日本の面影

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失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑱
平安奠都 蝦夷の鎭定

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さて、今日の「真実の日本の歴史」は平安奠都、そして平安初期にはまだ反乱の起きていた蝦夷の鎮定です。戦前の学習書では軍事的にどのような攻め方をしていったかなどが詳しく描かれています。今と違って当時の教科書もそういう内容で、この妻木さんの本ではさらに詳しく解説されてます。
そして日本では大化の改新の頃から現代と同じ近代国家が既に形成されていたのです。すごく遠い時代のように感じてる人も多いかもしれない平安時代、だけどその省庁配置図を見れば「今と何も変わらないじゃん」、むしろ「今よりずっと立派じゃん」ってことがわかるはず。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

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桓武天皇
光仁天皇 子 桓武天皇の御即位―天皇の御英武―政治に御留意―前代の弊政を察し世の面目を一新せんとし給う―平安奠都(てんと)―蝦夷の鎮定。

平安奠都
奈良京はなほ国運の進歩に伴わず―藤原種継(タネツグ)の遷都の建議―山城の長岡に遷都―和気清麻呂 再び遷都の建議―清麻呂 葛野(かどの)の地(京都)を相(み)る―延暦13年に京都に遷都―景色美にして交通便利―奈良京に倣いて規模広大―大内裏(だいだいり)及び諸官省は正北に位置す―中央の朱雀大路(すざくおほぢ)により左京・右京に分つ―各京を條・坊に区画す―平安京の称―東京奠都迄1070餘年間の帝都―平家の滅亡まで約四百年間―平安朝時代(世に平安朝 及び平安時代の称)の称。



蝦夷の鎮定
安倍比羅夫の征討後は一時 静謐(せいひつ)―年を経て漸く不穏―奈良時代にしばしば乱をなす―元明天皇の時に巨勢麻呂(コゼノマロ)を陸奥に佐伯石湯(サエキイワユ)を越後に差遣―各蝦夷を征す―陸奥國を割きて出羽國を置く―尾張・上野・信濃・越後の民(二百戸)を出羽の柵戸とす―元正天皇の時に多治比縣守(タヂヒノカタモリ)陸奥の蝦夷を討つ―柵戸一千人を陸奥鎮所に配す―聖武天皇の時に多賀城(コチラ参照)秋田城の築造―大野東人(コチラ参照)の蝦夷地経営―陸奥の拓殖と其の歩武の進歩の講究―蝦夷 尚 叛きて毎に征討の勞をなす―光仁天皇の時に藤原継縄(ツグナワ)の出征―二人蝦夷を討ちて功を奏す―田村麻呂征夷大将軍となる―田村麻呂再び蝦夷を討伐す―膽澤城(イサワジョウ・胆沢城・鎮所とす)を築き東國の浮浪四千人を配す―更に志波城(しはじょう)を築く―嵯峨天皇の時に文屋綿麻呂 蝦夷平定―陽成(ヨウゼイ)天皇の時に小野春風(ハルカゼ)・藤原保則(ヤスノリ)の蝦夷綏撫(すゐぶ)―東北の蝦夷殆ど全く鎮定す。

〇藤原種継
百川の兄 浄威の子なり。累進して延暦元年従三位式部卿となり、尋(つい)で正三位中納言となる。桓武天皇 甚だ之を親任し給い、常に帷幄(いあく)に侍して中外の機務を裁決せしめ給う。時に天皇 政を太子に委ね給い、太子は佐伯今毛人(サエキノイマエミシ)を参議とし給う。 種継 之を不可として其の職を罷(や)む。是より太子 深く種継を悪み、常に之を除かんとし給う。初め長岡の遷都は種継 首として其の議を立つ。延暦4年 天皇 平城に幸し給いて種継 右大臣 藤原是公と共に留守す。長岡の新都 未だ完成せず、種継 工事を督して夜に及ぶ。時に賊あり暗中より種継を射る。翌日 遂に薨ず。年49。天皇 悼惜し給いて正一位左大臣を贈り給い、其の賊を誅せしめ給う。かくて大同4年 朝廷 更に太政大臣を贈り給う。
〇長岡遷都
長岡の宮址は山城乙訓郡向日町鶏冠井(かへで)に在り。桓武天皇は藤原種継の議により、延暦3年五月 中納言 藤原小黒麻呂と共に長岡の地を相(み)ぜしめ、翌月 種継を造長岡宮使とし、始めて都城を營ましめ給う。かくて此の年11月 此に還幸ありしより、同13年 平安奠都まで帝都なり。
〇巨勢麻呂
持統・文武・元明・元正の四天皇に仕え、霊亀元年 累進して中納言となる。元明天皇の御代、陸奥越後の蝦夷 反してしばしば人民を害するや、和銅2年 麻呂陸奥鎮東将軍となり、遠江・駿河等七國の兵を発し、佐伯石湯等と討ちて之を平ぐ。尋で霊亀元年、出羽近國の民を出羽に従して之を充て、以て蝦狄(かてき・日本海側の蝦夷)の徒を綏撫(すいぶ)し兼ねて地利を保たんことを奏請して聴さる。養老元年薨ず。
〇佐伯石湯
文武天皇の御代に従五位上 伊勢守となり、元明天皇の御代に正五位下 民部大輔に進む和銅2年征越後 蝦夷将軍となりて越後の蝦夷を討つ。事平ぎて特に優寵を加えられ、やがて右将軍に拜す。
〇多治比羅翔守
左大臣 島の子なり。霊亀2年 遣唐押使となりて翌養老元年 唐に赴く。年を超えて帰朝し、正四位下 武蔵守となる。同4年 陸奥の蝦夷反して按察使上毛野廣人を殺すや、縣守 持節征夷将軍となりて之を平ぐ。翌年 凱旋して中務卿となり、太宰第弐に還る。尋で累進して天平4年 中納言に拜し、正三位 山陰道節度使となる。同9年 70歳にて薨ず。
〇陸奥鎮所(鎮守府)
陸奥・出羽の蝦夷を鎮撫するが為に之を設く。後に鎮守府と称す。将軍 此に居て東北地方を鎮撫し、非常を戒む。初め陸奥宮城郡多賀城(コチラ参照)に在りしが、延暦20年 鎮守府将軍 坂上田村麻呂 大に蝦夷を撃破し、翌21年 膽(胆)澤城(胆澤・いさわ・旧址 陸中膽澤に在り)を築きて府を此に移す。弘仁3年 府の制を改めしが、貞観年中以後 漸く衰え、源頼朝征夷大将軍となりてより之を廃す。後に建武中興に際し、源顯家将軍となりて多賀城に治し、弟 顯信また大将軍を以て此に在りしが、正平7年以後 全く廃す。
〇秋田城
旧址は出羽秋田郡寺内村高清水に在り。聖武天皇 天平5年、出羽の柵を高清水岡に移し、天平寶宇5年 城砦を完成して秋田城と改称す。此に軍士を置きて蝦夷に備う。光仁天皇 寶亀11年 出羽介をして此の城に鎮せしむ。之を秋田城介と云う。延暦23年 一旦 之を停めて郡とせしが、後再興す。
〇藤原継縄
右大臣 豊成の二子なり。累進して寶亀11年 中納言に拜す。會陸奥の夷俘按察使 紀廣純(キノヒロスミ)を殺す。継縄 征東大使となりて副使 紀古佐美等と共に之を討し、安倍家麻呂また出羽鎮狄(ちんてき)将軍となりて別道より之を討す。既にして継縄軍をとどめて進まず、朝廷 藤原小黒麻呂に将士を督して進撃せしめ給う。而して継縄等また今軍を出す可らざるの状を奏す。朝廷勅して隊伍を教諭して鋭意進討すべし、若し今月賊地に入らずば、多賀城等に居り厳に防禦(御)を加えて戦闘せしめ給う。尋で天應元年 正三位 左京大夫となり、延暦2年大納言兼大宰師 皇太子傳トナリ、累進シテ9年 右大臣に拜す、15年 70歳にて薨ず。世に桃園右大臣と称す。
〇紀古佐美
大納言麻呂の孫にして、正六位上 宿奈麿の子なり。寶亀年中 累進して従五位上となる。會蝦夷反して紀廣純を殺す。古佐美征東副使となり大使 藤原継縄に従いて之を討す。後 累進して延暦の初 参議となり、東宮大夫 左右大辨を経て正四位下となる。七年 征東大将軍兼大和守となりて陸奥の蝦夷を征し、翌年 衣川に至る。此に兵を按して進まず、上書して状を告ぐ、かくて官軍進みて賊を討ちしも利ならず、七月 再び上書し偽りて大捷(勝)を告げ、九月 遂に帰来して節刀を上る。朝廷乃ち大納言 藤原継縄等をして之を審問せしめ給う。古佐美等 皆 承伏す。後 中納言を経て十五年 大納言となり、翌年65歳にて薨ず。
〇膽澤城と志波城
膽澤城址は、陸中國膽澤郡水澤町と金崎村との間(金崎停車場を距る凡十五町の所)に在り。桓武天皇 延暦21年、坂上田村麻呂をして此の城を築かしめ給い、駿河・甲斐・相模・武蔵等十箇國の浪人四千を配して此に屯せしめ給う。是より永く鎮守府となり、代々の鎮守将軍 此に居て邊陲(へんすい・くにざかい)の鎮撫を掌ることとなる。志波城は陸中紫波郡日詰町の東傍なる郡山の廃墟に当れるものの如し。延暦22年 此に城きて以て、東北蝦夷の非常に備えたり。
〇文屋錦麻呂(ふんや の わたまろ)
従二位 浄三(きよみ)の孫なり。累進して大同年中播磨守となる。藤原薬子の乱に錦麻呂 平城上皇に侍せしを以て嵯峨天皇召して京都に拘せしめ給う。坂上田村麻呂 其の武技に熟し邊事に通ぜるを以て、赦して軍事に参せしめんことを奏請す。よりて参議に任ぜられ田村麻呂と美濃道を扼(やく)す(要所を占める)。事平ぐに及び、大蔵卿兼陸奥出羽按察使となる。尋で征夷将軍となりて蝦夷を討ち平ぐ、功を以て従三位となり左衛門督を兼ぬ。後 再び征夷将軍となり累進して中納言となり、弘仁14年 59歳にて薨ず。
〇藤原保則
右大臣 継縄の曾孫なり。貞観8年 備中 權介(國司)となる、其の任に赴くや、施すに寛政を以てし、小過を宥して大體(体)を存し、綏撫賑恤(すいぶしんじゅつ。綏撫・慰めいたわること、賑恤・貧困者や被災者などを援助するために金品を与えること)農桑を勧めて遊費を禁ず。是に於て百姓来附し、館内よく治まる。同13年備中守に任じ同じ16年備前權守に轉(転)ず、政績一に備中に在るが如く、風化 大に行われ、吏民號(号)して父母とよぶ。累進して同19年 右中辨となる。元慶2年出羽の蝦夷叛して秋田城を焼く、摂政 藤原基経 保則に出羽權守を兼ねしめ、小野春風を擢んじて鎮守将軍とし進討せしむ。保則・春風 遂に蝦夷を降し、保則 更に津軽より渡島に在り、前代 未だ帰府せざるものをも内属せしむ。かくて播磨・讃岐の國守を歴任し、寛平3年 参議兼近江權守となり更に民部卿を兼ね同7年七十一歳にて卒す。大正4年11月正三位を贈らる。
〇小野春風
従五位上 石雄の子にして、驍勇(ぎょうゆう・強くたくましいこと)人に超ゆ。貞観12年 対馬守に補し、調布を以て保侶(ほろ・母衣・矢や石などから防御するため兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませる補助武具)及び糒袋(糒・ほしいとは、飯を乾かして保存用としたもの。水に浸すして柔らかにするとすぐ食べられる。)を造りて軍旅の資に充てんことを請いて許さる。元慶2年出羽の蝦夷反し、國守 藤原輿世(おきよ)しばしば敗る。藤原保則 春風を摂政 藤原基経に薦め、以て陸奥鎮守将軍とし之を平げしむ春風少より邊塞(へんさい・辺境にある砦)に在りて蝦夷の語に通ず、乃ち甲を脱し兵をとき、賊軍に入りて具に朝命をのぶ。是に於て蝦夷 大に服し、悉(ことごと)く降を乞う。翌年 軍を引きて還り、累進して寛平2年 右近衛少将 陸奥權守となり、昌泰の初年 正五位下に叙せらる。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑲ ~ 韓土の変遷(附支那との関係)渤海の入貢(制作中)

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(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑰ 和氣淸麻呂(朝廷に於ける僧侶の勢力)

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑯ 聖武天皇 奈良時代の佛教文物

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑬ 蝦夷の服属 韓土の変遷(百済 高麗の滅亡・新羅の朝鮮半島統一)

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑮ 奈良奠都 (史書撰修) 隼人 及 西南諸島の服属 (支那との交流)

◆戦前の小学歴史学習問題から ③ 日本武尊

◆昨年の国内旅行から ~ 奈良、京都、宮島、姫路、萩……

◆日本人なら世界遺産(ユネスコ)よりも国立公園!

◆仏教も乗っ取る、反日・フェミ・同和・在日朝鮮人 キチガイ勢力の猛威~ 部落差別につながるからと、廃止が進められる“お清めの塩”

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑭ 天智天皇 律令の選定

◆四国各所でハングルのシールが貼られまくり、それを剥がすよう促した紙が貼られていたということですが

◆私の好きなプリンス パート1 ~ 神国・日の丸のハチマキ

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真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑰
和氣淸麻呂(朝廷に於ける僧侶の勢力)

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戦後、現代歴史教育では教えられなくなった和氣淸麻呂(ワケノキヨマロ・和気清麻呂)の忠節。戦前は専横極めた蘇我氏や藤原氏に加え、道鏡による皇室乗っ取りの危機を救ったということで、とても重要な人物とされていました。女帝 称徳(=孝謙)天皇に取り入った僧 道鏡は意のままに権勢をふるい、自らが天皇になろうとまでしましたが、和氣淸麻呂によってそれは食い止められました。今の義務教育でもきちんと教えるようにして、日本人は危機意識に目覚める必要があります。国民から皇族までたぶらかそうとするマスコミは悪の組織。皇室自身も平和ボケとでもいうか、危険な状態にあると思います。エラそうな言い方ではありますが、きっと多くの方が同じことを感じておりましょう。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

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孝謙天皇
聖武天皇の皇女 孝謙天皇の御即位―佛教の御信仰―藤原不比等の孫 仲麻呂 信任せらる―仲麻呂 姓名を恵美押勝(エミノオシカツ)と賜わる―仲麻呂 威権を振う―天武天皇の皇孫 淳仁天皇に御譲位―孝謙上皇 尚 政を聴断(ちょうだん)し給う。

藤原仲麻呂の反
僧 道鏡 孝謙上皇の御親任をうく―道鏡の威権 日に加わる―仲麻呂 叛きて兵を近江に挙ぐ―仲麿の誅―淳仁天皇 廃せられ給う(淡路に遷幸)―太上皇の重祚(じゅうそ・一度位を退いた天子が再び位につくこと)称徳天皇。

僧 道鏡の無道
道鏡 太政大臣禅師となる―法王の位を授かる―飲食・衣服天皇の供御(くご)に准ず―恣に大政を決す―太宰主神習宜阿曾麻呂(ダザイノカムツカサスゲノアツマロ)道鏡に媚ぶ―宇佐八幡大神の神託を佯(いつ)わる―道鏡を皇位に即かしむれば天下泰平ならんと奏上す―道鏡 遂に非望を懐(いだ)く。

和氣淸麻呂の忠烈
天皇 阿曾麻呂の言に惑わせ給う―淸麻呂を宇佐に差遣―路豊永(オホヂノトヨナガ)・藤原百川(モモカワ)淸麻呂を勵(励)ます―淸麻呂 帰りて神教を奏上す―淸麻呂 大隅に流さる―淸麻呂の姉 廣蟲(ヒロムシ・法均尼)また備後に流さる―道鏡 遂に非望を遂ぐる能わず。

光仁天皇
称徳天皇の崩御―藤原百川等 天智天皇の皇孫を皇太子に立て奉る(光仁天皇)―道鏡の貶斥(へんせき・官位を下げて退けること)造下野薬師寺別当(ぞうしもつけのやくしじべっとう)となる―阿曾麻呂の左遷(多褹島守・種子島守)淸麻呂の召還(本官に復せらる)―法均尼(ホウキムニ)の召還―皇太子の即位―淸麻呂の重用―護王神社。

〇和氣淸麿の誠忠
備前の人にして、其の先は垂仁天皇の皇子 鐸石別(ヌデシワケ)命に出づ。称徳天皇の御代に、従五位下 近衛将監となる。神護景雲3年、大宰府の神祇を掌れる習宜阿曾麻呂 道鏡に媚び、宇佐八幡の神教といつわり、道鏡をして皇位に即かしめ給わば天下太平ならんと奏上す。道鏡 之をききて非望をいだく。天皇 淸麻呂を宇佐に遣わして更に神教を請わしめ給う。時に道鏡 淸麻呂を誘うに利を以てせしが、淸麻呂 路豊永の言を聞きて深く心に決する所あり。其の宇佐より帰るや、直に神教をのべて、道鏡の如き無道の人は早く除くべきことを奏上す。道鏡 大に怒り、淸麻呂の本官を奪いて大隅に流し、遂に其の途中に之を殺さんとす。既にして称徳天皇 崩じ給い、道鏡の奸悪(かんあく)あらわれて造下野薬師寺別当に貶せられ、淸麻呂は召還されて本官を復せられる。かくて桓武天皇の御代に、平安奠都の地を相(みる)し従三位民部卿に任ぜられて功田二十町を賜わり、延暦18年 67才にて薨ず。其の薨ずるや、天皇 正三位を贈り給い、孝明天皇の御代神に祭りて護王大明神と崇め給い、明治31年 朝廷更に正一位を贈り給う。護王神社は京都市に在りて明治7年 別格官幣神社に列せらる。
〇路豊永
先は敏達(びだつ)天皇の皇子 難波王に出づ。天武天皇の御代に眞人の姓を賜わる。豊永 嘗て道鏡の師たり。淸麻呂の宇佐に赴くに当り。淸麻呂に語りて曰く、道鏡 若し天位に登らば吾 何の面目あって其の臣たる可けんや、吾二三子と共に今日の伯夷(ハクイ・支那の殷の人・殷滅び遂に餓死す)とならんのみと。淸麻呂深く其の言を然りとし、決心する所ありて常に忠烈の志を懐しきと云う。
〇藤原百川
式部卿 宇合の子にして幼より器度あり。神護年 中山陽道 巡察使となり、奏して本道の郡傳路 遠くして民苦多きを以て驛(駅)送に復せんことを請い、また長門の豊浦・厚狭(あさ)等 養蠶(蚕)によきを以て、調銅を停めて綿を諭(さと)せしめんことを乞いて許さる。孝謙天皇 崩じ給いて皇嗣 未だ定らざるや、百川は白壁(シラカベ)王(天智天皇の皇孫)を立てんとす。右大臣 吉備眞備 異義ありしを以て、百川 兄 良継 及 従兄 左大臣 永手と密議して白壁王を迎え立つ。之を光仁(こうにん)天皇とす。寶亀2年 大宰師となり、尋(つい)で参議に拜す。天皇 皇太子を廃し給うに及び、百川 山部王を立てんことを奏請す。衆議為に頗(すこぶ)る紛紜(ふんうん・物事が入り乱れること)たりしが、百川 固く前議を執り殿前に立つ四十餘日に及ぶ。天皇 其の誠悃(せいこん・まこごろがこもっていること)に感じて遂に其の請を許し給う。尋で従三位式部卿兼中衛大将となり、内外の機務に輿聞す。同10年 48歳にて薨ず。天皇 悼惜して従二位を贈り給いしが、延暦2年 朝廷 更に右大臣を贈り給う。
〇法均尼
旧名を廣蟲(ヒロムシ)と云い、淸麻呂の姉なり。人となり貞順にして節操なりしかば、孝謙天皇に愛信せらる。天皇 落飾し給うに及び、廣蟲また薙髪(ちはつ・髪をそり落とすこと)して法均(ホウキム)と改む。藤原仲麻呂の誅せらるや、之に黨(とう・党)して斬に当てられしもの数百人に達す。法均 天皇に諌め奉り、其の死を減じて流に處(処)す。乱後 飢疫して民間に棄児多し、法均 人を遣わして之を收養する八十三児に及ぶ。尋で淸麻呂大隅に流さるに当り、法均また備後に流さる。光仁天皇 踐祚(せんそ・皇嗣が天皇の地位を受け継ぐこと)に及び、召し還されて従四位下典蔵となる。天皇 嘗て嘆称(たんしょう・優れたものとして感じ入ること)し給うて曰く、諸侍従は毀譽(きよ・貶すことと誉めること)紛紜たりしに、法均 人の短を言わずと。かくて正四位上典侍に進み、延暦18年 70歳にて卒(しゅつ)す。天長2年正三位を贈らる。

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(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑯ 聖武天皇 奈良時代の佛教文物

◆戦前の小学歴史学習問題から ② 日本武尊

◆いらない性教育。子供の人格破壊を目指す日本の学校教育

◆日本の繁栄を信じて、ふるい立った英霊たちの思いにつながりましょう ~ 貴方も英霊たちの本当の仲間になるために

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ④ 第二十五 北畠親房と楠木正行

◆ほざくな! ニセ秋篠宮! ~ 朝日/北朝鮮に拉致されスリ替えられた、世界小市民として皇室破壊、日本解体に利用されるニセ秋篠宮家

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑪ 蘇我氏の無道

◆マスコミの売国クズぶりは前から腹立たしいが、特にこの国賊クソ朝日のしつこい超偏向報道ぶりはなんだ!!

◆【超拡散希望!】 婚外子相続差を違憲とした裁判官を裁こう!

◆今のまま側室を設けると、皇室崩壊を招きそう ~ 三船敏郎の愛人 喜多川美佳と、その娘 三船美佳に見てみよう

◆次期宮内庁長官は創価系!? ~ 女性宮家の創設どう思う? ~ 狙われる皇室。皇室乗っ取り警報!

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真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑯
聖武天皇 奈良時代の佛教文物

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(2019.4.2)  (戻る)
新元号は令和、万葉集からの引用であるのだと昨日発表。奇しくも、この【真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より】シリーズを更新しようと考えていた折、ちょうどこの『奈良時代の文物』を公開しようと校正を進めていたタイミングで…… 天平の先人たちの大きなエネルギー、その強い波動がきっと私のところにまで及んできていたのでしょう。しっかり受け止められる感受性あってよかった! ここをご覧の皆様もそんな私とつながれてよかったですね ^▽^) 続編はもういいかなと思っていたこのシリーズ、でも、続きを書こうと考えあらため、原稿はかなり前からザッと写してはあったものの、日本史上においても稀有、絢爛豪華な文化が育まれた「奈良時代の文物の章」は分量がすごく多いこともあって、校正が大変なため延ばし延ばしにしていたのですが……
先人の思いに通ずるためにも、今日の内容はしっかり勉強しておきましょう。
さて、先人から選ばれし預言者 ロデムですが(笑)、私は次の元号まで見られるでしょうか。子供に託すしかありませんね。

ところで皆さんは「鞠(まり)」と言って思い起こされるものって何ですか? 私にとっては大化の改新、中大兄皇子と藤原鎌足が懇意になったきっかけこそ蹴鞠。大化、天平の時代から日本に鞠は存在していました。初めて元号を定めし天智天皇。だから今回の記念ランキングバナーは鞠。中大兄皇子の蹴鞠の会が催されたページにも鞠のバナーを貼っておきましょう。

『最新 日本歴史解釈 』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

聖武天皇
文武天皇の皇子 聖武天皇の御即位―天皇深く佛教を信じ給う―丈六の仏像と七重の層塔―諸國に僧尼(そうに)の両國分寺を設く―之に寺領を輿(与)う―奈良に東大寺の建立―金銅の大佛安置と大佛殿―三寶(宝)奴(さんぽうのやっこ)―戒(かい)を受けて沙彌勝満(シャミノシャウマン)と呼び給う。

光明(コウミョウ)皇后
天皇の皇后は藤原鎌足の孫女(不比等の女にて光明皇后)―古来の皇后は概ね皇族―鎌足父子 朝廷に大功を建つ―始めて藤原家より皇后出づ―皇后 篤く佛教を信じ給う―慈悲の御心 深し―施薬院(せやくゐん)・悲田院(ひでんゐん)―孤児・貧病者の救療(慈善事業)
佛教の興隆
聖徳太子の興隆以後 漸く弘まる―造佛と寫(写)経―六宗 行わる―東大寺・西大寺・薬師寺の諸大寺建立―上流間の帰依―藤原不比等また早く興福寺を立つ―不比等の子 武智麿(ムチマロ)も佛教を信ず―印度・支那より渡来の名僧―名僧の輩出―良弁(リョウベン)と行基(ギョウキ)―無道の僧侶―玄昉(ゲンボウ)―藤原廣嗣(ヒロツグ)の反―大野東人(オホノノアヅマント)之を平ぐ―多賀城―玄昉の貶斥(へんせき)―吉備眞備(キビノマキビ)の左遷。

美術工芸の進歩
美術・工藝の進歩―寺院の建築―佛像の彫刻及び鋳造―絵画・織物・刺繍・漆器・硝子器の製作―制作物の壮麗巧妙(天平時代)―正倉院と其の御物―奈良市内外の寺院の堂塔と其の存在の美術品―印刷術 起る―木版の印刷佛経。

文學の隆盛
遣唐使の往来繁く―留學性の入唐多く―漢學の進歩を促す―和漢混合文(古事記・風土記)―宣命文(せんみょうぶん)―詩文の功妙―粟田眞人(アワダノマヒト)―吉備眞備―阿倍仲麿(アベノナカマロ)―太安萬侶(オホノヤスマロ)―石上宅嗣(イソノカミノヤカツグ)―淡海三船(オフミノミフネ)等の輩出。持統天皇の頃 和歌流行す―柿本人麿(カキノモトノヒトマロ)の先駆―山部赤人(ヤマベノアカヒト)―山上憶良(ヤマノエノオクラ)―大伴家持(オホトモノヤカモチ)等の輩出―萬葉和歌集の撰。

風俗の華美
文物の進歩に伴いて風俗華美に趣く―世人 唐風を好む―左衽(さじん)の着物 右衽(うじん)となる―袖濶(ひろ)く裾長し―古風の板簷(いたぶき)及び草葺(くさぶき)も瓦屋に改め丹聖(たんあ)を塗る(五位以上の人及び富人)

〇國分寺
聖武天皇の天平13年3月、詔して諸國に国分僧寺と国分尼寺とを建てしめ給う。其の僧寺を金光明四天王護國寺と云い、其の尼寺を法華滅罪寺と云い、また単に前者を国分寺と云い、後者を法華寺と云う。此の国分寺は、天下一切の禍を除かん為に建てしめ給いしものにして、当時地方政治の中心なる國府附近に置かしめられ、國毎に正税を割きて之に入れ、其の利息を以て造寺の用に充てしめらる。されど國司等多く怠慢にして命を奏ぜざりしかば、早くより衰亡に属し、其の一度亡びたるものは、殆ど再建せらるることなし、現今の村名及び字名に、なほ國分若くは国分寺の称あるは、蓋(けだ)し昔時 国分寺の在りし縁由の地なるもの多し。
〇東大寺
大和奈良市に在り。所謂 奈良七代寺の一にして、今は華厳宗の総本山たり。本尊を金銅盧舎那(るしゃな)仏像とし、世に之を奈良大佛と云う。聖武天皇 佛法興隆の為め、天平13年 此の大佛の造立を企て給い、やがて之が工事起りて天平勝寶(てんぴょうしょうほう)元年に成る。大佛殿は天平19年に工を起し、天平勝寶4年に成る。治承(じしょう)4年 兵火にかゝりしが、僧 重源 起巧して、建久6年に成る。永禄10年 再び兵火にかかりしが、公慶上人また工を起して寶永5年に成る。現存のもの即ち是なり。其の銅 燈龍・三月堂・二月堂・開山堂・鐘楼・浄土堂・大湯屋・南大門・戒壇院等は、今或は国宝たり、或は特別保護建築物たり。
〇三宝奴
佛・法・僧の三を三寶(宝)と云う。佛寶は一切の佛陀(ぶつだ)にして法寶は佛の設ける教法また僧寶は其の教法に従って修行するものを云うなり。
〇光明皇后
藤原不比等の二女にして、聖武天皇 皇太子の時の妃となり給う。天皇即位に及びて従三位を授けられて夫人となり、高謙天皇を生み給う。尋で正三位に叙し、天平元年皇后となり給い、孝謙天皇 受禅の後 皇太后となり給う。かくて天平宝字4年6月崩じ給う。御年60 皇后 幼にして聰彗(そうけい・才知にすぐれること)、體貌(たいぼう・姿と顔だち。容貌。)殊麗にして光耀あるが如きを以て、光明皇后と申すと云う。皇后 天資慈仁にして深く佛を信じ給い、天皇に勸(勧)めて東大寺を建て、諸国に国分寺を置き、また悲田院・施薬院を設けて、天下飢病のものを療養せしめ給う。
〇施薬院と悲田院
施薬院は施療所にして、諸國の薬草を買取して窮民の病を治療する所なり。光明皇后及び藤原不比等の仁恵に起り、天平2年4月始めて設けらる。初め大和奈良京に在りしが、後 平安京に移さる。長官を別当と云い、藤原氏の人を之に任じ、其の下に判官・主典・醫(医)師等を置く。悲田院は孤兒病者の救養所にして、施薬院の別所として同時の創立なり。
〇六宗と八宗
六宗は華厳(けごん、聖武天皇 天平8年 唐僧 道璿(ドウセン)之を伝う)律(りつ、孝謙天皇 天平勝寶5年 唐僧 鑑眞 之を伝う)法相(ほっそう、孝徳天皇 白雉4年 元興寺の僧 道昭(ドウショウ)入唐して之を伝う)三論(さんろん、推古天皇33年 高麗僧 慧灌・エカン 来朝して之を伝う)成實(ジョウジツ、推古天皇の朝 三論宗と提携して伝わる 伝者未詳)倶舎(ぐしゃ、斉明天皇の朝 僧 智通・智達 二人入唐して之を伝う。或は桓武天皇の朝 僧 明全・ミョウゼン 之を始むと云う)にして之を南京六宗とも云う。之に天台(てんだい、桓武天皇 延暦24年 僧 最澄 帰朝して之を伝う)眞言(しんごん、平城(へいぜい)天皇 大同元年 僧 空海 帰朝して之を伝う)二宗(北京二宗)を併せて八宗と云う。
〇興福寺
山科(やましな)寺とも厩坂(うまやさか)寺とも云い、大和 奈良市に在りて法相宗の大本山たり。初め藤原鎌足、斉明天皇の御代に造立して釈迦佛を安置せんとし成らずして薨ず。天智天皇の御代、夫人 鏡女王寺を起して佛像を安置し、山科寺と云う。天武天皇の御代、大和飛鳥の厩坂に移して厩坂寺と云いしが、元明(げんめい)天皇の和銅3年、更に今の地に移して興福寺と改称す。藤原氏の氏寺として世々の崇敬厚く、境内の堂塔 頗(すこぶ)る壮麗なりしが、元慶(がんぎょう)2年以後、しばしば火災にかゝり、殊に藤原氏 昔日の勢力なくして大に衰え、徳川幕府の時は幕府の寺碌をうけて僅に之を維持せしのみ、現存のものは、北円堂、南円堂・東金堂・三重塔・五重塔などにして、是れ等 大概 特別保護建造物となり、其の堂塔に在る佛像は国宝のもの多し。
〇藤原武智麿
不比等の長子なり。和銅・霊亀年間 従四位上 近江守たりしが、養老年中累進して従三位中納言となり、天平元年 大納言に転じて大宰師を兼ね。6年従二位右大臣となる。9年 痘瘡を病むや、朝廷 詔を下して天下に大赦し、正一位左大臣に任じ給う。即日 薨ず。年58。武智麿の第(屋敷)は兄 房前の南隣に在りて南家と称し、房前を北家と称し、弟 宇合(ウマカイ)式部卿に任ぜしを以て式家と称し、また其の弟 麿は左右京大夫となりしを以て、京家と称す。
〇僧 良弁
近江志賀軍の人にして、華厳(けごん)宗の開祖なり。5歳の時に學に志し、長ずるに及びて僧 義淵(ギエン)に法相の宗義をうけ、後 慈訓(ジクン)を師として華厳の奥旨を授かる。既にして東山に小堂を構え、此に退隠して日夜修行す。聖武天皇 其の徳風を聞召し、勅して羂索(けんさく)院を賜わる。即ち名を改めて金鐘寺と称す。後、華厳 弘通の道場となり、天皇 良弁の勧化によりて此に東大寺を建て給う、良弁 始めて東大寺の別当となりて本務を司り、官僧 都より進みて僧正となる。寶亀4年 85歳にて寂す。
〇僧 行基
和泉の人にして、薬師寺 菅原寺等に住す。其の佛教を説くや、道俗(どうぞく・僧侶と俗人)之に追随するもの多く、時人 之を菩薩と呼ぶ。其の諸國を巡行するに当り、所々に寺を建て、過ぐる所 橋を架し道を修め、地溝を作り、堤防を築き、航路を開くること多し。就中 西國航行者の便を図り、播磨の室津より摂津の淀川尻迄の行程を定めしか如きは、著名なるものなり。天平17年 始めて大僧正となり、21年 天皇に菩薩の戒を授け奉る。此の年(天平感寶・てんぴょうかんぽう元年)82歳にて寂す。
〇本地垂跡
奈良の朝の頃より僧侶が神佛調和を図るが為めに。佛は本地にして權(権)に跡を垂れて神に顕(あらわ)れしなりと説くに在り。初め僧 良弁は巧に神佛の混合を説きしが、行基また夢に託して、天照大神は盧遮那佛(るしゃなぶつ)の権化(ごんげ)なりとの説を立つ。是れ本地垂跡説の権輿(けんよ・はじめ)にして、後 最澄・空海等 専ら此の説を唱えたり。
〇藤原廣嗣の反
廣嗣は宇合の長子なり。典籍に博覧にして、仏教に兼通す。また武芸に巧にして兵法を習う。天平年中 従五位下 大和守となり、太宰少弐に遷る。時に吉備眞備(キビノマキビ)・僧 玄昉(ゲンボウ)大に信任せられ、勢力 藤原氏を凌がんとす。廣嗣 此の二人に嫌焉(けんゑん)たらず、天平12年 上表して時政の得失を論じ眞備・玄昉を除かんことを請いしが省られず。九月 廣嗣 遂に兵を挙げて反し、兵を発して上京し、以て君側を掃除せんとす。朝廷乃ち大野東人を将として之を討たしめ給う。東人 九州に至りて廣嗣と戦い、11月 之を斬る其の輿黨(与党・なかま)もまた平ぐ。
〇大野東人
果安の子なり。和銅年中 新羅の使の来朝するや、東人 騎兵を率いて之を迎う。神亀の初年 陸奥の蝦夷の反するに及び、藤原宇合に従いて之を討ち、且つ建議して多賀城を築きて蝦夷の防遏(ぼうあつ)に備う。功を以て従四位下 陸奥鎭守府 将軍兼按察使(あぜち)となる。天平年中、在鎭の兵の功を錄して冠位を授け、以て後 人を勸めんことを奏請す。尋(つい)で藤原麻呂に従い諸國の兵を率ゐて蝦夷を伐ち、之を降しぬ。蓋し東人の計多きに居る。是に於て麻呂 奏して東人に多賀城に鎭せしめ、且つ大和守を兼ねしむ。11年累進して参議となる。尋で太宰少弐 藤原廣嗣の反するや、大将軍となって之を平げ、13年功を以て従三位に叙せられ、翌年遂に薨ず。
〇多賀城
旧址は陸前宮城郡多賀村大字市川(塩釜町西南一里)に在り。是れ鎭守府及び陸奥國府の在りし所なり。多賀城碑(天平寶宇6年鎭守府将軍 藤原朝獦(アサカリ)等の造る所)及び職原抄(北畠親房の著)には、神亀元年 大野東人の築きし所となす。されど続日本紀(コチラ参照)の養老6年に既に陸奥鎭所のこと見ゆ。此の鎭所は即ち鎭守府の城営なれば、神亀元年以前に既に築城せるものなりとの説あり。
〇吉備眞備
其の先 吉備津彦命(コチラ参照)より出づ。眞備、霊亀2年遣唐留学生となり、養老元年 唐に赴き、在唐19年、經史を研究し衆芸を修習し、当時 学生の名を唐に著わせしもの、眞備と安倍仲麿との二人のみ。天平7年帰朝して唐禮(礼)・暦書・楽書等を上る。是より大學助・中宮亮(すけ)に任じ、孝謙天皇の東宮に居給うに当り、學士となりて礼記・漢書を授け奉り、右京大夫・肥前守等に歴任し、天平勝寶4年 遣唐副使となりて再び唐に赴く。帰るに及びて正四位下 太宰大弐となり、建議して筑前怡土(いと)城(筑前糸賀郡怡土村)を築き、其の事に専当す。恵美仲麿(藤原仲麻呂)の反に及び、入りて軍事に参し、累進して従三位参議に任じ、神護2年 中納言・大納言を経て、従二位右大臣となる。かくて称徳天皇 崩じ給い、藤原永手(ナガテ)・藤原百川(モモカワ)等 相謀りて、光仁天皇を立て奉るに及び眞備 致仕を請い、寶亀6年82歳にて薨ず。
〇正倉院
正倉は諸倉中の重なるものにて、貴重品を納むる所を云い、院はなお家屋の意なり。故に正倉院は、大蔵省を始め諸國・諸寺等に在りしなり、而して東大寺の正倉院は、奈良東大寺大仏殿の北に在りて、間口十八間八寸四分、奥行五間一尺二寸、高五問、床下九尺、一棟三口の校倉(あせくら)なり。之を三ッ倉とよぶ。三陵(さんりょう)の木材にて井桁の如くに組みたて、三口あるを以てなり。其の起原未詳なるも、勝寶8年以前の建築にかゝるものゝ如し。此の正倉院には、聖武天皇の御遺物を始め貴重の品を納めたれば、朝廷厚く保護し給い、其の開閉は勅使を遣わし勅封を以てし給い、寺家をして濫(みだり)に開閉することなからしめらる。よりて勅封蔵とも云う。維新後、内務省に之を管せしが、明治17年宮内省の書簡に属せり。
〇木版の印刷の始
木版の印刷は、我が國にも早くよりありしが、現存のものは、孝謙天皇の神護景雲4年(寶亀元年)に成りしものを最古とす。此は天皇弘願を発し一百萬基の小木塔を作らしめ給い、其の中に納むべき四種の陀羅尼(経文)を印刷せしめ、神護景雲4年に十大寺(大安・元興・弘興・薬師・四天王・興福・法隆・崇福・東大・西大の十大寺を云う)に分置せしめ給いしものなり。よりてまた之を木版の印刷の始ともなす。
〇宣命文
宣命とは天皇の命(みこと)をうけて、之を人民に宣するの義にして、特に漢文体のものを詔勅と云い、國文体のものを宣命と称することゝなれり。其の書体は古事記・萬葉集の如く、漢字の音訓を並用せるも、専ら其の訓を用ゐ語尾・助辞等に音を假(仮)り用ゐて、之を細書す。之を宣命書と云う。宣命は立后・立太子・大臣の任免・神事・大赦・改元等の時に用ゐられたり。
〇粟田眞人
先は天足彦國押人命(アメタラシヒコクニオシヒトノミコト・孝昭天皇の皇子)に出づ。眞人 學を好みて文を能くし、進止また容あり。持統天皇の御代 累進して筑紫太宰となる。文武天皇の御代に、大寶律令の撰定にあづかり、大寶元年 遣唐執節使となる。其の筑紫に至るや、偶 風浪 悪しくして発すること能わず、翌年 再び唐に赴く。其の長安(支那の都)に至りて則天武后に見ゆるや、唐の廷臣 皆 眞人の温雅を称す。慶雲元年 帰朝して大和の田二十町穀一千石を賜わり、翌年 従三位 中納言となり、和銅の初年 正三位 太宰師となりて養老3年に薨ず。
〇阿倍仲麿
中務大輔 舩守の子なり。性 聡敏にして読書を好む。霊亀2年16歳にして遣唐留学生となる。其の赴きて学ぶや、姓名を朝衡(チョウコウ)と改めて唐廷へ仕え、累進して秘書監となる。勝寶年間、遣唐大使 藤原清河に従いて帰朝せんとす。海上 風に遭いて安南に漂い、また唐に至る。唐廷 更に光録大夫兼御史 中丞北海郡開國公とし、食邑三千戸を給するに至る。寶亀元年 遂に唐に卒す、年70。仲麿 唐に在る50餘年、王維・李白等の名士に交り、身 栄貴と雖(いえど)も常に帰を思うて巳まず。嘗(かつ)て月を望み和歌を詠じて曰く、あまの原 ふりさけ見れば かすがなる みかさの山に出でし月かも。と。承和(じょうわ)3年 朝廷 遣唐使に命じて、正二位を贈らせ給う。
〇石上宅嗣(イソノカミノヤガツグ)
左大臣 麿の孫なり。性 朗悟にして姿儀あり、博(ひろ)く經史に渉り文を能くしまた書に巧みなり。称徳天皇の御代 累進して参議より縦三位兼式部卿となる。寶亀の初年 大宰師となりしが、復入りて式部卿に還り中納言に任じ、11年大納言に進む。天應元年53歳にして薨ず。宅嗣 淡海三船(オウミノミフネ)と共に能文を以て併せ称せられ、其の詩賦数十首世に伝わる。嘗て宅を捨てて寺とし、其の寺内に一院を建てて儒書を蔵め、芸亭と名づけて読書のものに便にす。
〇淡海三船
葛野王(カドノオウ・弘文天皇の皇子)の孫なり。初め諸王たりしが、勝寶3年 姓を淡海眞人と賜わる。寶字年中、参河・美作・近江等の守介を経て中務大輔となり、神護2年 功田 二十町を賜わる。尋(つい)で寶亀年中、刑部大輔より大判事をへて大学頭兼文章博士となり、延暦の初 刑部卿に進み、同4年64歳にて卒す。三船 性 聡敏にして、群書に渉りよく文を属す。嘗て敕(ちょく)を奉じて神武天皇以来の諡號(しごう)を奉撰せしと云う。
〇柿本人麿
先は天足彦國押人命(孝昭天皇の皇子)に出づ。敏達天皇の御代に、其の家門に柿樹ありしにより此の氏名あり、起元1320年の頃に生れ、元明天皇の和銅3年頃に没せしものゝ如し。叙位・任官は其の伝わるものなくして未だ詳ならず、和歌に巧にして世に歌聖と称せらる。其の諸国を歴遊するや、過ぐる所 詠歌せざるなし。其の作 多く萬葉和歌集に見ゆ。
〇山部赤人
伊豫の来目部小楯(クメベノヲタテ)の後なり。紀元1350年の頃に生れて、天平8年の頃に没せしものゝ如し。官位未だ詳ならず、和歌を以て聞え、人麿と名を斎(ひと)しくし、山柿と称せらる、論者曰く、人麿は赤人の上に立ち難く、赤人人麿の下に立ち難しと、後世 称して和歌の仙と称す。其の詠歌多く萬葉和歌集に見ゆ。
〇大伴家持
大納言 旅人(タビト・コチラ参照)の子なり。寶亀11年 累進して参議兼右大辨(弁)となる。天應元年 東宮大夫となり従三位 左大辨となりしが、延暦元年 事を以て官を奪わる。既にして参議東宮大夫に復し、陸奥按察使鎮守府将軍を兼ね、翌2年中納言に任ず。3年持節征東将軍となりしが、翌年 薨じぬ。家持 和歌をよくして萬葉和歌集二十巻を撰す。
〇山上憶良
先は天足彦國押人命(孝昭天皇の皇子)に出づ。大寶の初年 遣唐少錄となりて遣唐使 粟田眞人に従い、霊亀年中以後、伯耆(ほうき)守 東宮侍読を経て聖武天皇の御代に筑前守となる。憶良 文をよくし和歌に巧みなり。其の詠歌 多く萬葉和歌集に見ゆ。憶良は生年を人麿と同じくし、死時は赤人に近し(天平5年74歳にて卒す)。
〇萬葉和歌集
主として舒明天皇より淳仁天皇まで凡そ130餘年間の和歌を集む。上は天皇・皇后・皇子より、下は群臣・百官・僧侶・田夫・野人に至る迄 幾百千人の多きに及び、其の数4500餘首に達して之を二十巻に編す。(仁徳天皇 雄略天皇の御代のもの2、3首を収む)此の編者につきて諸説あり、或は橘諸兄(モロエ)となせるもあれど、家持の歌集にして勅撰ならぬこと確なりとす。集中の著名なる作者は、柿本人麿・山部赤人・山上憶良・大伴家持・大伴旅人・橘諸兄を始め、志賀皇子・湯原王・額田女王等あり。其の他 雄略・舒明・孝徳・天智・天武・持統・元明・元正・聖武 諸天皇の御製もありて、後世 和歌を言うもの、取って以て模範となす。
〇奈良時代の文學
推古天皇の時 隋に使を遣わされしより、直接に支那の文明を我が國に伝うるに至りしが、舒明天皇以来 支那に派せられし遣唐使によりますます彼の文物を輸入したり。是に於て漢文學 大に発達し、學生は大學・国學等にて養成せられ、是れ等の結果として、我が國に於て始めて國文・漢文(推古天皇の朝に天皇記・國記等の編纂ありしも蘇我氏の滅亡と共に焼失して伝わらず)の書籍出現し、學者また輩出せり。其の書籍中 國文のものには、萬葉和歌集・古事記(コチラ参照)・風土記・宣命文の類ありて、漢文のものには日本書紀(コチラ参照)・懐風藻・詔書・勅書の類あり。而して學者には、吉備眞備・阿倍仲麿の如く才學 最高きものあり。柿本人麿・山部赤人・山上憶良・大伴旅人の如く和歌に妙を得たるものあり。此の外 当時の歌を輯(あつ)めて懐風藻と題せし淡海三船・萬葉集を修めし大伴家持もまた著名なり。
〇奈良朝の音楽
三韓 我に服属せしより彼の學問・技藝伝来し、従いて楽人もまた渡来して推古天皇の時に百済の樂人 味麻之(ミマシ)我に帰化せり。其の後 唐との交通 漸く盛となるに及びて遣唐使も次第に派せられしかば、彼の國 当時の楽をも此の方に伝えたり。天智天皇の時より大寶年中に至りて令條の定るや、治部省の被管に雅楽寮を置き、其の職員に寮・頭以下の唐楽師・高麗・百済・新羅の各楽師等(以上の職員中 楽師・楽生は支那三韓の正楽・俗楽を教習して同じく公宴の用に充つる也)を設け、内外の楽を此の寮に掌(つかさど)る所となる。是より我が國の古風を大歌・立歌ととなへて厳しく朝會(会)に用ゐ久米舞・東舞等は大嘗會 若は大社の神事に行わせられ、唐及び三韓の楽は、仏會 若は内宴に用ゐ給うに至る。聖武天皇の時、天竺の僧 婆羅門(バラモン)渡来して佛法を弘むと共に、また彼土の楽をも伝う。天皇篤く佛教を信じ給い、東大寺 盧遮那佛の開眼式の大會を始として、斎會(さいえ)に唐土・三韓の楽を用ゐ給い、臣民もまた佛教を崇め心を之によするもの多くして上下 此の楽を弄ぶに至りたり。
〇奈良朝時代の學問・技藝の発達
奈良時代には奈良に大學あり、地方には國學ありて學問 大に進み 學者輩出して種々の書籍 著わる。中にも吉備眞備・阿倍仲麿・石上宅嗣・淡海三船等の學者 相踵(あいつ)いで出で、日本書紀・古事記・風土記・懐風藻・萬葉集などの書籍著述せられ、漸く學問の進歩と共に、醫(医)師・針師・按摩師・呪禁師の術 発達し、佛法の隆興に伴いて寺院・佛像の造作 盛となり、建築・土木の術 大に進歩したり。其の遺物は今尚 存し、1200年前の発達を見るを得べきなり。(尚 奈良朝の學問発達 及び音楽をも参照すべし)
〇奈良時代に於ける皇位継承の事變(変)
奈良時代に於ける皇位継承の事変とも云うべきは、聖武天皇の崩後 淳仁(ジュンニン)天皇の即位に至るまでの皇嗣の議なりとす。初め聖武天皇の崩じ給うや、遺詔して天武天皇の皇子 新田部王(ニイタベオウ)の子 道祖王(フナドオウ)を皇太子とし給う。然るに王 諒闇(りょうあん・天子がその父母の喪に服する期間)にありて素行修まらず、よりて天平寶宇 元年3月 之を廃し、更に群臣をして皇嗣を議せしめ給う。藤原豊成・同 永手等は道祖王の兄 鹽焼王(シオヤキオウ)を立てんとし、文屋珍努(フンヤノチヌ)・大伴古麿等は天武天皇の皇子 舎人親王の子 池田王を立てんとす。時に孝謙天皇の殊遇(しゅぐう・他より特別によい待遇)を得て勢力ある藤原仲麿(豊成の弟)あり、仲麿 之を叡慮に問いて、池田王の兄 大炊王(オオイオウ)を皇太子となすの勅命あるに至る。大炊王の妃は仲麿の亡男 眞従(マヨリ)の寡婦 粟田諸姉(アワタノモロエ)にして、仲麿の勤むる所なり。よりて此の勅命あるは、蓋(けだ)し仲麿の攻略に出でたるなり。尋(つい)で仲麿 無道にも漸く皇族を除かんとして流言を放ち、橘諸兄また其の禍にかゝらんとす。諸兄の子 奈良麿は廃太子 道祖王及び鹽焼王・大伴古麿等と謀り、皇太子と仲麿とを除きて黄文王を立てんとす。黄文王は、天武天皇の皇子 高市皇子の子にして山背王の兄なり。時に山背王 事によりて黄文王を怨むる所ありしかば、奈良麿等の謀を仲麿に密告す。是に於て謀成らずして道祖王・黄文王等多く杖死し、その他皆罪せらる。是より仲麿威権ますます熾(さかん)にして、孝謙天皇 御位を大炊王に禅(ゆず)り給う。淳仁天皇 是なり。後 仲麿 叛を謀りて誅せられ、淳仁天皇また淡路に還され給う。時に天平寶宇8年10月なり。
〇奈良 平安 両時代と江戸幕府時代との概況及び相違の点
既に奈良時代の文学の條に述べたる如く、奈良時代には漢学漸く盛になりて、吉備眞備・阿倍仲麿・石上宅嗣・淡海三船等の如き学者あらわれ、日本書紀・懐風藻等 漢文の書 編纂せられ、詔書・勅書の数また漢文なりき。平安時代に及び、其の初期は漢学 尚 盛にして、僧 空海・小野篁(オノノタカムラ)・都良香(ミヤコノヨシカ)・菅原道眞・三善清行(ミヨシノキヨユキ)・紀長谷雄(キノハセオ)等の學者輩出して其の名高く、凌雲集・文華秀麗集・扶桑集・本朝文粋(ほんちょうもんずい)・本朝麗藻・都氏文集・菅原文草等の詩文集もまた数多著われたり。漢文の國史には続日本紀・日本後紀・続日本後紀・文徳寶録・三代寶録 相続きて著われ、古語拾遺・令義解(りょうのぎげ)・三代格式等出でしが皆 漢文なり。されど國文は、此の時代に殊に隆盛にして、漢文やがて衰え、其の末期 武家の勢力 盛となりては、甚だ不振の状態となりたり。徳川家康の出づるや、学問の必要を感じて之を奨励し、夙(つと)に藤原悍窩(セイカ)・林道春を用い、大に心を文教に留め、之が興隆を図りき。是に於て學問 蔚然(うつぜん)として勃興し、学者輩出せり。而して林家は程朱の派(朱子学)を以て官學とし、すべての儒者は此の説を以て講ぜんとす。是に於て其の説を非として復古派は伊藤仁斎 其の子 東涯にて主唱せられ、古文辭學派には荻生徂徠ありて、其の門下に太宰春台・服部南廓・山縣周南あり。王陽明派には中江藤樹・熊澤蕃山あり。折衷派に井上蘭台・片山兼山あり。局外中立の地位に在る学者には木下順庵の門下なる新井白石・室鳩巢(ムロキュウソウ)・雨森芳洲等あり。また徳川光圀の學問奨励によりて、其の藩学 所謂 水戸學には、朱之瑜(しゅしゆ)・安積澹泊(アサカタンパク)・栗山潜鋒(クリヤマセンポウ)ありて諸派 各起るに至る。概して江戸時代は、実に儒学隆盛の時代にして、漢文學は貴族の手を離れて平民的となり、藩學の主要なる學問となりしなり。尚 奈良・平安 両時代の漢文は支那より輸入せられしものを習得するに過ぎずして、貴族社会に重に行われて詩文・詞華を主とせしも、徳川時代には研究的となりて、己に貴族の手を離れて平民一般に普及し、恰も実用的に力を注ぐに至れり。
〇天平時代
天平は聖武天皇の時の年号にして、神亀6年8月 改元せらる。かくて20年をへて孝謙天皇の時に、天平感寶と改元あるに至る。此の間に於て、佛教の盛なるにつれて美術・工藝 著しく進歩し、寺院の建築・佛像の彫刻・鋳造を始め、絵画・織物・刺繍・漆器等、皆 巧妙美麗の域に達せり。よりて美術史上よりこの時代を天平時代と云うなり。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑰ ~ 和氣淸麻呂(朝廷に於ける僧侶の勢力)

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◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑩ 佛教の興隆 美術・工藝の進歩

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ③ 崇神天皇と垂仁天皇

◆『ぐりとぐら』 『こどものとも』の児童書 福音館は反日出版社 ~ 天皇を貶め、自虐史観に満ちた子供向け絵本

◆日本人の美的センスは世界一!~日本人はジャポニスムを忘れてしまった?

◆戦前の小学歴史学習問題から ④ 仁徳天皇

◆仏教も乗っ取る、反日・フェミ・同和・在日朝鮮人 キチガイ勢力の猛威~ 部落差別につながるからと、廃止が進められる“お清めの塩”

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑧ 佛教の伝来と蘇我 物部 両氏の争

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑨ 聖徳太子 支那へ使節派遣

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑪ 蘇我氏の無道

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真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑮
奈良奠都 (史書撰修) 隼人 及 西南諸島の服属 (支那との交流)

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(2017.2.22)  (戻る)
今日は奈良 平城京奠都(てんと)、そして当シリーズの原典である國として初めての史書 古事記、そして日本書紀や風土記の編纂、南九州の服属まで達成され現在の日本列島がほぼ完成する流れになります。この後も蝦夷における反乱に対して坂上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられての征行などがありますが、その辺りは現代教育でも一応は教えられており、本シリーズにおける取り上げはいったんここまでとします(後にもう少し先までやる可能性ありますが)。これ以降の歴史は現代の歴史教育でも一応合ってるところもあるのですが、今回掲載分の直後、和気清麻呂や菅原道真のエピソード等、現代教育ではほとんど教えられていません。もちろん建武の中興などの正しい歴史についても。そういったものについては後に別途、本書や戦前の国史教科書等を元に取り上げていくつもりです。

現在の歴史教育では、奈良時代ぐらいまでの神代・古代とされる時代の部分は非常に浅くしか教えられていません。しかも皇統否定、朝鮮史観に偏向してますし。ここで掲載の参考書なら、千年以上前のことでも非常にリアル、現代人でもとっても身近に感ぜられたことと思います。今の作る会とかも工作員の巣窟と化してるし、あそこの教科書とかもムチャクチャですよ。ネットだって今や胡散臭くてアッチ臭い歴史サイトばかり氾濫してますが、昔の歴史学習書の掘り起こし、最も大事でとってもシンプルなことなのに今までそれを誰もやっていない。ここではそれをやっていきます。サファイア自らやってますよ。これは偉大な作業だと信じてますし、後にきっと、ここにあることはジワジワ広がっていくでしょう。そういうのさえ知っていれば、商業主義、小銭稼ぎでポコポコと売りに出されてるような歴史関係書なんてほとんど不要なんです。戦前の人々が学んでたものをまずは土台にしておく、それだけで今の教育で育った人々とは全然違った歴史観が持てますし、その上で独自探求を深めていけばいい。それだけのことです。
断絶された歴史を学び、戦前の人々の思いに通じてくださいませ。それでは今後とも、ご支援のほどよろしくお願いいたします。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

奈良奠都
元明天皇(天智天皇の皇女)の御即位―神武天皇以来の歴代遷都―國運の進歩―支那との交通頻繁―壮大の帝都の必要起る―和銅3年 奈良に奠都―結構 唐の制に倣う―條・坊の区画等完備(平城京の称)―建築の壮麗―政治の繁多―都下の人口増加―遷都の事 困難となる―光仁(こうにん)天皇に至る迄 七代70餘年間の帝都―奈良時代の称(奈良朝とも云う)。

和同開珎の鋳造
元明天皇の朝 武蔵より和銅を献ず―和銅と改元―和同開珎の貨幣鋳造―物々交換の代りに貨幣の適用―商業の進歩を促がす。

國史 地誌の撰修
稗田阿礼(ヒエダノアレ)古伝を暗記す―太安万侶(オホノヤスマロ)古事記を上る(和銅5年 歴史の始)元正(ゲンショウ)天皇(天武天皇孫女)元明(ゲンメイ)天皇に次いで御即位―舎人親王(トネリシンノウ) 日本書紀を上る(養老4年に成る漢文の國史)―六國史 成る―元明天皇の時 諸國より地誌を上る(地誌の始)―風土記。

隼人の服属
九州南部の隼人―其の一部の反乱―元正天皇の時また騒擾(そうじょう)す―大伴旅人(オホトモノタビト)の隼人平定―隼人の服従。

西南諸島の服属
掖久(やく・屋久島)・多褹(たね・種子島)・奄美(推古天皇の朝より)人の来朝―文武天皇の時に度感(吐噶喇・トカラ)内附す―元明天皇の時に信覺(信覚・しがき・石垣島)・求美(くみ・久米島)の諸島 服属す―西南邊陲(へんすい・くにざかい)の地 皇化に服す。

支那との交通
支那との國交回復―文武天皇の時 粟田眞人(アワダノマヒト)以下 遣唐使を命ぜらる―使節の往来 頻繁―留学生・留学僧の入唐―当時 使船の航路。


〇神武天皇以来 歴代遷都
上古の世は諸事なほ冠位にして質樸なるが上に、建築の衛も甚だしく進歩せざりき。されば宏大なる都城を経営するの必要なきのみならず、遷都のこともまた頗(すこぶ)る容易なりしかば、神武天皇 橿原(かしわら)の地に宮殿を営み給いしより、歴代大抵都を改められ、殆ど之が慣例(なれ)の如くなりしなり。
〇奈良京の條・坊
奈良の都は元明天皇 和銅3年の遷都にして、之を平城京と云う。今の奈良市の西に在りしなり、此の都域は規模 頗る宏大にして、東西約四十町南北四十五町に及び、羅城(らじょう)を周囲にめぐらし、南面に羅城門を設く。大内裏は北部に在りて、其の大内裏より南面 羅城門に至れる中央に大道あり、之を朱雀大路(すざくおほぢ)と云う。此の朱雀大路を以て、東西両京に分つ。其の東を左京と云い、其の西を右京と云う。條・坊の区画は後の平安京が、八戸を行とし、四行を街(または町)とし、四街(または四町)を保とし、四保を坊とし、四坊を條とし、條を九條になせるに、ほぼ同じとす。
〇七代七十餘年
古来 奈良の朝を七代七十餘年と称す。その七代は、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の御七代を云い、七十餘年は和銅3年より桓武天皇の延暦3年 山城の長岡(乙訓部向日町)に遷都ありし迄、七十五年に渉(わた)れる間を概称せるものなり。此の時代を世に奈良の朝とも、奈良時代とも云う。(尤も以上の御七代中 聖武天皇は恭仁宮・難波宮に居給い、淳仁天皇は保良宮(ほらのみや)に居給いしことあるも皆 一時のことなりしなり。)
〇和同開珎
此の銭貨は和同年間に鋳造せしを以て此の名あり。銀と銅との二種ありて、銀銭は径八分重二匁一分強、銅銭は径八分重一匁、銀銭一文は銅銭四文に当る(匁・もんめは尺貫法による重さの単位。一匁は一貫の千分の一。三・七五グラム)。和銅元年5月、始めて銀銭を行い、同年8月 銅銭を行う。此の開珎の珎の字を珍とせる説あれども、寶(宝)となすをよろしと信ず。
〇物々交換
上古は諸事簡易にして、すべて交易には互に物品を以てして、貨幣の媒介によるの必要起こらず、従いて未だ鋳銭(じゅせん)の事あらざりき。されど早くより、支那・朝鮮の銭の我に伝われるありて銭のこと古書に見えたり。其の後、世事 漸(ようや)く複雑に向うに及びて、貨幣の便あること知られ、持統・文武両天皇の御代に、鋳銭司(じゅせんし)を置かれし事ありしも、なほ普(あまね)くは行われざりき。元明天皇の御代に、和同開珎の鋳造せられ、奈良朝の頃より、銭貨の使用を奨励せられなどして、次第に之を用うるに及び、物々交換の不便を減じて、商業などの進歩を促がすに至れり。
〇稗田安禮(阿礼・ヒエダノアレ)
天武天皇の御代の人なり。人となり聡明にして、目にわたれば口によみ、耳にふるれば心に勤(しる)すと云う。天皇 諸家に伝えたる帝紀など既に正實(実)にたがい、虚偽を加うること多く、其の失を改めざれば、久しからずして其の旨の亡びんことを憂い給い、安禮に勅して帝皇の日継(皇位を継承すること)及び先代の旧辞(古事記や日本書紀以前の歴史書)を謡習せしめ給う。安禮 時に年28、和銅4年に至り、元明天皇 太安麿(オホノヤスマロ)に詔して安禮がよむ所の勅語の旧辞を撰録して上らしめ給う。之を古事記と云う。
〇太安麿(太安万侶・オホノヤスマロ)
神武天皇の皇子 神八井耳命(カンヤイミミノミコト)の後なり。文武・元明・元正の三天皇に仕え、累進して従四位下に叙せられ、氏の長者となりて後 民部卿に拜(拝)す。元明天皇の和銅4年9月、古事記修撰の詔をうけ、翌年正月成りて献上す。養老4年5月、舎人親王等と勅を奉じて日本書紀を修む、成りて之を上る。養老七年七月卒(しゅっ)す。
〇古事記
上中下三巻より成りて書体は漢字の音訓を並び用い、専ら古伝旧聞を其の儘(まま)に録せんことを勉む。我が國 開闢(かいびゃく)より推古天皇に至る迄の事を記せる歴史にして、我が国に現存せる史籍の最も古きものなり。上巻は天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)より彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)以前、中巻は神武天皇より応神天皇以前、下巻は仁徳天皇より推古天皇までの各の事蹟を記せり。元明天皇 和銅5年正月28日、太安麿が稗田安禮より聞き取りたるものを修めて上りしものなり。此の古事記に本居宣長が注釈詳解をなしたる四十八巻を古事記伝という。
〇舎人親王
天武天皇の第三皇子(或は六皇子とし或は五皇子とす)なり。文武天皇の御代に親王となりて二品に叙し、元正天皇の養老2年一品に進む。翌3月 優詔ありて封八百戸を加え前と通じて二千戸(一品は八百戸を定とす)を賜わる。さきに勅を奉じて修むる所の日本書紀、養老4年に至りて之を上る。此の年8月知太政官事(ちだいじょうかんじ)となり、聖武天皇即位に及び封五百戸を増し、天平七年に薨す。年60。詔して太政大臣を贈り給いしが、御子 淳仁天皇即位に及び、天平宝字3年 崇道尽敬(スドウジンキョウ)皇帝の號(号)を上り給えり。
〇日本書紀と六國史
日本書紀は三十巻より成り、神代より持統天皇に至る迄の事実を漢文にて編年体に記せる正史なり。神武天皇以下歴代の記述は、古事記より詳なれども、支那の史記・漢書等に則りて彼の人にも見すべきように漢文を用いたれば、文飾に流るゝの欠点あり。一品 舎人親王 勅を奉じて太安麿等と之を撰修し、養老4年5月に至りて此の三十巻と系図一巻とになし、之を献上せしなり。此の書は菅野真道(スガノノマミチ)等の撰なる続日本紀(文武天皇元年より桓武天皇 延暦10年に至る)藤原緒嗣(オツグ)の撰なる日本後紀(桓武天皇 延暦11年より淳和(ジュンナ)天皇 天長10年に至る)藤原良房の撰なる続日本後紀(天長10年より嘉祥3年に至る)藤原基経等の撰なる文徳貫録(嘉祥3年より天安2年に至る)藤原時平等の撰なる三代実録(天安2年より仁和3年に至り)と共に本朝の六國史と云う。
〇風土記
諸国の土地の肥塉(ひしゃく・塉は痩せ地の意)及び山川原野名號の源由、また古老相伝の旧聞異事、竝(並)に各地より出づる産物等を漢文にて記したる我が國 最古の地誌なり。元明天皇 和銅6年5月、始めて諸国に令して此の風土記を上らしめ給いしより、諸国 漸次に之を上りしなり。今に伝われるは、常陸・出雲・播磨・肥前・豊後の五風土記のみにして、他は散佚(逸)して存せず。
〇隼人
上代に九州の南部 大隅・薩摩地方に住みし人種なり。其の性質 頗る勇猛にして敏捷(びんしょう)なりしより之を隼人(はやと)と名づく。日本書紀に、隼人は彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト・山幸彦のことである)の御兄 火闌降命(ホノスソリノミコト・つまり海幸彦)の裔と見えたるより之を大和民族となし、また熊襲と同地方に住み而も正史に熊襲を記せざるに及びて隼人のことを記せるを以て之を同種族となし、また熊襲・隼人 同種族の証なきを以て、大和民族にも熊襲・隼人 両種族にもあらざる種族となせるあり。
〇大伴旅人
大納言 安麿の長子なり。元明天皇の御代に正五位上に叙せられ、累進して元正天皇 霊亀(れいき)元年従四位上 中務卿となり、養老2年中納言に拝し正四位下 山背(山城国)攝官となる。時に大宰府の隼人反して大隅の國守を殺す、旅人 征隼人持節大将軍となりて之を平ぐ。同五年 功を以て従三位に叙せらる。此の年 元明天皇崩じ給い、旅人 山陵の事を監す。聖武天皇の神亀(じんき)の初年、正三位に叙せられて山城の國事を兼知せしが、出でて大宰師となる。天平二年、召し還されて大納言となり、翌年 従二位に叙せられ尋(つい)で薨ず。年67。旅人文才あり、また和歌をよくす。
〇奈良時代の歴史・地誌の撰修
安麿の著なる古事記、舎人親王・太安麿の著なる日本書紀、諸国より上らしめられたる風土記 是なり。
〇奈良朝の重要著作
古事記・日本書紀・風土記の外、萬葉集・懐風藻(かいふうそう・現存する最古の日本漢詩集) 等なり。

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◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑱ 平安奠都 蝦夷の鎭定

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◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑦ 朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑤ 朝鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

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