真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑫
第三十三 織田信長
(2019.7.22) (戻る)
今日は現代でも最も人気ある武将の一人 織田信長。戦前の日本史教科書で重要なのは、他の戦国武将の扱いと同じく、やっぱり信長の皇室への忠勤です。そして幼い頃から乱暴者だった信長の回心を願って自決、若き信長の心に命をもってその忠誠を刻んだ家臣 平手政秀(ひらでまさひで)の存在。信長の天下統一(目前)なんて話よりずっと大事なのがこういう逸話なんです。ここまで書いて、ここの読者なら何か感ずいた方はおられませんか? そう、先日、靖国神社で自決した沼山光洋公、きっとあのお方はこの信長の忠臣 平手政秀の話を知っていたのだと思います。沼山公は戦争で散華された方たちを英霊と呼ばず、忠霊と呼んでいたそうです。英霊はただ、英雄たちの霊ということになりましょうが、忠霊は誰かへの忠誠を含むことになり少し意味が違ってきます。もちろん英霊たちの忠は天皇陛下に向けてのもの、だから沼山公はあえて忠霊と呼ぶことにこだわっていたに違いありません。そして沼山公の自決も主君である天皇陛下への忠のため、なんとか陛下や皇族たちに靖国御親拝してほしい、その思いが伝わってほしい……平手正秀が主君 信長に何とかして思いを伝えたいと、「殿、このままではいけません」と、命を引き換えに決行した自決、それと同じく、「陛下、このままでは日本がダメになります」……沼山公も何とか自分の主君たる陛下や皇族たちにこの思いが伝わってほしい、そう願って命を差し出して自決したのです。それは決して陛下を責めたりしているのではなく、あくまで沼山さん自身、己(おのれ)がいたらなかったせいだという気持からです。
沼山さんのこの思い、私にはニュースを知った当初から痛いほど伝わってきていました。だから、この平手政秀のエピソードを少しでも早くここを見られてる方々に伝えたい、そう思って、この尋常小学国史シリーズの続編制作を急ぎ、本日、織田信長の章、ようやくアップすることが出来ました。
戦前の教育で育った忠霊たちも当然、もれなくこの信長の忠臣 平手政秀のことを知っている。でも戦後教育で育った現代日本人は誰も知りません。結局、現代人は濫発されている本をいくら読んで知ったかぶりしようが、戦前の教育で学びなおさない限り、偉大な先人たちと、その思いでつながることは出来ないのです。ここを読まれてる方々こそ、その思いで先人たちと通じることの実現がかなうのです。
どうか誰か陛下に、この沼山光洋公の思い、伝えてあげてください。ここをご覧になっている政治家や役人の方がおられるなら、くだらない法律作ったり利権ばかりにこだわってないで、どうか沼山さんが命と引き換えに託したこの思い、伝えてあげてください。心あるマスコミ、TV局の方などおられるなら、陛下にその思いが届くよう、このこと大々的に正しく取り上げてください。
戦国時代に諸国に起った英雄は、だれも、われこそ京都に上って天下に号令しようと望んでいたが、一人としてそれをしとげるものがなかった。ところが、織田信長が出て、はじめて、その目的を達し、取分け朝廷を尊んで、大いに忠勤をはげんだ。
信長の生い立ち
信長は、平重盛の子孫だといわれている。その家は、代々、尾張(おわり)にあったが、父の信秀(のぶひで)は勇武な人で、しきりに近国と戦って、領地を広めた。信長は幼い時から非常な乱暴者で、荒々しいふるまいが多く、家をついでからも、武術ばかりはげんで、少しも政治をみなかった。家臣の平手政秀(ひらでまさひで)は、たいそう心配して、たびたび諫めたが、どうしても聞入れないないので、とうとう書置(かきおき)して自殺した。時に、信長は二十歳であったが、その忠義に深く感激して、これから全く心を改め、行をつつしむようになった。後に、信長は政秀寺(せいしゅうじ)を建てて、手厚く政秀をとむらって、その忠節にむくいた。
桶狭間の戦
この頃、駿河に今川義元がいた。義元は、前々から信秀と争っていたが、遠江(とおとうみ)と三河(みかわ)との二国を従えたので、この上は、織田氏を滅ぼして京都に上ろうと思い、三国の兵 四万五千を率いて尾張に攻め入った。たまたま、信長は清洲(きよす)の城中で、家臣たちと夜話にふけっていたが、このしらせを受けても顔色さえ変えず、落ち着きはらって、そのまま笑い興じていた。しかし、翌朝、味方の砦(とりで)が危ないと聞くと、すぐさま馬を走らせて、打って出た。ところが、義元は、はや諸城を攻め取って気がおごり、桶狭間(おけはざま)に陣取って、将士といっしょに、酒宴を開いて楽しんでいた。信長の兵は、わづか二千に足らぬ小勢であったが、折からの暴風雨につけこんで、不意に義元の本陣にうち入り、敵兵が上を下へとうろたえ騒いでいる間に、目ざす義元を斬った。その時、義元は四十二歳、信長は二十七歳の血気ざかりであった。信長の威名(いめい)は、これから、たちまち四方に広がっていった。
正親町天皇のおほせを受けた
第百六代 正親町(おほぎまち)天皇は、日頃 朝廷の衰えたのをおなげきになり、どうかして天下の乱を鎮めたいと、お考えになっていらっしゃった。はるかに信長の武名をお聞きになると、わざわざ勅使(ちょくし)をお遣わしになって、古今にならびない名将とお褒めになり、御料地の回復をおほせつけられた。もともと、信長は勤王の心が深いので、天皇のおほせを受けると感涙にむせび、一身をささげて御心をおやすめ申さねばならぬと、堅く決心した。
京都に入って朝廷の御為に盡くした
時に、幕府もまた勢が衰えるばかりで、その命令はほとんど行われなくなり、将軍 義輝(よしてる)は部下に殺され、弟 義昭(よしあき)は助を信長にたのんで来た。そこで、信長は、義昭をいただいて京都に入り、朝廷に申しあげて、義昭を将軍の職につかせた。これから、信長は、皇居をつくろい、御費用をさし上げて、一心に朝廷の御為に盡くしたので、長い間絶えていた御儀式もはじまり、諸国に逃げていた公卿も、おいおいに帰ってきて、京都は、やっと、もとの有様に立ちかえるようになった。
それから後、信長は、しだいに近畿(きんき)の諸国を平げ、士民をあわれんで、よい政治をしたので、その名はますます高くなった。義昭は、これを見て快く思わず、しまいには将軍の職も奪われるのではないかと心配して、信長を除こうとたくらんだ。信長は大いに怒って、義昭を追出したので、足利将軍は全く滅びてしまった。時に、紀元二千二百三十三年(天正元年)で、義満(よしみつ)が将軍となってから、およそ百八十年餘りたっていた。
安土城を築いた
やがて、信長は、城を近江(おうみ)の安土(あづち)に築いた。城は琵琶湖に臨み、七重の天守閣(てんしゅかく)は高く雲間にそびえて、人目を驚かした。信長はここを根拠(こんきょ)として、四方を治めようと考え、まず羽柴秀吉(はしばひでよし)を中国(ちゅうごく)にやって、毛利輝元(もうりてるもと)を攻めさせた。そのうちに、秀吉から援兵を求めて来たので、信長は自ら中国に向おうとし、明智光秀(あけちみつひで)らを先発させ、自分は京都に入って本能寺(ほんのうじ)に宿をとった。
本能寺の変
ところが、光秀は、かねてから、その主のきびしい仕打(しうち)を怨んでいたので、本能寺の警戒が手薄いのにつけこんで、にわかにそむいて攻めかかった。信長は、自ら森蘭丸(もりらんまる)らと共に、必死に防いだが、かなわず、とうとう寺に火をつけて自殺した。時は天正十年、歳は四十九歳であった。
信長の手柄
信長は、さきに天皇のおほせを受けて以来、早く天下を平げて、御心をおやすめ申そうとつとめ、今ひといきでその大事業を成しとげようとしていたのに、たちまち逆臣(ぎゃくしん)の手にかかって倒れたのは、まことに惜しいことである。朝廷では、その手柄をお褒めになって、特に太政大臣従一位をお贈りになった。京都の建勲(たけいさお)神社は、信長を祀ったお社である。
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