真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑰
和氣淸麻呂(和気清麻呂。朝廷に於ける僧侶の勢力)
(2019.4.5) (戻る)
戦後、現代歴史教育では教えられなくなった和氣淸麻呂(ワケノキヨマロ・和気清麻呂)の忠節。戦前は専横極めた蘇我氏や藤原氏に加え、道鏡による皇室乗っ取りの危機を救ったということで、とても重要な人物とされていました。女帝 称徳(=孝謙)天皇に取り入った僧 道鏡は意のままに権勢をふるい、自らが天皇になろうとまでしましたが、和氣淸麻呂によってそれは食い止められました。今の義務教育でもきちんと教えるようにして、日本人は危機意識に目覚める必要があります。国民から皇族までたぶらかそうとするマスコミは悪の組織。皇室自身も平和ボケとでもいうか、危険な状態にあると思います。エラそうな言い方ではありますが、きっと多くの方が同じことを感じておりましょう。
『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より |
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孝謙天皇 聖武天皇の皇女 孝謙天皇の御即位―佛教の御信仰―藤原不比等の孫 仲麻呂 信任せらる―仲麻呂 姓名を恵美押勝(エミノオシカツ)と賜わる―仲麻呂 威権を振う―天武天皇の皇孫 淳仁天皇に御譲位―孝謙上皇 尚 政を聴断(ちょうだん)し給う。 藤原仲麻呂の反 僧 道鏡 孝謙上皇の御親任をうく―道鏡の威権 日に加わる―仲麻呂 叛きて兵を近江に挙ぐ―仲麿の誅―淳仁天皇 廃せられ給う(淡路に遷幸)―太上皇の重祚(じゅうそ・一度位を退いた天子が再び位につくこと)称徳天皇。 僧 道鏡の無道 道鏡 太政大臣禅師となる―法王の位を授かる―飲食・衣服天皇の供御(くご)に准ず―恣に大政を決す―太宰主神習宜阿曾麻呂(ダザイノカムツカサスゲノアツマロ)道鏡に媚ぶ―宇佐八幡大神の神託を佯(いつ)わる―道鏡を皇位に即かしむれば天下泰平ならんと奏上す―道鏡 遂に非望を懐(いだ)く。 和氣淸麻呂の忠烈 天皇 阿曾麻呂の言に惑わせ給う―淸麻呂を宇佐に差遣―路豊永(オホヂノトヨナガ)・藤原百川(モモカワ)淸麻呂を勵(励)ます―淸麻呂 帰りて神教を奏上す―淸麻呂 大隅に流さる―淸麻呂の姉 廣蟲(ヒロムシ・法均尼)また備後に流さる―道鏡 遂に非望を遂ぐる能わず。 光仁天皇 称徳天皇の崩御―藤原百川等 天智天皇の皇孫を皇太子に立て奉る(光仁天皇)―道鏡の貶斥(へんせき・官位を下げて退けること)造下野薬師寺別当(ぞうしもつけのやくしじべっとう)となる―阿曾麻呂の左遷(多褹島守・種子島守)淸麻呂の召還(本官に復せらる)―法均尼(ホウキムニ)の召還―皇太子の即位―淸麻呂の重用―護王神社。 |
〇和氣淸麿の誠忠 備前の人にして、其の先は垂仁天皇の皇子 鐸石別(ヌデシワケ)命に出づ。称徳天皇の御代に、従五位下 近衛将監となる。神護景雲3年、大宰府の神祇を掌れる習宜阿曾麻呂(スゲノアソマロ) 道鏡に媚び、宇佐八幡の神教といつわり、道鏡をして皇位に即かしめ給わば天下太平ならんと奏上す。道鏡 之をききて非望をいだく。天皇 淸麻呂を宇佐に遣わして更に神教を請わしめ給う。時に道鏡 淸麻呂を誘うに利を以てせしが、淸麻呂 路豊永の言を聞きて深く心に決する所あり。其の宇佐より帰るや、直に神教をのべて、道鏡の如き無道の人は早く除くべきことを奏上す。道鏡 大に怒り、淸麻呂の本官を奪いて大隅に流し、遂に其の途中に之を殺さんとす。既にして称徳天皇 崩じ給い、道鏡の奸悪(かんあく)あらわれて造下野薬師寺別当に貶せられ、淸麻呂は召還されて本官を復せられる。かくて桓武天皇の御代に、平安奠都の地を相(みる)し従三位民部卿に任ぜられて功田二十町を賜わり、延暦18年 67才にて薨ず。其の薨ずるや、天皇 正三位を贈り給い、孝明天皇の御代神に祭りて護王大明神と崇め給い、明治31年 朝廷更に正一位を贈り給う。護王神社は京都市に在りて明治7年 別格官幣神社に列せらる。 先は敏達(びだつ)天皇の皇子 難波王に出づ。天武天皇の御代に眞人の姓を賜わる。豊永 嘗て道鏡の師たり。淸麻呂の宇佐に赴くに当り。淸麻呂に語りて曰く、道鏡 若し天位に登らば吾 何の面目あって其の臣たる可けんや、吾二三子と共に今日の伯夷(ハクイ・支那の殷の人・殷滅び遂に餓死す)とならんのみと。淸麻呂深く其の言を然りとし、決心する所ありて常に忠烈の志を懐しきと云う。 〇藤原百川 式部卿 宇合の子にして幼より器度あり。神護年 中山陽道 巡察使となり、奏して本道の郡傳路 遠くして民苦多きを以て驛(駅)送に復せんことを請い、また長門の豊浦・厚狭(あさ)等 養蠶(蚕)によきを以て、調銅を停めて綿を諭(さと)せしめんことを乞いて許さる。孝謙天皇 崩じ給いて皇嗣 未だ定らざるや、百川は白壁(シラカベ)王(天智天皇の皇孫)を立てんとす。右大臣 吉備眞備 異義ありしを以て、百川 兄 良継 及 従兄 左大臣 永手と密議して白壁王を迎え立つ。之を光仁(こうにん)天皇とす。寶亀2年 大宰師となり、尋(つい)で参議に拜す。天皇 皇太子を廃し給うに及び、百川 山部王を立てんことを奏請す。衆議為に頗(すこぶ)る紛紜(ふんうん・物事が入り乱れること)たりしが、百川 固く前議を執り殿前に立つ四十餘日に及ぶ。天皇 其の誠悃(せいこん・まこごろがこもっていること)に感じて遂に其の請を許し給う。尋で従三位式部卿兼中衛大将となり、内外の機務に輿聞す。同10年 48歳にて薨ず。天皇 悼惜して従二位を贈り給いしが、延暦2年 朝廷 更に右大臣を贈り給う。 〇法均尼 旧名を廣蟲(ヒロムシ)と云い、淸麻呂の姉なり。人となり貞順にして節操なりしかば、孝謙天皇に愛信せらる。天皇 落飾し給うに及び、廣蟲また薙髪(ちはつ・髪をそり落とすこと)して法均(ホウキム)と改む。藤原仲麻呂の誅せらるや、之に黨(とう・党)して斬に当てられしもの数百人に達す。法均 天皇に諌め奉り、其の死を減じて流に處(処)す。乱後 飢疫して民間に棄児多し、法均 人を遣わして之を收養する八十三児に及ぶ。尋で淸麻呂大隅に流さるに当り、法均また備後に流さる。光仁天皇 踐祚(せんそ・皇嗣が天皇の地位を受け継ぐこと)に及び、召し還されて従四位下典蔵となる。天皇 嘗て嘆称(たんしょう・優れたものとして感じ入ること)し給うて曰く、諸侍従は毀譽(きよ・貶すことと誉めること)紛紜たりしに、法均 人の短を言わずと。かくて正四位上典侍に進み、延暦18年 70歳にて卒(しゅつ)す。天長2年正三位を贈らる。 |
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この記事に対するコメント
日本3悪人の一人、道鏡は孝謙(称徳天皇)の寵愛を看病したことで勝ち取ったようであるが、仏教政治によりその治世は混乱を極めたものでもあった。
和気清麻呂は前々から道鏡による政治乗っ取りを察知しており、称徳天皇に子供がいないことや道鏡の専制に対して反発していた貴族の意見を上手く取り入れたこともあって抵抗する事が出来た。
宮城(皇居)にある和気清麻呂の銅像見に行きました。
丁度、国立公文書館で古事記伝の企画もやってたので見に行ったのですがやっぱりあの周辺はとても落ち着きます。和気清麻呂は凛々しく立派な忠臣だと感じました。