日本の面影

Glimpses of Japan
失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

古代日本史における朝鮮半島の倭国領を歴史から取り返さなければならない!
~ 朝鮮に文化をもたらし、古代朝鮮半島南部を支配した倭人

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(2013.10.22)
白村江の戦い(663)で倭国・百済連合軍を滅ぼした新羅マンセーは論外ですが、私は新羅も高句麗も、日本人からすればどっちも朝鮮人だと思ってるので、高句麗人のことを「朝鮮人ではない」とムキになって言うような人は、北の工作入ってる人ではないかと疑います。私は、北朝鮮は高句麗、南朝鮮(韓国)は新羅のゆかりで今につながってると考えてるし、日本人(倭人)からすれば、新羅人も高句麗人も外国人でしかなく、私からすれば共に朝鮮人でしかありません。
高句麗の支配域は北朝鮮に、百済を滅ぼした際の新羅の支配域は韓国にほぼ重なります。だから朝鮮は元から決して同一民族なんかでなく、北と南で二国に分かれているのは理に叶ってるわけです。韓国特有の火病については、北朝鮮より新羅系の韓国に多いのでしょうね。

百済はもともとプヨ族中心だったところに、高句麗などとの対抗上、倭国が強力に支援し始めてから、倭人中心の国になり、王家も倭系になったと見なしてます。百済王族には多くの倭人が嫁いだと思いますし、百済の王を代表する武寧王も倭国の生まれであり、倭人同然といえましょう。

逆に新羅の建国が一部の記録通り、初期の王族 朴氏・昔氏が本当に倭系だったとするなら、後の金氏が今の朝鮮人であり、事実、金氏の代から新羅と倭国の対立は激しくなり、新羅は完全に金氏朝鮮人に乗っ取られ、百済を滅ぼして朝鮮半島を統一したのだと見なしてます。
わかりやすく言えば、百済は倭人が乗っ取った国、新羅は朝鮮人に乗っ取られた国とも言えましょう。だから結果として百済は倭人の国であり、新羅は朝鮮人の国なのです。

そして新羅には女王が治めていた時期があります。優秀な宰相がいればまだいいのですが、女王はいろんな意味でアチコチからちょっかい出されて利用されやすい。対外政策をコロコロ変えながらも後に滅んでしまった新羅はじめ、これら古代朝鮮の歴史を見ていくと、当時から日本ではどうして男系継承にこだわっていたのか、古代の日本人、天皇の思いが貴方にも見えてくるかもしれません。

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(2012.4.13)  (戻る)
有名保守サイトとされてる偽装愛国工作サイトで、上っ面では日本人をさんざんマンセーしていながら、肝心な日本人のルーツの部分をよく見ると、日本人が海を渡って新羅の民族になり朝鮮人の国 百済を滅ぼしたとか、古事記の編纂者 稗田阿礼の書いた字がハングルになってたりとか、メチャクチャされてることに気づいたので、古代朝鮮半島に関しての話をこのところTwitterで書き綴ってました。

元々、古代朝鮮半島南部の支配者・先住民は倭人であったのに、高句麗らの朝鮮人が南下してきて新羅がいち早く高句麗に従属し、後に強大な唐と結んだ新羅の勃興で徐々に半島が朝鮮人に押さえられ、日本は日系 百済と共に白村江の戦いで敗れて朝鮮半島の覇権を失ってしまった
半島に取り残されてしまった倭人(日本人)のうち男は殆ど殺されたろうが、残された女子供が奴らの好き放題されたとすれば、朝鮮人の側に、倭人(日本人)のDNAを持った末裔が多数残されていることになる。

日本本土で朝鮮人のDNAを持つものは少数だろうが、あっち側には日本人のDNAを持ったものが多数いるとなれば、中には優秀な朝鮮人もいるのは、こういった理由からに思える。

すべてが朝鮮人起源と主張する、あっち側のファンタジー史観では、朝鮮半島から海を渡った朝鮮人が日本本土で豪族となり天皇も現れて日本を支配していった・・・しかし事実は全く逆で、現実はもともと先に半島にも多数いた日本人を、奴ら朝鮮人がシナと組んで侵略し、日本人のDNAを持った人々が朝鮮半島内、今の奴らの側に多数残っていることになるわけで、すべてが朝鮮起源なんてバカげた主張してる奴ら朝鮮人が、朝鮮半島での文化も実は日本人起源だったなんて、それを認めることになってしまえば、奴らの方こそ民族の根幹が揺るがされ、天地がひっくり返るような事態になってしまう

奴ら朝鮮人がこれほど必死になって日本人を貶め、朝鮮優位・朝鮮起源説を執拗に騒ぎ立てるのは、こういった、実際は古代朝鮮半島における文化発祥が日本人起源である歴史事実を完全に否定しないと、奴らの存在基盤が否定されることになりかねないからであろうように思える。

朝鮮人、特に朝鮮マンセー史観の識者なんかがこれ読んだら、図星でファビョる人が続出しそう。
古代朝鮮半島における日本人の歴史を取り返さないと、寝惚けた日本人はルーツをまるごと朝鮮人に奪われますよ。ねぶたや剣道どころでなく、あらゆる日本文化も天皇も日本人のルーツから何から何まですべて奴らに奪われます。

以下は昨日、古代朝鮮半島における倭人と朝鮮人の情勢について、twitterで私が呟いたものの一覧。

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百済・任那・新羅の勢力圏内で大量出土のヒスイ製勾玉。古代において東アジアには日本の糸魚川周辺のヒスイ工房しかない。化学組成検査により朝鮮半島で出土のヒスイが糸魚川周辺のものと同じと判明。倭国から朝鮮半島へ文化が流れていたことは明らか、というより当時の半島南部の支配者は倭人だった

朝鮮半島で見つかった日本固有の前方後円墳は5~6世紀のもので、日本本土には3世紀から前方後円墳があり、日本から朝鮮半島へ高度な文化が流入したことは明らか。百済・任那・新羅一体の朝鮮半島南部の支配者は倭人だった。高句麗らの朝鮮人が南下してくるまで

狗邪韓国(くやかんこく)は、3世紀中ごろ、朝鮮半島南部に存在した倭国の領土で倭人のいた地域。中国の正史「三国志」「後漢書」に登場。日本府 任那の前身。狗邪韓国は倭国の北岸であり、韓(馬韓・辰韓・弁韓の三地域)と倭は接している(陸続きである)と記述されている。当時は海の向こうも日本

倭国領 狗邪韓国(くやかんこく) http://bit.ly/IFg9PN のみならず、古代朝鮮半島の三韓地域(馬韓・辰韓・弁韓)には、多数の倭人、倭人の風習を持つ民族が各所にいた http://bit.ly/HzKT9q 当時から朝鮮半島南部全体が日本文化圏にあったのである

百済は朝鮮半島の倭系豪族が強大化して王族になったものと考えればいい。本土倭国の属国だったともいえる。高句麗を撃退した武寧王は九州で生まれ(日本書紀)、百済人は日系であり、渡来人なんて呼ばれてるものは半島にも多数いた日本人だったにすぎない。百済の優れた仏教美術も日本人。朝鮮人にそんな技術はない

新羅の地は南下した高句麗に早くから従属、朝鮮人にいち早く乗っ取られ、ソウル一のホテル「シーラホテル」に代表されるように、新羅(シーラ)は朝鮮人のシンボル的存在。韓国には新羅(シーラ)を冠したものが多数あるが、百済を冠したものは殆どない。朝鮮人は新羅が好きだが倭系の百済が嫌い

新羅も402年、倭国に奈忽王の子 未斯欣を人質に送って倭国の属国となり(三国史記)、一時は百済・新羅とも日本の属国だった。百済と新羅は友好関係にあったこともあるが後に激しく対立。新羅と高句麗は敵対したり手を結んだり、倭国・百済についたりシナ側についたり、当時から動きが激しい

百済も一時、高句麗の進撃に押されて高句麗についたことあるが、日本から送った武寧王の出現で高句麗を撃退した(6世紀初め)。倭国(日本)は古代においても当時から朝鮮半島諸国を服属させ、支配権を得るほどの強国だったのだ

高句麗・新羅は共に朝鮮系で、百済は日系に近いと考えればよい。新羅の朝鮮半島統一で日系 百済のみならず高句麗も滅ぼされるが、その後の新羅を滅ぼした高麗は高句麗系の末裔のようで高句麗復興を図った。朝鮮人には当時から北系(高句麗)と南系(新羅)があったと考えればよい
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上記、『後漢書』(5世紀初頭)にある「狗邪韓国は倭国の北端」とする東夷伝倭人条の記載。
「倭は韓の東南、大海中の山島によっており、およそ百余国ある。(前漢の)武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼしてから、三十余国が漢に使訳を通じてきた。国では皆が王を称することが代々の伝統である。そこの大倭王は、邪馬臺国に居する。楽浪郡からその国(邪馬台国)へ去ること一万二千里、その(倭の)西北端の拘邪韓国へ去ること七千余里。その地はだいたい会稽郡東冶の東にあり、朱崖や儋耳と相似しており、その法俗も多くが同じである」

また、倭国領 狗邪韓国があった3世紀頃の三韓(馬韓・辰韓・弁韓の三地域)時代についての記録は魏志韓伝にも残ってます(くわしくはこちら参照)。
当時の三韓諸国(全部合わせると80カ国ほどになる)の人々が、倭人と共通・関係すると思われるいくつかの記述は下の通り。

辰韓 ・弁韓とともに鉄の産出が多く、韓は無論、倭もワイ(高句麗人)も採取にやってくる。
    ・男女とも倭(人)に近く、文身をしている。
    ・戦いは歩戦で行う。
    ・城柵がある。

弁韓 ・馬韓や辰韓には無い城郭がある。
    ・衣(食)住は辰韓と同じであり、言葉も法俗(しきたり、慣習)もよく似ている。

馬韓 ・各国には長帥がいて、大国の君主は「臣智」、小国 の君主は「邑借」という。
    ・国中の邑々には「天君」という司祭がいる(「天君=あめぎみ」と読む可能性がある)。

尚、辰韓は後の新羅、馬韓は後の百済、弁韓は後の任那の地域に、ほぼ重なります。
ちなみに狗邪韓国は朝鮮半島の最も対馬に近い位置にあったと思えるし、そこから邪馬台国までの道筋についての記録は右図のように残っている。

尚、フェミや左翼が女王だったと大騒ぎして利用しようとする邪馬台国の卑弥呼ですが、実は卑弥呼が女王だったわけでなく、女神 天照大神を祀る今の天皇であったにすぎないのではないかという件について。
実際は下の投稿内容のような感じだったように私も思えてしまう。シナが邪馬台国と呼んだのも、倭国(大和国・ヤマトコク)のことでしょう。
邪馬台国が、九州だの畿内にあっただの、どうでもいい論議で大騒ぎしてるのも左翼の攪乱工作っぽいし・・・

戦前の歴史教育の識者と思え、この方の歴史に関する投稿は注目に値するものが多いです。
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2012/ 3/30 18:08 [ No.4789587 / 4813097 ]  天命  (Yahoo!掲示板より

邪馬台国の卑弥呼というのは【日の御子】で、天照大神をお祀りする現存の天皇であった。

このことを日本の古代の役人が、歴史と伝承を混ぜ合わせながら、いまの福岡県の入り口まで来た中国からの使者に語った。それが魏の国の使者には、歴史のように聞こえたのであろう。 それをもとにして【魏志倭人伝】が記された。

不確実性の上にファンタジーを繰り広げれば、そう理解することもできる。
(投稿者のID/ニックネーム:tennmeitennmei)
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【古代日本史 関連記事】

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◆消し去られる朝鮮半島の日本府 任那 ~ 子供を日本人でなく地球人に育てる驚愕の社会科教科書

◆古代日本が朝鮮半島を領有していた事実をもっと広めなければなりません

(続き)◆『日本書紀』より、「(古代朝鮮半島の日本府)任那滅亡」

(始めから)◆竹島を武力行使で即奪回せよ! そして、まずは容易に取り返せる古代における朝鮮半島の日本府“任那”を日本史上に奪還し、日本人に再教育せよ! ~ 韓土の日本領も奪回! 朝鮮半島にある前方後円墳

◆『昔の日本はアメリカと同じくらい広かった!』~ 日本人としての自信を持たせた祖母の言葉

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(2012.11.2)
日本人の、縄文人と朝鮮半島から渡ってきた弥生人混血説を裏付け 遺伝子解析で
2012.11.1 中国新聞
日本列島の先住民である縄文人と、朝鮮半島から渡ってきた弥生人とが混血を繰り返して現在の日本人になったとする「混血説」を裏付ける遺伝子解析の結果を、総合研究大学院大(神奈川県)などのチームがまとめ、日本人類遺伝学会が編集する1日付の国際専門誌電子版に発表した。
これまでも同様の研究結果はあったが、今回は1人当たり最大約90万カ所のDNA変異を解析し、結果の信頼性は非常に高いとしている。
チームはこれまで公開されている本土出身者(主に関東居住者)、中国人、欧米人など約460人分のDNAデータに、アイヌ民族と沖縄出身者の計71人分を新たに加えて解析した。その結果、アイヌ民族と遺伝的に最も近いのは沖縄出身者で、次が本土出身者と判明した。本土出身者は韓国人とも近かった。
この結果は、日本人全般が縄文人の遺伝子を受け継いでいる一方、本土出身者は弥生人との混血の度合いが大きく、混血しながら北海道や沖縄方面に広がっていったと解釈できるという。
日本人の起源は縄文人がそのまま各地の環境に適応した「変形説」、縄文人を弥生人が追い出して定着した「人種置換説」も知られているが、総研大の斎藤成也さいとう・なるや教授(遺伝学)は「研究結果は混血説のシナリオに一致した」と説明している。
チームは今後、縄文遺跡で見つかる人骨のDNAを分析するなどし、日本人のルーツの解明を進める。

◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆

ホラホラキタキタ 日本人の朝鮮由来説の捏造持ち上げ!
どこの誰かも知れない胡散臭い研究集団、こんなことまで必死に各誌で報道して、奴らはこうやって、日本人のルーツを根こそぎ奪っていくんだよ。ルーツさえ奪えば日本がどんなに立派な文化を持っていようとも、奴らはすべて朝鮮由来だって教えられるからね。
だから慰安婦や南京問題なんかより、こっち古代史の方が何百倍も重大なの。古代史に敏感であれ!

「今から千年以上前の古代史なんてどうだっていいじゃん。本当かどうかも怪しいものだ」なんて思ってる人いそうだけど、古代の歴史書を冒涜するのは、今、現代のことで教えられてるものが1000年経ったら「こんなのウソ、きっと作り話ばかり。」なんて言われて、今リアルに起こってる歴史についての記述がすべて葬り去られるのと同じことなんだからね。
日本書紀にしろシナの歴史書にしろ、当時の人々がリアルで書いたものなわけで、古代当時の彼らがどれだけ精魂込めて、真剣な思いで書き綴ったものであるか、それをよく考えてね。だから古代・過去も現代も未来も、全部同じ、つながってるんだよ。古代を大切にしないのは、現代人の思いを未来で葬り捨て去るのと同じなんだよ。

大体、上の報道の弥生人が朝鮮半島から海を渡ってきたなんてのはデタラメだし、古代当時は全く逆で、史実の通り、日本本土から海を隔てた朝鮮半島南部にかけて日本人が支配していたというのが事実。

古代でこれだけの史実が残っていて、朝鮮人と日本人は何の関係もない全く別の人種だ、なんてのはありえないんだよ。
奴ら朝鮮人側の主張は日本のルーツがすべて朝鮮にあるのだと・・・ネトウヨや情報弱者は短絡的に反発して、「日本人と朝鮮人は全く別の人種で何の関係もない」なんてヌカスけど(確信的な攪乱工作員もそう持っていく)、本当は奴ら朝鮮のルーツこそが日本人由来のものが多数あるのだということ。古代朝鮮半島の覇権争いで日本が勝利していれば、今の朝鮮半島も日本人の国だったわけだろうけど、要するに今の朝鮮人ってのは日本人になりそこなった、中途半端にしか日本人の血の混じってない、いわば出来損ない民族なんだってこと。この事実を知れば奴らはファビョるし、それが広まるのを恐れて、ありもしない朝鮮ルーツの捏造プロパガンダ、日本叩きをあれだけ必死にやってるってこと。そうしないと、奴らのいう“朝鮮民族(韓民族)”というのは消滅してしまうわけなんだから。

それと、古代朝鮮半島の日本領 任那が新羅(朝鮮人)に滅ぼされたこととか、子供たちにシッカリ教えろよ! 欽明天皇の命の元、新羅と戦って散った古代日本の英雄 イキナのことも!
そして、日本はイザナギ様とイザナミ様によって作られた国であるぞよ。

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◆戦後の歴史教育を捨てよう。 歴史教育 再興 ① 永久保存版 戦前の国史(日本史)学習年表

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑦ 朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑤ 朝鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

◆天照大神が女神だからと女系天皇を主張するノーナシ左翼を一網打尽に論破、撃沈さす! ~ 男系継承を堅持したアマテラスとスサノオの子供たち

◆仏教も乗っ取る、反日・フェミ・同和・在日朝鮮人 キチガイ勢力の猛威~ 部落差別につながるからと、廃止が進められる“お清めの塩”

◆誰か石原慎太郎さんの朝鮮史観洗脳を解いてあげて! ~ 石原さん、日本人のルーツ観が間違ってますよ!

◆萌え系 日本神話がひどい件

◆亡国のシナリオ ② ~ 日本を、過去に滅んだロマノフ朝やハプスブルク帝国になぞらえたパターン

◆エセ保守 捏造ノスタルジーの映画『ALWAYS 三丁目の夕日』について

◆国旗、国歌だけあっても最低の入学式 ~ 追記 仕組まれたコロナウイルス騒ぎによるシナのシステム Zoom強制導入によるオンライン授業開始と9月入学制度

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この上なく高貴だった日本女性 ~ 明治の武士

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(2020.1.15)
明治天皇の崩御に続いた乃木将軍夫妻はよく知られていますが、下記は、前にも紹介した、小泉八雲『東の国から・心』(恒文社)より(詳しくは右画像クリック)。
◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆
【勇子】
――ひとつの追憶――
    明治二十四年五月

誰か世に烈婦を見いだしべけんや。烈婦は価高くして、津津浦浦にいたるも、容易にあることなし。 ――ラテン訳聖書

「天子様御心配。」天の御子が宸襟(しんきん=天子の心)を悩ませたもうておられるのである。
町には、いつにない、異様な静けさがあった。万民、ことごとく喪にあるごとき、粛然たる静けさである。
(略)
「天子様御心配。」このお触れを聞いたとき、とっさに勇子の心に、響きの応ずるごとくにうかんだ考えは、自分もなにか献上したいという、燃えるような願いであった。――この願いは、矢も楯も待っていられないほど、抑えがたいものであったが、しかし、自分はいま、他家に奉公中の身である。自分のものといっては、一物も持っていないのだから、せめてお給金のうちから、ごく少しずつでも貯金でもしないことには、とうていそれは、望んでも甲斐ないことであった。けれども、それでもなんとかして、という願いは、かたときも念頭を去らない。
(略)
夜が明ける。勇子は、お日さまをおがむ。さて、早朝のしごとをすませてしまうと、勇子は、しばらくお暇を下げていただきたいと申し出た。それが許された。やがて、勇子は、とっておきの一張羅の晴着を着て、よそゆきの派手な帯をしめ、はきおろしの白足袋をはく。天子様に自分の一命をささげるのに、これならこどから見ても恥ずかしくないという身なりをととのえるためである。それから一時間ののちに、勇子は、すでに京都をさして旅にのぼっていた。汽車の窓から、勇子は、うつりゆく景色を眺めて行く。天気は上上吉である。はるか遠いかなたの方は、うっとりと眠くなるような春霞が、うす青くたなびいて、よもの眺めはいかにものんどりとしている。勇子は、遠い自分の先祖がそれを見たと同じように、生まれた国の美しい景色を眺めながら行った。西洋人の目には、古い日本の絵巻物に繰り広げられる、妖しい美しさによる以外には、見ることのできない、この国の美しさである。勇子は、しみじみ、生きていることのよろこびを感じた。が、しかし、その生が、自分が生きながらえることができた場合、さきゆき、どんなにそれが貴重なものになるだろうかということは、夢にも考えないのである。自分が死んだのちも、世界はあいかわらず、いままでのとおり美しいままでのこるだろうと考えてみても、べつに、どうといって悲しい気持もおこらない。仏教徒の厭離遁世などという考えも、べつだん、勇子の心を圧してはいない。ただひとすじに、勇子は、昔からある神道の神々に、わが一身をゆだねているのである。その神々は、いまも車窓から見える、鎮守の森のうすぐらい奥、小高い山の上の古い社から、にこやかな微笑を勇子におくっている。それが、みんな、あとへあとへと飛んでゆく。そうして、おそらく、そうした神々の中で、ただひと柱の神だけが、いま勇子のからだに宿っているのだ。
(略)
自分が死んで、黄泉(よみ)の国の家の広座敷で彼女の来るのを待っている身内のものに逢えば、まっさきに、こういわれるだろう。――「おぬし、よくぞやったのう。――それでこそ、サムライの娘じゃ。さあ、上がれ!こよいは、そなたのために、神々もわれわれとごいっしょに御会食下さるぞ!」

勇子が京都に着いたのは、昼であった。彼女は、なによりもまず宿を見つけて、それから、腕のきいた女髪結の家をさがした。
「おそれいりますが、これをよく研いでいただきたいのですけど……。」そういって、勇子は女髪結に一挺の小さな剃刀をわたした。(剃刀というものは、女の身だしなみには、なくてはならぬ道具である。)「研ぎ上がるまで、わたくし、ここで待っております。」そういって、勇子は、いま買ってきたばかりの新聞紙をひろげて、帝都の記事を読みはじめた。勇子が新聞を読んでいるあいだ、店のものたちは、親しずからにうっかり声もかけられないような、しとやかなうちにも、どことなく犯しがたい、凛としたところのある勇子のようすに気おされて、みな、ものめずらしそうに、彼女のことを遠巻きに眺めていた。勇子の顔は、がんぜない三つ子のそれのように無心であったが、新聞に出ている聖上御憂慮の記事を読んでゆくうちに、肚(はら)のなかでは、しきりと先祖の御霊(みたま)がちくちくとうごいていた。「早くわたしにも時節がくればいい。」これが、先祖の御霊に答える、彼女の存在であった。「でも、なにごとも、早まっては駄目。じっと待つこと、じっと待つこと。」やがて、注文どおり、手落ちなく研ぎ上げられた小さな剃刀をうけとると、勇子はわずかばかりの代をはらって、それから宿へ帰ってきた。
宿で、勇子は、二通の書面をしたためた。一通は、自分の家にあてた書き置き、一通は、帝都にある高官にあてた、りっぱな訴願状で、これには、自分は数ならぬ賤(しず)の身であるが、正(まさ)なき非行のつぐないのために、みずからすすんで、うら若い一命をささげまつる。願わくは、わが微衷のほどを酌まれて、どうか天子様には御宸襟のおん悩みをしずませられ給えかしと、切々の祈りが書きこめられた。
勇子が、ふたたび宿をたちいでたのは、夜の引きあけの、ちょうど空もまだ今が暗いさなかという時刻であった。おもては、墓地のようにしんとしずまりかえっていた。町の灯かげもちらりほらりで、その光りもうすれていた。自分の下駄の音だけが、いやに高く耳につく。見ているものは、星のかげばかりであった。
まもなく、御所の奥ふかい門が、勇子の目のまえにあった。まっくらなその影のなかへ、勇子はそっとしのびいって、口のうちに祈祷をとなえながら、そこにぴたりと跪坐(きざ)した。それから、古式のとおりに、丈夫で、しなやかな絹の腰紐をほどくと、着物の上からぎゅっとそれでからだを結わえて、ちょうど両膝の上のところで結び目をとめた。それは、かりにもサムライの娘ともあろうものが、自分には無意識な苦悶の刹那に、たとえどんなことが起ころうとも、手足をとりみだした、見苦しい死にざまを見せてはならないためであった。支度がすむと、勇子は心を澄まし、手もと狂わず、ひと突きに、吭笛(のどぶえ)をかき切った。切り口からは、血がどくどくと脈を打って噴きでた。サムライの娘は、こういうことに、けっして手もとをあやまるようなことはない。動脈と静脈のありかを、ちゃんとこころえているからである。

日がのぼったころ、巡査が勇子を発見したときには、彼女は、もうすっかり冷たくなっていた。例の二通の遺書と、それに、五円なにがしかはいっていた(この金で、勇子は、自分を埋葬してもらうつもりでいたのである)貧しい小さな財布とが発見された。やがて、死体とこまこました遺品とは、人の手によって取りかたづけられた。

ことの顛末は、ただちに、電光のごとく、数百の都市につたえられた。
帝都の各大新聞は、この報道をうけとると、冷眼皮肉な、世の中の裏ばかり見たがる記者たちは、思い思いに、あらぬ想像を馳せて、こうした犠牲的行為にありがちな動機――かくれた罪状とか、家庭の悩みとか、失恋とか、そういうものを探しだそうとして躍起になった。けれども、そういうものは、なにひとつ発見されなかった。勇子のひとすじな生活の中には、匿された秘密も、弱味も、汚名も、なにもなかったのである。ひらきかけた蓮の花の清らかさ、それさえ、勇子の操にくらべれば劣るものであった。そこで、冷酷皮肉な記者たちも、サムライの娘にふさわしい、りっぱなことだけを、記事に書くよりほかに手がなかった。
天の御子も、このことを聞こし召されて、民草が、いかに陛下のことを愛し奉っているかを知ろし召されて、おそれ多くも、以後、宸襟を悩ませられることをとどめられたもうたのであった。
時の大臣たちも、王座のかげで、たがいに囁きあった。「将来、いろいろに物は変ってゆくだろうが、しかし、国民のこの赤心だけは変るまいな。」[赤心(せきしん)=嘘いつわりのない、ありのままの心]

それにもかかわらず、政府は、例の高等政策というやつで、頬かぶりをして、いっさい知らぬ顔をしてすましたのである。

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◆高貴だった日本女性 ~ 子供の想い出を胸に生きる 阿弥陀寺の比丘尼 小泉八雲『心』より

◆陛下の靖国参拝こそが核心。総理や閣僚の参拝は本質問題ではない

◆本物の“大和撫子”入門 ③ ~ 我の否定、徹底した自己犠牲精神 新渡戸稲造『武士道』より

◆敗者の名誉を重んじた日本人 ~ 日本で切腹が存在した意味

◆日本人の歴史の血と骨であった仇討ちについて真剣に考えてみよう

◆ヘナチョコ男とパッパラパー女はいらない ~ 命とは尊く儚いもの

◆日本女性の魅力を引き出す、着物での美しい所作、歩き方 ~ 映画『忠臣蔵』より

◆戦後の歴史教育を捨てよう。 歴史教育 再興 ① 永久保存版 戦前の国史(日本史)学習年表

◆本当の浦島太郎は……

◆戦前の絵本から ~ 真実の日本軍。最強だったその勇姿 ②

◆特攻隊の青春群像 映画『決戦の大空へ 』と、フィリピンの神風記念碑

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ④ 第二十五 北畠親房と楠木正行

◆さよなら“政治”。 民主主義を掲げる奴を信用するな! ~ “民主主義”による選挙とは、「こんなクズしかいないけど、こんなかから選んでね」というのが本質的な正体

◆“恥の文化”から“恥知らずの文化”に成り下がった日本

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朝鮮人は、朝鮮半島に住んでいた古代日本人を蹂躙した侵略者!

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(2018.9.30)
言論弾圧のtwitter、アカウント停止で見れなくなっててtwitter貼ってるとこ全部なおさんといかんね。めんどくさ。あんなクズシステム使わんどきゃよかったわ。朝鮮人はやることが汚い。

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(2016.1.23)
昨日、で紹介しましたが(詳しくは右画像クリック)、明治天皇の信頼が厚く、教育勅語に大きな影響を与えた儒学者 元田永孚(もとだながさね)が明治天皇の勅命を受けて作成した勅撰修身書『幼学綱要』にある、伊企難(いきな)のエピソード挿絵です。『幼学綱要』については、またいつか詳しく取り上げたいと思ってます。

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(2012.10.23)
ここで紹介の『国語副読本』や戦前の道徳教育『尋常 小学修身書』をずっと子供に読ませてましたが、小学校高学年向けにまで進んでくると、ちょっと一年生には厳しくなってきたので、もっぱら今は『日本人を育む 小学国語読本 低学年用』(詳しくは右写真クリック。高学年用もあります)という本を子供に毎朝、読ませてます。これには日本の昔話から日本神話、平家物語のような古典、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のような近代文学までいろんなお話が収録されていて、しかも全文フリガナ付きなので子供だけで声を出して読み進めることだって出来るし、親にとっても非常にありがたいです。国生みの部分は話がハシ折られて物足りないところもあるのですが、日本神話は他の絵本や本で補足すればよいでしょう。
この本は日本人的な感性を育めそうな材料がいろいろちりばめられていて、平易で短い文章だし、別に小学生に限らず、中高生とかに入門用で読ませるにもなかなかよさそうです。

今日はこの本にある、古代当時の日本と新羅の生々しい関係が伺えるエピソードをご紹介します。
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新羅と戦った古代日本軍の将 【伊企難(いきな)】  (『日本書紀』より)


欽明天皇の二十三年、日本が新羅を攻めた時のことです。
伊企難は大へん勇敢な武士でしたが、不幸にも捕虜となり、新羅の大将の面前に引き立てられました。
「その方、もし褌(ふんどし)をはずし、尻を日本に向けて、日本の大将! わが尻を食らえ! と叫んだら許してつかわそう」
と言われました。伊企難は、
「よろしい! 申しましょう!」
と、早速尻をまくって、新羅の大将の方に尻を向けて、
「新羅の大将! わが尻を食らえ!」
と二度も三度も大声で叫びましたから、伊企難はとうとう殺されてしまいました。

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私は最初、内容も知らず何気なしに子供に読んでもらっていたのですが、話の重さを知って感動のあまり涙がこぼれそうになりました・・・
「いいぞ、いいぞ、偉いぞ、イキナ。これが本物の日本人、日本男児だー! おのれ、憎っくき新羅、朝鮮めー!」って思いでいっぱいに・・・

これこそ本物の歴史、忘れてならない、古代日本人の新羅(今の朝鮮系)への思ひなんですよ!
正史とされる『日本書紀』に記載、こういう凄く大事なことを教えない現代日本の学校教育というのは犯罪的なんですよ。
私も含めてですが、日本人が自国の歴史を知らなさすぎるってこと、思い知りました?
偉大な先人の思ひにつながることが出来ましたか? 日本人は古代史、日本のルーツをシッカリ守りましょう!
(尚、欽明23年は西暦562年、任那(みまな)が新羅に滅された年であり、欽明天皇は最後まで任那復興を夢見ながら亡くなりました。)

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(戻る)   (2011.5.14)
古代において、日本は朝鮮半島の一部を領有し、当時の半島にはたくさんの日本人が住んでいました。
古代 日本人が住んでいた日本文化圏といえた地域は日本本土のみならず、朝鮮半島でも日本府 任那(みまな)を中心に、当時の親日国 倭人の支配していた百済にまで及びます。

そして、任那と百済は、当時の大国 唐と朝鮮人の国 新羅の連合軍によって滅ばされ、その後、朝鮮半島は新羅に占領されることとなります。

そして更には、唐・新羅の連合軍が日本本土にまで侵攻してくる恐れがあったため、日本(倭国)を守ろうとした当時の古代日本人の遺跡が九州にはたくさん残っています。

私は九州生まれで、実家の近くには古代日本の外交舞台となっていた広大な大宰府政庁跡はじめ、当時の日本を取り巻く状況を生々しく語る史跡がたくさんあります。もっと古い吉野ヶ里遺跡など、数多くの遺跡も残されてます。

九州に大宰府政庁が置かれたのは7世紀初め(日本書紀)。当時、朝鮮半島内にいた日本人は、唐と手を結んだ新羅の侵略に追い詰められます。白村江の戦い(663年)において、百済・倭国連合軍と唐・新羅連合軍は陸・海に亘って激しい会戦を繰り広げますが、倭国(日本)は敗れ、百済も滅びます。日本は翌664年(天智4年)、筑紫・壱岐・対馬に防人を置き、大宰府から約1.5kmの場所に防衛戦としての土塁、長大な「水城(みずき)」も築きました。

朝鮮半島から命からがら日本本土に逃げ延びた古代日本人は、その後も残忍な唐・新羅連合軍の脅威に怯え、防波堤となる九州にたくさんの防衛線を張ったのです。
古代日本人がシナ・朝鮮人に抱いていた感情、日本人は決して忘れてはなりません。先人の築いた防衛拠点は、後の元寇ではもちろん、そのまま現代日本の国防にも通じているように思えます。

海を渡ってきた日本人を今では渡来人(帰化人)などと呼んで、奴らはすべての文化が朝鮮から渡ってきたような主張をしてますが、もともと渡って来た彼らは朝鮮半島に住んでいた当時の日本人。
奴らは日本のルーツを根こそぎ奪おうとしています。われわれ日本人はそれに対抗するため、日本本土のみならず朝鮮半島内にいた先人たちの残した日本のルーツを守らなければなりません。

朝鮮人を身近に感じる必要はないでしょうが、日本が領有し、多くの古代日本人が住んでいた朝鮮半島を、日本人はもっと身近に感じなければなりません。日本府 任那を歴史教育に復活させましょう。
日本が領有していた朝鮮半島を侵略し、歴史の歪曲・捏造まで図る奴らへ、徹底した対抗意識を持ってください。

やたら朝鮮半島への嫌悪感を持たせ、「朝鮮には手を出すな」と騒いで日本本土と半島の境界意識を煽ろうとするのは、古代日本が半島を領有していた事実から目を逸らさせるための、奴ら朝鮮系エセ右翼の攪乱戦略です。奴らが守ろうとしているのは、日本ではなく朝鮮半島、それにまんまと乗せられないでください。
(続く)


博多の方から太宰府市に入ってまもなく、道路や線路を横切って木立に覆われた丘が続きます。それが664年、唐・新羅の侵攻に備えて築かれた防衛施設 水城、いわば日本版 万里の長城。今も水城跡に咲いては散る“桜花” 、美しい。

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(続き)◆消し去られる朝鮮半島の日本府 任那 ~ 子供を日本人でなく地球人に育てる驚愕の社会科教科書

(戻る)◆古代日本が朝鮮半島を領有していた事実をもっと広めなければなりません

◆『日本書紀』より、「(古代朝鮮半島の日本府)任那滅亡」

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑦ 朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

◆人権侵害救済法案 ~ どうしてこんな売国法案が日本政府から出されるのか

◆『昔の日本はアメリカと同じくらい広かった!』~ 日本人としての自信を持たせた祖母の言葉

◆日本の民謡ばとっても明るい気分にしてくれます ~ 東北への応援歌

◆イザナギとイザナミに見る、日本における男女のあり方 ~ 日本神話を題材に

(始めから)◆竹島を武力行使で即奪回せよ! そして、まずは容易に取り返せる古代における朝鮮半島の日本府“任那”を日本史上に奪還し、日本人に再教育せよ! ~ 韓土の日本領も奪回! 朝鮮半島にある前方後円墳

◆自虐史観は日本人共通の唯一の宗教だった ~ 自虐史観からの脱却は日本における宗教革命

◆「 日本は朝鮮人のもの!」 朝鮮人が参政権獲得に決起 ~ 亡国 民主党政権

◆少子化は自虐史観に関連性あり!? ~ 日独伊 敗戦三国のみが異常な少子化傾向

◆「国を守ろう!」、「一つになろう!」 ・・・これって左翼のスローガンにもなるってわかってます?

◆言論弾圧企業 思想統制ファシズムの twitter

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高貴だった日本女性 ~ 子供の想い出を胸に生きる
阿弥陀寺の比丘尼 小泉八雲『心』より

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(2020.10.27)
【あみだ寺の比丘尼(びくに)】
おとよの夫は、おとよのまたいとこで、たがいに思い思われた中で婿にきた男である。その夫が、領主に呼ばれて京へのぼった時、おとよは、ことさらさきざきのことなど案じもしなかった。おとよは、ただ心ぼそいと思った。が、両親もそばにいることだったし、それに、このことはじぶんではおくびにも出さなかったが、おとよには、生みの親よりもはるかに愛着の深い、小さなせがれがあったのである。のみならず、おとよは、ふだん自分のする用がたくさんある体だった。いろいろ家の切りもりにも当たらなければならなかったし、絹や木綿の機を織る仕事もいっぱいある身だった。
おとよは、日に一度ずつ、いつも決まった時刻に、留守の夫のために、夫がふだん寝起きしていたなじみのふかい部屋へ、きれいな塗りもの膳に手落ちなく整えた、蔭膳をすえた。蔭膳というのは、先祖代々の霊や神棚にそなえる、お供え膳のまねことのようなものである。このかげ膳は、いつも必ず、座敷の東側に供えられた。そして膳の前には、型のように、夫の敷きなれた座ぶとんが敷かれた。膳を東向きにするのは、夫が東の方へ旅立ったからである。おとよは、膳のものを下げる前に、いつも忘れずに、小さな汁椀のふたをとって、そのふたの内側に湯気がたまっているかどうかをあらためて見た。供えた汁椀のふたの内がわに湯気がたまっていれば、旅に出ている人は無事息災だというのである。湯気がたまっていないと、その人は死んでいるのである。つまりそれは、その人のたましいが食べ物を求めに帰ってきたというしるしなのである。おとよは、来る日も来る日も、椀のふたに、湯気のしずくが大きな玉になっているのを見た。
子供は、おとよが常住(じょうじゅう:永遠不変なこと)のよろこびであった。まだやっと三つであったが、この子は、よく神様でなければほんとの答えは御存知ないようなことばかり、好んで聞きたがった。子供が遊びたいといえば、おとよはいつもしかけた仕事の手をおいて、いっしょに相手になって遊んでやった。子供が眠くなると、おとよは、きまっておもしろい話をしてきかせたり、余人にはとてもわからないようなことを尋ねる子供の問いに、いちいち克明に答えてやったりした。夕方になると、仏壇や神棚に、小さなお灯明があがる。すると、おとよは、片言まじりに、子供に父親の無事を祈ることを教えてやるのである。そんなことをしているうちに、やがて、子供が床に寝つく。するとおとよは枕元へ仕事をもってきて、がんぜない子供の寝顔を、いつまでも、いつまでも、見守って飽きないのである。どうかすると、眠っている子供が、夢の中でにっこり笑ったりすることがある。それを見ると、おとよは、これはきっと観音さまが夢の中で、坊やといっしょに遊んでいらっしゃるのだとこころえて、「世上一切の祈願の音声(おんじょう)を常住に観じ給う」あの処女菩薩に向かって、さっそく口の中でお経の文句をとなえるのだった。
春になって、毎日、うち晴れた天気が続くようになると、おとよは、よく子供を負ぶっては、ダケヤマ(嵩山)へ登った。こういう遊山を、子供は大へんよろこんだ。あれは何、これは何と、母親からおもしろい物を見せてもらえるほかに、いろいろのおもしろい物を聞かしてもらうことができたからである。爪先あがりの細い径(こみち)が、藪や森の中を抜けて、だらだらとのぼっていく。ときには、草の生えた斜面を通ったり、そうかと思うと、おもしろい形をした岩の根かたを回ってゆくこともある。そうして、そこにはさまざなの物語をしべの奥にひそめた花だの、木精(こだま)を宿した大きな木だのがあった。山鳩がクルー、クルーと鳴いているかと思うと、土鳩がオワォ、オワォと悲しそうな声で鳴いていたり、蝉が、ミンミン、ジージー、カナカナ鳴いていたりした。

(略)

こうした参詣の日に、おとよと子供が家に帰りつくのは、いつもたいてい、夕闇が静かにあたりを立ちこめる頃であった。道のりもかなりあったし、それに往きも帰りも、町をかこむ渺々(びょうびょう)とした水田を小舟で渡らなければならなかったので、ずいぶんお練りの道中であった。そんなわけで、どうかすると帰りみちには、星かげや蛍火がふたりを照らすこともあったし、ときには月さえのぼることがあったりした。そんなとき、おとよはいつもしずかな声で、お月さまを歌った出雲の国のわらべ歌を、子供にうたって聞かせるのだった。

ののさん(あるいは、お月さん)いくつ
十三 ここのつ
それはまだ 若いよ
わかいも 道理
赤い色の 帯と
白い色の 帯と
腰にしゃんと 結んで
馬にやる いやいや
牛にやる いやいや

すると、あたりがとっぷりと水いろの夜に暮れきるまで、幾里も幾里も果てしなくつづく、一面の水田から、しずかに泡立つような蛙の合唱がわきおこってくる。まるでそれは、大地の底からわきおこるような一大合唱であった。おとよは、蛙のことばを、いつも子供に言ってきかせるのだった。――「ほらね、メカユイ、メカユイ。――目がかゆいよ、ねむくなったよって、蛙が鳴いてるだろ。」
そうして、こうしているうちは、なにもかもがほんとに楽しい時であった。

やがて、そうこうしているうちに、わずか三日のあいだに、永遠の神秘に属する生と死とをつかさどる神の摂理が、つづけざまに二度までも、おとよの心を打ちのめしたのである。まず最初に、おとよは、自分があんなにいくどとなく無事を祈ったやさしい夫が、とうとう不帰の客となった――この世の借りものである一切の形骸から、もとの塵にかえってしまったことを知らされたのである。それからまもない二度目の時には、おとよは、自分の子供が、漢方医の手でも醒ますことのできない、深い眠りについたことを知らされたのである。おとよがこれらの出来事をさとったのは、一閃(いっせん)、キラリとひらめく稲妻の光の中で、物の形をパッとさとったのと同じであった。そして、この二つの稲妻の閃(ひらめ)きと閃きの間も、それからその先も、ともにいっさいは神の慈悲なる絶対無明の闇であった。
やがて、その闇もいつとなしに去ってしまうと、ようやくのことで起き上がったおとよは、こんどは、「おもいで」という百年の仇敵に行きあった。この仇敵以外のものの前では、おとよは、あいかわらず依然と同じように、いつもにこやかな、愛くるしい顔をしていられたのである。けれども、この「おもいで」という客と差し向かいになると、おとよは、つくづく自分の無力を感じた。おとよは、よく畳の上に小さなおもちゃを並べてみたり、小さな着物を広げてみたりして、じっとそれを打ち眺めては、小声でなにか話しかけたり、物も言わずにひとりでにたにた笑ったりした。けれども、その微笑は、いつもかならずその果ては、激しいむせび泣きに終わるのが常だった。そうして、畳に頭をすりつけては、たわいもない問いを神仏にかけるのが癖のようになった。

(略)

こうして、春は去り秋は来たり、いくどかの季節が去っては来たりして、やがておとよの父親は、娘にもういちど婿を迎えてやろうと思い立った。そして、母親にいった。
「うちの娘にも、あれでもういちどせがれでもできたら、あれにとっても大きな喜び、わしらにとっても大喜びだがのう。」
ところが、物のわかった母親は、それに答えていった。――
「あの娘は、けっこうあれでしあわせでいますよ。再縁するなんて、とてもあの娘には思いもよりません。この節じゃ、すっかりもう、苦労も罪もなんにも知らない、ほんのねんねえになってしまいましたもの。」
おとよが、真の心の痛みを覚えぬようになったことは、事実だった。ところが、だいぶ前からおとよは、どんな品にかぎらず、きわめて小さなものに、ふしぎな嗜好を見せはじめていた。最初はまず、自分のふだん寝起きする蒲団が、どうもこれでは大きすぎると言いだしたのである。おそらくこれは、添い寝する子を亡くしたあとの、空虚な感じからいうのであったろうが、そのうちに、だんだん日がたつにつれて、他の品でも、何によらず大きすぎるように思われてきだしたのである。げんに、住んでいる家からしてがそれで、長年住みなれた座敷やら、見慣れた床の間やら、床の間にある大きな花瓶やら、――しまいには、日常つかう膳椀のような什器までが、大きすぎるように思われてきた。飯をたべるにも、おとよは子供の用いるような、ごくちいぽけな椀から、お雛さまのような箸で食べたがった。
こうしたことにも、おとよは、家では親たちから慈愛ふかく、なにごとも気まかせにされていた。そうして、ほかのことにはかくべつ変った選り好みはなかったのである。そんなわけで、年とった親たちは、暇さえあれば、しじゅう娘のことで、折につけては談合した。とうとうしまいに、父親がこんなことを言いだした。
「うちのおとよも、あの分じゃ、いまさら見ず知らずの赤の他人といっしょに暮らすのも辛かろう。といって、わたしたちももう寄る年なみだ。おっつけ、あれを跡にのこしてゆくことは知れている。まあ、あれひとりで身すぎとでもいうことになれば、まず尼さんにでもするよりほかに、道はあるまいぞ。どうだな、ひとつあれのために、小さな堂でも建ててやることにしては。」
そのあくる日、母親は、おとよに尋ねてみた。――
「おまえね、尼さんになるのは、おいやかい? 尼さんになって、小さな須弥檀(しゅみだん)だの、小さなご本尊さまをお供えしてさ、ごくもうちんまりとしたお堂で、おまえ、暮らす気はないかい? お父っあんやおっ母さんも、しじゅうそばにいてあげるんだよ。おまえがもしその気がおありなら、お坊さんにお願いして、おまえにお経をおしえていただくようにするけどねえ。」
おとよは、それを希望した。そして、ごく小さな尼の法衣を一枚こしらえてくれ、といって頼んだ。けれども、母親はいった。――
「そりゃおまえ、ほかの物なら、なんでも小さくしてこしらえて上げられるけれど、法衣だけはだめだよ。尼さんというものはね、大きな法衣を着なければいけないものなんだよ。お釈迦さまが、そうおきめになったんだからね。」
そういわれて、おとよはようやくのことで、よその尼さんたちと同じ法衣を着ることを承知したのである。

やがて、両親はおとよのために、むかしあみだ寺という大きな寺のあった境内に、一宇の小さな庵寺を建立した。そして、この庵寺も、おなじようにあみだ寺と呼び、名のごとく、あみだ如来を本尊に安置し、ほかの諸仏も勧進した。堂には、ごく小さな須弥檀に、おもちゃのような仏具をそなえた。ちいさな経机に、ちいさな経本、小さな衝立、ちいさな鐘、小さな掛け物などが、そこに並べられた。そして、おとよは、両親のみかまったのちも、この庵寺でながく暮らした。ところの人たちは、おとよのことを、あみだ寺の比丘尼と呼んだ。
おとよは、毎日、朝の托鉢(たくはつ)をすませてしまうと、小さな機台の前に坐るのがならわしであった。けれども、おとよの織る手織りの布は、とても満足な用には立たないような、織り幅の狭いものであった。それでも、おとよが織った手織り地は、彼女の身の上を知っている幾軒かの商店主が、きまって買いとって行った。そういう商店主たちは、おとよに、ごく小さな茶わんだの、小さな花瓶だの、庭におく枝ぶりの変った盆栽などを贈り物にした。
このおとよが、一ばんおおきな楽しみにしていたことは、子供たちと仲よしになることだった。それには、おとよはいつも事欠かなかった。いったい、日本の子供の生活というものは、たいていはお寺の境内で過ごされるもので、このあみだ寺の境内でも、ずいぶん多くの楽しい幼少年時代が過ごされたものである。おなじ町内の母親たちは、みんなこの寺の境内で、自分たちの子供を遊ばせることを好んだ。そのかわり、比丘尼さんのことを決して馬鹿にしてはいけないよと、子供たちにくれぐれもよく注意してやった。母親たちは、よく言い言いした。「どうかするとね、妙なまねをなさるようなことがあるかもしれないけれど、それは前に一度、あの比丘尼さんは、ご自分にかわいい坊ちゃんがおありになったのを、お亡くしになったもんだから、その辛さが、お母さんとして胸いっぱいにおありになるんだからね。だから、おまえたちも、比丘尼さんには、ようくおとなしくして、失礼のないようにしなくちゃいけないよ。」
子供たちは、みなおとなしかったけれども、相手を敬うという意味では、あんまり礼を欠かない方だとはいえなかった。固苦しい行儀を守るよりも、子供たちは、万事よろしきようにやることをこころえていた。それでもかんしんに、おとよのことを「比丘尼さん、比丘尼さん」と呼んでは、ていねいにお辞儀だけはするのだが、それはその時こっきりで、そうでない時は、自分たちと同じ仲間並みにあつかった。そして、一緒に仲間に入れては、いろんな遊びをするのだったが、おとよの方では、子供たちに小さな茶わんでお茶を出したり、豆粒ぐらいな餅を山とこしらえてやったり、そうかと思うと、子供たちの人形の着物に、木綿や絹の布地を、わざわざ織ってやったりした。そんなわけで、おとよは子供たちにとって、肉親の姉のようになった。
ところで、そうやって毎日のように、おとよと一緒に遊んでいた子供たちも、いつのまにか、おとよと昔のように遊ぶには、もうすっかり成人した大人になってしまい、あみだ寺の境内を去って、それぞれ世の中の辛い仕事にたずさわるようになり、やがて父となり母となって、こんどは自分たちの子供を代りに遊びによこすようになった。そして、そういう子供たちも、親たちがしたと同じように、みんな比丘尼さんのことを好くようになった。こんなふうにして、あみだ寺の比丘尼は、このお寺が建てられた時分のことをおぼえている人たちの、子供や、孫や、曾孫たちといっしょに遊ぶまで、長生きをしたのである。
近所の人たちも、おとよが不自由な思いをしないようにと、何かにつけてよく目をかけてくれた。そんなわけで、おとよのところには、いつでもおとよが自分一人で事足りる以上の、余分な喜捨があった。したがって、おとよはそれらの子供たちに、なんとか思うままの親切をつくしてやることができたし、犬・猫のような動物などにも、ありあまるほどの餌をやることができた。小鳥たちは、お堂の中に巣をつくって、おとよの手から餌をついばんだ。おとよは、そういう小鳥たちに、仏さまの頭などに止まってはいけませんよ、といって教えた。

おとよの葬式がすんでから、幾日か経った後のことである。ある日、わたくしの家へ大ぜいの子供たちが、打ちそろって訪ねてきた。九つばかりの女の子が、みんなに代って、次のように述べた。
「おじさん、わたいたち、お亡くなりになった比丘尼さんのことで、お願いがあってきたんやで。比丘尼さんのお墓に、大へん大きなお石塔が立ったの。とても立派なお墓やわ。でも、わたいたちも、みんなして、ごく小さな小さなお墓をひとつ立ててあげたいと思うんです。比丘尼さんがまだ生きてござった時分に、お墓ならごく小さなお墓が好きやて、よくいうてござったでね。で、石屋さんに聞いたら、お金さえ出せばこしらえたる、いいのをこしらえたる、いうんです。そげすて、おじさん、おじさんもいくらか出してごすなさいな。」
「ああ、出しますとも」とわたくしは言った。「でも、あんたがた、これから、遊ぶところがなくなってしまったでしょう。」
すると、女の子は、にこにこ笑いながら、答えた。
「いいえ、わたいたち、やっぱりあみだ寺の御境内で遊ぶわ。比丘尼さんは、あすこに埋められてござるでね。きっと、わたくしたちの遊んでいるのを聞いて、喜んでごしなさるわ」

◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆

ずっと前から載せたいと思っていた、私がとても心をつき動かされたエピソード。何度か紹介していますが、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『東の国から・心』(恒文社)より(詳しくは右画像クリック)。

昔は独身となった女性は出家して尼になる人も多かったわけですが、今はその選択肢さえ難しくなりました。こんな時代でも、実際に尼になれたような人はある意味、恵まれてるように思えます。

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◆この上なく高貴だった日本女性 ~ 明治の武士

◆本当の浦島太郎は……

◆“男の浮気” と “子供の死” には覚悟をしておいた方がいい ~ 本当に強い女性とはこういうこと。女としてのポジション確認

◆武士の子女教育カリキュラム ~ 貝原益軒『和俗童子訓』より

◆子育て、死生観が変わる。読んでおきたい日本の古典 ~ 『土佐日記』と、一茶の俳句

◆失われた日本人の精神性と天皇の祈り① ~ 信仰とは信条を持つこと。神を信じる否かは関係ない ~ 母と子が父の無事を祈る『里の秋』

◆「イケメン」なんて言葉は朝鮮語! 日本語にそんな言葉ありません!~ 貧脳になる、マスコミが流行らせた使ってはいけない言葉

◆ヘナチョコ男とパッパラパー女はいらない ~ 命とは尊く儚いもの

◆ブースカとロボコンを見てる子はいい子に育つ!

◆映画『Sayonara』 愛を貫いて死を恐れない、ヤマトナデシコ~ 変れば変るもの。日本人の美意識

◆幼い子には、やっぱりお母さんの子守歌を毎晩、聴かせてあげましょうね!

◆失われた日本人の精神性と天皇の祈り③ ~ 日本人の精神性は世界随一であった

◆フランス革命ネタです。“暗殺の天使”シャルロット・コルデーと「マラーの死」

◆アバズレ主婦増産のため、左翼マスコミからの贈り物

◆わが子の育て方、しつけの仕方 ~ 母親のための人間学 家庭教育の心得

◆そもそも、生きるとは辛いもの ~ ピープル・ハブ・ザ・パワー

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『日本書紀』より、「(古代朝鮮半島の日本府)任那滅亡」

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(2020.10.9)
今の歴史学者と呼ばれてる連中は、明らかに学者というより、歴史屋にすぎません。
政治家が、金儲けのため商売で政治を利用する、政治屋になってしまったのと同じです。
私は解説本なんかより、出来るだけ原本を読むようにしてます。それはたとえば武士道とかにしろ、ガイドブックを読んだら知った風な気持ちになるでしょうが、原本(といっても邦訳ですが)を読むとかなり違っていることも多いからです。だからここの皆さんにも、それなりに知識を持たれている方は、出来るだけ原本から入っていった方がいいように感じます。原本さえ読めば他を読む必要もありません。原本といっても原文で書かれているものでなく、現代語に訳されているものでかまいません(ただ最近は古典や外国本の訳書もかなりひどいものが多いので注意が必要)。昔の古典はさすがに原文では普通の人にはしんどいでしょうから。それでも、ここで紹介している『和俗童子訓』とかは原文でも現代日本人が十分理解できるほど平易ですよ。
日本書紀についても、全部読むのはさすがに大変ですが、関心ある部分については、現代語訳を読んでおいた方がいいです。

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(2013.7.4)   (戻る)
『日本書紀』(720年)は、日本最古の正式な歴史書(詳しくは右画像クリック)。
これには、倭の官家(みやけ)が治める古代朝鮮半島南部の任那や百済はじめ、新羅や高句麗などとの激しい攻防の記録が、実に生々しく記載されてます。

以下は『日本書紀』の任那(みまな)についての記述から。
新羅の侵攻により、徐々に倭国は朝鮮半島内の勢力圏を失っていきます。きっとこれを読めば、当時の朝鮮半島に支配域を持っていた古代日本人、天皇陛下らの無念の思いが痛いほど伝わってくることでしょう。
古代日本と朝鮮半島の関係、民族の根幹に関わる、これだけ詳細な史実を教えないどころか、デタラメの捏造朝鮮史観を教えている日本の学校教育は狂ってます。朝鮮スリ寄り歴史学者らは万死に値します。
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【聖明王 任那復興の協議】
百済の聖明王は任那の早岐(かんき)らに語って、
「日本の天皇(すめらみこと)の意志は、もっぱら任那の回復を図りたいということである。どんな策によって任那を再建できるだろうか。皆が忠を尽くして御心を安じようではないか」といった。
任那の早岐らが答えて、「先に再三新羅とは話し合いましたが、まだ返事もありません。また相談したことを新羅に告げても、回答することもないでしょう。今皆で使いを遣わして、天皇に申しあげましょう。任那を復興しようということの大王(聖明王)のお考えに異議はございません。しかし任那は新羅に国境を接していますので、恐れることは卓淳(とくじゅん)らと同じ滅亡の運命にさらされないかということです」

・・・(聖明王は)「昔、新羅は高麗(当時の高句麗のこと)に助けを乞い、任那と百済を攻めたけれども、勝てなかった。新羅がどうして独力で任那を亡ぼすことができようか。今自分がお前たちと力と心をあわせ、天皇の威力に頼れば、任那はきっと復興できる」といった。

【新羅謀略の戒め】
聖明王は任那に対して、
「世の中でもあとをつぐ者は、父祖の業を担って、それを盛んにし、功績を成し遂げることを尊ぶ。だから今からでも、先祖の図った親交を尊重し、天皇の詔勅に従って、新羅が掠めとった国、南加羅・喙己呑(とくことん)らを奪いかえし、もとの任那に返し、日本を父とも兄とも立てて永く仕えようと考えている。これこそ自分が物を食べても旨からず、寝ても安からぬ程の気掛りである。過ちを悔い今後を戒め、気を配って行こう。新羅が甘言を用いて策略することは、天下周知である。うっかり信用して、すでに計略にはまっていた。

任那の国境は新羅に接しているから、警戒をおろそかにはできない。計略にはまれば、国を失い家を亡ぼし身は虜となる。自分はこれが心配で安心できない。聞くところでは任那と新羅が策を決定する際も、(新羅は)土壇場で蜂や大蛇のような本性を表すと、世の人はいう。
禍いの兆しは、人々の行動を戒めるために現れるのである。天災は人々にその非を知らせる。天の戒めはまさに先祖の霊の知らせである。禍に遭ってから悔い、亡んでから興そうと思っても及ばない。今われと共に天皇の勅を承って任那を立てよう。

・・・誠心を尽して任那を栄えさせたい。天皇に仕えることは昔のように、今後のことを充分配慮し、はじめて安泰がある。
今、日本府が詔のまま任那を救えば、天皇からもほめられ賞禄もあろう。日本の諸卿は長く任那の国に在って、新羅に交わり、新羅の実状はご存知である。任那を侵し、日本の力をはばもうとするのは久しいもので、今年のみではない。だがあえて新羅が動いていないのは、近くは百済を警戒し、遠くは天皇を恐れてである。朝廷を巧みにあやつり、偽って任那と親しくしている。新羅が任那の日本府に取入っているのは、まだ任那を取れないから、偽装しているのである。今その隙間をうかがい兵をあげ討ちとるのがよい。天皇が南加羅・喙己呑を建てよと勧められることは、近年のことだけではない。新羅がその命に従わぬことは、卿らもよく知っている。天皇の詔を承って、任那をたてるためにこのままでよいことはない。卿らが甘言を信じて偽りにのせられ、任那国を亡ぼし、天皇を辱めたてまつることのないよう充分慎んで欺かれないように」
といった。

【日本への救援要請】
五月八日(552年)、百済・加羅・安羅は、中部徳率木刕今敦(ちゅうほうとくそつもくらこんとん)・河内部安斯比多(こうちべのあしひた)らを遣わして奏上し、「高麗(高句麗のこと)と新羅と連合して、臣の国と任那とを滅ぼそうと謀っています。救援軍を受けて不意を突きたいと思います。軍兵の多少についてはお任せします」といった。
(天皇は)詔して、「今、百済の王、安羅の王、加羅の王、日本府の臣らと共に使いを遣わして、申してきたことは聞き入れた。また任那と共に心を合わせ、力を専らにせよ。そうすれば、きっと上天(あめ)の擁護の福を蒙り、天皇の霊威にあずかれるであろう」といわれた。

【任那の滅亡】
二十三年(562年)春一月、新羅は任那の官家(みやけ)を打ち滅ぼした。総括して任那というが、分けると加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞きん国(こっきん)、稔礼国(にむれ)の合わせて十国である。

夏六月、(天皇は)詔して、
新羅は西に偏した少し卑しい国である。天(きみ)に逆らい無道で、わが恩義に背き、官家をつぶした。わが人民を傷つけ、国郡(くにこおり)を損った。
神功皇后は、聡明で天下を周行され、人民をいたわりよく養われた。新羅が困って頼ってきたのを哀れんで、新羅王の討たれそうになった首を守り、要害の地を授けられ、新羅を並み外れて栄えるようひきたてられた。神功皇后は新羅に薄い待遇をされたろうか。わが国民も新羅に別に怨があるわけでない。しかるに新羅は長戟(ながきほこ)、強弩(つよきゆみ)で任那を攻め、大きな牙、まがった爪で人民を虐げた。肝を割き足を切り、骨を曝し屍を焚き、それでも何とも思わなかった。

任那は上下共々、完全に料理された。王土の下、王臣として人の粟を食べ、人の水を飲みながら、これをもれ聞いてどうして悼まないことがあろうか。太子・大臣らは助け合って、血に泣き怨をしのぶ間柄である。大臣の地位にあれば、その身を苦しめ苦労するものであり、先の帝の徳をうけて、後の世を継いだら、胆や腸を抜きしたたらせる思いをしても奸逆をこらし、天地の苦痛を鎮め、君父の仇を報いることが出来なかったら、死んでも子としての道を尽くせなかったことを恨むことになろう」
といわれた。

【伊企儺(いきな)の妻 大葉子】
捕虜にされた調吉士伊企儺(つきのきしいきな)は、人となりが猛烈で最後まで降伏しなかった。
新羅の闘将は、刀を抜いて斬ろうとした。ムリに褌(はかま)をぬがせて、尻を丸出しにし、日本の方へ向けさせて大声で、「日本の大将、わが尻を喰らえ」と言わせようとした。すると(伊企儺は)叫んで言った。「新羅の王、わが尻を喰え」と。責めさいなまれても前の如く叫んだ。そして殺された。
その子の舅子(おじこ)も、また父の屍を抱いて死んだ。伊企儺の言葉を奪えぬことこのようであった。諸将もこれを惜しんだ。

その妻の大葉子も、また捕虜にされていたが、悲しみ歌って、

「からくにの きのへにたちて おほばこは ひれふらすも やまとへむきて」
韓国の城の上に立って大葉子は、領巾(ひれ。肩にかけた飾りの白布。これを振るのは惜別の行為)を振ろう。日本の方へ向って。

ある人がこれに和して歌った。

「からくにの きのへにたたし おほばこは ひれふらすみゆ なにはへむきて」
韓国の城の上に立って大葉子は、領巾を振っておられるのが見える。難波の方へ向いて。
伊企儺について詳しくはコチラもご参照を


夏四月十五日(571年)、(欽明)天皇は病に伏せられた・皇太子は他に赴いて不在であったので、駅馬を走らせて呼び寄せた。大殿に引き入れて、その手をとり詔して、「自分は重病である。後のことをお前にゆだねる。お前は新羅を討って、任那を封じ建てよ。またかつてのごとく両者相和する仲となるならば、死んでも思い残すことはない」といわれた。
この月、天皇はついに大殿に崩御された。時に年(みとし)若干。
五月、河内国古市に殯(もがり)した。
*************************************************************

この通り、欽明天皇は最後まで任那復興を夢見ながら亡くなられます(百済の聖明王は554年に戦死)。
任那十国は、天皇を奉る藩のようなものだったといえましょう。
日本書紀には任那、当時の朝鮮半島の情勢が詳細に記述されており、上記は一部引用にすぎません。
任那(日本府)滅亡後も、日本は百済を拠点に朝鮮半島内における勢力圏を持ち続けますが、白村江の戦い(663年)で倭・百済連合軍と唐・新羅連合軍が対決、日本(倭国)は敗北し百済も滅亡。それにより日本は朝鮮半島内における覇権を完全に失ってしまいました。

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◆朝鮮人は、朝鮮半島に住んでいた古代日本人を蹂躙した侵略者!

(戻る)◆古代日本史における朝鮮半島の倭国領を歴史から取り返さなければならない! ~ 朝鮮に文化をもたらし、古代朝鮮半島南部を支配した倭人

◆こないだまで、古代日本は朝鮮半島南部を支配していたと教えられていたのに ~ 日本府 任那を消し去った売国奴学者列伝 実は朝鮮人か!?

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑦ 朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

◆神棚と天照大神について ~ 日本神話 “アマノイワト”伝説の美しい絵本から

◆イザナギとイザナミに見る、日本における男女のあり方 ~ 日本神話を題材に

◆日本神話の絵本について ~ 子供たちに日本と天皇へ愛着を持たせましょう

◆失われた日本人の精神性と天皇の祈り① ~ 信仰とは信条を持つこと。神を信じる否かは関係ない ~ 母と子が父の無事を祈る『里の秋』

◆性善説的な視点に立った教育勅語、「修身」道徳教育の補完としては、「毒をもって毒を制す」のマキアベリズムこそ最適

◆日本の童謡の世界は比類ない最高のもの ~ それと子供には神話絵本も!

◆日本が好きな親なら子供には教育勅語! ~ 小学生以上なら暗唱できるよう覚えさせてみませんか?

◆日本神話が題材のスペクタクル巨編 映画 『 日本誕生 』について

◆天照大神が女神だからと女系天皇を主張するノーナシ左翼を一網打尽に論破、撃沈さす! ~ 男系継承を堅持したアマテラスとスサノオの子供たち

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消し去られる朝鮮半島の日本府 任那
~ 子供を日本人でなく地球人に育てる驚愕の社会科教科書

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(2011.6.6)
ちなみにNTTドコモがイメキャラ使用する韓国アイドル KARA(から)の名前の由来ですが、これは加羅(から)から来ています。

かつて古代日本は朝鮮半島を領有し、その地域は任那(みまな)と呼ばれていました。日本が朝鮮半島を領有していた事実は、日本書紀はもちろん三国志などにも記録されています。
このことは1980年代まで日本の学校でも定説として教えられていたのですが、古代 朝鮮半島に日本領などなかったとする朝鮮捏造史観の押し付け教育が始まって以後、教えられなくなってしまってます。なので今の30代以下の殆どの方が、この歴史的事実を知りません。

古代の朝鮮半島に日本領なんてなく、まとまってない地域があっただけというのが朝鮮側の歴史観であり、その地域のことを捏造 朝鮮史観では加羅(から)や伽耶(かや)と呼んでいます。
つまり、KARA=加羅とは、かつての日本領 任那と呼ばれる地域の、朝鮮半島に日本領なんてなかったとする韓国側の呼称
奴らが日本へ強力にプッシュする、朝鮮アイドル KARAのネーミングには、このように極めて政治的、朝鮮捏造史観を日本に定着させる教育上の狙いなど、深い意味があります。

日本では今後、朝鮮半島を任那半島とでも呼んでいったほうがいいですね。
加えてオホーツク海は北日本海、東シナ海は南日本海、いっそのこと太平洋も東日本海とでも呼んでいいくらいでしょう ^^)
次はこちらから、MIMANA=みまな(任那)というアイドルでも送り込みましょっか。

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(戻る)  (2011.5.16)
このところ古代日本が朝鮮半島を領有していた事実を強くPRしてますが、そんな昔のことなんて、どうだってよさそうに言ってくる人が多いのに、案の定という感を覚えます。
恐らく、古代日本が朝鮮半島に領有していた任那にこれほど触れたサイトは他の保守系サイトにはなかったよう思うし、偽装右翼にとって、この話はとっても痛いはずだからです。もちろん朝鮮系エセ右翼のみならず、今では正確な古代日本史が教えられていない日本人も非常に増え、ことの重要性もわからない多くの天然工作員が生まれてしまっている模様。

そもそも古代日本のルーツを侵されることは、日本民族の存立に関わってきます。わかる人にはわかるでしょうが、このことは枝葉末節的な南京大虐殺や従軍慰安婦等の戦争責任問題等より遥かに重要であり、奴らは古代日本と朝鮮半島の歴史、つまり日本のルーツを壊すことに最大限、力を注いでいます。
そして日本のルーツを奪われるということは、ズバリ、天皇を奪われることにも直結します。奴らは天皇まで狙っているんです。

いくら日本国内で「朝鮮人は最低だ!」とか騒いでも、それだけでは国際的に見ても何の効力もありません。
しかし、古代日本が朝鮮半島を領有していた事実を強くアピールし、このことが日本及び世界に向けて再度広まることは、現代日本における歴史教育はもちろん、国際的に見ても、いろんな意味で日本の正当性を主張することにつながり、奴ら朝鮮人の捏造史観も完全に論破できるようなります。

このところ任那に関する記事を書き続けて、古代日本が朝鮮半島を領有していた事実を教えられていない、知らない方が如何に多いか、あらためてよくわかりました。しかし20数年前まで、このことは定説として教えられていたんです。ここに無関心でいることは、完全に奴らへの敗北につながります。

これらのことから、奴らが歴史教育で本当に目をつけられたくないところ、古代日本史の重要性が見えてきました。
変な風にやたら日本はスゴイとか騒いでる偽装右翼の目的が、何となくわかってきたのです。それだけでは日本人がマスターベーション的にやってるだけで、奴らにとっては痛くも痒くもありません。子供たちへの教育にも関係なく、これでは今の子供たちに対して何もやってないに等しいです。
しかし、朝鮮半島に日本府 任那があった歴史に触れられると、奴らにとっても対岸の火事では済みません。子供たちの教科書にだって大きく関わってきます。
このことに気づいたのは、実は私もつい最近です。

日本府 任那を日本史に取り返さないとマジやばいよ!
すべては朝鮮由来!? 教科書での“渡来人=朝鮮人”マンセーも深刻!

韓国で初めて万博が開催された時(大田EXPO1993)、私は初めて韓国へ取材で行きました。その時は、あるイベントで知り合った韓国人の紹介で、梨花女子大という日本のお茶の水女子大のような韓国の名門大学の日本語を専攻していた学生を、経費も安くなりそうに思って通訳スタッフとして採用しました。もちろん当時の私は今のような嫌韓的感情は持ってなかったし、日本人を嫌ってる韓国人がこれほど多いことなんて知りませんでした。ソウルのカラオケパブで私は日本語の歌を堂々と歌ってきましたが、普通の韓国人が日本人に持つ感情を知っていたなら、そんなこと恐らくしなかったでしょう。

通訳の卵だった学生の彼女に、私が朝鮮半島で古代日本が領有していた任那の話に触れた時、彼女が言うには韓国ではそういう風に教えられておらず、伽耶(かや)と呼ばれる当時はまだまとまっていない地域があっただけと教えられてると言われました。
私が“伽耶(かや)”という名称を初めて聞いたのはその時です。“伽耶(かや)”は今の日本では加羅として教えられ、韓国どころか今や日本の学校教育でも日本府 任那とは教えられていません。
しかし伽耶とは、あくまで現代の韓国人が名づけた名称であり、考古学上の文献に“加耶”という文字は一切出てきません。
朝鮮半島内の一部地域が当時の日本 倭国の一部(任那)であったことは、日本書紀はもちろん、中国の三国志にも記載されてます。

Tatsuyaさんが、中学生のお子さんの社会の教科書を調べてくださいました。
以下は現代日本の教科書からの引用。

新編 新しい社会 歴史 (東京書籍) より
(日本の中学校の半分は、東京書籍の歴史教科書を採用しています)

【古代までの日本】
1 文明のおこりと日本の成り立ち
大王の時代  中国・朝鮮との交流
大和政権は、百済や、小国が分立していた加羅(任那)地方の国々と結んで、高句麗や新羅と戦いました。

この通り、日本が領有していた日本府 任那を教えないどころか、さらに史実と逆に、日本が新羅らを攻撃して脅かしたような記述になってます。実際は古代日本人が住んでいた地域を唐・新羅連合軍に滅ぼされてます

次に渡来人についての記述。

【大陸文化を伝えた渡来人】
朝鮮の諸国との交流がさかんになると、朝鮮半島から日本列島に、一族でまとまって移り住む人々が増えました。
こうした渡来人は、鉄製の農具を広め、かんがい用の大きなため池をつくる技術のほか、かたい質の土器(須恵器)や高級な絹織物をつくる技術を伝えました。
渡来人はまた、漢字を伝えて、朝廷の記録や外国への手紙の作成にあたるなど、財政や
政治でも活躍しました。
漢字とともに、儒教の書物も伝えられました。
6世紀半ばに仏教を日本に伝えたのも渡来人でした。

この通り「渡来人マンセー!」、まるですべてが朝鮮人から伝わったように、完全に朝鮮人を褒め称えてます。
既に韓国では、古代において韓国人が日本本土に渡っていくつかの地域を支配したとまで教えられてます。いずれ日本でも、朝鮮人が海を渡って天皇となり、日本を支配したと表立って言われだすでしょう。日本の朝鮮系右翼は今でもそう信じてますし。

そして、最後に「現代の日本と世界」についての記述。

第7章 現代の日本と世界  2 国際社会と日本  これからの日本と世界
【世界の一体化と日本の役割】
世界の一体化が進むなかで、日本がどのように生きていくのか、これが21世紀の大きな課題となっています。
日本国民として、同時に国際社会に生きる人間(地球市民)として、よりよい社会づくりを考えていきましょう。

この通り、今の教科書は完全に、子供たちを日本人でなく “地球市民 = 地球人” に洗脳するためのツールと化してます。

今の日本の歴史教育が如何にひどいものであるか、よくおわかりでしょう。小さな頃からこんな風に教わってきた私より下の世代では何の違和感も持たないでしょうが、私から上の方々だと、違和感どころか大変驚かれるはずです。
近代の自虐史観からの脱却も大切ではありますが、それより最重視すべきはルーツとなる古代日本史です。正しい日本人の歴史を取り返さなければなりません。それと、“子供の地球人化”を防がなければなりません。
お子さんお孫さんをお持ちの方は、至急、子供の教科書をチェックして、歴史観を修正させましょう。子供の教育は親がするしかないんです。   (続く)

これら歪んだ朝鮮史観のプロパガンダを図っていたのが朝日新聞であったこと、さらには古代の朝鮮半島内に倭国(日本)が支配していた地域があったことを示す、日本にしかない前方後円墳や日本原産でしかないヒスイが半島内の遺跡から出土していることも、ここに詳しく書いてます。

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(続き)◆未来の歴史教科書より ~ ルーツを守らない日本人の未来

(戻る)◆朝鮮人は、朝鮮半島に住んでいた古代日本人を蹂躙した侵略者!

(始めから)◆竹島を武力行使で即奪回せよ! そして、まずは容易に取り返せる古代における朝鮮半島の日本府“任那”を日本史上に奪還し、日本人に再教育せよ! ~ 韓土の日本領も奪回! 朝鮮半島にある前方後円墳

◆韓国アイドル KARA のギュリが、「福山雅治に惚れさせたい!」とラブ・コール

◆『昔の日本はアメリカと同じくらい広かった!』~ 日本人としての自信を持たせた祖母の言葉

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑤ 朝鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

◆排外デモで逮捕者が出たっていうけど ~ 日本が韓国へ謝罪、日韓慰安婦合意・安倍政権糾弾デモに行ってきました!

◆“地球” “平和” “命” に注意! ~ 左翼に乗っ取られる保守系団体の典型例

◆『ぐりとぐら』 『こどものとも』の児童書 福音館は反日出版社 ~ 天皇を貶め、自虐史観に満ちた子供向け絵本

◆今の宮崎駿/ジブリ作品は本当に日本のアニメなのか!?~ ディズニーだって、創価の配下?

◆日本人で韓国好きが62%!・・・って ~ NHKの偏向報道どうすればいい?

◆反日マスコミの本丸は電通!~メディアをウラで操る電通を攻撃すべし

◆反日企業の雄 ヤフー、ソフトバンクの正体 ~ 男をイヌに仕立て貶める!

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ヒトラーが画家を目指していた頃、ナチス台頭期のドイツに行ってみよう
~ 帝政崩壊とルール占領、ハイパーインフレ

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(2015.02.10)

第一次世界大戦敗戦後の、今の世界の通説では極悪国家だったとされているナチス ドイツですが、実際のところ、ナチスが台頭する前のドイツとはどんな風だったのでしょう。

強国だったドイツ帝国もオーストリア帝国もオスマン=トルコ帝国も、敗戦国はすべて第一次世界大戦で滅び、領土の多くを失い、皇位も廃絶、共和国としてスタートすることになりました。加えて有名なロシア革命も起きます。
ドイツは払えるはずもない巨額の賠償金をフランス等宛に支払うようヴェルサイユ条約で命じられましたが、支払いが滞り、フランスは「賠償金を支払わないならルール地域をよこせ!」と、ドイツの工業生産の中心たるルール地方へベルギーと共に侵攻、占領するという暴挙に出ます。あのフランスがですよ。こんなこと学校の世界史では習っていませんよね? そしてそのフランスには、莫大な戦費を英米から借りていたため、ドイツに返してもらったカネを英米に返さなければならない事情もありました。要するに、とどのつまりの債権者は英米だったのです。
フランスがルール工業地帯を占領すると、ストライキの多発などで状況はいっそう悪化、ドイツは賠償金を支払どころではなくなり、ドイツ経済は大混乱、通貨増刷でハイパーインフレに陥ってしまいました。

これから日本はインフレ目指していくということで、公務員を除く庶民にはツライ未来になりそうな感じもありますが……
ちなみに当時この頃のドイツの激しいインフレの状況が、前にコチラでも紹介した、ドイツ留学中だった鈴木鎮一氏の著作に克明に記されています。

『愛に生きる~才能は生まれつきではない』(1966)より
(詳しくは右画像クリック)
『わたしが留学していた第一次世界大戦後のドイツは、やがてヒトラーが出なければならないような、あの大戦争が起こらなければどうしようもないような、恐ろしいインフレと、それに伴う悪質な内外人の跳梁がありました。たとえば、わたしのような一学生をつかまえてさえ、
「五階建ての大きなビルが売りに出ている。一万円も出せば手にはいりますがどうです」
という話を持ちこむ者もいたほどです。わたしは、金儲けに来ているのではない、といってそれを拒否しましたが、それでも、ドイツの老婦人から頼まれて、名器グァルネリウスを、わずか二千円で手に入れるということが起こりました。
ひとは運がよかったとうらやむでしょう。しかし、それは決していいことではなかった。思うに、いつの時代においても、不当の利のあるところには、ひとは知らずして何らかの禍根をつくるのです。

・・・1920年(大正9年)の10月27日です。わたしは23歳になっていました。
すでに書いたように、ときのドイツは恐ろしいインフレで、ほとんどお金を使わないですむありさまでした。日本の十円が六百マルクから始まり、やがて百億、千億マルクに変化していったのです。わたしは予定の一年間をいつか忘れてしまい、むろん一万五千円でやれたわけではありませんが、とうとう八年間ドイツで勉強することになりました。』

こんな中で、ヒトラー率いるナチスが政権を取っていきました。
そして第二次世界大戦が始まり、初期のドイツはまさに電光石火のごとく快進撃、フランスをはじめ欧州をほぼ制圧します。
第一次世界大戦で失位した最後のドイツ皇帝 ヴィルヘルム2世(1851-1941)はドイツ軍がパリを陥落したのを見て、ヒトラーに祝電を打ち、手紙で「今活躍しているドイツ軍の将軍たちはかつて私の教え子だった者たちである。ある者は少尉として、ある者は大尉として、ある者は少佐として私のもとで世界大戦を戦ったのだ」と誇らしげに語っています。ヴィルヘルム2世は独ソ戦が始まる直前に死去。ナチスによるユダヤ人迫害については、それを憂慮した手紙(娘宛)が残っています。

映画『アドルフの画集』は、前にも何度か触れてますが(コチラコチラ参照)、ヴェルサイユ条約の頃(1918)を舞台とした、画家を目指していたアドルフ・ヒトラーを描いた作品です。巷ではヒトラーをキチガイのように描いたプロパガンダ映像ばかり溢れてますが、ヒトラーがとっても人間ぽく描かれている私の大好きな映画。もちろんヒトラーを人間的に描いてるということで、一部から激しい批判の声も挙がったそう。
下は実際にヒトラーの描いた絵です。 (コチラ参照


私はドイツ人ではないのに、なぜかこの映画中のヒトラーの演説が模された場面、何度見ても、いつもホロリとしてしまいます。下記はその演説シーンより。

『以前、散歩をしていた時、ある人物に出くわしたのだ
黒い長衣を着て 黒髪を垂らしてた
最初の疑問はこうだ 「これがユダヤ人?」
その人物を見てるうちに 私の疑問は変わっていった
「こいつがドイツ人か?」と
ユダヤ人どもがいるだけで 文化はすべて汚染されてしまう
腐った肉を切ると そこには何が?
ウジ虫がいるはずだ それがユダヤ人
人が町を造るようになり ユダヤ人が現れた
ユダヤ人は迎え入れられ そしてすぐに経済活動を始めたのだ
つまり金貸し業
ユダヤ人は今 大勢いる
商業も金融も独占しているのだ!
そして第2段階へ
ユダヤの特色を薄め ドイツ的な特色を前面に
何と我々ドイツ人に 成りすましているのだ!
文化が汚染された
美術も文学も演劇もだ
宗教もあざけりの的
倫理観も道徳も否定され
ドイツ娘は 娼婦にされたのだ 娼婦だ!
ユダヤ人は本来の姿を現し 吸血鬼と同じ存在になっている
奴らは血をすする吸血鬼なのだ
ドイツ人の血を吸う 吸血鬼だぞ
吸血鬼のユダヤ人ども!』

ここにある「ユダヤ人」という言葉を「朝鮮人」に置き換えると、今の日本の状況に何とピッタリ当てはまってしまうことでしょう! 特に「ドイツ娘が娼婦にされてしまった」という言葉、意味がわからない人も多いかもしれないけど、これこそ今の日本娘にピッタリ当てはまってしまうことも見過ごしてはいけません。フェミニズム、拝金主義に洗脳されてる人ではすぐにはピンとこない。
そう。「結婚相手の男の年収は○百万円以上じゃないと。」「仕事はやればお金もらえるけど、お金ももらえない家事や子育てなんて評価されるわけでもなく、やってもしょうがないし」なんて恥ずかしげもなく言ってる人たちのことですよ!

けれどユダヤ人は本当に頭がいいのかもしれないけど、朝鮮人にそれほどの頭脳はないはずで、朝鮮人、奴らを操ってる勢力がいること、決して看過してはいけない。朝鮮人にしか目が向かなくなるようだと、ナチス ドイツの二の舞になってしまうのでしょう。
ナチス ドイツのユダヤ迫害、これはヒトラー=ナチスを徹底的にコケにしたチャップリン映画とかで逆上し、ユダヤ人排除がますますエスカレートしていったのが真実ではないでしょうか。その辺の陰謀論でよくある、ヒトラーがユダヤ自演の工作員だったとかいうのはデタラメで、ナチスドイツを挑発してますます反ユダヤ感情を焚き付け、当時は欧州事情に関心のなかったアメリカ人の反ナチスドイツ感情まで呼び起こして対立を激化させたユダヤ人、その張本人こそチャップリンらであって、チャップリンは第一級の工作員として多大な働きをしたのです。
ナチスは、当初は捕らえたユダヤ人を穏便にどっかに追い出そうとしてたけど、チャップリン映画『独裁者』をはじめとする英米の反ナチスプロパガンダで、他国による受け入れがままならなくなったため、それにブチ切れたヒトラー、ナチスドイツではユダヤ人への扱いがかえって乱暴になり、収容所で死ぬ人も増えた。それでもあっち側の映画とかにあるようなガス室だの大虐殺というのはウソっぱち。
ナチス ドイツはあれだけのユダヤ人を捕まえたけど、何も変わらず、結局負けた。雑魚のユダヤ人をいくら何十万人捕まえてもどうにもならないし、そもそもユダヤ人という括りで見てはいけない。ドイツや世界を動かすほどの金融勢力を牛耳るユダヤ人を含むグループなんて、他のところでピンピン元気にしてたってこと。

映画『アドルフの画集』(2002)より  詳しくは右画像クリック
監督: メノ・メイエス 出演: ジョン・キューザック 他
2002年のハンガリー、カナダ、イギリス合作映画。日本では2004年2月7日に公開。この映画はフィクションだと思ってましたが、どんな文献が参考にされたのかは知りませんが、かなり事実を元に作られてるようで、全くのフィクションというわけではないようです。これに出てくるユダヤ人画商のモデルというのも、映画とは異なりながらも、ヒトラーの周りにきっといたんだと思います。

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(2016.11.22)
第一次世界大戦後のドイツ経済の凄まじさ、ドイツでは1914年から1923年までの10年間で、何と一兆倍の大インフレとなりました(対ドル換算。右写真は給料として支給された札束)。なぜこのようなことが起こったかというと、最大の原因は、ドイツが戦勝国への巨額の賠償金を負わされ、その支払いのため、とにかく紙幣を刷りまくったからです。

では、今の日本でも、日本の借金は千兆円を超えたけど気にする必要はないなんて言う人もいるわけですが、その種の人がそう言う理由に「国にとって、紙幣(お金)なんて刷ればいくらでも出来るから」というのがあります。そんなこと平然と言ってる奴ら、当時のドイツ経済を知っていれば、その正体、その目的、ピンとくるのではないでしょうか。

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◆マイケル・ジャクソンやデヴィッド・ボウイのような天才たちと共に、ヒトラーと対話してみませんか?

◆人間 真実のヒットラー ~ ヒトラー本と絵本『ヒットラー』から

◆日本破壊・売国バラ撒き“クールジャパン”国策で支援されるキチガイ劣悪音楽・アニメ・デタラメ日本文化(=暗黒勢力・朝鮮文化)

◆朝鮮ピンクに注意! ~ もはや極刑に処すべきひどさの朝鮮系色使い

◆亡国のシナリオ ① ~ GDPの倍、国家税収の20倍以上の借金でさらに借金を増やせと叫ぶ売国奴

◆亡国のシナリオ ② ~ 日本を、過去に滅んだロマノフ朝やハプスブルク帝国になぞらえたパターン

◆左翼メディアの日本人白痴化洗脳工作について ~ 『 人間獣化計画 』 と 『 中共対日工作要綱 』

◆『シオン議定書』 – 第二次世界大戦を勃発させた人間獣化計画の基本文書

◆現代の紛争や不可解な流行、ゴリ押し 行き着くところはユダヤ国際金融 ~ ユダヤ人や朝鮮人は被害者や弱者なんかではない

◆専業主婦がいなくなれば、TV・ラジオはもたない ~ マヌケ腐れマスコミ ~ 米国911テロと、ビル爆破工事の酷似

◆戦前の道徳教科書『修身』に見る加藤清正の武勇伝 ~ 自虐史観の正反対から見る豊臣秀吉の朝鮮侵攻

◆古代日本史における朝鮮半島の倭国領を歴史から取り返さなければならない! ~ 朝鮮に文化をもたらし、古代朝鮮半島南部を支配した倭人

◆朝鮮人による朝鮮人叩き。いわゆる“在日認定”のカラクリ ~ 左翼による左翼叩きの目論見まで  ≪工作員入門≫

◆朝鮮人というより問題はパチンコ。国連も左翼も朝鮮パチンコが支配

◆うるさい街宣右翼 実は反日朝鮮人 ~ 愛国心を貶める反日分子たち

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戦後の歴史教育を捨てよう。
歴史教育 再興 ① 永久保存版 戦前の国史(日本史)学習年表

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(2016.6.19)
皆様、いつもありがとうございます、
実は戦前の国史(日本史)資料をいろいろ集めました。まずは今日は、その中から戦前の歴史学習で使用されていた年表とシンプルな概略文を一つ、公開します。
単に人名や年号、事件の名前等だけ、膨大な項目を覚えても、有機的につながった歴史を学べない今の学校における歴史教育というのは、いくら学んでも何も身につきません。あれではいくら勉強して憶えても何もやってないに等しいんです。戦前の歴史教育は、そのような細かな事項名だけをやたら覚えたりするのでなく、実在の事件や人物等、それがどういったプロセスを経ていったか、その判断の仕方などに重点が置かれてます。

まずは年表。(下画像クリックで拡大画像が出ます。窓が開いても字が小さい時はさらに画像をクリックすれば拡大されると思います。)
「高等小学国史 附図」年表(昭和十三年一月十五日発行:立川文明堂)より

そして下記は、昔の歴史年表にある国史概略文、そのままの内容です。
「小学 国史絵巻年表」より(監修:中村孝也 昭和十一年三月一日発行:学習社)
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時代の発展
この文を、繰り返し読んで、国史の各時代がどのように発展して来たかを考えてください

神代(かみよ・じんだい)
神代の昔、天照大神は、天孫ニニギノミコトに向かい、
「この国は、わが子孫の王(きみ)たるべき地なり、汝(なんじ)皇孫(こうそん)ゆきて治めよ。皇位の盛なること、天地と共にきはまりなかるべし。 」
と仰せられた。わが国の基(もとい)は、この時定まった。ニニギノミコトは、この神勅をいただき、三種の神器をささげて、日向にお下りになられた。それから三代の間、その地に居られた。これまでを神代と申し上げる。

大和時代
神武天皇は、日向から大和においでになり、樫原宮(かしわらのみや)で天皇の御位におつきになられた。この年がわが国の紀元元年である。その後、崇神天皇は四方に将軍を遣わされ、垂仁天皇は天照大神を伊勢にまつりたてまつり、日本武尊(やまとたけるのみこと)は熊襲(くまそ)や蝦夷(えぞ)を征伐せられ、神功皇后は朝鮮半島の諸国を従えたまい、應神天皇の御代には儒教が伝わり、欽明天皇の御代には仏教が伝わり、推古天皇の御代には聖徳太子が立派な政治をなされ、孝徳天皇の御代には大化の新政が行われ、天智天皇の御代には、都を近江にうつされたけれど、後、まもなくまた大和へ還られた。この長い間を大和時代といい、わが国は、外国の文化を取り入れて、健やかに成長してきた。

奈良時代
元明天皇が平城京(奈良の都)におうつりになってから、凡そ七代七十余年の間は、文化の華の美しく咲き匂うたときで、これを奈良時代という。聖武天皇・光明皇后は篤く仏教を信ぜられ、大きな寺々が沢山つくられた。

平安時代
桓武天皇に居たり、都を山城(やましろ)の平安京にうつされたが、それより凡そ四百年程の間を、平安時代という。その初めの間は、朝廷の御威徳が広く行きわたり、蝦夷も平定せられて皇化に浴したが、中頃から藤原氏の一族が摂政・関白となって政治を運用し、栄華に耽り、その末頃には、世の中が乱れて、保元の乱や平治の乱が起こり、平氏が一時権勢を振るったけれど永くは続かず、やがて源氏に滅ぼされてしまった。

鎌倉時代
源頼朝は平氏を滅ぼして後、征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉に幕府を開いて、七百年にわたる武家政治を開いた。しかし、僅かに三代で亡び、北條氏が執権として勢力を振るった。北條氏には義時・高時のような逆臣もあったが、泰時・時頼のように民政に力を盡したものや、時宗のように元寇を撃破した英雄もあった。

建武中興 及び 吉野時代
武家政治は、わが国体の本義に悖っているから、後醍醐天皇は、天皇親政の正しき御代にひきかえそうと思召され、鎌倉幕府を倒して建武中興を成し遂げられた。しかし足利尊氏が叛いたので、中興の政治は永く続かず、天皇は吉野に幸(みゆき)せられた。それより五十七年の間を吉野時代といっている。楠木正成・同 正行・新田義貞・名和長年・北畠親房・菊池武光などは、この間に出た忠臣である。

室町時代
吉野時代の次に足利義満が京都の室町の幕府で政治を取ってから、凡そ百八十年間を室町時代という。この間は戦乱が多く、中にも應仁の乱後は、天下が麻のように乱れ、群雄が四方に割拠して争ったから、これを戦国時代という。武田信玄・上杉謙信・北條氏康・毛利元就などは、その中でも名高い英雄である。

安土桃山時代
戦国諸雄の中、織田信長は、まず京都に入り、皇室を尊びたてまつり、四方を平定したが、事業半ばにして斃れた。豊臣秀吉は、その後を受けついで全く国内を平定し、更に明国を征伐しようとして兵を朝鮮に出し、国威を海外に輝かした。信長は近江の安土に居り、秀吉は山城の伏見(後の桃山)に居たから、この間を安土桃山時代という。

江戸時代
徳川家康は秀吉の薨(こう)じた後、関原の役で石田三成を斃し、江戸に幕府を開いた。それより十五代二百六十五年の間を江戸時代といい、外国との交際を狭くし、国内は泰平を楽しみ、産業は発達し、学問・芸術は進歩し、国力が養われた。殊に国学や、国史や、儒教や、神道などが学ばれて、天皇を中心にいただくわが国体の本義が明らかになり、その上、諸外国から開国を促され、ついに江戸幕府は倒れ、武家政治が滅びて大政復古となった。

現代
明治維新は現代の黎明(よあけ)であった。それより六十余年の間、明治天皇・大正天皇・今上天皇陛下の御威徳の下にあって、わが国運は隆々として盛(さかん)になり、領土は広まり、富は増し、学問は進み、国威は全世界に発揚された。私共はこの立派な国史を顧みて、ますます忠君報国の心を堅くするのである。
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今の日本史で教えられてる内容との大きな違い、おわかりでしょうか。
ちなみにこの監修者の中村孝也氏は、これでもバリバリの皇国史観とは異なるタイプの歴史学者だったようですが、それでもGHQ占領による保守系教育者の総公職追放により、教壇を去られた一人です。

まずは日本の紀元にかかわる、古代における縄文時代・弥生時代というのはGHQ占領期に唯物的な左翼学者に創作されたデタラメの歴史。「ウソも百回言えば本当になる」を地でいって実現させたのが戦後の歴史教育であるわけで、縄文だの弥生だの、そんな時代は日本には元々存在しないし、縄文人だの弥生人だのは捏造された言葉です。天皇以前に邪馬台国が支配してたなんてのもとんでもない話神武帝による建国後を大和時代とし、それより前は正しくは“神代”(かみよ:じんだい)なのです。日本人のルーツ、天皇に関わるこの“神代”を歴史教育に復活させねばなりません。もちろんここの読者は、正しくは「神代なんだよ」って子供たちに教えてあげてくださいね。
また、上の年表には神代における日本武尊(やまとたける)の活躍や神功皇后の朝鮮征伐、朝鮮半島の日本府 任那の滅亡など、今の日本史では教えられなくなった日本書紀や古事記にある事柄についてもしっかり記載されてます。そしてもちろん、年表の通り当時の年号表記はすべて皇紀○○年なのです。これら日本の歴史の基本が、GHQ占領後にすべて書き換えられました。

そして建武中興以後の、今では南北朝時代なんてされてる頃も正しくは「吉野時代」。足利尊氏は後醍醐天皇に叛いた逆賊、足利氏の立てた北朝と呼ばれるところの正当性は存しません。楠木正成・正行の父子、そして新田義貞などの忠臣たちが、日本人の美徳の象徴として、戦前の教育ではとにかく大きく扱われています
また豊臣秀吉の朝鮮出兵についても、国威を輝かせたものとして触れられてます。

今日は、まずは年表と概略文でしたが、集めた戦前の教材等を引き続きいろいろ公開していくつもりですので、ぜひ保存、周りにも広めてくださいね。いずれも貴重な資料となりますので、その意義は大きいと思ってます。今の日本人がこれまで勉強してきた歴史を見直していく上で、グダグダと文章を並べるよりも具体的資料の提示で反論余地もありませんし、一目瞭然ですから。

今まで学んだものを捨て、真の歴史を勉強しなおしていきましょうね。学習中の方は教科書を捨てるわけにもいかないでしょう……けれどそれらは受験のため、と割り切ってそれらとは全く別の歴史を学んでいく必要があります。
前に比べて少なくなったとはいえ、それでもここにはかなりの方が今でも見に来られてるし、その中に、ある程度の方がおられれば大きな影響及んでいくこともあるかもしれない。命絶えても思いをつないできた日本人のこれまでの歴史、魂を信じて。

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◆古代日本史における朝鮮半島の倭国領を歴史から取り返さなければならない! ~ 朝鮮に文化をもたらし、古代朝鮮半島南部を支配した倭人

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ① 神代 皇基の遼遠

◆仁・義・礼・智・忠・孝……五倫、四徳、五条、四端の心から道を修むる ~ 侍が学んだものを学び、偉大な先人たちと志を一にす

◆戦前は逆賊歴史学として処罰されてた、左翼学者による皇統否定の「縄文・弥生」時代の敗戦後の普及 ~ 汚染される皇室。救う手だては皇室奪回

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑥ 第二十七 足利氏の僣上

◆武士の子女教育カリキュラム ~ 貝原益軒『和俗童子訓』より

◆忠臣の象徴 楠木正成公を称える唱歌『青葉茂れる桜井の』(櫻井の訣別)を10歳の子供にピアノ弾き語りで歌ってもらいました!

◆大日本帝国の唱歌を歌い継ごう!⑥ ~ 神武天皇が即位、日本建国の日とされる『紀元節』 9歳 ピアノ弾き語り

◆未来の歴史教科書より ~ ルーツを守らない日本人の未来

◆“道徳教育”と称して進められる、これからの日本人家畜化教育について ~ もはや大多数の家畜化は逃れらない

◆サルが人になったとする進化論と、日本人・陛下がサメの子孫とした日本神話、あなたはどっちを信じますか?

◆左翼教育者が持ち上げる、フランス革命を引き起こしたルソーの人間獣化思想 ~ ルソー生誕300年で、日教組やPTA左派が暗躍中

◆こないだまで、古代日本は朝鮮半島南部を支配していたと教えられていたのに ~ 日本府 任那を消し去った売国奴学者列伝 実は朝鮮人か!?

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