧侶の勢力)

  ← 応援クリック宜しくお願いします m(__)m

—————————————————————————–
(戻る)◆真実の日本の歴史 ⑮ ~ 奈良奠都 (史書撰修) 隼人 及 西南諸島の服属 (支那との交流) 戦前の日本史教科書準拠 参考書より

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑩ 佛教の興隆 美術・工藝の進歩

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑳ 佛教の新宗派 漢文學 蔵人所と検非違使

◆戦前の日本史教科書準拠 参考書より ㉗ 後三條天皇 院政 僧兵

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ③ 崇神天皇と垂仁天皇

◆『ぐりとぐら』 『こどものとも』の児童書 福音館は反日出版社 ~ 天皇を貶め、自虐史観に満ちた子供向け絵本

◆日本人の美的センスは世界一!~日本人はジャポニスムを忘れてしまった?

◆戦前の小学歴史教科書準拠 学習問題から ④ 仁徳天皇

◆仏教も乗っ取る、反日・フェミ・同和・在日朝鮮人 キチガイ勢力の猛威~ 部落差別につながるからと、廃止が進められる“お清めの塩”

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑧ 佛教の伝来と蘇我 物部 両氏の争

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑨ 聖徳太子 支那へ使節派遣

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑪ 蘇我氏の無道

トップ | 真実の日本の歴史 上代 ~ 中世 | permalink | comments(0) |

真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑮
奈良奠都 (史書撰修) 隼人 及 西南諸島の服属 (支那との交流)

 ←はじめにクリックお願いします m(__)m

(2017.2.22)  (戻る)
今日は奈良 平城京奠都(てんと)、そして当シリーズの原典である國として初めての史書 古事記、そして日本書紀や風土記の編纂、南九州の服属まで達成され現在の日本列島がほぼ完成する流れになります。この後も蝦夷における反乱に対して坂上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられての征行などがありますが、その辺りは現代教育でも一応は教えられており、本シリーズにおける取り上げはいったんここまでとします(後にもう少し先までやる可能性ありますが)。これ以降の歴史は現代の歴史教育でも一応合ってるところもあるのですが、今回掲載分の直後、和気清麻呂や菅原道真のエピソード等、現代教育ではほとんど教えられていません。もちろん建武の中興などの正しい歴史についても。そういったものについては後に別途、本書や戦前の国史教科書等を元に取り上げていくつもりです。

現在の歴史教育では、奈良時代ぐらいまでの神代・古代とされる時代の部分は非常に浅くしか教えられていません。しかも皇統否定、朝鮮史観に偏向してますし。ここで掲載の参考書なら、千年以上前のことでも非常にリアル、現代人でもとっても身近に感ぜられたことと思います。今の作る会とかも工作員の巣窟と化してるし、あそこの教科書とかもムチャクチャですよ。ネットだって今や胡散臭くてアッチ臭い歴史サイトばかり氾濫してますが、昔の歴史学習書の掘り起こし、最も大事でとってもシンプルなことなのに今までそれを誰もやっていない。ここではそれをやっていきます。ロデム自らやってますよ。これは偉大な作業だと信じてますし、後にきっと、ここにあることはジワジワ広がっていくでしょう。そういうのさえ知っていれば、商業主義、小銭稼ぎでポコポコと売りに出されてるような歴史関係書なんてほとんど不要なんです。戦前の人々が学んでたものをまずは土台にしておく、それだけで今の教育で育った人々とは全然違った歴史観が持てますし、その上で独自探求を深めていけばいい。それだけのことです。
断絶された歴史を学び、戦前の人々の思いに通じてくださいませ。それでは今後とも、ご支援のほどよろしくお願いいたします。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

奈良奠都
元明天皇(天智天皇の皇女)の御即位―神武天皇以来の歴代遷都―國運の進歩―支那との交通頻繁―壮大の帝都の必要起る―和銅3年 奈良に奠都―結構 唐の制に倣う―條・坊の区画等完備(平城京の称)―建築の壮麗―政治の繁多―都下の人口増加―遷都の事 困難となる―光仁(こうにん)天皇に至る迄 七代70餘年間の帝都―奈良時代の称(奈良朝とも云う)。

和同開珎の鋳造
元明天皇の朝 武蔵より和銅を献ず―和銅と改元―和同開珎の貨幣鋳造―物々交換の代りに貨幣の適用―商業の進歩を促がす。

國史 地誌の撰修
稗田阿礼(ヒエダノアレ)古伝を暗記す―太安万侶(オホノヤスマロ)古事記を上る(和銅5年 歴史の始)元正(ゲンショウ)天皇(天武天皇孫女)元明(ゲンメイ)天皇に次いで御即位―舎人親王(トネリシンノウ) 日本書紀を上る(養老4年に成る漢文の國史)―六國史 成る―元明天皇の時 諸國より地誌を上る(地誌の始)―風土記。

隼人の服属
九州南部の隼人―其の一部の反乱―元正天皇の時また騒擾(そうじょう)す―大伴旅人(オホトモノタビト)の隼人平定―隼人の服従。

西南諸島の服属
掖久(やく・屋久島)・多褹(たね・種子島)・奄美(推古天皇の朝より)人の来朝―文武天皇の時に度感(吐噶喇・トカラ)内附す―元明天皇の時に信覺(信覚・しがき・石垣島)・求美(くみ・久米島)の諸島 服属す―西南邊陲(へんすい・くにざかい)の地 皇化に服す。

支那との交通
支那との國交回復―文武天皇の時 粟田眞人(アワダノマヒト)以下 遣唐使を命ぜらる―使節の往来 頻繁―留学生・留学僧の入唐―当時 使船の航路。


〇神武天皇以来 歴代遷都
上古の世は諸事なほ冠位にして質樸なるが上に、建築の衛も甚だしく進歩せざりき。されば宏大なる都城を経営するの必要なきのみならず、遷都のこともまた頗(すこぶ)る容易なりしかば、神武天皇 橿原(かしわら)の地に宮殿を営み給いしより、歴代大抵都を改められ、殆ど之が慣例(なれ)の如くなりしなり。
〇奈良京の條・坊
奈良の都は元明天皇 和銅3年の遷都にして、之を平城京と云う。今の奈良市の西に在りしなり、此の都域は規模 頗る宏大にして、東西約四十町南北四十五町に及び、羅城(らじょう)を周囲にめぐらし、南面に羅城門を設く。大内裏は北部に在りて、其の大内裏より南面 羅城門に至れる中央に大道あり、之を朱雀大路(すざくおほぢ)と云う。此の朱雀大路を以て、東西両京に分つ。其の東を左京と云い、其の西を右京と云う。條・坊の区画は後の平安京が、八戸を行とし、四行を街(または町)とし、四街(または四町)を保とし、四保を坊とし、四坊を條とし、條を九條になせるに、ほぼ同じとす。
〇七代七十餘年
古来 奈良の朝を七代七十餘年と称す。その七代は、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の御七代を云い、七十餘年は和銅3年より桓武天皇の延暦3年 山城の長岡(乙訓部向日町)に遷都ありし迄、七十五年に渉(わた)れる間を概称せるものなり。此の時代を世に奈良の朝とも、奈良時代とも云う。(尤も以上の御七代中 聖武天皇は恭仁宮・難波宮に居給い、淳仁天皇は保良宮(ほらのみや)に居給いしことあるも皆 一時のことなりしなり。)
〇和同開珎
此の銭貨は和同年間に鋳造せしを以て此の名あり。銀と銅との二種ありて、銀銭は径八分重二匁一分強、銅銭は径八分重一匁、銀銭一文は銅銭四文に当る(匁・もんめは尺貫法による重さの単位。一匁は一貫の千分の一。三・七五グラム)。和銅元年5月、始めて銀銭を行い、同年8月 銅銭を行う。此の開珎の珎の字を珍とせる説あれども、寶(宝)となすをよろしと信ず。
〇物々交換
上古は諸事簡易にして、すべて交易には互に物品を以てして、貨幣の媒介によるの必要起こらず、従いて未だ鋳銭(じゅせん)の事あらざりき。されど早くより、支那・朝鮮の銭の我に伝われるありて銭のこと古書に見えたり。其の後、世事 漸(ようや)く複雑に向うに及びて、貨幣の便あること知られ、持統・文武両天皇の御代に、鋳銭司(じゅせんし)を置かれし事ありしも、なほ普(あまね)くは行われざりき。元明天皇の御代に、和同開珎の鋳造せられ、奈良朝の頃より、銭貨の使用を奨励せられなどして、次第に之を用うるに及び、物々交換の不便を減じて、商業などの進歩を促がすに至れり。
〇稗田安禮(阿礼・ヒエダノアレ)
天武天皇の御代の人なり。人となり聡明にして、目にわたれば口によみ、耳にふるれば心に勤(しる)すと云う。天皇 諸家に伝えたる帝紀など既に正實(実)にたがい、虚偽を加うること多く、其の失を改めざれば、久しからずして其の旨の亡びんことを憂い給い、安禮に勅して帝皇の日継(皇位を継承すること)及び先代の旧辞(古事記や日本書紀以前の歴史書)を謡習せしめ給う。安禮 時に年28、和銅4年に至り、元明天皇 太安麿(オホノヤスマロ)に詔して安禮がよむ所の勅語の旧辞を撰録して上らしめ給う。之を古事記と云う。
〇太安麿(太安万侶・オホノヤスマロ)
神武天皇の皇子 神八井耳命(カンヤイミミノミコト)の後なり。文武・元明・元正の三天皇に仕え、累進して従四位下に叙せられ、氏の長者となりて後 民部卿に拜(拝)す。元明天皇の和銅4年9月、古事記修撰の詔をうけ、翌年正月成りて献上す。養老4年5月、舎人親王等と勅を奉じて日本書紀を修む、成りて之を上る。養老七年七月卒(しゅっ)す。
〇古事記
上中下三巻より成りて書体は漢字の音訓を並び用い、専ら古伝旧聞を其の儘(まま)に録せんことを勉む。我が國 開闢(かいびゃく)より推古天皇に至る迄の事を記せる歴史にして、我が国に現存せる史籍の最も古きものなり。上巻は天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)より彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)以前、中巻は神武天皇より応神天皇以前、下巻は仁徳天皇より推古天皇までの各の事蹟を記せり。元明天皇 和銅5年正月28日、太安麿が稗田安禮より聞き取りたるものを修めて上りしものなり。此の古事記に本居宣長が注釈詳解をなしたる四十八巻を古事記伝という。
〇舎人親王
天武天皇の第三皇子(或は六皇子とし或は五皇子とす)なり。文武天皇の御代に親王となりて二品に叙し、元正天皇の養老2年一品に進む。翌3月 優詔ありて封八百戸を加え前と通じて二千戸(一品は八百戸を定とす)を賜わる。さきに勅を奉じて修むる所の日本書紀、養老4年に至りて之を上る。此の年8月知太政官事(ちだいじょうかんじ)となり、聖武天皇即位に及び封五百戸を増し、天平七年に薨す。年60。詔して太政大臣を贈り給いしが、御子 淳仁天皇即位に及び、天平宝字3年 崇道尽敬(スドウジンキョウ)皇帝の號(号)を上り給えり。
〇日本書紀と六國史
日本書紀は三十巻より成り、神代より持統天皇に至る迄の事実を漢文にて編年体に記せる正史なり。神武天皇以下歴代の記述は、古事記より詳なれども、支那の史記・漢書等に則りて彼の人にも見すべきように漢文を用いたれば、文飾に流るゝの欠点あり。一品 舎人親王 勅を奉じて太安麿等と之を撰修し、養老4年5月に至りて此の三十巻と系図一巻とになし、之を献上せしなり。此の書は菅野真道(スガノノマミチ)等の撰なる続日本紀(文武天皇元年より桓武天皇 延暦10年に至る)藤原緒嗣(オツグ)の撰なる日本後紀(桓武天皇 延暦11年より淳和(ジュンナ)天皇 天長10年に至る)藤原良房の撰なる続日本後紀(天長10年より嘉祥3年に至る)藤原基経等の撰なる文徳貫録(嘉祥3年より天安2年に至る)藤原時平等の撰なる三代実録(天安2年より仁和3年に至り)と共に本朝の六國史と云う。
〇風土記
諸国の土地の肥塉(ひしゃく・塉は痩せ地の意)及び山川原野名號の源由、また古老相伝の旧聞異事、竝(並)に各地より出づる産物等を漢文にて記したる我が國 最古の地誌なり。元明天皇 和銅6年5月、始めて諸国に令して此の風土記を上らしめ給いしより、諸国 漸次に之を上りしなり。今に伝われるは、常陸・出雲・播磨・肥前・豊後の五風土記のみにして、他は散佚(逸)して存せず。
〇隼人
上代に九州の南部 大隅・薩摩地方に住みし人種なり。其の性質 頗る勇猛にして敏捷(びんしょう)なりしより之を隼人(はやと)と名づく。日本書紀に、隼人は彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト・山幸彦のことである)の御兄 火闌降命(ホノスソリノミコト・つまり海幸彦)の裔と見えたるより之を大和民族となし、また熊襲と同地方に住み而も正史に熊襲を記せざるに及びて隼人のことを記せるを以て之を同種族となし、また熊襲・隼人 同種族の証なきを以て、大和民族にも熊襲・隼人 両種族にもあらざる種族となせるあり。
〇大伴旅人
大納言 安麿の長子なり。元明天皇の御代に正五位上に叙せられ、累進して元正天皇 霊亀(れいき)元年従四位上 中務卿となり、養老2年中納言に拝し正四位下 山背(山城国)攝官となる。時に大宰府の隼人反して大隅の國守を殺す、旅人 征隼人持節大将軍となりて之を平ぐ。同五年 功を以て従三位に叙せらる。此の年 元明天皇崩じ給い、旅人 山陵の事を監す。聖武天皇の神亀(じんき)の初年、正三位に叙せられて山城の國事を兼知せしが、出でて大宰師となる。天平二年、召し還されて大納言となり、翌年 従二位に叙せられ尋(つい)で薨ず。年67。旅人文才あり、また和歌をよくす。
〇奈良時代の歴史・地誌の撰修
安麿の著なる古事記、舎人親王・太安麿の著なる日本書紀、諸国より上らしめられたる風土記 是なり。
〇奈良朝の重要著作
古事記・日本書紀・風土記の外、萬葉集・懐風藻(かいふうそう・現存する最古の日本漢詩集) 等なり。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より~ ⑯ 聖武天皇 奈良時代の佛教文物

  ← 応援クリック宜しくお願いします m(__)m

—————————————————————————–
(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑭ 天智天皇 律令の選定

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑱ 平安奠都 蝦夷の鎭定

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ① 第二十二 後醍醐天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑬ 蝦夷の服属 韓土の変遷(百済 高麗の滅亡・新羅の朝鮮半島統一)

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑫ 大化の新政

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑦ 朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑤ 朝鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ④ 日本武尊 成務天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ② 神武天皇

◆竹島を武力行使で即奪回せよ! そして、まずは容易に取り返せる古代における朝鮮半島の日本府“任那”を日本史上に奪還し、日本人に再教育せよ! ~ 韓土の日本領も奪回! 朝鮮半島にある前方後円墳

◆日本神話の絵本について ~ 子供たちに日本と天皇へ愛着を持たせましょう

◆身近な郷土芸能と戦前の小一 国語教科書 ~ ヒノマル ノ ハタ バンザイ

◆子育て、死生観が変わる。読んでおきたい日本の古典 ~ 『土佐日記』と、一茶の俳句

◆昨年の国内旅行から ~ 奈良、京都、宮島、姫路、萩……

トップ | 真実の日本の歴史 上代 ~ 中世 | permalink | comments(0) |

戦前の日本史教科書準拠 参考書より ㉗ 後三條天皇 院政 僧兵

 ←はじめにクリックお願いします m(__)m

(2019.9.25)  (戻る)
いつもありがとうございます。この参考書からのシリーズは今日で最後になるかもです。この本は文字が小さく、見るのがしんどいですね。戦前の国史教科書を元にしたシリーズの方は今後も継続していきたいと思ってます。

後三條天皇と言われても聞いたこともない方が多いのではないでしょうか。平安末期の日本を中世につないでいった曙、戦前教育ではとても重要な天皇であり、院を開いて藤原氏の専権を抑え、さらには年貢や商売上の計量などが自由勝手で統一されてなかった体積の測量制も整備した天皇なんです。長さの尺貫に対して体積(容量)は斗升。それが天皇の命で定められた。だから戦後普及したメートル法も、その深い意味あった伝統の破壊であり、古来、日本はどこを見ても重要なところは天皇が関わっていたことが伺いしれます。今の教育では院政といえば白河法皇(後三条天皇の第一皇子)からとされますが、現代歴史教育で抹殺された後三条天皇こそ母が藤原氏と血縁のないおよそ二百年ぶりの天皇であり、藤原氏を抑える何らかの意図を持っていたことは間違いなく、戦前教育通りここの読者なら院政は後三条天皇からと覚えておきましょう。北畠親房の神皇正統記でもそう書かれています。
そして藤原氏が衰えても源平武士勢力が伸長しはじめ、それに加えて武士にも劣らぬ力を持つ僧兵の出現した時代です。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

後三條天皇
後冷泉天皇の崩後 皇弟 後三條天皇のご即位―醍醐天皇以後の天皇は御母藤原氏―天皇の御母は三條天皇の皇女―天皇の御性質剛健厳明―才學にすぐれ給う―皇太子に立ち給いし時、関白 藤原頼通の不平―東宮にまします二十年―大江匡房(マサフサ)に古今の治體を學び給う―御即位後 痛く藤原氏の權力を抑損(よくそん)せんとし給う―天皇の中宮は後一條天皇の皇女―源師房(モロフサ)等の御信任―頼通 既に宇治に退去―関白 教通(ノリミチ)も其の位に在るのみ―權門・社寺等の荘園増加―地方政治の紊亂(びんらん)―記録所の設置―由来不明の荘園と政治上妨害の荘園との停止―荘園新置の禁止―國司の重任と賣官(ばいかん)との禁―沽價(こか)の法を定め―斗升(とます)の画一―奢侈(しゃし=度を過ぎてぜいたくなこと)の戒飭(かいちょく=慎ませること)―風紀改まりて皇威の伸張―院中に政を聽かんとの思召―皇子 白河天皇に御譲位―上下天皇の崩御を惜み奉る―前関白 頼通また大に悼み奉る。
院政
白河天皇の御性質 剛毅果断(こうきかだん=意志がしっかりしていて思い切って事を行うこと)―政治の御親裁(天皇や大名などが自ら裁決を下すこと)―藤原氏勢力の衰微―皇子 堀川天皇に御譲位―大事は院宣(いんぜん)にて決せらる(院政の始)院庁(いんのちょう)と院司(いんし)―院政は堀河・鳥羽・崇徳の御三代(前後四十餘年間)院宣は詔勅よりも重し。
白河法皇の華奢と御崇佛
白河上皇深く佛教御信仰―白河上皇の御剃髪(ごていはつ)(法皇)の院政前後四十餘年―法皇の豪奢遊幸(ごうしゃゆうこう)―離宮及び数多の寺塔建立―多く佛像を造り しばしば法會を營まる―公卿 皆また驕奢に流る―國用足らず弊政起る―賣官再び行わる―朝威また衰う。
寺院の富強と僧兵の横暴
上下佛教に帰依し寺院の財産富む―寺院の荘園併有と僧侶の専横―延暦・園城・興福・東大諸寺の領地廣大―出家の制 早く壊る―無頼(ぶらい)の徒 寺門に投ず―僧侶を装い佛法保護の名の下に武藝を練る―諸大寺多く僧兵を置きて武器を蓄う―其の勢い漸く熾(さかん)―延暦・興福・園城諸寺は國家の鎮護相家の氏寺―其の威 最も盛―是等の諸大寺互に軋轢闘争(あつれきとうそう)―横暴 甚だしく遂に勅命を奉ぜず―大擧して京都に亂入―日吉(ひえ)の神輿(しんよ)と春日(かすが)の神木(しんぼく)―朝廷に強訴(ごうそ)―白河法皇 不如意の御歎(おんなげき。賀茂川の水・雙六(すごろく)の采(さい)・山法師)―院中に北面(ほくめん)の武士を置く―僧兵の暴行を鎭め京都を守衛す―源平二氏は武士の棟梁(とうりょう)―源平二氏京都に勢力を得。

○後三條天皇の御事蹟
御冷泉天皇の崩後、皇弟 御三條天皇 即位し給う。天皇は後朱雀天皇の皇子にして、御母は三條天皇の皇女 禎子内親王なり。天皇 頗(すこぶ)る剛健厳明にして、學藝に秀で給う。初め東宮に立ち給うや、関白 藤原頼通は天皇の藤原氏の御出にましまさざるを以て、甚だ不平にして、古来 東宮に傳われる寶剣(壺切剣)を天皇に上らざりき。天皇は一剣 何かわせんとて毫も(少しも)意に介し給わず、常に藤原氏の専恣を憤り給う。かくて東宮にまします二十餘年、大江匡房につきて大に古今の治體を學び給う。御即位の後は匡房等と謀り、藤原氏の權を抑えて大權の恢復に力を用い給う。当時 權門・勢家・社寺等多くの荘園を占有して其の弊害甚だし、天皇 記録所を太政官に設けて之が訴訟を親裁し、且つ新置の荘園を停め給う。尋(つい)で國司の重任及び成功を禁じ、沽價の法を定め、斗升を画一し、また常に倹約を以て下を率い、奢侈の風を矯正し給う。是に於て朝威ますます盛になり、紀綱 大に張らんとせしが、在位 僅に五年にして皇子に譲位し給い、間もなく崩じ給う。此の時、天下皆 之を惜み奉り、頼通すら國家の不幸 之より甚だしきはなしとて大に歎き奉れり。
○大江匡房
式部大輔匡衡(まさひら)の曾孫なり。頴悟(えいご)絶倫にして8歳の時 史記・漢書に通じ、11歳にして詩を作る。世に神童と称す。文章得業生に補し式部少丞に任ず、才を負いて世を憤り、跡を山林に晦(くら)まさんとせしが、權中納言 藤原經任(つねとう)之を論止す。御三條天皇 東宮に居給う時、學士となり文學を講論し、天皇即位に及びて蔵人となる。尋で左衛門權佐となるに及び、京師盗賊減少し路人剽掠(ひょうりゃく=脅して強奪すること)の忠なきに至る。後 累進權中納言兼大宰權師となり、尋で中納言を止め天永2年 大蔵卿を兼ね、此の年 71歳にて薨ず。世に江師と称す。匡房 和歌をよくし、博識強記、藤原伊房(これふさ)・藤原為房(ためふさ)と共に名を齊(ひと)しくし、時人 之を三房と称す。
○記録所
記録荘園券契所とも云いて諸國荘園の弊害を矯正せんが為に、延久元年閏(うるう)10月始めて太政官廳(庁)に設らる。白河天皇譲位の後、院中 政を聽き給うに及び、記録所のこと自然に廃せらる後、藤原信西(シンゼイ)等の議にて保元元年再興せられ、後には荘園の外、すべての政務訴訟をも聽断する所となる。
○重任・成功
國司の任期(始4年後6年)尽くるに至り、造營等の賞を上供して更に再任を奏請するを重任と云い、また朝廷にて造宮・造寺 其の他臨時の費を要し、國庫乏しき時に私物を上りて其の功を成し官を申請するを成功と云う。藤原氏の擅權(せんけん=権力をほしいままにする)甚だしきに及び、荘園増加して地方政治の衰微とともに重任・成功盛に行われしかば、御三條天皇 之を停止し給う。天皇御譲位の後、白河天皇の御代に土木盛に起りて國用不足し、再び重任・成功多くして賣(買)官のことまた行わるに至る。
○斗升の制
古来 斗升(とます)の制ありしも、後 漸く紊乱(びんらん)せしかば、朝廷 之が改良を企てられしが、遂に行われず。後三條天皇 其の違濫(みだれ)を防がんが為に、延久4年 廷臣をして桝を徴さしめ、親しく簾を折りて之が寸法を定め給う。所謂 延久の宣旨桝(せんじます)是なり。此の延久宣旨桝は後の京桝に比すれば、其の一斗は六升二合六勺(しゃく)五才餘に当ると云う。
○藤原頼通
摂政 道長の長子なり。三條天皇の時 累進權大納言となり、後一条天皇の時 父に代りて摂政となり間もなく関白となる。かくて後冷泉天皇の康平4年 太政大臣となりて翌年 之をやむ。頼通 宇治の別荘を捨てて寺とし之を平等院と名づく。御冷泉天皇も此に幸し給いしことあり。頼通 父祖の餘烈によりて朝命を専制し、其の驕侈(きょうし=おごってぜいたくすること)父にすぐ。嘗て高陽院を作るや、其の華麗比なきと称せらる。然るに御三條天皇 東宮に立ち給うに及び、頼通 之を憚(はばか)りて遂に宇治に屏居し、延久4年剃髪し承保元年 83歳にて薨ず。
○藤原教通
関白 頼通の弟なり。後一條天皇の時に内大臣となり、御冷泉天皇の朝に左大臣となり頼通に代りて関白となる。御三條天皇 即位に及び、関白を辞すれども聽されず、其の左大臣を辞す。天皇 國司の重任を禁じ給うに当り、教通 南圓堂を作らんとして之が再任を請う。天皇 震怒し給いて其の奏を却(しりぞ)け給う。教通また色然(いかる)として起ち、諸藤原氏また皆起ちて教通に隨(したが)いて出づ。天皇巳むを得ず之を許し給う。延久2年 太政大臣となり尋(つい)で辞し、承保2年 歳80にて薨ず。
○院政と院泉
院政は上皇 若くは法皇の院中にて政務を聽断し給うを云う。院政は御三條天皇 藤原氏の専權を制せんとして皇子 白河天皇に譲位し院にて政を決せんとし給うに濫觴(らんしょう=事のはじまり)す。然るに天皇 譲位の後 間もなく崩じ給い、白河天皇 御父の志をつぎ給い、皇子 堀河天皇に譲位し給い、鳥羽の離宮に居て政を聽き給う。之を院政の始とす。是より天皇譲位の後 多く院政を行い給うこと例となる。院宣は院の宣旨(さた)にして、院中の有司が之を奉じて下知する文書を云う。白河天皇御譲位の後、政を院中に聽き給いしより院政始めて起り此 院宣を以て天下の大事を決し給いしかば、其の重きこと詔勅に踰(こ)ゆるに至る。院政を行う所を院聽と云い其の職員を院司と云う。
○院廳(庁)の職制
院司は嵯峨天皇 御譲位の後、承和2年 安倍安仁(ヤスヒト)を以て院の別当とし給いしに始まる。白河上皇に至りて院司 大に備わり、別当を長官とし、其の下に執事・年預・判官代・蔵人・非蔵人・主典等の官を置かる。是は皆 正官にあらずして宣旨を以て之を補せらる。
○僧兵
僧侶の武器を持ち戦闘に従うものを僧兵とす。之を一に法師武者とも云う。袈裟(けさ)にて頭を裹(つつ)み甲冑を著(つ)け武器を執れる装、殆ど他の兵士と異ならず。宇多天皇の時に、対馬の僧の軍事に従いしをありしが、村上天皇の朝に至り天台座主 慈恵(ジケイ)なるもの僧徒修學に堪えざるものを選び、佛法擁護の為に武技を練習せしめたり。是より僧兵 漸く盛となる。一條・鳥羽両天皇の時、各禁令を下し給いしも行われず。後白河天皇の保元の亂以後には、朝廷 之を召し其の力によりて事を成さんとし給うに及び、僧兵ますます熾(さかん)となりぬ。
○日吉の神輿
延暦寺の僧徒が不平の事ありて之を朝廷に訴えんとするに当り、武装をなして日吉の神輿を奉じ、宮闕(きゅうけつ=皇居)を(たた)きて強請するを云う。世に之を神輿振と云う。此事 堀河天皇の頃より始まる。其の強請する時に当り禁衛の兵(皇居の兵)若し神輿を犯すあらば、たまたま過失と雖(いえ)ども黜罰(つみす・ちゅつばつ= 退け罰すること)せらるを常とす。後、元亀2年 織田信長の比叡山を焼討するに及び、其の弊害始めてやむに至る。
○春日の神木
神木は一に靈木と称す。大抵 神社の境内にありて、注連(しめ)を施し欄を設けて敬崇する樹なり。之には榊・杉・松・楠・槻(つき)等種々あり。中世以後に至り、興福寺の僧徒及び春日神社の神人等 事を朝廷に訴うる時、其の神木を捧持して神體に擬(ぎ)し之を移動す。所謂 神木の動座 是なり。其の入洛して或は禁闕(皇居の門・禁門)を犯し或は權門を叩きて嗷訴(ごうそ)することあり。之を世に神木の入洛と云う。其の入洛中は朝廷専ら謹慎の意を表し給い、藤原氏の公卿為に奔走して、聽納せられんを奏請し、其の歸座(もとの座に帰ること)に及びて朝廷奉幣使を遣わし給うを例とす。
○北面の武士
北面は院中を警衛せる武士の諸所なり。白河院の時 始めて置かる。上北面・下北面の別あり、上北面は多く四位に進み、下北面は五位・六位とす。北面を任ずる時を北面始と云う。是等は諸國の武士より之に充てらる。後鳥羽院の時 さらに西面武士を置かる、かくして北面の称は明治3年に非蔵人と共に廃せらる。
○藤原氏 政権掌握の由来及び権力の消長
藤原氏は鎌足の大功を建てし以来 大に榮え、其の子 不比等は持統天皇以下の四朝に歴任し、其の女宮子娘は文武天皇の夫人となり、宮子娘の妹 光明子は聖武天皇の皇后となりて孝謙天皇を生み奉る。是より藤原氏皇室の外戚となりて威權を有するに至る。不比等の四子四家に分れ、各朝廷に仕えて顯要(けんよう=地位などが高く重要であること)の職に列す。就中北家に冬嗣の出づるに及び、嵯峨天皇の御信任を蒙り、其の女 順子は仁明天皇の皇后となりて文徳天皇を生み奉る。是より先き舊(旧)家は、既に藤原氏に拮抗すること能わず。而も藤原氏 機会毎に他氏を排斥して家門の隆盛を圖(図)りしかば、冬嗣の子 良房人臣を以て遂に始めて太政大臣となる。而して其の女 明子 文徳天皇の皇后となりて清和天皇を生み奉り、天皇の時 良房人臣を以てまた始めて摂政となる。尋で良房の子 基經は陽成天皇の時に外舅(がいきゅう=妻の父)を以て摂政となり、宇多天皇の朝に関白となる。基經の薨後一時 関白を置かれざりしも、朱雀・村上両天皇は其の女 穩子(おんし・やすこ)の出にましまし、朱雀天皇の時 其の子 忠平 摂政となり関白となる。是より政權 全く藤原氏に歸し、代々の天皇は其の出にましまし、朝廷顯要の地位は其の門族の占有する所となる。かく藤原氏政権を其の一門に占むるに及び、やがて兄弟・伯姪(古くは甥のことを指す)之が争奪を事とし、道長の時 其の全盛を極むるに至る。物盛なれば衰う、藤原氏の華榮驕奢も御三條天皇の時に及びて漸次に衰運に傾きぬ。此の時 道長の長子 関白頼通 既に宇治に退居し、其の子 教通 関白たりしも員に備わる(職や地位に就いても実権のない状態になること)のみ、かくて院政始るに及び、政權全く院中に在りて、藤原氏は共に摂政・関白の空職を襲くに過ぎざることとなれり。

  ← 応援クリック宜しくお願いします m(__)m

—————————————————————————–
(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ㉖ 刀伊の入寇 前九年 後三年の役

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ㉔ 地方の情況 承平天慶の亂

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑭ 天智天皇 律令の選定

◆戦前の小学歴史教科書準拠 学習問題から ⑦ 天智天皇と藤原鎌足

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑪ 第三十二 後奈良天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ① 第二十二 後醍醐天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑫ 第三十三 織田信長

◆大日本帝国の唱歌を歌い継ごう! ④ ~ 天皇陛下のご降誕を祝う『天長節』 9歳 ピアノ弾き語り

◆戦後の歴史教育を捨てよう。 歴史教育 再興 ① 永久保存版 戦前の国史(日本史)学習年表

◆仁・義・礼・智・忠・孝……五倫、四徳、五条、四端の心から道を修むる ~ 侍が学んだものを学び、偉大な先人たちと志を一にす

◆武士の子女教育カリキュラム ~ 貝原益軒『和俗童子訓』より

◆日本女性の魅力を引き出す、着物での美しい所作、歩き方 ~ 映画『忠臣蔵』より

◆世界で忍者のイメージを決定づけた、最初の特撮TV時代劇 『隠密剣士』

トップ | 真実の日本の歴史 上代 ~ 中世 | permalink | comments(0) |

真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ㉖
刀伊の入寇 前九年 後三年の役

 ←はじめにクリックお願いします m(__)m

(2019.9.22)  (戻る)
いつもありがとうございます。このシリーズ、前回の24章から一つ飛んで、26章にいきます。ちなみに25章は「平安時代の文物」であり、遣唐使の廃止により漢文学が衰え始めて国文学が発達していったことなどに触れられています。和歌文化が極まり、物語から日記や随筆など、多彩な文化に彩られた時代ということで大筋のところは皆様もご存知の通りでしょう。

さて今日の刀伊(とい)とは、今の中国東北部、いわゆる満州辺りにいた女真族と呼ばれる民族のこと。元寇以外、現代日本では外国からの侵攻があったことが全く教えられていません。今日の刀伊の入寇(寛仁3年:1019年)とその前に起こっていた新羅の入寇(新羅が存続していた811年から935年までの間、新羅の賊が幾度も日本各地を侵した事件)など、防衛の重要性を認識せしめるためにも本来、義務教育で教えるべき史実でしょう。
そして現代ではなじみのない武将 八幡太郎義家こと源義家やその弟 新羅三郎義光こと源義光などの源氏のルーツとなった人々が歴史に登場しはじめ、奥州藤原氏もこの頃起こります。前回の承平天慶の亂に続く今回の前九年 後三年の役で武士は武家としてその地位や権威を固め、時代が大きく変わっていきます。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

刀伊(とい)の入寇
外國との関係 既に全く絶ゆ―京都の公卿 時に榮花の夢に耽る―後一條天皇の時に刀伊の入寇―刀伊は靺鞨種(まっかつしゅ)―アムル地方に在りし昔の粛慎(しゅくしん)の一部―今の露領 黒龍江辺に住む―寛仁(かんじん)3年 突然入寇す―五十餘隻の兵船にて来襲す―先づ対馬・壱岐を侵掠(しんりゃく)す―國司 及び島民多く斬殺に遭う―進みて筑前・肥前に迫る―事 京都に聞えて上下 大に驚く―大宰權師 藤原隆家(タカイエ)大蔵種材(オホクラタネキ)等と防戦に努む―刀伊 遂に遠く遁(のが)れ去る―隆家の子孫 土着して後に菊池氏を称す

平忠常の乱
後一条天皇の長元(ちょうげん)元年 平忠常 反す―忠常は平高望の曾孫(そうそん)ーかつて上總(かずさ)介に任ず―此に至り下總(しもうさ)に拠りて反す―平直方(ナホカタ)等撃ちて克つ能わず―源頼信(ヨリノブ) 征討の命を被る―幾(いくばく)もなく忠常降りて誅に伏す―頼信の武威 東国に高し。

前九年の役
後一条天皇の崩後 皇太弟(後朱雀天皇)御即位―後朱雀天皇の崩後 皇子 後冷泉天皇の御即位―陸奥の囚長(しゅうちょう) 安倍頼時(アベノヨリトキ)の亂―頼時は岩手・志波(しは)・稗抜(ひえぬき)・和賀(わか)・膽澤(いさわ)・江刺(えさし)の六部を領有す―衣川(ころもかわ)の要地に拠る―陸奥の國司 藤原登任(ノリトウ)制すること能わず―源頼信の子 頼義(ヨリヨシ)陸奥守兼鎮守府将軍となり之を征す―頼義の子 八幡太郎義家 父に従う―頼時 流矢に中(あた)りて死す―頼時の子 貞任(サダトウ)驍勇(ぎょうゆう)よく戦う―頼義の苦戦―数年 軍しばしば利を失う―出羽の囚長 清原武則(キヨハラタケノリ)頼義を援(たす)く―衣川・鳥海(とりみ)等諸柵の陥落―貞任を厨川柵(くりやかわのさく)に誅す―其の弟 宗任(ムネトウ)・則任(ノリトウ)降る―源氏の聲望(せいぼう)ますます東國に高し(前九年の役の称)

後三年の役
清原武則 鎮守府将軍に任ず―安倍氏の旧地を領有す―武則の孫 眞衡(サネヒラ)家をつぐ―白河天皇の時に真衡の一族(真衡異母弟 家衡叔父 武衡と争う)争を生ず―奥羽また乱る―義家は陸奥守兼鎮守府将軍―義家眞衡を援けて家衡(イエヒラ)・武衡(タケヒラ)を攻む―賊 勢い熾(さかん)にして義家の軍利あらず―初め藤原秀郷六世の孫 清衡(キヨヒラ)は家衡を助く―後に清衡 義家に降る―義家 陣中に剛臆(ごうおく)の坐を設けて将士を激励す―義家の弟 義光また来りて兄を援く―寛治元年 義家 遂に家衡・武衡を滅す―奥羽の亂 平定―(後三年の役の称)

陸奥の藤原氏
朝議後3年の役を私闘とす―戦功の将士に朝賞なし―義家 私財を以て部下の功を賞す―将士 深く其の恩に感ず―東國の武士ますます源氏に服す―藤原清衡の戦功―清衡 清原氏に代りて旧領を有す―其の子孫 世々平泉に居り奥州の豪族となる―清衡の中尊寺(ちゅうそんじ)建立―寺内の金色(こんじき)堂の現存―当時の榮華を示す。

〇藤原隆家
関白 道隆の子なり。一條天皇の長徳元年 中納言たりしが、翌年 事によりて出雲權守に貶せらる。ついで其の罪を宥(ゆる)されて兵部卿に進み、三條天皇の時 井でて大宰權師となる。後一條天皇の寛仁3年 刀伊の賊 五十餘隻の舟師を率いて先づ高麗を襲い、終(つい)に我が壹岐(壱岐)に寇して國守 藤原理忠を殺し、進んで對馬(対馬)及び筑前を侵して男女八百餘を殺虜す。隆家 乃ち前少監 大蔵種材(オホクラノタネキ)等と奮戦して之を撃退す。尋(つい)で中納言を辞して大蔵卿となりしが、再大宰権師に任ず。尋でまた之を辞し、後朱雀天皇の寛徳元年 66歳にて薨ず。後の菊池氏は隆家の裔なり。
〇大蔵種材
東宮學士 善行の孫なり。大宰少監に任ず。寛仁3年 刀伊賊入寇の時 少監の官を止めたりしが、其の能古島を侵すに及び、藤原明範等と警固所を守りて防戦甚だ力む。賊 伝じて肥前松浦郡を侵す。我が兵少なくして博多に泊り進撃する能わず。種材 年 己に70を越えたりしが、奮然 兵を勒(ろく)して単進す。されど賊 巳に去りしを以て還る。朝廷其の功を賞して壹岐守に任じ、其の子 光弘を少監とし給う。是より子孫世々 大宰府の官に任ず。
〇平 忠常の乱
忠常は鎮守府将軍 良文の孫なり。良文は叛臣(はんしん)将門(マサカド)の叔父なり。忠常 下總に居り上總介に任じて武蔵押領使(おうりょうし)となる。其の族衆の強盛なるを恃(たの)みて両總の地に盤踞(ばんきょ=根を張って動かないこと)す。漸く暴横を恣(ほしいまま)にして貢賦(こうふ)を輸せず。徭役(ようえき)を供せず。後一條天皇の長元元年 遂に兵を擧げて反し、上總の國府を陥れて安房の國守を殺す。朝廷 検非違使 平直方(タイラノナホカタ)をして之を討たしめ給いしも克つ能わず、更に甲斐守 源頼信に之を討たしめ給いて、之を平ぐるを得たり。
〇源頼信
鎮守府将軍 満仲の子なり。人となり剛果明決にして兵法に練達す兄 頼光と武名を同じくし、また藤原保昌(ヤスマサ)・平維衡(コレヒラ)・平致頼(ムネヨリ)と驍勇を以て称せらる。而して頼信 其の名 最も高し。一條・三條・後一條・後朱雀の四天皇に仕え、陸奥・甲斐・上野等の守介をへて鎮守府将軍となる。平忠常の反するや、頼信 甲斐守りたりしが、勅を奉じて之を平ぐ、尋で美濃・河内の國守となり永承3年81歳にて卒す。
〇安倍頼時・貞任の反
父祖以来 世々陸奥の俘囚(ふしゅう。蝦夷のこと)の長たり。頼時に至りて其の勢 強大となり、伊澤・和賀・江刺・稗抜・志波・岩手の六郡を支配して大に威風を振う。後冷泉天皇の永承中 國守 藤原登任(ナリトウ)之を討ちて敗北す。朝廷 頼信の子 頼義を陸奥守として往きて之を討たしめ給う。頼義の陸奥に赴くや、會大赦あり。頼時 大に喜びて之に心事す。尋で頼義 鎮守府将軍を兼ね國府に在りし時、頼時の子 貞任 事を以て頼義の部将を襲う。頼義 怒りて貞任を収めんとす。頼時 之を聞き衣川(陸中西磐井郡平泉村関山)の營に拠りて再び叛す。朝廷 乃ち頼義をして之を討たしめ給う。天喜(てんき)5年 頼時 流矢に中りて誅に伏せしが、貞任 驍勇にしてよく兵を用い、大に官軍を破りしかば、頼義も一時 殆ど困却す。頼義の子 義家よく之と戦い、康平5年 出羽の俘囚長 清原武則 頼義の招きに應じ来り、共に兵を併せて貞任を攻め、鳥海柵(膽澤郡金崎村)を抜き遂に厨川柵(巌手郡厨川村)を囲む。是に於て貞任 逃走せしが、追兵の為に誅せられ、其の子 宗任は出で降りぬ。
〇源頼義
鎮守府将軍 頼信の長子なり。沈毅(ちんき=落ち着いて物事に動じないこと)にして武略多く、また騎射(きしゃ=馬に乗って弓矢を射ること)をよくす。長元元年 父に従いて平忠常の反を平らげ、頼る坂東将士の心を得たり。尋で相模村となるや、士を愛して施を好みしかば、威風 大に行わる。かくて安倍頼時の反するに及び、陸奥守兼鎮守府将軍となりて陸奥の亂を平定し、大に其の武名を奢わす。巧を以て正四位下 伊豫守に任じ、承保2年 88歳にて卒す。
〇源義家
伊豫守 頼義の長子なり。7歳の時 石清水八幡宮前に元服す。よりて八幡太郎と称す。勇武明決にして最も騎射をよくす。永承年中 父に従いて安倍氏を討ち、前後東陲(とうすい・東の果て)の軍に在る凡12年其の功多し。其の京師に還るや、嘗て関白 頼通の第にて陸奥の軍事を談ず。大江匡房 之を聞きて曰く、義家 将才あるも惜むらくは兵法を知らずと。義家の従者 之を義家に告げしに。義家 却て匡房につき、禮を執りて師事し兵書を學びぬ。後三年の役 金澤柵(カナザワノサク)を攻むるに当り、飛雁の散乱するを見て伏兵あるを探知せしは、兵書に鳥乱るるは伏あるなりとありしを應用せしなり。かくてしばしば僧徒の紛争を鎮め、また常に宮門を護りて功を積み、検非違使・左衛門尉・左馬權頭を歴て、河内・相模・武蔵・信濃・下野・伊豫等の守に任じ、天仁元年68歳にて卒す。義家 永略に富み、機知 神の如くにしてまた和歌をよくす。
〇清原武則
出羽の俘囚の長なり。源頼義 安倍貞任を討ち久しくして克つ能わず、兵を武則に徴す。康平5年 武則子弟萬餘人を卒いて頼義の陣に赴き兵を合せて遂に之を討滅す。翌年 功を以て従五位下 鎮守府将軍に任ず。子 武貞は荒川太郎と称し伊澤・和賀・江刺・稗抜・志波・岩手六軍の地を有し、次子 武衡は将軍三郎と称す。
〇源義光
義家の弟なり。新羅明神の社に元服す。よりて新羅三郎と称す。幼にして弓馬をよくす長ずるに及び武略あり。佐兵衛尉となりて京師に宿衛す。兄 義家 後三年の役に、清原武衡 家衡を伐ちて利ならざるを聞き、官を辞して陸奥に赴く。遂に義家に従いて金澤柵を囲む。亂 平ぎて後 義家と共に京師に還り、常陸・甲斐の守介をへて、従五位上 刑部少輔に任じ大治2年 卒す。義光 少より音律を好みて其の妙を究む。嘗て笙(しょう)を豊原時元に學ぶ。時元 卒して其の子 時秋 幼にして秘曲を伝うるを得ず。義光 陸奥に赴くに及び、之を追うて其の途中に秘曲を授かるを得たり。

〇平泉館
館址は陸中の西磐井郡平泉村に在り。即ち平泉驛(駅)高屋の北高館の南に当る。初め鎮守府将軍 藤原清衡は膽澤(いざわ)・江刺・和賀・稗抜・志波岩手の六郡<を領し、江刺郡豊田館(藤里村)に居りしが、嘉保元年 此の平泉館に移りぬ。之を奥御館(おくのみたて)と称す。是より子 基衡 孫 秀衡 相次ぎて曾孫 泰衡に至れる約96年の居館たりが、文治5年 泰衡 源頼朝に攻めらるるに及び、遂に此の居館を焼きて遁走す。
〇刀伊の入寇
前出に要領を記したれば其の所を見るべし。尚 之に我が平安朝の頃、高麗の遺民の起りて其の勢の盛なりし時、刀伊も其の命を奉じたりし事ありしを補い、且つ藤原隆家 大蔵種材の各項を参考すべし。
〇前九年の役
前出に見ゆ。
〇武士の起源(次に武士の興起と王朝末の武權勃興の主因とを記す)
藤原氏他氏を排斥して一門 樞要(すうよう)の地位を占め、獨り政権を擅(せん)にせしより、朝臣 榮華にふけりて詩歌・管絃の遊に日を送りたれば、世に所謂 延喜(醍醐の朝)天暦(村上の朝)の治と称して京都は太平無事の如くなりしも、其は表面のことのみにして廷臣公務を怠りて専ら私利を營みたり。されば皇族にして姓を賜りしもの、或は才幹あるものの京都に志を得ずして地方に赴任し、やがて其の地に土着して豪族となれるもの多くなれり。地方にありては、早くより班田収授の法 廃れて、新開の地は言うも更なり天下の土地また荘園(コチラ参照)の名の下に私有地となりて國庫の収入減少し、従いて朝威ますます衰え、中央政府の令 地方に及ばず、國司・郡司は各私利を恣(ほしいまま)にして不法の税を徴し、裁判公平を失い、盗賊 各所に蜂起するも官兵 既に脆弱(よわく)にして之を制すること能わず、人民塗炭の苦をなすに至れり。是に於て地方土着の豪族は、私に兵を蓄えて武技を練り、弓馬の術を習い以て自衛の策を講ぜり。之を武士の起原(武士の興起)とす。
斯くの如く在廷の臣 皆 娯楽に日を送りて武事を卑(いやし)みしかば、地方政治紊乱(びんらん)して騒擾(そうじょう)しばしば起り、武官 之を鎮定するを得ざるも甚だしく意に介せず、常に之を源平二氏に委ねたり。即ち承平天慶の亂(コチラ参照)に平貞盛は将門を誅し、源經基は藤原純友を滅ぼしたるが如き其の例なり。是等 後に皆 鎮守府将軍に任ぜられて、其の名 漸く著わる。斯くて經基の孫 頼信は平忠常の亂を平げ、頼信の子 頼義 頼義の子 義家は前九年の役に安倍頼時・貞任を誅し、後三年の役に義家は清原武衡の乱を平げ、而も恩威を以て部下を率いしかば、東國の武士ますます之に信服し、源氏の勢 盛となれり。而して平氏は前に平将門の叛あり、後に平忠常の亂ありて、源氏に比して頗(すこぶ)る普請の状態に在りしも、延暦・興福・園城・東大諸寺の僧兵、其の暴横の甚だしきに及び、源氏と共に朝命を奉じて之を鎮撫し、且 京都の守衛に任じたり。かくして貞盛六世の孫 忠盛に至り、しばしば山陽・南海の海賊を平げて其の威を両道に振い、殊に鳥羽法皇の親任を被りて昇殿をも聽されて家名漸く掲り、遂に源氏と抗することとなれり。かくて保元・平治の乱亂にて武士の地位 頗る進み、平氏は藤原氏に代りて政権を掌握するに至る。是れ源平二氏の精力を得るに至りし理由にして、また王朝の末 武權勃興の主因なるものとす。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ㉗ 後三条天皇 院政 僧兵

  ← 応援クリック宜しくお願いします m(__)m

—————————————————————————–
(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ㉔ 地方の情況 承平天慶の亂

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑳ 佛教の新宗派 漢文學 蔵人所と検非違使

◆朝鮮人は、朝鮮半島に住んでいた古代日本人を蹂躙した侵略者!

◆韓国タレントの日本企業への侵攻を食い止めましょう!

◆竹島を武力行使で即奪回せよ! そして、まずは容易に取り返せる古代における朝鮮半島の日本府“任那”を日本史上に奪還し、日本人に再教育せよ! ~ 韓土の日本領も奪回! 朝鮮半島にある前方後円墳

◆満州は日本の生命線だったのです ~ 押しつけられた、日本軍による南満州鉄道爆破 自演説の虚偽

◆戦前の道徳教科書『修身』に見る加藤清正の武勇伝 ~ 自虐史観の正反対から見る豊臣秀吉の朝鮮侵攻

◆水面下で進む中国の人口侵略 ~ 日本の女は悪魔の洗脳で家庭離れ

◆隠蔽されてた尖閣沖 中国漁船と海上保安庁巡視船の衝突ビデオが流出! ~ 流出犯を逮捕すべきか? 投票開催中!

◆日本が朝鮮人の植民地に!売国 民主党政権 ~ 犯罪率4倍!朝鮮人の実態

◆自虐史観は日本人共通の唯一の宗教だった ~ 自虐史観からの脱却は日本における宗教革命

トップ | 真実の日本の歴史 上代 ~ 中世 | permalink | comments(0) |

真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ㉔
地方の情況 承平天慶の亂

 ←はじめにクリックお願いします m(__)m

(2019.9.14)  (戻る)
前回の第20章から飛んで今日は第24章(承平天慶の乱)に行きます。ちなみに、第21章 藤原氏と摂政関白、第22章 菅原道真、第23章 藤原氏家門の争 朝臣の栄華、となっています。菅原道真が藤原氏に疎まれて大宰府へ流されたのは今でもよく知られた話なので、大筋は皆様もご存知であろうので次の章を優先することにしました。ただ藤原氏の栄華とその家門での争いや菅原道真についても現代歴史教育では全然教えられていない興味深い内容もこの本には詳しく出てるので何とも惜しいのですが……

さて、今日は日本史上のアンチヒーローの双璧的な感もある存在の藤原純友と平将門の登場。平将門は天皇の血筋でもあり、自ら新皇を名乗った。その首塚は都心の一等地 大手町にあり、そこを取り除こうとしたら関係者に不審死が相次ぐなど、その祟りの恐ろしさは轟き、よく知られています。GHQ占領期にもそれを撤去しようとしたところ、工事車両が転倒するなどの大事故が起こって、結局その呪いの威力を恐れて保存され、今に至ってます。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

地方の不穏
班田収授の法 久しく廃止す―奈良時代に荘園各地に起る―平安奠都このかた太平約百年間―質樸(しつぼく)の風俗 漸く華美―勇壮の気風 次第に遊惰(ゆうだ)―殊に朝臣 華奢に耽りて公務を怠る(一身一家の榮華を計りて國家に心を用ゐず)―荘園の名の下に土地の兼有―口分田の制 壊(やぶ)れて荘園の増加―國庫の収入 大に減じて朝威の衰微―國司・郡司 各私利を圖(図)る―政務を顧みず―藤原保則(ヤスノリ)(コチラ参照)・紀夏井(キノナツヰ)政績著名のもの頗(すこぶ)る稀有(けう)―不法の徴税―裁判の不公平―人民貧困に陥る―負債の為に浪人となる―兵制また既に壊廢(かいはい)―盗賊 頻(しき)に蜂起―人民塗炭(とたん)の苦み―京都は太平無事―地方騒乱の兆の萠芽(ほうが)。

武士の起源
皇族に賜姓―國司の任期―國司 土着して豪族となる―豪族の富強―私に兵を蓄えて武技を練る―自営の策を講ず―家の子・郎等の称―人民その保護を受く―陰然地方豪族の首領―勢力ようやく朝臣を凌ぐ―不平の者 地方の豪族に歸頼(きらい・帰頼)す―所謂 武士の起源―源平二氏 武士中最も著名。

承平天慶の亂(乱) 平将門の反 藤原純友の反
桓武平氏の祖 平高望(タカモチ)は上總(かづさ)の國司―其の一族東國に蔓延す―将門は高望の孫 勇悍(ゆうかん)にして武藝に長ず―将門 摂政 藤原忠平に依りて検非違使を求む―遂に聴かれず―失望して下總(しもうさ)に歸(帰)り徒黨(党)を集む―朱雀天皇の時に伯父 國香(クニカ)叔父 吉兼(ヨシカネ)と隙を生ず―遂に國香を殺し吉兼を破る―天慶2年 猿島(さしま)に據(拠)りて反す―偽宮を建て自ら新皇と稱(称)す―前 伊豫(予)掾(じょう) 藤原純友(すみとも)任満ちて歸郷せず―終に海賊を率ゐて反す―朝臣 變報(へんぽう・変報)を得て大に驚く―藤原忠文 征東大将軍となる―同3年 國香の子 貞盛(サダモリ)―押領使(おうりょうし) 藤原秀郷(ヒデサト)と共に将門を誅す―翌4年 清和天皇の孫 源經基(ツネモト・経基)は小野好古(ヲノノヨシフル)等と純友を平ぐ―地方武士の朝廷に反せる始(世に承平天慶の亂)。

源平二氏の出世
定盛・秀郷・経基 皆鎮守府将軍に任ず―武将の權(権)漸(ようや)く重し―源平二氏の武名 最も著(あら)わる―亂乱毎に源平二氏 常に藤原氏の爪牙(そうが)となる―平氏に坂東(バントウ)八氏―源氏に多田・宇多・大和等の諸氏―源平二氏の勢力ますます加わる。


○荘園の起と其の増加
荘園は其のはじめ荒蕪(こうぶ・土地が荒れはてて雑草の生いしげること)の田野を皇族・廷臣に賜わり、各これを開墾して別業とせしに起因す。後には賜田・功田(こうでん・特別の勲功者へ給与された田地)等の輸租(ゆそ)田をも或は社寺に寄附し、或は権門(官位が高く権勢がある家)・勢家に転売譲与して荘園となすに至る。荘園は国司不入の地にして租税を納めせざるを以て。王政弛み藤原氏権を専らにするに及び、勢力家は盛にこれを有し人民日に塗炭の苦をなすに至る。されば朝廷しばしば之が禁令を下し給うも制すること能わず、その弊害ますます甚だしくなりぬ。後冷泉天皇の頃、伊賀の如きは国中三分の二は荘園となり、また藤原忠実(タダザネ)は大隅に島津の荘を立てて国中の半を占め、終(つい)に日向三分の一と薩摩四分の三とを包有するにいたりしと云う。
○紀夏井
大納言古佐美の曾孫なり。人となり温雅聡敏にして才智に富む。文徳(もんとく)天皇の時、累進して右中弁となる。その志をとる忠直にして、時に規諫(いさめ)を上り又事に臨みて渋滞(とどこおる)せず、よりて天皇に重ぜられ、内外の機務に補益する所多し。天皇の崩後出でて讃岐守となるや政化大に行われ吏民これに安んず、留る二年、人々殷富にして倉廩(そうりん=米ぐら)充実せしと云う。貞観7年 肥後守に任ず。然るにその翌年 異母弟 豊城伴善男(とものよしお)の事に與し夏井これに坐して土佐に流さる。肥後の境を出づるや其の民 各路をさえぎりて悲泣し、讃岐をすぐる老幼道に迎えて哭し、哭聲相接して数十里にお呼びしと云う。如何に善政を施ししかを相見するに足る。
○皇族賜姓
天武天皇の御代に、皇胤(こういん=天皇の男系子孫)には眞人(マヒト)の姓を賜うの定めありしが、桓武天皇は庶皇子 岡成(オカナリ)に長岡朝臣の姓を、安世(ヤスヨ)に良岑(ヨシミネ)朝臣の姓を賜いて臣下に列し給う。是れ皇族賜姓の始とす。尋(つい)で嵯峨天皇は皇子多くして食邑(しょくゆう=諸侯や家臣などに賜った土地)を累すを思召し給いて、皇子に源朝臣の姓を賜い、また清和天皇は平城天皇の皇孫に在原(アリワラ)、桓武天皇の皇孫に平朝臣の姓を賜い、清和天皇以後は皇子・皇族皆 源朝臣の姓を賜えり。中にも嵯峨・清和・村上の三源氏栄え、平氏には桓武天皇の曾孫 高望(たかもち) 王の後裔(子孫)盛となる。
○家の子郎党
家の子は、家門の子 即ちその家に生れ出でたる庶子及び分家末裔の族を云う。中古王政の弛むに従いて豪族 地方に起り、各土地を併せて兵馬を蓄うもの多く、其の氏族の繁昌するに及び、本家を総領と呼び、族類を家の子と云うに至る。而して其の家 従のものを称して、郎党と呼びしなり。
○平高望
桓武天皇の皇子 葛原(カズラワラ)親王の子 高見王の子なり。宇多天皇の寛平元年、平の朝臣の姓を賜わりて上総介に任ぜらる。後、その子孫 大に東国に繁栄するに至る。
○平貞盛
桓武天皇の皇子 葛原親王の玄孫なり。父 国香 常陸大掾(だいじょう)たりしが、承平(じょうへい)5年 姪(古くは「甥」の意味も表わす)の将門の為に殺さる。是に於て貞盛 下野(しもつけ)の押領使 藤原秀郷(ヒデサト)と共に之を攻め、天慶三年 遂に註滅す。功を以て従五位 上鎮守府将軍に任ぜらる。後丹波・陸奥の守を経て従四位下に叙す。子孫 、駿勇にして東国の国司に任ぜらるるもの多し。他日 平氏の勃興は、蓋(けだ)し貞盛 子孫の繁衍(はんえん=増え広がる)せるに在り。

○藤原秀郷
左大臣 魚名の後なり。田原藤太と称す。駿勇にして武略あり。初め罪を以て配流せられしが、尋(つい)で下野掾となり押領使となる。将門の叛するや、貞盛と共に之を誅す。功を以て従四位下に叙し功田を賜わる。尋で下野・武蔵の国守となり鎮守府将軍に任ぜらる。子孫多く顯(あらわ)れ、関東の一豪族たり。明治16年 秀郷 正三位を贈られ、その霊を祀れる唐澤山神社(下野国安蘇郡)は23年 別格官幣中社に列せらる。
○源經基
清和天皇の皇子 貞純親王の長子なり。親王は清和天皇の六皇子なるを以て世に經基を六孫王と称す。後 源朝臣の姓を賜わる。經基 武略ありて弓馬に達す。朱雀天皇の時 武蔵介となる。時に平将門の異謀あるを予知して密に之を奏せしが、朝廷 疑いて納れ給わず。其の叛するに及び、嘉賞(かしょう=よしとして褒めたたえること)して従五位下を授け、藤原忠文に従いて之を討たしめ給う。途中 将門の誅を聞きて還る。尋で大宰権少弐追捕凶賊使となり、小野好古に従いて藤原純友を討す。好古 師を班すに及び、朝廷 特に經基をして餘党を掃討せしめ給う。賊党 悉(ことごと)く平ぎ、信濃・美濃・但馬。武蔵等の守介を経て鎮守府将軍となり、天歴年中 上野(こうずけ)介に任じ應和元年四十五歳にて卒す。
○藤原忠文
左大臣 緒嗣(オツグ)の曾孫なり。累進して天慶二年 参議に任ず。将門の叛するや、征夷大将軍となりしが、途中 其の誅を聞きて還る。尋で征四大将軍となりて純友討伐の命をうけしが、既に誅に伏せしを以て行くを果さず。後天歴元年七十五歳にて卒す。中納言正三位を贈らる。
○小野好古
篁(タカムラ)の孫にして大宰大弐 葛絃(クズオ)の子なり。承平年中 昇殿を聰され、従五位上に叙せらる。藤原純友の叛するや、山陽・南海両道の追補使となり、源經基と進んで之を誅平す。後、太宰大弐・参議等を歴へて應和二年従三位に叙す。安和(あんな)元年八十五歳にて薨ず。
○坂東八平氏
桓武天皇の皇子 葛原親王に出でたる平氏(桓武平氏)の末流にして、坂東(相模足柄以東)地方の豪族なる千葉・三浦・土肥・大庭・梶原・秩父・上總・長尾の八氏を云う。
○猿島
下總国猿島郡(茨城県管轄)石井郷(今の石井町附近)に在りし地名なり。天慶二年 平将門 下總に拠りて叛し、常陸・下野・上總・安房・武蔵・相模・伊豆にその勢を逞しくし、遂に自ら新皇と称して偽宮を猿島に造り文武百官を置く。翌年 伯父 国香の子 貞盛及び藤原秀郷の為に誅せらる。今 偽都・偽宮の古跡 観るべきのものが存せざるも、また其の所なること推知せらる。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より 26 刀伊の入寇 前九年 後三年の役

  ← 応援クリック宜しくお願いします m(__)m

—————————————————————————–
(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑳ 佛教の新宗派 漢文學 蔵人所と検非違使

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑱ 平安奠都 蝦夷の鎭定

◆戦前の日本史教科書準拠 参考書より ㉗ 後三條天皇 院政 僧兵

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑪ 蘇我氏の無道

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑥ 第二十七 足利氏の僣上

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑩ 第三十一 毛利元就

◆戦前の小学歴史教科書準拠 学習問題から ③ 日本武尊

◆さよなら“政治”。 民主主義を掲げる奴を信用するな! ~ “民主主義”による選挙とは、「こんなクズしかいないけど、こんなかから選んでね」というのが本質的な正体

◆丸山穂高議員の「北方領土は戦争して取り返すしかない」発言問題について ~ 北方領土問題もそれに取り巻いてるのは利権に群がるエセ島民ばかり

◆ほざくな! ニセ秋篠宮! ~ 朝日/北朝鮮に拉致されスリ替えられた、世界小市民として皇室破壊、日本解体に利用されるニセ秋篠宮家

◆日本人弾圧のための「ヘイト」規制で、在日天国、朝鮮人王国の神奈川県 ~ 川崎の保守系集会を妨害する無法者を野放し、神奈川県警のクズぶり!

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑱ 平安奠都 蝦夷の鎭定

トップ | 左翼マスコミ・反日企業の大罪,真実の日本の歴史 上代 ~ 中世 | permalink | comments(0) |

真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑳
佛教の新宗派 漢文學 蔵人所と検非違使

 ←はじめにクリックお願いします m(__)m

(2019.9.10)  (戻る)
この妻木さんの参考書でどうしても掲載しておきたいところがいくつかあったのでもう少し続きをアップしておきますね。ただ、この本は字が小さく、かなり目に負担がかかるのでもうちょっとだけに。

さて、平安時代の佛教新宗派、今じゃ最澄と空海、天台宗と真言宗、延暦寺と金剛峯寺という言葉ぐらいしか教えられておらず、その中身はさっぱり、空海の人柄や天才ぶりは完全に無視されてます。でもこの通り、この章は戦前教育ではとても力の入った部分なんです。今じゃ空海はもちろん聖徳太子の天才ぶりも無視、それどころか聖徳太子すらいなかったとされそうなほど、ひどい状況になってしまいました。左翼(学者や知識人)は日本の偉人なんでただの人間で実はクズだったとしたいわけです。戦前教育では聖徳太子も空海もとても聡明で立派な人物像が描かれていたのに、左翼教育者どもは「そんな奴ら(聖徳太子や空海)も実際は悪いことばかりしてて天才伝説も捏造だ」としたいわけです。「そんな崇高な精神の奴なんているか!」というのが皆をただの俗物にしたい左翼学者の歴史観なんです。

私の読者の皆さんは、ここを読んで、左翼の作る歴史人物像に惑わされず、しっかりした人物、子供たちが目標としうる人格を持った日本の偉人の歴史像を守ってくださいね。そしてそこには必ず歴代の天皇が絡んでいたということも。
そして嵯峨天皇、橘逸勢、空海らは書道の祖ともいえる三筆とされます。また平安時代の漢文学や学問所の状況など、現代日本ではまったく教えられないそういうのを知れば、日本の学校教育はこんなに昔からとっても優れていて、世界に比類なく歴史あるものなのだということがわかり、日本人としての誇りや自信も育まれるようになるはず。伝統の大切さも。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

天台 真言二宗の渡来
佛教は天平年間前後に極盛―桓武天皇の時に最澄・空海出づ―旧態 變(変)じて信仰 新になる―最澄 延暦寺を立つ―最澄 帰朝後 天台宗を弘む―桓武天皇 尊びて國師とし給う―後に傳教大師(でんぎょうだいし)の號を賜わる―円珍(エンチン)唐に学ぶ―帰朝後 園城寺(えんじょうじ)を興す―空海 帰朝後 真言宗を伝う―空海 金剛峯寺を立つ―六宗に天台・真言二宗を併せて八宗(コチラ参照)神佛同體説(しんぶつどうたいせつ)を進めて本地垂跡説(コチラ参照)を唱う。―佛教の精力ますます加わる―空海 後に弘法大師の號を賜わる―嵯峨皇后と檀林寺。

漢文学の隆盛
桓武天皇の御代より漸く漢文学隆盛―嵯峨天皇の御好學と書道―三筆の称―有智子(ウチコ)内親王―橘逸勢(タチバナノハヤナリ)―小野篁(ヲノノタカムラ)―都良香(ミヤコノヨシカ)―紀長谷雄(キノハセオ)―清原夏野(キヨハラナツノ)。
私立學校の興起―橘氏の學館院―和気氏の弘文院(こうぶんいん)―藤原氏の勧學院(かんがくいん)―在原氏の奨學院―各一族 子弟の教育―空海の綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)―私立學校に各家の子弟を教育す。

藤原薬子の乱
桓武天皇の崩後 皇子 平城天皇の御即位―皇弟 嵯峨天皇の御受禅―藤原薬子(クスコ)兄 仲成(ナカナリ)と平城上皇を立て奉らんとす―仲成 遂に乱を起す―薬子 自殺し仲成 誅に伏す。

蔵人所の設立
当時の政治形式に流る―嵯峨天皇 之を改めんとし給う―薬子の乱前 既に宮中に蔵人所(くろうどどころ)を設置―機密の文書を掌(つかさど)る―是より太政官の事務多く蔵人所に移る。

検非違使の設置
当時 衛府の勢力 大に衰う―蔵人所設置の後 検非違使(けびいし)を置かる―都下の警察裁判を掌(つかさど)らしめらる―検非違使廰(庁)の設置―衛府の勢力全く失わる―大寶(宝)令外の官庁設置―大寶の制度 漸く破る。

平安時代の初世
嵯峨天皇の御英明―政治の刷新を図り給う―天皇御弟 淳和天皇に御受禅―次いで嵯峨天皇の皇子 仁明(ニンミョウ)天皇立ち給う―桓武天皇より仁明天皇まで五代の間 皇威振い天下よく治まる―平安時代の盛時。

〇最澄(傳教大師)
近江の滋賀郡の人なり。早くより僧となりて、佛學を修め延暦7年 延暦寺を比叡山上に建てしが、後、詔をうけて同23年 遣唐使に随いて唐に赴き、天台山(浙江省台州府)國清寺の僧 道邃(ドウスイ)法師につきて佛法を学び、翌年 帰朝して天台宗を我が國に伝う。是より天台宗 大に弘まる。後、嵯峨天皇の弘仁13年 56歳にて寂す。清和天皇の御代に至りて傳教大師の謚號(しごう=おくりな)を賜わる。
〇空海(弘法大師)
讃岐の仲多度郡の人なり。延暦23年遣唐使に随いて唐に赴き、長安(陝西省西安府)青龍寺の僧 慧果(エクワ)につきて眞言宗を學び、在唐3年 平城天皇の大同元年に帰朝して此の宗を弘む。御嵯峨天皇の弘仁7年 紀伊の高野山上に金剛峯寺を開き、同14年 勅によりて東寺(京都の教王護國寺)を賜わる。是より眞言宗 大に行わる。後、仁明天皇 承和(じょうわ)2年62歳にして寂す。醍醐天皇の御代に至りて弘法大師の諡號を賜わる。空海 學問深く、文に長じ、書を能くし、また絵画・彫刻に巧みなり。いろは歌も其の作と伝えられ、讃岐の萬農地の堤を築きしもまた空海なりと云う。
〇延暦寺
近江志賀郡坂本村比叡山上に在りて、天台宗の本山たり。延暦4年僧 最澄 比叡山に登りて草舎を構え、同7年 桓武天皇の御為に根本中堂を建て、比叡山寺と號す。後に一乗止観院と改む、弘仁2年7月 法華堂を建て同9年 朝廷 使を遣わして4至を定め、同14年延暦寺と改め、天長元年 僧 義眞(ぎしん)を始めて天台座主に補す。かくて天暦3年根本中堂火災にかかり、康保(こうほう)3年復(ふたたび)火く本寺は歴朝の御尊崇篤く、所領多くして僧兵を養い、山法師として横暴を恣(ほしいまま)にす。後 永く園城寺等と干戈(かんか)を交えて闘乱絶えざりしが、元亀2年 織田信長 之を焼討にし、三千の法師等 殆ど殺戮せらる。天正13年 豊臣秀吉 寺領を寄せて再興を謀り、徳川家康・秀忠 父子 之に寺領を寄附し家光の功にて堂宇 旧観に復す。其の中堂・釈迦堂等 現今 特別保護建造物なり。
〇円珍
讃岐那賀郡の人にして俗姓は和気氏、弘法大師の姪(古くは甥を示す)なりと云う。幼にして書を読むを好み、15歳 比叡山に入り義眞を師として僧となる。仁寿(じんじゅ)3年 勅によりて入唐し、居ること6年 佛教の奥を極め、天安2年 帰朝す。貞観(じょうがん)5年 灌頂壇(かんじょうだん)を園城寺に設け、翌年復 仁寿殿に壇を設け、天皇及び諸大臣に灌頂(密教においては頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式)を授け、佛教を奉講す。円珍 三井寺を中興し、同10年 天台座主となる。寛平2年 少都に任じ、翌年77歳にて寂す。延長5年 智證大師の諡號を賜わる。
〇園城寺
近江志賀郡大津市の西北 三井に在りて、天台宗寺門派(延暦寺を山門と云うに対し之を寺門と云う)の本山なり。一に御井寺とも三井寺(みいでら)とも称す。天武天皇の2年、弘文天皇の皇子 大友与多王(よたのおおきみ)奏請(そうせい)して寺を置て、之を御井寺と號し、氏寺として子孫に伝う。また地名によりて園城寺と號す。後 大友氏 衰え園城寺もまた振わざりしが、天安2年 延暦寺の僧 円珍 大に之を修理し、貞観元年 三井寺と改む。同8年 朝廷 勅して円珍を始めて別当に任じ、更に俗大 別当・俗別当・俗權別当を定めて、大伴氏を之に補し給う。後 別当を長吏と改む。かくて僧 円仁(エンニン)・円珍の両徒 相争い、承保元年 奏請して戒壇院の設立を許さるや、延暦寺の衆徒 傲訴(ごうそ)して之を破却す。是より両寺 互に干戈(かんか=武器・武力)を交えてしばしば兵燹(へいせん=戦による火災)にかかる。文禄4年、豊臣秀吉 一旦 本寺を破りて寺領を没せしが、慶長4年、金堂を再建し、徳川家康・秀忠父子 堂宇・寺院を再營す。其の仁王門は特別保護物なり。
〇金剛峯寺
紀伊伊都郡に在る高野山にして、眞言宗古義派の本山なり。嵯峨天皇 弘仁7年、僧 空海 此の地に草堂を營み、同10年 大塔 造營を始め、やがて諸堂 成りて金剛峯寺と名づく。かくて空海の寂後、僧 眞然(シンネン)其の遺志をつぎ寺塔を建立して大成す。宇多法皇 此に幸し給いし後、しばしば仙洞御所の行幸あり。元亀中 織田信長 大挙 之を攻めしが、衆徒よく之を防ぎ退く。尋(つい)で天正年間 豊臣秀吉 押領の新地を創りしが、文禄3年 大に堂塔を復興す。是に於て寺宇 頗(すこぶ)る旧観に復す。明治21年 火災にかかりて哀頽(すいたい)せしが、衆徒 之が復興に勉め、現に寺院130餘宇存せり。
〇嵯峨天皇と檀林寺
皇后は橘清友の子にして、仁明(ニンミョウ)天皇の御母なり。皇后 資性寛和にして風容絶異、手を垂るれば膝をすぎ、髪は地に委ぬ。嵯峨天皇 未だ親王の時 妃となり、天皇 即位に及びて夫人となり、同6年 皇后となり給う。皇后 専ら化導(衆生を教化して善に導くこと)につとめ給い、宮中よく治まる。朝野 之を称し奉る。天皇 譲位し給い、淳和天皇 立ち給うに及びて皇太后となり、仁明天皇 即位の後 太皇太后となり給う。嘉祥(かしょう)3年 天皇 御病あるに及び、皇后 之を憂い髪を剃りて尼となり給う。此の年 天皇崩じ給い、尋で皇后また崩じ給う。御年65。太后 篤く佛を信じ、檀林寺を建て給う。よりて世に檀林皇后と称し奉る。檀林時は山城葛野郡嵯峨に在りて、皇后 唐僧 義空に之を創造せしめ給う。仁明天皇 五百戸の封を施し給い、尼寺五山の一となる。後世 廃絶して今は其の後を存せず。
〇三筆
我が國にて書道に通じ給う嵯峨天皇と橘逸勢(タチバナノハヤナリ)・僧 空海とを併せて三筆と云う。
〇橘逸勢
奈良麻呂の孫なり。人となり放誕(きまま)にして細節に拘らず、隷書をよくし宮門の榜題多く其の手に成る。延暦の末年 遣唐使に随いて入唐す。唐人呼びて橘秀才と云う。承和(じょうわ)7年但馬守となる。嵯峨上皇の御不豫に及び、東宮帯刀 伴健峯(トモノタケミネ)乃ち逸勢と謀り、皇太子 恒貞親王を奉じて東國に走る。上皇の崩後に藤原良房 人をして二人を捕えしめ、逸勢を伊豆に配流せしが、其の途中に卒す。翌年 正五位下を贈られ、仁寿3年 更に従四位下を贈らる。
〇小野篁
参議 峯守(ミネモリ)の子なり。初め馳馬(はやうま)にふけりしが、嵯峨天皇の御誡めをうけて大に慚悔(はぢくい・ざんかい)し、是より學に志し、文章生に及第して東宮學士となり弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に任ず、後 清原夏野と令義解(大寶令の解)を撰す。承和4年 遣唐副使となるや、大使 藤原常嗣 其の船を得んとし、奏して次第を換う(引き換えにする)。篁 忿(いか)りて遂に乗船せず、謡(うた)を作りて遣唐の事を刺(そし)る。此の事 嵯峨天皇の忌諱(きゐ・不興を買う)にふれ、遠流に處せらる。後 天皇 其の文才を愛して本位に復し給い、同14年 累進 従四位上に叙せらる。文徳(もんとく)天皇の御代 更に従三位に叙せらる。仁寿(にんじゅ)2年51歳にして薨ず。篁の文章 当時に秀で、また草隷に巧みなり。其の作詩の如き唐人見て之を称す。
〇都良香
父を貞繼(サダツグ)と云い、頗(すこぶ)る旧儀に諳練(あんれん)す。兄を腹赤(ハラアカ)と云い、また文才ありて文章博士となる。良香 博聞にして強記、よく文を作る。当時 風俗の矜伐(をごり)にして賢愚を分たざるを嫉(ねた)み、之が論を著わして之を辨明す。対策に及第して声名ますます高く、貞観14年 掌渤海客使となり、尋で大内記 文章博士となり、越前權介を兼ね。元慶(がんぎょう)2年36歳にて卒す。
〇紀長谷雄
弾正忠貞範の子なり。人となり頴敏(えいびん)にして18歳よく文を作る。大蔵善行・島田忠臣に詩文を學び、貞観18年 文章生に補せらる。寛平年中 文章博士となり、累進して、式部大輔兼侍従となる。宇多天皇の御代に遣唐副使となりしが、唐の乱に会いて止む。醍醐天皇即位に及びて顧問に備わり、昌泰(しょうたい)元年 天皇に群書治要を授け奉る。延喜(えんぎ)年中 累進して従三位中納言となり、其の12年68歳にて薨ず。長谷雄 文章に長じ、当時の詔勅・表牋(ひょうせん)多く其の手に出づ。世に紀納言と云い、また紀家と称す。
〇清原夏野
小倉王の第五子にして、初め繁野と云う。累進して天長3年 左近衛大将民部卿となる時に奏請して親王の為に太守國を定む。尋で大納言を歴て同9年 右大臣となる。初め藤原不比等 大寶令を撰す。年を歴て學者互に異同をなす。夏野に詔して壅滞(ようたい=とどこおること)を決し文義を解かしめ給う。夏野 乃ち藤原常嗣等と論辨折衷して令義解十巻を上る。承和4年 56歳にて薨ず。
〇滋野貞主
大同年中の初め文章生に及第し、弘仁年中東宮學士となる。天長年中勅を奉じ、諸書と古今文書とを集め、秘府略一千巻を撰す。また経國集二十巻を撰上す。仁明天皇の御代 参議に進みて便宜14年を陳す。嘉祥の初年、大宰府吏の不良等を救うの議を奏し、尋で文徳天皇の御代に正四位下相模守となり、仁寿2年68歳にて卒す。
〇有智子内親王
嵯峨天皇の皇女なり。博く書を読み文をよくし給う。弘仁元年 賀茂の斎院となり給う。同14年天皇内親王の山荘に幸し、文人に命じて詩を作らしめ給う。内親王 直に詩を賦し給い、天皇 之を見て大に賞し三品を授け、御製の詩を賜わる。時に内親王 御年17。尋で天長8年 職を辞して嵯峨の西荘に居給い、仁明天皇 即位に及び二品に進めて廃田120町を賜わる。承和14年 41歳にて薨ず。其の詩作 載せて経國集に在り。
〇学館院と弘文院
学館院は、嵯峨皇太后(檀林皇后)其の弟 右大臣 氏公(ウヂキミ)と謀りて學舎を設け、之を學館院と名づけて橘氏の學問所となし給いしに始まる。康保(こうほう)年中 参議 橘好古(ヨシフル)の奏請によりて大學寮の別曹となり、好古、院の別当となる。別当は橘氏より補せしが、同氏の衰ふるに及び、藤原氏の人 之を掌(つかさど)るに至る。弘文院は式部 少輔 和気廣世(ヒロヨ)が父 清麻呂の遺志をつぎ、和気氏の為に大學の南なる私宅に設けしなり。私學中 最古のものなり。建設の年代 詳ならざるも、延暦の末年以後なるべし。
〇勸學院と奨學院
嵯峨天皇の弘仁12年、右大臣 藤原冬嗣(フユツグ)自封をさきて藤原氏 窮乏のものの為に設けし所なり。藤原氏の盛時には、私學を以て其の勢 大學の上に出でしと云う。奨學院は陽成(ようぜい)天皇の元慶5年 平城天皇の皇子 阿保親王の子 在原行平(アリワラノユキヒラ) 其の私宅を學舎とし、以て王室の子弟 及び在原氏の學問所とす。在原氏の衰うるに及び、大學寮の南曹となり、應和3年 大納言 源高明の請によりて年官を給せられ、其の長官を別当と云う。源氏公卿 第一の人を以て之を補す。崇徳天皇の御代 村上源氏の中院右大臣 雅定 之に補せしより、毎に其の家の人を以て補するに至る。
〇綜藝種智院
淳和天皇の天長5年、僧 空海が藤原三守の宅地に創立せし所なり。綜藝は衆藝を兼綜するの義にして、主として佛道を説き儒学等をも教えたり。故に教師には僧侶以外の學者もありしなり。
〇蔵人所
弘仁元年3月の創立にして、機密の文書を掌る所とす。長官を別当と云い、頭・蔵人等の職員あり。初め蔵人は、校合せる書物を蔵むる校書殿内に在りて之を掌りたり。然るに後に服御の器物をも此に置きて蔵人 之を持ち運びしより、遂には機密の政治にも與ることとなり、やがて詔勅の伝宣に関係し侍従の職をも務むるに至る。平城天皇の御代に藤原薬子 寵を得、其の兄 仲成また勢を恃(たの)みて遂に朝政を紊(みだ)る。嵯峨天皇 即位に及び、蔵人所を置きて藤原冬嗣・巨勢野足(コセノノタリ)を之が頭とし以て政治の刷新を図り給う。是より蔵人所は永く置かるることとなれり。
〇検非違使と庁宣
姦民盗賊等を追補し、非法をも検察するの職なり。弘仁年中 始めて之を置き、承和元年 検非違使局を設けて別当を補す。別当は即ち長官にして、後 此の局を使庁と云い、其の宣旨を庁宣と云う。庁宣は、別当宣とも云いて勅宣に准ぜらる。
〇令外の官
蔵人所・検非違使の設けられしより、刑部省・衛府・弾正台・京職の文掌 及び少納言等の職掌はやがて此の所に移り、大寶令の変化を来すに至る。是れ等の官は大寶令にて定められざる其の以外のものなるを以て、之を令外の官と云う。
〇比叡山に関する本邦重要事件
此の山は近江滋賀郡坂本村に在り。山上に延暦寺を立てしより比叡山は延暦寺の號となり、延暦寺を比叡山寺とも称す。延暦4年 僧 最澄 登山して草舎を設け、同7年根本中堂を建てて比叡山寺と號し、後、一乗止観院と改め、弘仁14年 更に延暦寺と改む。天長元年 僧 義眞 天台座主に補す。同10年義眞 寂するや、円珍を替補せんとせしが衆僧聴かず、朝廷 巳むを得ずして之を止む。後、円珍 三井寺を興して天台の別院とす。斯くて延喜2年宇多法皇 延暦寺に幸し、尋で再び幸して舎利會を設け給い(天暦(てんりゃく)3年 根本中堂災にかかり康保(こうほう)3年復 火に逢う)永延(えいえん)2年 一條天皇もまた行幸して灌頂(かんじょう)戒を受け給う。かく本寺は歴朝の崇敬厚くして所領多かりしかば、是より先 巳に数多の僧兵を養う。世に之を山法師という。山法師等 少しく意に満たざるものあれば、或は嗷訴(ごうそ)し頗る暴状を極め、またしばしば三井寺の僧徒と互に攻争す。鳥羽法皇も山法師を三不如意の一とし給う。元弘元年 山法師等 後醍醐天皇の命を奉じて鎌倉の兵を防ぎ、延元元年 天皇 此に行幸し給い、尋で楠木正成 湊川に敗れて足利尊氏の命を奉じて鎌倉の兵を防ぎ、延元元年 天皇 此に行幸し給い、尋で楠木正成 湊川に敗れて足利尊氏の入京するに及び、天皇 難を比叡山に避け給う。斯くて元亀2年 浅井・朝倉二氏の織田信長と争うや、山法師二氏に力を戮(あわ)せて信長を討たんとす。是に於て信長 之を攻めて僧徒を殲(せん)にし、三千の大衆 殆どつく。後に豊臣秀吉 寺領を寄附して再興を謀り、天正17年 山門 始めて成る。徳川氏また其の遺志をつぎ寛永7年に至りて諸堂 悉(ことごと)く落成し、稍(ようやく)旧観に復するを得たり。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ㉔ ~ 地方の情況 承平天慶の乱

  ← 応援クリック宜しくお願いします m(__)m

—————————————————————————–
(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑲ 韓土の(朝鮮半島)変遷(支那との関係) 渤海の入貢

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ㉖ 刀伊の入寇 前九年 後三年の役

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑪ 第三十二 後奈良天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑰ 和氣淸麻呂(朝廷に於ける僧侶の勢力)

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑯ 聖武天皇 奈良時代の佛教文物

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑩ 佛教の興隆 美術・工藝の進歩

◆戦前の小学歴史教科書準拠 学習問題から ⑥ 聖徳太子

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑨ 聖徳太子 支那へ使節派遣

◆失われた日本人の精神性と天皇の祈り③ ~ 日本人の精神性は世界随一であった

◆溝口映画『山椒大夫』=「安寿と厨子王」に見る日本人の価値観 ~ 左翼は日本の価値観に反する

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑫ 第三十三 織田信長

◆シリーズ「戦前の小学歴史教科書準拠 学習問題から」 目次 ~ 戦前の小学歴史学習附図 全編ダウンロード出来ます。

トップ | 真実の日本の歴史 上代 ~ 中世 | permalink | comments(0) |

真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑲
韓土の(朝鮮半島)変遷(支那との関係) 渤海の入貢

 ←はじめにクリックお願いします m(__)m

(2019.4.30)  (戻る)
平成最後の日、そして明日から令和。子供にも最後の陛下の御姿と新しい陛下の御姿を見てもらうためにも今日は珍しくテレビをつけて見ました。NHKに出てた(自称)歴史学者が天皇様なんて言ってるの見て、「こいつ日本人じゃない」と子供が言ってました。

今日は計画倒れになってしまった新羅征伐、日本に朝貢して日本と良好な関係を築いていた渤海、そして新羅の日本に対する無礼と滅亡。戦前の学習素材から見つからなかったので新しめの図を使わせていただきます。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

新羅の無禮(ぶれい)
文武王の統一後 新羅の國運隆盛―聖徳(セイトク)・景徳(ケイトク)二王また賢明―使者の来朝―缺禮(欠礼)多く―淳仁天皇の時 新羅征伐の議決す―筑前 香椎宮(かしいのみや)に奉告―諸國に令して艦船を造らしむ―兵士に騎射陣法を習わしむ―内治の急を以て外征を止む―新羅使者の来朝を禁ず―仁明(ニンミョウ)天皇の時に大宰府また新羅人の入境を禁ぜんと請う。

新羅の滅亡
景徳王の子 恵恭(ケイキョウ)王 立ち内乱起る―乱民 蜂起して国政 紊(乱・みだ)る―甄萱(センケン)後百済を建つ―弓裔(キュウエイ)の自立―王建(オウケン・太祖)は弓裔の武将―王建 高麗國を建つ―松嶽(しょうがく・現 開城市・けそんし)に都す―王建 新羅を滅して朝鮮を統一す。

渤海の入貢
聖武天皇の時 渤海来朝す―渤海は新羅の朝鮮南部統一の頃の建國―スンガリ地方の靺鞨(まつかつ)種族―版図は朝鮮北部に及ぶ―唐の文物制度を輸入す―國勢一時隆昌(りゅうしょう)―我また遣渤海使を派す―桓武天皇の時 貢期を6年に一回とす―後年限を待たずして入貢せしむ―醍醐天皇の時 契丹(きったん)の為に滅ぼさる。


〇新羅征伐
天智天皇の御代に韓土の離反せし以来、天皇始めて國防の計画を立て給いしが、元明天皇 戦艦百隻を造らしめ給い、聖武天皇また大船巨舶の製造を令し給う。尋(つい)で淳仁天皇は、新羅の無禮を憤り給いて之を征伐せんとし、天平寶字3年6月大宰府にて諸兵の訓練を行わしめ、8月征伐の状を香椎宮に奏せしめ、北陸・山陰・山陽・南海四道に勅し、3年を期して船五百隻を作らしめ給う。越えて5年、美濃・武蔵二國の少年40人に新羅語を習わしめ、恵美朝狩。百済敬福・吉備眞備を東海・南海・西海の節度使に任じ、各管内の兵士を統べしめ給う。かくて征 新羅の軍備完成せしが、恵美押勝の反など起りて、内國の故障のため遂に果す能わざりき。
〇甄萱(センケン)
もと農家の子なり。新羅の末年 政治 大に乱れ、盗賊並び起るを見て、潜に亡命のものを聚(集)む。かくて紀元1552年 終に自立して王となり、都を完山(全羅南道全州)に定めて後百済と號す、されど自立後45年にして、また高麗の為に滅さる。
〇弓裔
新羅の憲康王の庶子にして、初め僧となる。国家の衰乱に乗じて自ら将軍と称し、始めて内外の官職を設く。王建等の勇将もまた之に帰す。紀元1561年 自ら王と称し、國號を建てて都を鉄円(江原道鑛原府)に定め、遂に全国の3分の2を占有す。後また國號を泰封と改む。されど驕暴 日に甚だしかりしかば、其の臣達に王建を推して王となし國を高麗と號す。裔 變(変)を聞きて遁走せしが、土人の為めに殺さる。泰封凡17年にして亡ぶ。
〇渤海の入貢
今の満州地方に、もと靺鞨と称する通古斯(ツングース)族ありて、幾多の部落をなせしが、更に粟末(ぞくまつ)・黒水の二大部に属す。粟末の部長に大祚榮(ダイソエイ)なるものあり、是等の諸部を合せ、起元1373年 唐の玄宗の封を受けて渤海郡王となる。因りて其の國を渤海と號す。領土の廣大なりし時、東は日本海に臨み、南は新羅に界し、西は満州の四方に隣し、北は黒龍江に及ぶ。聖武天皇の御代に使者来りて貢物を上りしが、桓武天皇の御代 其の王 我が好意(漂着の使者を我より返還す)を謝して貢期を請い、爾来しばしば産物等を上りて醍醐天皇の御代の頃まで怠らざりき。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑳ ~ 佛教の新宗派 漢文學 蔵人所と検非違使

  ← 応援クリック宜しくお願いします m(__)m

—————————————————————————–
(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑱ 平安奠都 蝦夷の鎭定

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑰ 和氣淸麻呂(朝廷に於ける僧侶の勢力)

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑯ 聖武天皇 奈良時代の佛教文物

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑦ 朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ㉔ 地方の情況 承平天慶の亂

◆こないだまで、古代日本は朝鮮半島南部を支配していたと教えられていたのに ~ 日本府 任那を消し去った売国奴学者列伝 実は朝鮮人か!?

◆シリーズ「戦前の小学歴史教科書準拠 学習問題から」 目次 ~ 戦前の小学歴史学習附図 全編ダウンロード出来ます。

◆戦前の小学歴史教科書準拠 学習問題から ④ 神功皇后

◆戦前の道徳教科書『修身』に見る加藤清正の武勇伝 ~ 自虐史観の正反対から見る豊臣秀吉の朝鮮侵攻

◆朝鮮人は、朝鮮半島に住んでいた古代日本人を蹂躙した侵略者!

◆あなたは反米? 親米? それとも反ユダヤ?② ~ 硫黄島の戦いとマッカーサーを改心させた朝鮮戦争

◆日本人弾圧のための「ヘイト」規制で、在日天国、朝鮮人王国の神奈川県 ~ 川崎の保守系集会を妨害する無法者を野放し、神奈川県警のクズぶり!

トップ | 真実の日本の歴史 上代 ~ 中世 | permalink | comments(0) |

真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑱
平安奠都 蝦夷の鎭定

 ←はじめにクリックお願いします m(__)m

(2019.4.18)  (戻る)
さて、今日の「真実の日本の歴史」は平安奠都、そして平安初期にはまだ反乱の起きていた蝦夷の鎮定です。戦前の学習書では軍事的にどのような攻め方をしていったかなどが詳しく描かれています。今と違って当時の教科書もそういう内容で、この妻木さんの本ではさらに詳しく解説されてます。
そして日本では大化の改新の頃から現代と同じ近代国家が既に形成されていたのです。すごく遠い時代のように感じてる人も多いかもしれない平安時代、だけどその省庁配置図を見れば「今と何も変わらないじゃん」、むしろ「今よりずっと立派じゃん」ってことがわかるはず。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

桓武天皇
光仁天皇 子 桓武天皇の御即位―天皇の御英武―政治に御留意―前代の弊政を察し世の面目を一新せんとし給う―平安奠都(てんと)―蝦夷の鎮定。

平安奠都
奈良京はなほ国運の進歩に伴わず―藤原種継(タネツグ)の遷都の建議―山城の長岡に遷都―和気清麻呂 再び遷都の建議―清麻呂 葛野(かどの)の地(京都)を相(み)る―延暦13年に京都に遷都―景色美にして交通便利―奈良京に倣いて規模広大―大内裏(だいだいり)及び諸官省は正北に位置す―中央の朱雀大路(すざくおほぢ)により左京・右京に分つ―各京を條・坊に区画す―平安京の称―東京奠都迄1070餘年間の帝都―平家の滅亡まで約四百年間―平安朝時代(世に平安朝 及び平安時代の称)の称。


蝦夷の鎮定
安倍比羅夫の征討後は一時 静謐(せいひつ)―年を経て漸く不穏―奈良時代にしばしば乱をなす―元明天皇の時に巨勢麻呂(コゼノマロ)を陸奥に佐伯石湯(サエキイワユ)を越後に差遣―各蝦夷を征す―陸奥國を割きて出羽國を置く―尾張・上野・信濃・越後の民(二百戸)を出羽の柵戸とす―元正天皇の時に多治比縣守(タヂヒノカタモリ)陸奥の蝦夷を討つ―柵戸一千人を陸奥鎮所に配す―聖武天皇の時に多賀城(コチラ参照)秋田城の築造―大野東人(コチラ参照)の蝦夷地経営―陸奥の拓殖と其の歩武の進歩の講究―蝦夷 尚 叛きて毎に征討の勞をなす―光仁天皇の時に藤原継縄(ツグナワ)の出征―二人蝦夷を討ちて功を奏す―田村麻呂征夷大将軍となる―田村麻呂再び蝦夷を討伐す―膽澤城(イサワジョウ・胆沢城・鎮所とす)を築き東國の浮浪四千人を配す―更に志波城(しはじょう)を築く―嵯峨天皇の時に文屋綿麻呂 蝦夷平定―陽成(ヨウゼイ)天皇の時に小野春風(ハルカゼ)・藤原保則(ヤスノリ)の蝦夷綏撫(すゐぶ)―東北の蝦夷殆ど全く鎮定す。

〇藤原種継
百川の兄 浄威の子なり。累進して延暦元年従三位式部卿となり、尋(つい)で正三位中納言となる。桓武天皇 甚だ之を親任し給い、常に帷幄(いあく)に侍して中外の機務を裁決せしめ給う。時に天皇 政を太子に委ね給い、太子は佐伯今毛人(サエキノイマエミシ)を参議とし給う。 種継 之を不可として其の職を罷(や)む。是より太子 深く種継を悪み、常に之を除かんとし給う。初め長岡の遷都は種継 首として其の議を立つ。延暦4年 天皇 平城に幸し給いて種継 右大臣 藤原是公と共に留守す。長岡の新都 未だ完成せず、種継 工事を督して夜に及ぶ。時に賊あり暗中より種継を射る。翌日 遂に薨ず。年49。天皇 悼惜し給いて正一位左大臣を贈り給い、其の賊を誅せしめ給う。かくて大同4年 朝廷 更に太政大臣を贈り給う。
〇長岡遷都
長岡の宮址は山城乙訓郡向日町鶏冠井(かへで)に在り。桓武天皇は藤原種継の議により、延暦3年五月 中納言 藤原小黒麻呂と共に長岡の地を相(み)ぜしめ、翌月 種継を造長岡宮使とし、始めて都城を營ましめ給う。かくて此の年11月 此に還幸ありしより、同13年 平安奠都まで帝都なり。
〇巨勢麻呂
持統・文武・元明・元正の四天皇に仕え、霊亀元年 累進して中納言となる。元明天皇の御代、陸奥越後の蝦夷 反してしばしば人民を害するや、和銅2年 麻呂陸奥鎮東将軍となり、遠江・駿河等七國の兵を発し、佐伯石湯等と討ちて之を平ぐ。尋で霊亀元年、出羽近國の民を出羽に従して之を充て、以て蝦狄(かてき・日本海側の蝦夷)の徒を綏撫(すいぶ)し兼ねて地利を保たんことを奏請して聴さる。養老元年薨ず。
〇佐伯石湯
文武天皇の御代に従五位上 伊勢守となり、元明天皇の御代に正五位下 民部大輔に進む和銅2年征越後 蝦夷将軍となりて越後の蝦夷を討つ。事平ぎて特に優寵を加えられ、やがて右将軍に拜す。
〇多治比羅翔守
左大臣 島の子なり。霊亀2年 遣唐押使となりて翌養老元年 唐に赴く。年を超えて帰朝し、正四位下 武蔵守となる。同4年 陸奥の蝦夷反して按察使上毛野廣人を殺すや、縣守 持節征夷将軍となりて之を平ぐ。翌年 凱旋して中務卿となり、太宰第弐に還る。尋で累進して天平4年 中納言に拜し、正三位 山陰道節度使となる。同9年 70歳にて薨ず。
〇陸奥鎮所(鎮守府)
陸奥・出羽の蝦夷を鎮撫するが為に之を設く。後に鎮守府と称す。将軍 此に居て東北地方を鎮撫し、非常を戒む。初め陸奥宮城郡多賀城(コチラ参照)に在りしが、延暦20年 鎮守府将軍 坂上田村麻呂 大に蝦夷を撃破し、翌21年 膽(胆)澤城(胆澤・いさわ・旧址 陸中膽澤に在り)を築きて府を此に移す。弘仁3年 府の制を改めしが、貞観年中以後 漸く衰え、源頼朝征夷大将軍となりてより之を廃す。後に建武中興に際し、源顯家将軍となりて多賀城に治し、弟 顯信また大将軍を以て此に在りしが、正平7年以後 全く廃す。
〇秋田城
旧址は出羽秋田郡寺内村高清水に在り。聖武天皇 天平5年、出羽の柵を高清水岡に移し、天平寶宇5年 城砦を完成して秋田城と改称す。此に軍士を置きて蝦夷に備う。光仁天皇 寶亀11年 出羽介をして此の城に鎮せしむ。之を秋田城介と云う。延暦23年 一旦 之を停めて郡とせしが、後再興す。
〇藤原継縄
右大臣 豊成の二子なり。累進して寶亀11年 中納言に拜す。會陸奥の夷俘按察使 紀廣純(キノヒロスミ)を殺す。継縄 征東大使となりて副使 紀古佐美等と共に之を討し、安倍家麻呂また出羽鎮狄(ちんてき)将軍となりて別道より之を討す。既にして継縄軍をとどめて進まず、朝廷 藤原小黒麻呂に将士を督して進撃せしめ給う。而して継縄等また今軍を出す可らざるの状を奏す。朝廷勅して隊伍を教諭して鋭意進討すべし、若し今月賊地に入らずば、多賀城等に居り厳に防禦(御)を加えて戦闘せしめ給う。尋で天應元年 正三位 左京大夫となり、延暦2年大納言兼大宰師 皇太子傳トナリ、累進シテ9年 右大臣に拜す、15年 70歳にて薨ず。世に桃園右大臣と称す。
〇紀古佐美
大納言麻呂の孫にして、正六位上 宿奈麿の子なり。寶亀年中 累進して従五位上となる。會蝦夷反して紀廣純を殺す。古佐美征東副使となり大使 藤原継縄に従いて之を討す。後 累進して延暦の初 参議となり、東宮大夫 左右大辨を経て正四位下となる。七年 征東大将軍兼大和守となりて陸奥の蝦夷を征し、翌年 衣川に至る。此に兵を按して進まず、上書して状を告ぐ、かくて官軍進みて賊を討ちしも利ならず、七月 再び上書し偽りて大捷(勝)を告げ、九月 遂に帰来して節刀を上る。朝廷乃ち大納言 藤原継縄等をして之を審問せしめ給う。古佐美等 皆 承伏す。後 中納言を経て十五年 大納言となり、翌年65歳にて薨ず。
〇膽澤城と志波城
膽澤城址は、陸中國膽澤郡水澤町と金崎村との間(金崎停車場を距る凡十五町の所)に在り。桓武天皇 延暦21年、坂上田村麻呂をして此の城を築かしめ給い、駿河・甲斐・相模・武蔵等十箇國の浪人四千を配して此に屯せしめ給う。是より永く鎮守府となり、代々の鎮守将軍 此に居て邊陲(へんすい・くにざかい)の鎮撫を掌ることとなる。志波城は陸中紫波郡日詰町の東傍なる郡山の廃墟に当れるものの如し。延暦22年 此に城きて以て、東北蝦夷の非常に備えたり。
〇坂上田村麻呂
阿智使主(アチノオミ・コチラ参照)の裔(子孫)にして、左京大夫苅田麻呂の子なり。人となり膂力(りょりょく)あり。身長五尺八寸、其の眼 蒼隼(はやぶさ)の如し、鬚髯(しゅぜん・あごひげと、ほおひげ)は金絲の如し、しばしば蝦夷征討に従い征夷大将軍となる。延暦20年 陸奥蝦夷の反を討ち平げ、翌年 膽澤城(いざわじょう)を築き、22年また志波城を築きて還り刑部卿となる。其の翌年 再び征夷大将軍となり、明年 参議に任じ大同の初年 中納言となる。薬子の變に功あり、弘仁2年54歳にて薨ず。天皇 悼惜し給い従二位を贈りて山城宇治郡栗栖村に墓地を賜わる。その賜わるに当り、甲冑剣矛等を併せ埋む。京都東山の将軍塚を田村麻呂の墓となすは蓋し俗説なり。
〇文屋錦麻呂(ふんや の わたまろ)
従二位 浄三(きよみ)の孫なり。累進して大同年中播磨守となる。藤原薬子の乱に錦麻呂 平城上皇に侍せしを以て嵯峨天皇召して京都に拘せしめ給う。坂上田村麻呂 其の武技に熟し邊事に通ぜるを以て、赦して軍事に参せしめんことを奏請す。よりて参議に任ぜられ田村麻呂と美濃道を扼(やく)す(要所を占める)。事平ぐに及び、大蔵卿兼陸奥出羽按察使となる。尋で征夷将軍となりて蝦夷を討ち平ぐ、功を以て従三位となり左衛門督を兼ぬ。後 再び征夷将軍となり累進して中納言となり、弘仁14年 59歳にて薨ず。
〇藤原保則
右大臣 継縄の曾孫なり。貞観8年 備中 權介(國司)となる、其の任に赴くや、施すに寛政を以てし、小過を宥して大體(体)を存し、綏撫賑恤(すいぶしんじゅつ。綏撫・慰めいたわること、賑恤・貧困者や被災者などを援助するために金品を与えること)農桑を勧めて遊費を禁ず。是に於て百姓来附し、館内よく治まる。同13年備中守に任じ同じ16年備前權守に轉(転)ず、政績一に備中に在るが如く、風化 大に行われ、吏民號(号)して父母とよぶ。累進して同19年 右中辨となる。元慶2年出羽の蝦夷叛して秋田城を焼く、摂政 藤原基経 保則に出羽權守を兼ねしめ、小野春風を擢んじて鎮守将軍とし進討せしむ。保則・春風 遂に蝦夷を降し、保則 更に津軽より渡島に在り、前代 未だ帰府せざるものをも内属せしむ。かくて播磨・讃岐の國守を歴任し、寛平3年 参議兼近江權守となり更に民部卿を兼ね同7年七十一歳にて卒す。大正4年11月正三位を贈らる。
〇小野春風
従五位上 石雄の子にして、驍勇(ぎょうゆう・強くたくましいこと)人に超ゆ。貞観12年 対馬守に補し、調布を以て保侶(ほろ・母衣・矢や石などから防御するため兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませる補助武具)及び糒袋(糒・ほしいとは、飯を乾かして保存用としたもの。水に浸すして柔らかにするとすぐ食べられる。)を造りて軍旅の資に充てんことを請いて許さる。元慶2年出羽の蝦夷反し、國守 藤原輿世(おきよ)しばしば敗る。藤原保則 春風を摂政 藤原基経に薦め、以て陸奥鎮守将軍とし之を平げしむ春風少より邊塞(へんさい・辺境にある砦)に在りて蝦夷の語に通ず、乃ち甲を脱し兵をとき、賊軍に入りて具に朝命をのぶ。是に於て蝦夷 大に服し、悉(ことごと)く降を乞う。翌年 軍を引きて還り、累進して寛平2年 右近衛少将 陸奥權守となり、昌泰の初年 正五位下に叙せらる。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑲ ~ 韓土の変遷(附支那との関係)渤海の入貢

  ← 応援クリック宜しくお願いします m(__)m

—————————————————————————–
(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑰ 和氣淸麻呂(朝廷に於ける僧侶の勢力)

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑯ 聖武天皇 奈良時代の佛教文物

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑬ 蝦夷の服属 韓土の変遷(百済 高麗の滅亡・新羅の朝鮮半島統一)

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑮ 奈良奠都 (史書撰修) 隼人 及 西南諸島の服属 (支那との交流)

◆戦前の小学歴史教科書準拠 学習問題から ③ 日本武尊

◆昨年の国内旅行から ~ 奈良、京都、宮島、姫路、萩……

◆日本人なら世界遺産(ユネスコ)よりも国立公園!

◆仏教も乗っ取る、反日・フェミ・同和・在日朝鮮人 キチガイ勢力の猛威~ 部落差別につながるからと、廃止が進められる“お清めの塩”

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑭ 天智天皇 律令の選定

◆四国各所でハングルのシールが貼られまくり、それを剥がすよう促した紙が貼られていたということですが

◆私の好きなプリンス パート1 ~ 神国・日の丸のハチマキ

トップ | 真実の日本の歴史 上代 ~ 中世 | permalink | comments(0) |