日本の面影

Glimpses of Japan
失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑭
天智天皇 律令の選定

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(2017.2.20)  (戻る)
宮内省の名はこの頃に生まれました。明治政府のような近代的な省庁・組織体制というのは、現代では西洋に倣って作られたように教えられていますが、今日の内容でおわかりのように、日本においては大化の新政 天智天皇の時代に既に完成していたのですよ。しかも学制まで整えられていた。なんだか今の日本史教育では、この頃の政治機構が古臭くて原始的、すごく遠いものであるかのよう感じさせる古代貶め偏向教育がなされてるわけですが、こうやって見れば、ものすごく身近で完全に現代に通じるものであったことが明快に伺い知れます。今回は驚きの内容ですからね ^▽^) すごいリアルだし、古代の人々って、現代人とそんなに変わらないんじゃないかって、きっと感ぜられることでしょう。それさえ気づけば千年前の人とだって二千年前の人とだって、その思いを一にして通じることが出来るわけです。
百年前の教科書や歴史学習教材と今の教材、ここまで読んできたら、今の教材はまるで話にならないこと、おわかりでしょう。昔の教材さえあれば、もう何もいらないのです。今の上っ面評論、俗物的な歴史書では、偉大な先人たちと心を通わせることが出来ません。
今後の歴史学習で聖徳太子がいなかったとされてしまうコチラで触れたのと同じような事例について、ゲーテ(1749-1832)は前にも紹介した『ゲーテとの対話』(エッカーマン 著・詳しくは右画像クリック)で次のように評してます、
「これまで世間では、たとえばルクレティアとかムキウス・スカエヴォラとかいった英雄精神が信じられてきた。それによって、心を暖められ鼓舞されてきたのだ。ところが今や歴史批評などというものがあらわれて、そういう人物は存在しなかったのであり、単にローマ人の偉大な精神がつくりあげたフィクションか寓話と見なすべきだ、というのだね。しかし、そんなみすぼらしい真実を聴いたところで、しょうがないよ! ローマ人が、そういうものを創作するほどに偉大であったのなら、われわれにだって、せめてそれを信ずるだけの偉大さがあってしかるべきだろうに。」

この通りゲーテの時代から先人の偉業をないがしろにする歴史改変は目立っており、そのような風潮をゲーテは嘆き、古代であれいつの話であれ、実在の先人が記した記録を後世で作り話だの寓話だのと見下す人々を信用せず、古代人、先人の偉大さ、その真実に気づいていました。
ハッキリ明言しておきますが、ローマ帝国や唐の國、そしてこの頃の大和朝廷の方が国家統治の完成度は現代の国家より高かったのですよ。現代国家の方がボロボロなのです。これほど優れた近代国家を打ち建てたのが、天智や文武の先帝だったのです。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

天智天皇の御治蹟
近江の大津に奠都(てんと)―政治に勵(はげ)み給う―戸籍の修正(戸籍を造り 盗賊 浮浪を糺(ただ)す。庚午年籍(こうごねんじゃく)―学校の興起―後世 中興の英主と称し奉る(近江朝廷の政)。

天智天皇と藤原鎌足
中臣鎌足 天智天皇 中興の業を輔(たす)け奉る―律令の選定に著手―天皇即位の翌年 鎌足病む―天皇の御親臨―皇太弟を遣わし大織冠の位を授け藤原朝臣の姓を賜う(藤原氏の始)―其の子孫 漸く顕(あら)われ一門 大に栄ゆ―多武峯(とうのみね)談山(たんざん)神社。

律令の撰定
天智天皇の時の律令先帝(近江令)―天武天皇 文武の政を励み給う―律令の續修(続修)―文武天皇の時の律令改修―忍壁(オサカベ)親王・藤原不比等(フヒト)改修の命を奉ず―大宝元年に完成(大宝律令)―令は管制・田制・兵制・学制・税制等 今の民法に關(かん)する制度規則を定むー律は今の刑法に当りて決罪の標準を示す―主に唐の制度に倣い我が國 古来の風俗習慣を参酌(さんしゃく)して規定す―元正(ゲンショウ)天皇の時 不比等に修刪(しゅうさん)の命を奉ず―養老2年に完成(養老律令)―我が國 法制の根本。

大寶(宝)律令の大要
(イ)官制
中央政府に神祇(じんぎ)・太政(だじょう)の二官と中務(なかつかさ)・式部(しきぶ)・治部(ぢぶ)・民部(みんぶ)・兵部(ひょうぶ)・刑部(ぎょうぶ)・大蔵(おほくら)・宮内(くない)の8省―省の下に職・寮・司―神祇官の長を伯とし祭祀を掌(つかさど)る―太政官に太政大臣・左右大臣・大納言等ありて諸政を統べ8省を官す―各省の長を卿とし政務を分掌す―此の外 弾正臺(だんじょうだい)ありて違法の者を罪す。
地方の重要地に特別制を布く―京都に左右京職(しき)―摂津に摂津職―西海道に大宰府―諸國に國司 各郡に郡司―各地方の政務を掌る―すべて各官衛に四部官(しぶかん)
(ロ)兵制
徴兵法―京都に五衛府(ごえぶ)―諸国に軍團(団・ぐんだん)―邊(辺)要地に防人(さきもり)―軍団は毎國 正丁三分一を兵に採用―其の一部 交代 上京して衛府に入る―また出でて防人となる。
(ハ)學制(学制)
京都に大学―諸國に國學―共に地位ある人の子弟を教育す―成業後に考試(こうし)して官吏に登用す。
(ニ)田制
6年毎に班田収授―男子6才にして口分田二段―女子は男子の三分の二の口分田―死後 口分田を公収す。
(ホ)税制
租・庸・調の三種―租は田より納むる稲―庸は一定の労役に服せざる者より納むる布―調は絁(あしきぬ)・絹・布等―租は主に國郡の費用に充つ―庸・調は京都の用度とす。
(ヘ)刑制
笞(ち)・杖(じょう)・徒(づ)・流(る)・死の五刑―皇親また高位・大才・大功の者は殊に寛典(かんてん・情けある取り扱い)に浴す―君 父に関する罪 最も重し―大虐の犯罪者には大赦(たいしゃ)の外 赦免なし。
(ト)位階
親王の位は一品(いっぽん)より四品(しほん)に至る四階―諸王の位は正一位より従五位下に至る十四階―諸臣の位は正一位より少 初位下に至る三十階。


〇大津宮遷都
旧帝都は、今の近江滋賀郡滋賀村にして、天智天皇6年3月 此に遷都し給う。当時、人民 遷都を好まずして、之を諷諫(ふうかん)し奉るものありしが、十年 天皇 此に崩じ給いて、天武天皇の即位に及び、大和の飛鳥 浄見原(きよみがはら)宮(高市郡飛鳥村)に遷都し給えり。
〇庚午年籍
天智天皇の9年2月、新に戸籍を造りて盗賊 浮浪のものを糺斷(ただす)せしめ給う。此の年 庚午の年に当れるを以て、庚午年籍(こうごねんじゃく)と云い、後来 戸籍の原簿として永く除かず、之によりて氏姓の紛乱を正せり。
〇中臣鎌足と多武峯談山神社
中臣氏は天児屋根命(アメノコヤネノミコト・コチラ参照)に出づ。鎌足は御食子(ミケコ)の子にして夙(つと・早くから)に大志あり。皇極(コウギョク)天皇の3年、神祇伯に拝せられしがつかず、此の時に当り、蘇我入鹿父子 無道にして不臣の心を挟む。鎌足 憤然として匡済(きょうさい・悪を正し乱れをすくうこと)の志あり。賢明なる中大兄皇子に親近し奉りて志を語り、共に皇室を輔翼(ほよく)し奉らんとす。されど人の嫌疑を恐れ、共に南淵請安(コチラ参照)に学ぶに托し、往来に事を図る。鎌足 皇子に勸(すす)め奉り、蘇我倉山田石川麿(ソガノクラヤマダノイシカワマロ)と婚を結ばしめて皇子の輔佐とし、また佐伯子麿(サエキノコマロ)等を與黨(よとう・くみする仲間)とす。翌4年6月、三韓進調の日を以て事を挙げ、皇子と共に入鹿を誅す。入鹿の父 蝦夷また自殺して蘇我氏の本宗 此に滅亡す。孝徳天皇 即位に及び、内大臣となりて大織冠を授かる。而して大化改新は、皆 鎌足が中大兄皇子と図りて画策せる所なり。尋(つい)で中大兄皇子(天智天皇)未だ即位し給わるざるに当り、鎌足に命じて律令撰定に着手せしめ給う。天智天皇の2年10月、鎌足 疾あるに及び、天皇 親臨して其の病を訪ひ給い、更に皇大弟 大海人皇子(オホアマノミコ)を遣わして大織冠を授け、且つ内大臣として左右大臣の上位に在らしめ、また藤原朝臣の姓を賜う。此月年56を以て薨ず。其の薨ずるや、摂津三島郡阿威(アヰ)山に葬りしが後、大和磯城郡多武峯に改葬し、廟塔を建てて木造を安置す。後の談山神社 是なり。藤原氏の盛時には、朝野の尊崇(そんすう)甚だ厚く、明治7年朝廷 鎌足の功を追賞して、談山神社を別格 官幣社に列し給えり。
〇近江令
天智天皇は律令の必要を思し召し給い、未だ即位し給わざるに当り、始めて中臣鎌足に命じて之が編纂に着手せしめ給う。かくて天皇即位の年に至りて全22巻成る。之を世に近江朝廷の令と云う。後に天武天皇の修正をへて、持統天皇の3年に全一部22巻の発表せられしもの即ち是なり。
天武天皇の御事蹟
天皇 即位し給いてより、精勵(せいれい・つとめはげむ)治(よい政治が行われること)を図りて朝制・法令等ますます改進し給い、朝儀・官制・兵制・刑罰・風習など大に整理し給えり。即ち親王以下 人民に至るまで服用の差別を定め、跪禮(きれい・地べたにひざまずいて礼をすること)葡匐(ほふく・腹ばいになって手と足ではうこと)の禮(礼)をやめて立禮にふくし、爵位を改めて朝服の色を定め、諸氏の族姓を改めて八色の姓を作り、任官陞(昇)進の法・社寺土地の制を定め、民業を奨めて浮浪の徒を戒め、兵の上を定め、また各戸に兵馬を貯えしめ、軍器を軍役所に収めしめて兵制を改め、其の他 刑罰を整え学術技芸をすすめ給えり。
〇忍壁親王
忍壁を一に刑部(ぎょうぶ)に作る。親王は天智天皇の皇子なり。天武天皇の9年 詔を奉じて帝紀及び上古の事を撰し、朱鳥(しゅちょう)元年 封百戸を加えらる。文武天皇の4年、勅を以て藤原不比等と律令を撰す。後 親王となりて三品に敍(じょ・位を授かる)し、大宝元年 知太政官事(ちだじょうかんじ・太政大臣の職を知る官)となり、慶雲元年 封二百戸を增し、翌年 越前の地 百町を賜わり五月 薨す。
〇藤原不比等
内大臣 鎌足の二子なり。持統・文武・元明・元正の四天皇に仕え、累進して和銅元年 正二位右大臣となり、養老2年 太政大臣に任ぜられしも辞して受けず。文武天皇の4年、勅を奉じて律令を撰し、慶雲元年 封八千戸を增し、同4年 天皇其の勤労を嘉(か)みし封五千戸を賜いて子孫に伝えしめ給う。不比等 其の二千戸を受け一千戸を以て子孫に伝う。養老4年 疾を以て薨ずるや元正天皇 深く悼惜し給い、為に朝を廃し、詔して太政大臣正一位を贈り文忠と諡(し・おくりな)らせ給う。時年62。其の四子 武智麻呂・房前・宇合・麻呂 皆あらわれ一女の宮子媛は文武夫人となり、光明子は聖武皇后となる。
〇大宝律令の説明と我史上重要の所以
大宝律令は主として唐の制度にならい、我が國 古来の習慣を斟酌(しんしゃく)して定めたるものなり。されば大禮に於て朝廷の政治の基本となりて永く用ゐられ、武家政治の起るに及び、其の費用少なくなりしも、管制の如きは名義を存して明治維新に至り、王政復古の管制 之によること多く、明治18年の管制改革にまで及べり。
〇弾正臺(だんじょうだい)
今の警視廳(庁)の如く、風俗を粛清し内外の非違を糾正する役所にして、長官を尹(いん)と云い、其の下に弼(ひつ)・大少忠・大少疏(そ)あり。
〇左右京職と摂津職
左右京職は、京都 左右雨京の民政を掌(つかさど)り、兵士を簡(えら)び、租税を収め、訴訟を聴き武器を修むるなど諸般の事を行う。また摂津職は、職掌 概ね左右京職に同じく、船舶の停る津港地に在るを以て、特に此の職を置かれたれば、郵驛・伝馬を備え、舟具を検する等の事をも掌る。
〇大宰府
府址は今の筑前筑紫郡水城村に在り。此の府は四邊の要鎭にして、西海道九國三島を官し、兼ねて外寇に備え外交の事を掌る。長官を師と云い、其の下に大少貳(弐)・大少監・ 大少典等あり、大宝元年設置の後、天平14年 之を廃し、同17年 之を復せしが、後 次第に衰え、源頼朝 鎭西奉行(ちんぜいぶぎょう)を置きてより有名無実となれり。

〇律令と格式
大宝律令の制定せられてより、此の律令は著しき修正なし。而して律は今の刑法に等しく、令は政治上必要なる種々の規則を網羅せるものなり。若し之が修正増補の必要起る時は、別に詔勅または太政官符等にて之をなす、之を格と云う。また律令を施行するに当りて、必要なる細則は別に之を定む。之を弐と云う。
〇四部官
大宝令にて制定の諸官衛には、概ね長官(かみ)次官(すけ)判官(じょう)主典(さくわん)の四等の官吏あり。之を四部官と云う。長官は各官衛の長にして其の政務をすべ、次官は長官を助け、判官は官衛の取締をなし、主典は書記をつとむ。例えば八省にて長官を卿とし、次官は大少輔とし、判官を大小丞とし、主典を大少錄とし、また弾正臺にて長官を尹とし、次官を弼とし、判官を大少忠とし、主典を大少疏とし、國にて長官を守とし、次官を介とし、判官を大少掾とし、主典を大少目とし、郡にて長官を大領とし、次官を少領とし、判官を主政とし、主典を主帳とするが如し。
〇五衛府
禁衛を掌れる官府を五衛府と云う。五衛府とは衛門府・左右衛士府・左右兵衛府を云う。
〇軍團(団)
非常に備うるため諸國に配置したる軍營(営)にして、今の師団の少なる如きものなり。其の兵士は管内の男子二十歳以上六十歳以下の正丁中、其の三分の一を徴発して一軍団を組織す。概ね四郡に一軍団を置き、各軍団の兵員同一ならず、千人以上を大軍団とし、六百人以上を中軍団とし、五百人以下を小軍団とす。各団兵士を検し武器を具え弓馬を調へ陣列を閲(えつ・見て確かめる)す。而して軍団中より上京して禁中に宿衛するものを衛士と云い、邊防に出づるものを防人(コチラ参照)と云う。
〇口分田
天下一般に各人に等しく給与せる田地を云う。人生れて六歳に至れば一人毎に二段を給し、女には其の三分の二を与え、各力作して租を上に納め、其の餘(余)を己が食料とし、身死すれば公に還へす。故に政府は、六年毎に人民の生死を調査して其の収授を行う。之を班田収授の法(コチラ参照)と云う。此の方法は大宝令の時 制定せられしが、後 暫く実行せられず、承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱(皇紀1595―1601・平将門の乱と瀬戸内海での藤原純友の乱の総称)後に至りて、廃絶するに至る。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑮ ~ 奈良奠都 (史書撰修) 隼人 及 西南諸島の服属 (支那との交流)

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◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑫ 大化の新政

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑪ 蘇我氏の無道

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑨ 聖徳太子 支那へ使節派遣

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑥ 仁徳天皇と雄略天皇 顕宗 仁賢 両天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑤ 朝鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ③ 崇神天皇と垂仁天皇

◆大東亜戦争(太平洋戦争)の起こったわけ (完答)

◆戦前は逆賊歴史学として処罰されてた、左翼学者による皇統否定の「縄文・弥生」時代の敗戦後の普及 ~ 汚染される皇室。救う手だては皇室奪回

◆戦後の歴史教育を捨てよう。 歴史教育 再興 ① 永久保存版 戦前の国史(日本史)学習年表

◆親次第で自虐史観なんてどうにでもなる ~ 日本のおかげでアジア諸国の独立が早まった・・・そんなことで喜んでるのも自虐史観の亜種にすぎない

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真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑬
蝦夷の服属 韓土の変遷(百済 高麗の滅亡・新羅の朝鮮半島統一)

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(2017.2.17)  (戻る)
これまで大化の改新や朝鮮半島をめぐる情勢など、ことこまかに記してましたが、ついに朝鮮半島における倭国の足掛かりとなってた百済も任那に続いて滅亡します。そして日本は国内の整備に向かい、北へ南へと皇威を拡張し、現在の日本列島の領土が形成されていきます。白村江の戦いで敗北を屈した日本は、唐・新羅の本土侵攻に備え、西国(九州)における防備を万全にすべく、強化していきました。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

斎明天皇の御即位
孝徳天皇の崩御―皇太子 中大兄皇子 尚 即位を辞し給う―皇極天皇 再び御即位(即ち斉明天皇)―重祚(ちょうそ・一度位を退いた天子が再び位につくこと)の始―皇太子 中大兄皇子の朝政補佐。

北邊(辺)の征服
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の征伐後 東方蝦夷の服従―後 漸く其の勢を復してまた叛す―上毛野田道(カミツケヌノタミチ)の敗死―上毛野形名(カミツケヌノカタナ)の苦戦―越(コシ)の蝦夷 騒ぐ―渟足(ぬたり)・磐船(いわふね)の二柵を設く―越 及び信濃の民を柵戸とす―越國守 安倍比羅夫(アベノヒラフ)の征伐―渟代(ぬしろ)・津軽二郡を置く―渡島の蝦夷を服す―進んで粛慎(みしはせ)を伐つ―蝦夷地方(今の北海道の中部)皇威に服す―蝦夷 平定後の粛慎 再征。

韓土の形勢
歴代任那の回復に尽力―大化新政の頃は唐朝の初期―唐の勢 日に隆盛に赴く―新羅 任那を併せし後 國力 大に張る―高麗(高句麗のこと) 隋軍を邀(むか)え撃つ―高麗の勢 新羅と伯仲す―高麗・新羅 互に隙を生ず―高麗 百済に結びて新羅を攻む―新羅に武烈・文武の二王 出づ―新羅 唐に通じて援を乞う―唐主 高麗を討つ―唐軍 高麗に克つ能わず―百済の国政 大に紊(みだ)る―新羅 唐兵と共に百済を降す―百済の遺臣 鬼室福信(キシツフクシン) 援を我に求む。

百済 高麗の滅亡
斉明天皇 皇太子と共に新羅 御親征―天皇 筑紫に御進発―朝倉宮に崩御―皇太子 中大兄皇子 天皇の御志を継ぎて軍を統べ給う―阿曇比羅夫(アヅミノヒラフ)等の差遣―我に質たりし百済王子 豊璋(ホウショウ)を送る―百済國の再興―百済 鬼室福信を疑いて之を殺す―皇軍 百済を救いて唐兵と戦う―皇軍 利あらず(白村口の戦)―百済 内乱起る―百済王 高麗に走る―百済の滅亡―後5年 高麗の滅亡。

新羅の一統
唐 安東都護府(アントウトゴフ)を平壤に置く―新羅の文武王 唐兵と争う―新羅 平壤以南の地を略取す―唐 安東都護府を遼東に移す―新羅 朝鮮半島の一統。

朝鮮半島の離畔(離反)
中大兄皇子の御即位(天智天皇)―天皇 内外の形勢に考え既往の実績に徴し給う―朝鮮半島に関係の不利―百済の滅亡と共に朝鮮半島より我が軍を収む―大に内政につとめますます國防を厳にす―朝鮮半島の離反(神功皇后以来 茲(ここ)に四百数十年)。

新羅の待遇
新羅は朝鮮半島一統後も来朝す―我は対等以下を以てこれを礼遇す。

唐との修好
百済の滅亡後 唐使 来りて好(よしみ)を求む―我また使を送りて之に答う―彼 我の國交 舊(旧)に復す―唐の文物制度の輸入。

〇越の蝦夷征伐と安倍比羅夫
蝦夷は景行天皇の御代、日本武尊の征伐後 一且(いったん)平定せしが、年を経るに従いて、漸く其の勢を恢復(回復)せり。仁徳天皇の55年、上毛野田道(カミツケヌノタミチ)其の叛を征して敗死し、舒明(ジョメイ)天皇の9年、上毛野形名(カミツケヌノカタナ)将となりて之を討ちしが勝つを能わざりき。孝徳天皇は、大化3年 渟足(ぬたり・越後の沼垂町辺)に柵を造り、翌年また磐舟(越後の岩船町)に柵を造り越(越後越中越前地方)と信濃との民をうつして之を戍(まも)らしめ給う。尋(つい)で斉明天皇の御代に至り、安倍比羅夫 舟師百八十艘(そう)を率ゐ、日本海方面より蝦夷を伐ちて秋田・能代の蝦夷を降し、遠く渡島(北海道)の蝦夷をも招く、翌5年 比羅夫 再び舟師を率ゐ、津軽(陸奥 青森辺)地方を定めて北海道地方にまで及べり。比羅夫の始めて蝦夷を伐つに当り、進んで粛慎(アムル下流の沿岸に住せし種族)を討ちしが、6年 之を再征するに及び、陸奥・北海道の蝦夷 人を使役し、進んで樺太地方にて大に粛慎兵と戦いたり。
〇上毛野田道と上毛野形名
上毛野氏は、崇神(スジン)天皇の皇子 豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)の後なり。田道は仁徳天皇の53年、新羅を伐ちて大に之を破り、其の四邑(ゆう)の民を虜にして還る。越えて55年 蝦夷の叛を伐ち遂に伊寺水門(いじみのみなと 陸奥 石巻辺か)に戦死す。又 形名は舒明天皇の9年、将軍となりて、蝦夷を討す。然るに形名 却って蝦夷に破られて、走りて壘(とりで)に入る。賊 之を圍(囲)み、形名 夜に乗じて逃走せんとす。形名の妻 之を漑(まか)きて曰く、難に臨みて逃るるは唯に恥を取るのみならず、祖先の功名をも廃するに至ると。即ち形名の酔いて寝ぬるを伺い、自ら其の劔(剣)を帯びて婢女等数人に弓弦(ゆみづる)を鳴らさしむ。形名 醒(さ)めて起ち、武器を取りて進む。賊 其の兵の多きを思い、囲を解きて去る。形名 遂に之を撃ちて破ることを得たり。
〇柵戸
柵は古に城と共にキと云うより、柵戸をキノヘとよぶ。後には土を築きて構えたるを城とし、木を建て貫を通じて構えたるを柵(さく)とす。柵戸は此の柵に在りて防御の任にあたれる戸を云い、大化3年之を置きしを始とす。
〇高麗 隋軍と戦う
隋の文帝(皇紀1258年)の時、高麗の嬰陽王(エイヨウオウ)遼西(盛京省西境)を侵せしかば、文帝 之を伐たしむ。されど糧食つがずして隋軍退き、高麗また之と和す。文帝の子 煬帝(皇紀1272年)また大兵を発して高麗を伐ちしが、隋軍 潰走(かいそう・戦いに負けた隊が四分五裂になって逃げること)して軍資器械 皆失う。煬帝 大に怒り、翌年再び兵を挙げて侵入せしが、遂に勝つ能わずして軍をかえせり。
〇武烈・文武の二王
武烈王(皇紀1314-1320)は新羅29代の王にして、其の子 文武王(皇紀1321-1340)と共に英明なりき。此の二王の時、唐と同盟して百済・高麗を滅ぼししが、間もなく文武王は百済の旧地を併せんとし、唐の勢力を朝鮮半島より除かんことに努めたり。唐 高宗(皇紀1320年)之を詰問せしも、文武王 之に応ぜずして遂に唐兵と戦い、半島の大部分を占領したり。
〇鬼室福信
新羅の唐兵を誘いて百済を攻むるに当り、鬼室福信(キシツフクシン)は國人を集めて王城を守り、斉明天皇の6年、使を我に遣わして救を請い、且つ曩(さき)に遣わせし王子 豊璋(ホウショウ)を迎えむことを乞う。かくて豊璋の國に還るや、福信 之を迎えて専ら國政に参与す。然るに豊璋 福信を疑い、天智天皇の2年、遂に之を殺しぬ。かく福信は百済末路の良将にして、常に回復に苦心せしが、王 之を殺して其の滅亡を速ならしめたり。
〇朝倉宮
宮址は、筑前朝倉軍宮野村大字須川なりと云う。斉明天皇 百済の請を許し、新羅を撃ちて百済を救わんとし給い、其の7年、親(みずか)ら筑紫に幸して此に行宮を立てさせ給う。当時 其の宮殿の材 削らざるを以て木丸殿と云う。
〇白村口(江)の戦い
白村江は、今の朝鮮 忠清南道の錦江なり。初め百済王 豊璋の鬼室福信を殺すや、新羅 之を知り、直に其の王城をつかんとす、偶(たまたま)日本軍の至るを聞き、其の兵士を白村江に屯せしむ。唐将 劉仁願等の率いたる戦船170艘も、また白村江に陣を列す、かくて我が兵 唐軍と大に此に戦いしが利ならずして退き、豊璋 遂に船に乗じて高麗に走り、百済 遂に滅亡せり。
〇安東都護府
唐は其の征服せる土地を守護する為に、四辺に都護府を設く。而して高麗 百済を滅すに及び、其の故地を管する為に平壌(平安南道)に安東都護府を設く。されど新羅 文武王の時、之を今の奉天府遼陽州の北に在りし遼東城に移したり。
〇唐との修好
天智天皇 百済を救わんが為に唐兵と干戈(かんか)を交え給いしが、其の3年 唐将 劉仁願(リュウジンガン)の郭務悰(カクムソウ)をして表を上り物を献ぜしむるや、之に饗賜(きょうし)し給い、翌年 唐 更に劉徳高(リュウトクコウ)を遣わし、其の帰るに及び使を派して之を送らしめ給う。尋で6年 劉仁願、また司馬法聰(シバホウソウ)をして、我が境部石積(サカイベノイワツミ)等を大宰府に送らしめ、8年 天皇 河内鯨(カワチノクジラ)等を使者として唐に派し給い、唐また郭務悰等二千餘人を我に遣わせり。かくして唐との修好成り、やがて遣唐使留学生・留学僧 相ついで彼地に赴き、唐の文物制度を輸入するに至れり。
〇三韓放棄の主因
神功皇后 三韓征伐の後は、三韓 我に朝貢し、其の文物を輸入して我 國運の進歩を助けたり。されど年を経るに隨(したが)いて、叛乱しばしば三韓に起り、我は之が鎮撫に疲るるの有様となりしが、支那に隋起り、やがて唐 之に代りて其の勢を三韓に及ぼすに至り、其の統御(とうぎょ・全体をまとめ支配すること)頗(すこぶ)る困難の形勢となりぬ。加之(しかのみならず)我には内治の急にすべきものありしかば、天智天皇は其の差遣の皇軍を召還し給い、一方には大に国防を修めて唐に備え、一方には等の請を許して其の交を修め給えり。
〇天智天皇の御事蹟
舒明天皇の御子にして初め葛城皇子と称し、一に中大兄皇子と申す。天皇 英明にして蘇我氏の専横を憤り中臣鎌足と図りて之を滅し給う(コチラ参照)。孝徳天皇 即位に及び皇太子となりて朝政を輔(たす)け、英断を以て大化改新(コチラ参照)を決行し給う。かくて斎明天皇の朝なほ皇太子となりて政を佐(たす)け給う。此の時 百済 急を告げて救を乞い、斉明天皇 九州に行幸し給うに及び、其の四征に従い給う。たまたま斎明天皇 行宮に崩じ給うや、天皇 素服(そふく・凶時に際して着用する喪服の一種)して制を称し、将を遣わして唐軍と戦わしめ給いしが、皇軍 利ならずして百済 遂に亡ぶ。天皇乃ち軍を還えしてますます西國の防備を修め、6年(皇紀1327年)都を近江の大津に遷し、翌年 即位の禮(礼)を行わせ給う。是より先、天皇令を定め冠位を制し給いしが後、朝禮を定め、戸籍を造り学校を興し給う。其の御治蹟 甚だ著しかりしかば、後世 中興の英主と称し奉る。天皇在位11年 御年46にて崩じ給う。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ~ ⑭ 天智天皇 律令の選定

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(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑫ 大化の新政

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑮ 奈良奠都 (史書撰修) 隼人 及 西南諸島の服属 (支那との交流)

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑱ 平安奠都 蝦夷の鎭定

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑪ 蘇我氏の無道

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑩ 佛教の興隆 美術・工藝の進歩

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑦ 朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑤ 朝鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑲ 韓土の(朝鮮半島)変遷(支那との関係) 渤海の入貢

◆古代日本史における朝鮮半島の倭国領を歴史から取り返さなければならない! ~ 朝鮮に文化をもたらし、古代朝鮮半島南部を支配した倭人

◆こないだまで、古代日本は朝鮮半島南部を支配していたと教えられていたのに ~ 日本府 任那を消し去った売国奴学者列伝 実は朝鮮人か!?

◆消し去られる朝鮮半島の日本府 任那 ~ 子供を日本人でなく地球人に育てる驚愕の社会科教科書

◆朝鮮人は、朝鮮半島に住んでいた古代日本人を蹂躙した侵略者!

◆戦前の道徳教科書『修身』に見る加藤清正の武勇伝 ~ 自虐史観の正反対から見る豊臣秀吉の朝鮮侵攻

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真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑫
大化の新政

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(2017.2.15)  (戻る)
近代国家の礎ともなった輝かしい大化の新政なのですが、古代 氏族制度における権力争いの総括的な流れ、その行き付いた先ともいえましょう。そして肝心なのが、大化の新政(改新)こそ本来あるべき天皇親政を奪回したものであったということ。現代の教育ではここが教えられておらず、ただ単に皇室をめぐる権力争いにすぎなかったかのようにされてますが、本質は天皇親政の奪回、ここなのです。そしてそれは、鎌倉幕府に始まる武家政治によって崩され、後醍醐帝による建武の中興でごく一時期取り返したものの、しばらく天皇親政の体制はないがしろにされ、徳川光圀公による水戸学で江戸時代の間その思いがくすぶり続け、明治維新によって後醍醐帝500年越しの思いを明治天皇が実現、ようやく取り戻したのです。私が何度も言ってる天皇親政こそ日本の正当な政治制度である、その意味がここに来てようやくわかっていただけるのではないでしょうか。戦前の歴史教育における重要な点はそこであり、そして戦後また天皇親政が打ち倒されてしまったということ。だから敗戦後に押し付けられた民主主義制度による現政権なんてものは、利にくらんだ幕府・武家政治と変わらぬ邪な賊軍政治にすぎないのです。
それと「“天皇制(政)”なんてなかった。戦前に打倒 “天皇政”を掲げて共産主義者が作った言葉だ」なんて言って、天皇政という言葉を消し去ろうとしてる者がよくいますよね。あれって日本の歴史がよくわからなくなってしまった現代の日本人に対するデマ、戦前はこの通り天皇親政、つまり天皇政だったんですよ。陛下が政治の中心だったのですから。それが敗戦によって廃されたわけで、もう既に天皇政は打倒されたのです。だから彼らは今さら天皇政という言葉が使われるのを嫌がり、天皇政なんて元からなかったんだってことにしたいわけ。それゆえ「天皇政なんてなかった」と拘る連中こそエセ保守であり、とにかく彼らは天皇政が日本に存在しなかったことにしたい連中ですからね。「天皇政の言葉を使うなって、なんかおかしなことにこだわってる人たちだな」って奇妙に感じられてた方も多いのではないかと思いますが、こういうことなので惑わされちゃダメですよ。もちろんそういう人々は戦後民主主義狂信の左翼であり、他に言ってること見てれば何か変に感じてくるでしょうから、すぐわかりますよ。疑問が一つ解けたでしょう? だから日本の歴史を顧みて真の保守であるなら「天皇政を守れ!天皇政復活!」こそ正しいスローガンなのです。

そして大化の改新といえば今も戸籍や班田収授があげられますが、平安時代中期までは継続されていた奴婢の存在等の記録も生々しく、皆様、興味深い内容かも。何度も禁止された奴婢制度や人身売買、平安中期以降は表向きなくなってるはずですが密かに利用されてるとこもあったようです。また兵庫県の由来は、天智天皇が其の地を兵器の倉庫(兵庫)としていたことに始まることも今日の内容から知れます。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

國勢の推移
古来の官職―家々 之を世襲す―大臣(オホオミ)・大連(オホムラジ)・國造(クニノミヤツコ)・縣主(アガタヌシ)等 土地・人民の私有―中央 及び地方の豪族の威権―弊害 甚だ多くして皇威 軽し―大臣・大連(政権を擅(ほしいまま)にせしもの)の滅亡―學問(学問)及び佛教(仏教)・技術の伝来(韓土より)―支那の文物 直に輸入す―留学生の帰朝―國勢の推移―政治改革の必要。

新政の端緒
推古(スイコ)天皇 孝徳(コウトク)天皇に御譲位―難波に遷都―皇太子 中大兄皇子の輔佐(補佐)―蘇我氏 滅亡の後 天皇の御親政―都鄙(とひ・都と田舎)共に政治上の弊害多し―皇太子 鎌足に謀りて政治の改革―皇太子の御英断―支那の制度に倣い我が舊習(きゅうしゅう・旧習)を参酌(さんしゃく・他と比べ合わせて参考にする)す―中臣鎌足 内大臣に任ず―安倍内麿(アベノウチマロ)左大臣に任ず―蘇我石川麿 右大臣に任ず―天皇 御即位の年を大化元年とす(年号の始)留学生 高向玄理(タカムコノゲンリ)・僧 旻(ミン)の國(国)博士―東國の國司に田畝(でんぽ・たはた)を校し(校する=比べて考える意。校合(きょうごう)する)戸籍を造らしむ―朝廷に鐘匱(しょうき=かねひつ・その首長を介して民の訴状を匱に投書させ、訴えが取り上げられない時は訴人に鐘を打たせるためのもの)を設けて訴に便ならしむ―奴婢の法を定むー使を諸国に遣わして兵器を収めしむ―土地の私賣(買)を禁ず。

新政の詔 下る
豪族 恣(ほしいまま)に土地人民を私有す―勢力者の兼併(けんぺい・他の所有地や国を併合すること)―皇威の不振―宿弊(年来の悪習)の矯正―新政の詔 下る(大化2年)。

新政の大要
私有の土地・人民を朝廷に収む―食封(じきふ)又は布帛(ふはく)を賜わる―京都及び國郡の制を定む―畿内を區畫(区画)し地方を國・郡・里に分つ―戸籍を作り口分田(くぶんでん)の制を定む(班田収授法)―旧来の貢・徭役(ようえき)をやめ租・庸・調の税法を定む―國司・郡司を置く―旧國造 中のものを郡司に選抜す―國司は京都より交代赴任(ふにん)す―要地に関塞(せきそこ・関所)を設(もう)く―九州に防人(さきもり)を置く―驛馬(えきば・駅馬)・傳馬(でんま・伝馬)の制を立つ。

中央集権の基礎固定
八省・百官の設置―新に官位・礼法を定む―才能によりて官職を授く―人才 登庸(用)の道開く―中央集権の基礎固定す―種々の制度また備わる。

〇上古 官職の世襲
我が國の上古は家々一定の職業ありて、代々 之を相つぐの俗あり。即ち大伴部・物部は兵士となり、中臣部・斎部は祭祀に従い、玉作部は玉を作り、土師部は土器を製するなど、皆 定まれる職ありて之を世襲し、而(しか)も各部民には之をすぶるものありて、また之を家職として世襲す。其の大伴氏・物部氏の如きは兵士を卒ゐて(兵士を集めて)宮中を警衛し、中臣氏・斎部氏の如きは祭祀を主(つかさ)どりて、以て各朝廷に仕え奉り、又 大伴・物部両氏の連の家に出でて大政に参与せるものを大連と云い、蘇我氏等の臣の家に出でて大政に参与せるものを大臣と云う。是等の官職は國造(コチラ参照)などと共に子孫 皆 之を世襲したり。
〇大臣・大連等の擅権(せんけん・専権)と其の衰亡
大臣・大連・国造・縣主等 皆 其の官職を世襲し、年をふるに伴いて多くの土地・人民を私有し、従いて威権を恣にし専横なること甚だしくなりぬ。中にも大連の職に在りし家柄にて、大伴氏は欽明天皇の御代に金村の隠退(いんたい)せしより顯(あら)われず、物部氏は用明天皇の御代に至り守屋 蘇我氏の為に亡ぼされぬ。是より大連の職 久しくたゆ。而して大臣の職に在りし家柄は、武内宿禰(タケノウチノスクネ)の後に葛城(かつらぎ)・平群(へぐり)・巨勢(こせ)・蘇我の諸氏ありしが、葛城氏は圓(つぶら・円)安康(アンコウ)天皇の崩後に誅せられ、其の一代にしてまた出でず。平群氏も眞鳥(まとり)仁賢(ニンケン)天皇の崩後に殺され、其の一代にして亡び、巨勢氏も継体天皇の御代に男人(ヲヒト)出でし後また顯(あら)われず。尋(つい)で蘇我稲目の大臣となるや政権を擅(ほしいまま)にし、其の子 蝦夷 其の孫 入鹿 大臣の職に在りて無道なること甚だしかりしが、蝦夷・入鹿の父子 遂に誅に伏して大化の改新 行われ、ここに大臣・大連の職すたれて其の擅権(専権・思うままに権力をふりまわすこと)の如き弊害 全くやむに至れり。
〇年号(年號)の始
支那にて年號を定めしは、漢の考武帝の世(皇紀521年)に建元(ケンゲン)の號を立てしを始とす。我が國にして、大化の改新以前に僧侶の間には、私に年號をとなへ居りしことありて。之を世に私年號(しねんごう)という。されど支那の例にならいて、朝廷より公に年號を定め給いしは、實(実)に大化を以て始なりとす。是より後は、天皇の御即位 其の他 吉凶の大事等によりて、常に改元ありしが、明治の昭代に及び一世一元(一せい一げん)と定められたり。
〇校田(こうでん)と造戸籍
是より先き、権力ある者は恣に土地・人民を私有して、田地の制もすたれ、戸籍の法もみだれたりき。大化元年八月、天皇 東國等の國司(こくし)を召し、詔して各其の管内の田地を校(しらぶ)し戸籍を造らしめ給い、又 大和の國の六縣に使を遣わし、戸籍を造り田地を検せしめ給えり。是れ等はやがて大化改新の政治の行わせらるる先軀(駆・さきがけ)とも云うべきなり。
〇鐘匱(しょうき=かねひつ)の設置
大化元年八月、朝廷に鐘(かね)匱(はこ)とを設け、詔し給いて曰く、若し憂え訴うる人あらば、各尊長などに考えて之を奏すべく、尊長などもなくして、訴うる所を審にせざるものに、牒(かきつけ)を匱に納るれば、各其の罪を以て罰せん、其の牒を収むるものは、朝夕に牒を取りて内裏に奏すべし、或は官吏 怠りて理ならず、或は阿黨(あとう・阿党・権力のある者におもねり組すること)して訴を曲ぐることあらば以て鐘をつくべしと。のたまい給う。
〇奴婢の法
大化元年八月、奴婢の法を定め給う。即ち良男良女の生む所の子は其の父につけ、良男の婢によりて生む所の子は其の婢につけ、良女奴によりて生む所の子は其の奴につけ、奴婢の生む所の子は其の婢につけ、寺家の子は良人の法にしたがい、若し別に奴婢に入れば、奴婢法にしたがうべしと定めさせらる。
〇兵器を収む
大化元年八月、閑曠(かんこう・あき地)の所に兵庫(つわものぐら)を作りて國郡に在る刀・甲・弓・矢を収め、近く蝦夷と境を接する邊國(辺国)には、盡(ことごと)く其の武器を集め、なほ本の主にあづけしめ給い、翌九月 使を諸国に遣わして種々の兵器を集めしめ給う。
〇土地 私賣(売)の禁
孝徳天皇即位の頃は、天下の百姓なほ乏しくして、勢力あるものは土地を分割して私有とし、百姓に売与して年々其の儥を求む。是に於て大化元年九月、詔して土地を賣るを禁じ、妄(みだ)りに主となりて劣弱のものを兼併(他の所有地や国を併合する)することなからしめ給う。
〇大化改新の詔
大化2年正月賀正(年始)の禮 崋るや、改新の詔を下し給う。其の一曰く、昔 天皇等の立てし所の子代の民(名を後世に伝うる為に設けし民)處々(ところどころ)の屯倉(みやけ・コチラ参照)及び別に臣・連・國造等の有せる民と處々の土地とを罷(や)めよ。其の二曰く、初めて京師(けいし・みやこ)を修め、畿内に國司・郡司・関塞(せきそこ)片候・防人(さきもり)驛馬(えきば)・傳馬(てんま)を置き、鈴契(すずしるし)を造り山河を定めよ。凡そ京には坊(まち)毎に長を置き、四坊に令一人を置き、戸口を検し好非を察することを掌らしむ。其の三に曰く、初めて戸籍計帳(数を記す帳 班田収授之法を造る。凡そ五十戸を里とし毎里に長を置き、戸口を検し農業を課し悲違(法に背くこと)を禁じ賦役をを催さしむ。其の四に曰く、舊(旧)い賦役の法をやめて祖・庸・調の法を行う。
〇食封・布帛(織物・きれじ)の下賜
食封(じきふ)は勲功・位階・職分あるものに賜わる課戸(かこ・戸中に調庸を諭す男、即ち其の課に一人以上ある戸を云う)を云う。大化改新の時、一般に私有の土地・人民を収めて公地・公民とし給いしを以て、大夫(後の五位以上のもの)以上には各差を以て食封を賜い、其の他の百官人民には各差を以て布帛(ふはく)を賜う。後世 食封には、位封・職封・功封の別定まり、位封(一品 八百戸より四品 三百戸に至る正一位 三百戸より従三位百戸に至る)は位階あるものに、職封(太政大臣三千戸より大納言八百戸に至る)は官職あるものに、功封(五位功を以てす大功は三世に伝え上功二世に伝え中功子に伝え下功一代限)に勲功あるものに各賜りたり。
〇畿内の区画
東は名墾の横川(伊賀の名墾川(西川)(か)より、南は紀伊の兄山(せのやま 紀州附近か)より、西は播磨の赤石の櫛淵(今の明石郡)より、北は近江の狭々波の合坂山(今の滋賀群)までとす。此の時未だ国を定めず、唯 京都に近き四方の地を以て畿内を確定せしなり。
〇郡里の制
凡そ50戸を一里とし、其の40里を大群とし、30里以下4里以上を中群とし、3里を小郡とす、大寶(宝)以後には大上中下小の五等に分ち、20里以下16里を大郡とし、12里以上を上郡とし、8里以上を中群とし、4里を下郡とし、2里以上を小郡とす。
〇班田収授の法
此の時 班田収授の法を設け、天下の人民に男女ともに一定の田地を班(わか)ち授け、其の人 死すれば之を収めたり。之を区分田(くぶんでん)という。大寶(宝)令によれば、男子 生れて6歳に至れば、田二段を班ち授け、女には其の三分の一を減じて給す。
〇租・庸・調
租は田地の収穫の一部を納めしめ、調は織物等の産物を納めしめ、庸は力役の代りに布米を納めしむるを云う。即ち租は凡そ段毎に稲二束二把を納め、調は凡そ田一町毎に、絹一丈 䊶二丈、戸別に布 一丈二尺を納め、調の副物として鹽(塩)等土地の産物を納め、庸は凡そ戸別に租一丈二尺 米五斗を納むる定めとす。後しばしば改正ありて、大宝令の制には、租は田一段毎に稲二束二把、調は正丁一人歳役十日の代りに、布二丈六尺の割合にて、納むるを定めとす。而して稲一束は舂五升を得(舂とは穀物などを臼に入れてつくこと)、当時の一升は現今の枡にて四合餘に当る。
〇國司・郡司
國司は朝廷より諸國に置ける地方官の称にして、各國衛(役所)に在り、勅を奉じて其の管内の政務を行うものを云う。上古には國宰とも書して、之をクニノミコトモチとよび、早く神功皇后摂政の時に、新羅の宰を置き給い、仁徳天皇の時に遠江の國司、雄略天皇の時に任那の國司を置き給いしも、未だ一般に設けられしにあらず。大化元年 新に始めて東國に國司を置かれ、翌2年 畿内に之を置かれしより諸国一般に國司あるに至る。かくて大宝令によりて大に備わり、國衛に在りて政務を主(つかさど)れるものは、守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さくわん)の四部官の総称となり、年限も6年に定めらる。後 國司の年限は4年となり、また6年にふくし更に弘仁(こうにん)6年に4年となり天長元年介以上6年となりしが、承和(じょうわ)2年以後は4年となる。郡司は國司の下に属したる郡家(郡役所を云いまた郡院とも云う)に在りて各郡内の政務を行うものを云う。孝徳天皇の大化2年 之を置き、國造の清廉にして時務(その時々の急務)に堪うるものを其の長官とし、聰敏(そうびん・賢く物わかりが早いこと)にして書算に巧みなるものを其の下役に任ず。大宝令にて郡司も大領(かみ)小領(すけ)主政(じょう)主帳(さくわん)の四部官を定められ、其の下に郡の大小によりて書生・案主(あんず)を置かる。而して郡司は世襲たり。
〇關塞
關(関)は塞(せ)く意なり。国境及び要害の地に設けたる門にして之に吏を置きて往来の人をせきて糺(ただ)すを云う。天武天皇の御代に鈴鹿關・龍田山・大坂山の關など見えたり。
〇驛馬・傳馬
驛馬(えきば)は紅葉にて官吏の諸国に赴く為に、各駅に備え置く馬を云う。之をハユマと云えるは、ハヤウマの約にて早馬の義なり。傳馬(てんま)もまた官吏の乗用に供する為に備えたる馬なり。驛馬と傳馬とは、同じく管理の公用の為に乗るものなれども、事急なれば驛馬に乗り、事緩なれば傳馬に乗るを定とす。故に傳馬をまた早馬といえれど、驛馬とは其の間に軽重の差ありしなり。驛馬・傳馬を使用する時は、官吏 其の賜わりたる鈴を鳴らして徴発のしるしとす。之を驛鈴と云う。
サキモリと云うは、埼守の義にて邊(辺)要の地を守れる兵士を云う。早くより邊要を守れるものを置かれしが、未だ防人と称せず。大化2年に至り、始めて防人を定め置かる。大宝令に防人司を置きて之をすべしめ、諸国軍団の兵士を遣わして、三年間邊要(九州及び東國)の地を守らしめらる。其の後 廃地ありしが、対馬の如きは此の防人を弘安年間まで置かれたり。
〇大化の改新
既に前に掲げたる大化改新の詔 以下の各項の要領を云うなり。
〇大化の改新に重要なる人物
中大兄皇子の外に中臣鎌足・蘇我石川麿・僧 旻(ミン)・高向玄理等は改新に輿(よ)って大に力ありし人人なりとす。
〇本邦政治の三大変革
大化の改新と鎌倉幕府の創立と明治維新との三を以て政治上の三大変(變)革となす。大化改新は上古の氏族制度や部民(コチラ参照)制度を廃し、唐風に倣(なら)いて中央集権の制を採用し、上は官制より下は社会上の組織に至るまで広き範囲に亙れる改革なり。又 鎌倉幕府の創立は、久しき間 実力を養い来りし武門の朝臣に代りて天下の政権を掌握し、此に簡易なる武家政治の始をなしたるものにして、未曽有の変革なり。又 明治維新は、源頼朝の武家政治を始めしより、七百年間 天下の政権を掌握したりし幕府倒れて、武家封建の制度壊れ、政権 再び朝廷に還りて古の王政に復し諸藩の改革 行われ、泰西(西洋)の文物輸入せられて、全く従来の面目を一新したる変革なりとす。
〇大化改新と明治維新と相似の點(点)の比較
大化改新と明治維新とは、我が國 政治上の大変革にして、其の旨 赴の同一なるのみならず、其の施設もまた相似の点 少しとせず。
(1)蘇我氏の専横と徳川幕府の政権を掌握せることと何れも久しく、其の討滅と政権訪韓とによりて、並びに旧来の積弊(長い間に積もり重なった弊害)を一洗して改新の気運を啓(ひら)くに至る。
(2)中央集権の断行に当り、大化改新には有力者の私有せる土地・人民を公収し、明治維新にありては、各藩主の領有せる封土を朝廷に納れしむ。
(3)諸般の制度を改むるに及び、大化の改新には、従来の國造・縣主等を廃して國司・郡司を置き、畿内を区画し、郡・里の制を定め、租・庸・調の法を設け、驛馬・傳馬を置く、明治維新には、先づ徳川氏 直轄の地に府・藩・懸を置き、諸藩の封土を奉還するに及び、一般に知事・郡長を配布し、東京を奠(さだ)め、鉄道・港湾を設けて交通を便利となす。
(4)大化改新には、才幹あるものは國造と雖(いえど)も之を郡司に任用し、廣(広)く人材を選抜せしが、明治維新の施政方針の第一條に、広く会議を興し萬機を公論に決すべしと宣し給いて、広く天下の人才を集め給い、而も大化改新には、制度の隋唐の文物・典章に斟酌(しんしゃく・あれこれ照らし合わせて取捨すること)すること多くして、後、大宝令の制定となり、明治維新には、泰西の法礼、規則を参考すること少なからずして、やがて憲法の発布をも見るに至る。
〇大化新政の要領
本章に記せる大化改新の詔の大略より、以下 防人設置に至るまでの各事項は、即ち大化改新の要領なりとす。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑬ ~ 蝦夷の服属 韓土の変遷(百済 高句麗の滅亡・新羅の朝鮮半島統一)

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(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑪ 蘇我氏の無道

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑭ 天智天皇 律令の選定

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑩ 佛教の興隆 美術・工藝の進歩

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑨ 聖徳太子 支那へ使節派遣

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑧ 佛教の伝来と蘇我 物部 両氏の争

◆往年の日本映画を子供が見はじめました! ~ 『山椒大夫』 『隠し砦の三悪人』

◆武士の子女教育カリキュラム ~ 貝原益軒『和俗童子訓』より

◆戦前は逆賊歴史学として処罰されてた、左翼学者による皇統否定の「縄文・弥生」時代の敗戦後の普及 ~ 汚染される皇室。救う手だては皇室奪回

◆陛下の靖国参拝こそが核心。総理や閣僚の参拝は本質問題ではない

◆戦後の歴史教育を捨てよう。 歴史教育 再興 ① 永久保存版 戦前の国史(日本史)学習年表

◆戦前の小学歴史教科書準拠 学習問題から ⑦ 天智天皇と藤原鎌足

◆現代は中世ヨーロッパ暗黒時代にも匹敵する文化不毛カルトの時代② ~ アラビアンナイトに見る豊かな心を持った自由な奴隷

◆家庭内における戦前の教育再現 ~ わが家で使ってる子供用教本 ~ 修身と国語副読本

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真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑪
蘇我氏の無道

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天照大神の岩戸隠れの時、出てきたアマテラスに太玉命(フトダマノミコト・斎部氏の祖)と共に鏡を差し出した天児屋根命(アメノコヤネノミコト)が藤原家の祖である……日本神話には、皇家だけでなく中臣鎌足(藤原氏)もつながっていたことがよくわかります。今の学校では中大兄皇子が誰の子であるとか、天智天皇や藤原鎌足の家系についてもほとんど教えませんよね。皇室の歴史にまつわる、とても生々しい記録がここにはあります。あの皇室の祖先が実際に起こした事件として、ある意味、とてもおもしろいところと言ってもいい。現 皇族の方々はこういうところもしっかり学ばれているのでしょうか。悠仁様ら今の皇子様たちが、もしもよく知らないというなら……日本の歴史の重みを知ってほしいものですね。
皇室の人々はずっとその地位や権力にふんぞり返ってたわけではない。武士のように命かけて戦う人も数多くいた。日本武尊(ヤマトタケル)命はもちろん、仲哀天皇、神功皇后の御親征もそうだし、蘇我氏に立ち向かった中大兄皇子もそう。建武の中興の護良親王だって。皇族にも命かけて日本のため、先祖に恥じないよう殉じた方々もいるから、人々の尊敬を集める皇室の維持が出来た。単に地位に安んじてただけでは今の日本はなかったはずです。今の教育ではその辺りのこともまるで教えない。

今の蘇我氏は……これが敗戦後の(民主主義)政権です。安倍政権や自公政権といったものに限らず、あくまで専横極まる現体制です。戦前は違ってました。戦争するのはもちろん、条約結ぶのも他国におカネをバラ撒くのにも当然、陛下の承諾が必要だったのです。桜田門外の変は、陛下の意に反して幕府が勝手に他国と条約を結んだことが発端ですよ。もしもすべて御前会議、陛下の承諾が必要となれば、今のようなとめどない売国政策というのは絶対にありえないのです。国民に憎まれるそのような愚かな勅命を陛下が下せるはずないからです。政治家は無責任なヤリ逃げしてばかりですが、陛下は逃げることが出来ないのですよ。
明治維新はこの大化の改新や、建武の中興の後醍醐帝の天皇親政への思いの実現でもありました。今後も陛下を覚醒させることが出来れば、ガラッと変わりますよ。この中臣鎌足のように、誰かがそれを成し得れば。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

蘇我入鹿 父子の無道
物部氏滅亡後の蘇我氏の強大―推古天皇 御即位に及び馬子 外舅(ヲヂ)を以て専恣(せんし)を極む―馬子の死後 其の子 蝦夷(エミシ) 大臣となる―蝦夷 舒明(ジョメイ)天皇を立て奉りて政を執る―舒明天皇の皇后 皇極(コウギョク)天皇の御即位―蝦夷の子 入鹿 父子共に朝政を専にす―蝦夷 益(ますます)驕横(きょうおう)を極む―聖徳太子の御子 山背大兄王(ヤマシロオホエノオウ)の威名―入鹿の僭上(せんじょう・身分を越えて出過ぎた行いをすること)父にまさる―入鹿 山背大兄王を滅す―入鹿父子 第宅(ていたく・邸宅)を宮城(きゅうじょう・天皇の住居)に擬す(見立てる)―宮門(みかど)と呼び其の子を王子(ミコ)と唱う。

中大兄皇子
中大兄(ナカノオホエ)皇子は舒明(ジョメイ)天皇の皇子―聡明にして学を好み給う―常に蘇我氏の専横を憤り給う。

中臣鎌足
中臣氏は天児屋根命(アメノコヤネノミコト)に出づ―鎌足 忠良にして識見(しきけん)あり―鎌足また常に蘇我氏の無道を憤る―法隆寺 蹴鞠(しゅうきく・けまり)の会―鎌足 中大兄皇子に親み奉る―皇子と共に南淵請安(ミナブチショウアン)に学ぶ―蘇我石川麿(ソガノイシカワマロ)等を援となす。

蘇我氏の本宗 滅ぶ
蝦夷父子の警戒 頗(すこぶ)る厳重―中臣鎌足等 機を待つ―三韓 進調(しんちょう)の日―入鹿 剣を解きて大極殿(だいごくでん)に登る―天皇の出御―入鹿 天皇に侍し奉る―蘇我石川麿 三韓の表文(ひょうもん)を読む―皇子 鎌足と共に不意に入鹿を討ち給う―入鹿 遂に誅に伏す―皇子 更に兵を遣わして蝦夷を諭し給う―蝦夷 自焚(じふん)して死す―蘇我氏の宗家 茲(ここ)に亡ぶ。

〇南淵請安
推古天皇16年 小野妹子に従い、高向玄理(タカムコノゲンリ)等 八人と共に支那に留学し舒明天皇の12年 高向玄理と新羅を経て帰朝しぬ。中臣鎌足の中大兄皇子と蘇我氏討滅の謀をめぐらすや、皇子と共に書を手にし自ら周孔の教を請安の所に学び、其の途中に大事を図り、以て之を滅したり。
〇蘇我石川麿
馬子の子 倉麿(クラマロ)の長子なり。中大兄皇子の蘇我氏を誅滅(ちゅうめつ)せんとし給うに当り、石川麿の女を納れて妃とし、以て石川麿を輔(ほ・たすけ)とし給う。かくて翌4年、大事を挙げ給うに及び、石川麿 進んで韓の表文を讀(読)む。かくて蘇我氏 誅に伏し、孝徳(コウトク)天皇 即位し給うに及び、大化元年 石川麿 右大臣に登庸(用)せられて金策を賜わる。尋(つい)で同4年、蘇我日向の石川麿を皇太子に譖(しん)する(そしる)や、皇太子 之を信じて石川麿を責め給いしかば、遂に自殺して卒(しゅっ)しぬ(死ぬ)。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑫ ~ 大化の新政

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(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑩ 佛教の興隆 美術・工藝の進歩

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑭ 天智天皇 律令の選定

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑰ 和氣淸麻呂(朝廷に於ける僧侶の勢力)

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑨ 聖徳太子 支那へ使節派遣

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑧ 佛教の伝来と蘇我 物部 両氏の争

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑦ 朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ④ 日本武尊 成務天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑤ 朝鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑬ 蝦夷の服属 韓土の変遷(百済 高麗の滅亡・新羅の朝鮮半島統一)

◆本物の“大和撫子”入門 ③ ~ 我の否定、徹底した自己犠牲精神 新渡戸稲造『武士道』より

◆戦前は逆賊歴史学として処罰されてた、左翼学者による皇統否定の「縄文・弥生」時代の敗戦後の普及 ~ 汚染される皇室。救う手だては皇室奪回

◆忠臣の象徴 楠木正成公を称える唱歌『青葉茂れる桜井の』(櫻井の訣別)を10歳の子供にピアノ弾き語りで歌ってもらいました!

◆戦前の小学歴史教科書準拠 学習問題から ⑦ 天智天皇と藤原鎌足

◆子育て、死生観が変わる。読んでおきたい日本の古典 ~ 『土佐日記』と、一茶の俳句

◆日本人の心を奪われた日本人 ~ 世界最強だった日本軍 ~ 守るものを失った日本人

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真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑩
佛教の興隆 美術・工藝の進歩

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(2017.2.10)  (戻る)
百済や高句麗など朝鮮半島から来た者がさまざまな仏教文化を伝えたと日本書紀などには記してあるのに、それでも記紀はただの作り話だとして一切を否定してしまう現代日本の歴史学者。ここに出てくる帰化人たちの名前も現代日本の歴史教育には出てきませんね。アチラの人たちにとっても別に悪いことが書いてあるわけでもなさそうな気もするのですが、それでもなぜ、こうまでして記紀にあることをあいつらは否定したいのでしょう。魏志倭人伝の邪馬台国なんかは全力で持ち上げて大騒ぎするくせ。やっぱり記紀を読んでもらわれると、現代日本で教えられてる歴史のウソ、いろんな真実に気づいてしまうからなのでしょう。日本への仏教伝来は欽明天皇の13年(西暦552年・皇起1212年)、百済の遣いから伝わったとされますが、それは百済に日本領 任那の一部が割譲された後であり、当時の百済には多くの倭人がそのままいたし、任那もまだ存してました。だから百済にはもちろんとして、倭人の血を引く者が非常に多かった朝鮮半島だし、高句麗や新羅にも出入りして交流する倭人も多数いたはずで、古代日本における朝鮮半島からの帰化人と呼ばれる人々はきっと通訳不要で元から日本語を話す日本人(日系)が相当数占めていたはず。でなきゃ、日本に来てのコミュニケーションがとれるはずありませんし。

また、前回の法隆寺やここの四天王寺等、「今ならカラー写真を載せたほうがわかりやすいじゃないか」等、思われる方もいるかもしれない。だけどカラー写真では「キレイだ」とかそういうところに目がいくだけで、昔の絵や写真の方が想像力を掻き立ててくれるし、オールドな素材の方が子供にはずっといいんです。カラー写真では想像力が育ちにくい。これは図鑑のようなものにも同じことがいえると思います。今の図鑑は写真ばかりになってしまいましたが、昔の図鑑は絵が中心でした。そういう、どれを見て育っていったかということ、私は重要に思ってますし、だから動物や魚や鳥などの図鑑も、たとえ「時代遅れだ」と言われようとも、あえて写真のではなく出来れば昔の絵で描かれた図鑑を見つけて子供に与えたいですね。下の絵は昔の日本画による花の図鑑、今の何の変哲もない図鑑なんかより、ずっと素晴らしいと思いません? 子供の感性が全然変わって来ると思います。

下の聖徳太子 妃の絵は戦前の『少女倶楽部』付録の学習年表から。こういうエピソードも今の教育では子供たちにまるで教えない。他も戦前の学習資料からのもの。今回ここの本文にはないような素材も掲載していますが、何より戦前の子供たちと同じ環境、同じ思いに通じれることこそ、とても価値あることだと思ってますから、そこにこだわって一緒にアップしておきますね。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

佛教の興隆
推古天皇の御帰依―佛教興隆の詔―聖徳太子の寺塔建立―群臣 競うて寺塔を立つ―寺数四十六所―僧尼千三百餘人―僧正(そうじょう)・僧都(そうづ)の設置。

美術工藝(芸)の進歩
佛教興隆のため美術・工芸の進歩―百済の僧 観勒(カンロク)―暦 及び天文・地理の書を上る―高句麗の僧 曇徴(ドンチョウ)―紙墨の製法を伝う―晝工(画工)・佛工・寺工・瓦工の来朝。

佛寺の建築
(イ)佛寺建築の進歩 四天王寺・法隆寺等の建立―法隆寺の金堂及び層(層)塔。

佛像の彫造
(ロ)佛像の彫刻鋳造 蔵作止利(クラツクリノトリ)の名工(鳥佛師・とりぶっし)法隆寺金堂内の釈迦像。

繪畫(絵画)
(ハ)絵画 山城の画師等の保護奨励―法隆寺金堂内の玉虫(蟲)の厨子―同寺の壁画(曇徴の画)


〇佛教興隆の詔
佛教の伝来せし後、上下 之を敬するもの絶えず、蘇我馬子は崇峻(スシュン)天皇の元年に、始めて法隆寺を造り、殊に聖徳太子は深く之を信じて、大に之が隆興に力(つと)め、推古天皇の元年、四天王寺を造り給う。翌2年、天皇始めて皇太子及び大臣に詔して、三宝(佛・法・僧)を隆興せしめ給う。此の時 群臣競うて佛寺を造る。かくて佛教は益(ますます)盛となれり。
〇僧正(そうじょう)・僧都(そうづ)
佛法 次第に隆盛に向うに従いて、僧尼多くなれり。而して其の僧尼中には大不法のものを生ず。推古天皇の32年 斧を以て其の祖父をうちし僧あり。天皇 乃ち詔して、諸寺の僧尼を聚(あつ)めて推問せしめ給い、僧正・僧都の官を置きて僧尼をすべしめ給う。観勒(カンロク)僧正となり、鞍部徳積(クラツクリノトクシヤク) 僧都となる。翌年 高麗王より貢せし僧 慧灌(エカン)また僧正となる。後世 三綱(さんこう)とて、僧尼をすべて法務を持する僧正・僧都・律師の起源ここに在り。
〇僧 観勒(カンロク)
推古天皇の10年に百済より来朝す。此の時 暦本・天文・地理・方衛(ぼうえい・防衛)等の書を上る。朝廷 即ち三人の書生を選びて陽胡玉陳(ヤコノタマフル・コチラ参照)に暦法を学ばしめ、大伴村主(オホトモノスグリ)に天文を山背日並立(ヤマシロノヒナミタタテ)に防衛を各 観勒に学ばして給う。かくて32年 観勒 僧正に挙げらる。
〇僧 曇徴(ドンチョウ)
推古天皇18年、高麗(高句麗のこと)より僧 曇徴・法定(ホウテイ)二人を上る。曇徴は漢文に通じ且 よく採色(さいしき)及び紙・墨を作り、又 碾磑(てんがい・水うす)を造る。是に於て曇徴は、紙墨 及び碾磑の製法を我に伝う。法隆寺金堂内の壁画の如きは、曇徴の筆と伝えらる。
〇法隆寺金堂
中門の北方 西院の中央に在り、桁行 九間二尺、梁行 九間四尺四方の重層にして裳階あり。今の尺にて高五丈八尺五寸、東西 十二間四尺、南北十一間の灰石壇(ばいせきだん・遠く離れた所から伊勢神宮などの神仏へ向かって拝む壇)の上に建つ。形状 最壮麗なり。堂内は外陣の壁上十二間に、四佛浄土園及び菩薩諸像を画く。又 貫木の壁には、羅漢像 天井の板には蓮花を描す。又 内陣 土壇(どだん)の上には、南面中央に本尊 釈迦如来金銅座像(一丈 四尺五寸)脇士 薬王薬上金銅立像(各 二尺八寸七分)あり。其の本尊の背には銘ありて、造佛の由来を記す。(一丈(じょう)は約3.0303m=10尺、一間(けん)は約1.818181818m=六尺。一尺は約303.030mm、一寸は約30.303mm=1/10尺。一分は約3.03mm=1/10寸)
〇鳥佛師(とりぶっし)
氏は鞍作、名は鳥、佛師なるを以て世に鳥佛師と云う。司馬達等(シバタチト)の孫にして、多斯那(タスナ・多須奈)の子なり。推古天皇13年、始めて銅 繍(しゅう)丈六(一丈六尺 )の仏像 各一体を造るに当り、鳥 其の技師となり翌年 仏像成る。之を元興(がんごう)寺に安置せんとせしが、大にして入らず、鳥 考按(こうあん)し戸を破らずして之を入ることを得たり。功を以て大二位を授かり、且 近江國坂田郡の水田二十町を賜わる。鳥 此の田を以て天皇の為に一寺を建つ。後に之を南淵坂田寺と云う。天皇の29年、聖徳太子の疾(やまい)に当り、命を以て釈迦牟尼佛及び挾侍(きょうじ・本尊の左右に控えている仏像・脇立)二菩薩を造立す。此の仏像は今の法隆寺の金堂に安置す。後世 鳥を以て我が國 佛師の祖となす。
〇玉蟲(虫)の厨子
金堂内の壇上に在る厨子(づし)なり。木造にして總(総)高 七尺八寸あり。而して臺(台)座の広さ四尺五寸、高さ一尺、須弥座(すみざ・仏像を安置する台座)高さ三尺一寸、其の上に宮殿を置く。殿の高き屋上の鴟尾(しび・瓦葺屋根の大棟の両端につけられる飾りの一種)まで三尺六寸とす、四方は密陀繪(みつだゑ)にて経記を描き、鉸具(かこ・留め金)は唐草の透彫(すきぼり・鋤彫)にて其の下に金花虫(はむし)の羽をしきつめて飾となす、故に玉虫厨子の名あり。今一の厨子は念持佛(ねんじぶつ・個人が身辺に置き私的に礼拝するための仏像)厨子と云い、共に古雅(こが)にして構造の巧妙なる当時の規模形式を見るに足る。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑪ ~ 蘇我氏の無道

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(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑨ 聖徳太子 支那へ使節派遣

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑧ 佛教の伝来と蘇我 物部 両氏の争

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑦ 朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑫ 大化の新政

◆仏教も乗っ取る、反日・フェミ・同和・在日朝鮮人 キチガイ勢力の猛威~ 部落差別につながるからと、廃止が進められる“お清めの塩”

◆日本人の美的センスは世界一!~日本人はジャポニスムを忘れてしまった?

◆大浮世絵展に行って思ったこと

◆離婚と自殺の増加トレンドは一致 ~ 離婚・自殺と宗教の関係 ~ 加えて自殺増の背景には、日本の特殊な人口構成が影響

◆自虐史観は日本人共通の唯一の宗教だった ~ 自虐史観からの脱却は日本における宗教革命

◆左翼 民主党政権で北朝鮮化する日本 ~ 在日化する日本人 怠け者の国へ ~ 世界のモラル基盤となってるのが各宗教思想なのです

◆卑劣な左翼芸術家に追放された世界の藤田嗣治 ~『私は日本に捨てられた』

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真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑨
聖徳太子 支那へ使節派遣

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(2017.8.31)
これをアップした直後に聖徳太子の表記が教科書から消されるというニュースが流れてきて、ひと騒動ありましたね。これでも私のブログはいろんな意外なところから注目されてるようなので、そういうのよくあるんですよ ^^) その時は何とか聖徳太子の名は残していくということになったようですが、安心はできませんし、問題は聖徳太子の表記だけではありませぬ。

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(2017.2.8)  (戻る)
今では聖徳太子が教科書から消され、実在しない人物だのとひどい内容で教えられ始めてるのはご存知ですか? 「法隆寺も聖徳太子とは何の関係もない」だのと。
【参照:あの「聖徳太子」が教科書から姿を消すワケ。聖徳太子は実在しない。十七条憲法等も聖徳太子が作ったものではない 東洋経済 2016.5.25
慰安婦や南京大虐殺だのの人々が食いつきやすい問題で大騒ぎさせてる間に、日本の成り立ちたる歴史の基盤がメチャクチャされてます。日本府任那などが歴史から消されたように、聖徳太子などもいなかったとして歴史から消され、今後の学校教育ではそれが歴史の常識とされてしまうわけです。
戦前の歴史学習書等がどうなってたか、ぜひ本シリーズでご確認されてください。現代学校教育はデタラメです。正しい歴史を、子供たち次代へ継承させていく思いを強く持ってくださいませ。

現代の日本人は知ってるようで、実はよく知らない聖徳太子。ちなみに、ただいま話題の天皇譲位や摂政問題で騒がれてる、この平成の世ですが、譲位の始まりや摂政についてなど、今回とても興味深い内容にも触れられてますよ。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

聖徳太子の摂政
祟峻(スシュン)天皇の崩後 炊屋姫(カシキヤヒメ)皇后(推古天皇)の御即位―天皇は蘇我馬子の妹の出にて敏達(ビダツ)天皇の皇后(女帝の始)―皇太子 聖徳太子(厩戸皇子)の摂政―皇子の賢明と才智―政治の改革。

内政の改革
冠位十二階の制定―暦日の採用―憲法十七條の制作(我が國成文法の始)―朝礼の制定―國史の編纂。

支那へ使節派遣
隋の極盛時代―小野妹子 隋に使す―隋との國交起る―我が國書―対等の交際―隋使 裴世清(ハイセイセイ) 妹子に従いて来る―小野妹子等 再び隋に聘(へい)す―高向玄理(タカムコノゲンリ)・僧 旻(ミン)等の留学生―隋 滅びて唐 起る。
舒明(ジョメイ)天皇の時 犬上御田鍬(イヌカミノミタスキ) 唐に使す―唐使の来朝―唐との国交始まる―直接に支那の学問・技術の伝来―支那文化の影響―遣唐使航海の通路。

太子の佛教興隆
太子の佛教興隆―自ら佛教に註せらる―摂津の四天王寺と大和の法隆寺―摂政29年にて薨去(時年四十九)。

〇女帝の始
崇峻天皇崩じ給うや、群臣 炊屋姫(カシキヤヒメ)皇后に皇位を勧め奉る。皇后 之を辞し給いしが、百官勧め奉ること三度に及び、遂に即位し給う。之を推古天皇と申す。天皇は欽明(キンメイ)天皇の第二皇女にして、御母は蘇我稲目の女皇太夫人 堅塩媛(キタシヒメ)用明天皇の御同母妹なり。始め立ちて敏達天皇の皇后とならせ給いしが、是に至りて天位に即き給う。実に我が國 女帝の始なりとす。
〇聖徳太子の摂政
用明(ヨウメイ)天皇の第二皇子にして、初め厩戸(ウマヤド)皇子と云う。推古天皇 即位し給うに及び、女にして物を解せず、萬機(ばんき・政治上の多くの重要な事柄) 日に愼(つつし)むとのたまい、聖徳太子の賢明なるを以て庶政を委ねて摂行せしめ給う。是より先き、応神天皇ご幼少の時、御母 神功皇后 摂政し給いしが、此に至り皇太子始めて摂政し給えり。
〇聖徳太子の賢明と其の事蹟
太子の御母 解任にましましし時、禁中を巡行して馬官に至り、厩戸(うまやど)に当りて誕生し給う。よりて厩戸皇子(ウマヤドノミコ)と申す。太子 生まれながらにして能く言う。聖智あり、成長に及び一度に十人の訴を聞きてよく弁じ、兼て未然をも知り給う。而して佛法を高麗の僧 恵慈(エイジ)に習い、漢学を博士 覚哿(カクカ)学び給う。父帝 之を愛して宮の南の上殿に居らしめ給いしより、又の名を上宮 厩戸豊聡耳(ウマヤドノトヨトミミ) 太子 とも云う。(太子の事蹟は前項 摂政以下 四天王寺の建立等に至るまでを参照すべし)
〇冠位十二階
推古天皇11年12月、始めて冠位を行わせ給う。其は大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の十二階にして、並に当色の絁(あしぎぬ・古代日本に存在した絹織物の一種)を以て之を縫う。唯 元日には之に髻華(うず=髪飾り)をつく。翌年 之を諸臣に賜う。
〇暦日の採用
欽明天皇の御代に、百済より暦の博士 屡(しばしば)来りぬ。かくて推古天皇の十年に至り、陽胡玉陳(ヤコノタマフル)なるもの百済より来りし僧 観勒(カンロク)につきて暦法を学びしが、越えて12年正月 朔日(陰暦で月の第一日)より始めて暦日を用ゐらる。
〇憲法十七條(条)
推古天皇の12年 聖徳太子 自ら官民の訓戒となるものを作り給う。其の十七箇条より成るを以て之を憲法十七条と云う。乃ち
第一、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ 云々
第二、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり 云々
第三、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす 云々
第四、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本(もと)とせよ。それ民(たみ)を治むるの本は、かならず礼にあり 云々
第五、餮(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄(す)てて、明らかに訴訟(うったえ)を弁(わきま)えよ 云々
第六、悪しきを懲らし善(ほまれ)を勧むるは、古の良き典(のり)なり。ここをもって人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ 云々
第七、人各(おのおの)任有り。掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし 云々
第八、群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け 云々
第九、信はこれ義の本(もと)なり。事毎(ことごと)に信あれ 云々
第十、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり 云々
第十一、功と過(あやまち)を明らかに察(み)て、賞罰を必ず当てよ 云々
第十二、國司(くにのみこともち)・國造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に収斂(しゅうれん・縮む)することなかれ 云々
第十三、諸の官に任せる者は、同じく職掌を知れ 云々
第十四、群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ 云々
第十五、私を背きて公に向くは、是臣が道なり 云々
第十六、民を使うに時を以てするは、古の良き典なり 云々
第十七、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし 云々
〇朝禮(礼)の改正
推古天皇の12年 9月朝礼を改め、宮門を出入する時、両手にて地を押し、両足を跪(ひざまず)き梱(しきみ・門の内と外とのしきり)を越えて立ち行くこととし給う。翌年閏(うるう)7月、皇太子 更に諸王・諸臣に褶(しひら即ち上裳)をきせしめ、19年 諸臣の服色皆冠色に従いて、各 髻華(うず)をつけ、其の大徳・小徳は金を用ゐ、大仁・小仁は豹尾を用ゐ、大禮以下は鳥尾を用ゐしめらる。
〇國史の編纂
推古天皇の28年、皇太子は蘇我馬子とはかりて、天皇紀・國紀・臣・連・伴・造・國造等の各本紀を録せしめ給う。是れ実に本邦に於ける國史編纂の始とす。後、皇極天皇の4年、蘇我氏滅亡のとき、天皇紀、國紀などは、珍寳(宝)と共に焼失せり。
〇隋の隆盛
支那は我が允恭(インギョウ)天皇の御代の頃(皇紀1080年)東晋の亡びしこのかた、國内久しく紛亂(乱・ふんらん)せしが、我が崇峻(スシュン)天皇の御代の時(1249年)隋の文帝(楊堅・ヨウケン) 之を統一したり。我が推古天皇の13年 煬帝(ヨウダイ)立つに及び、威勢を四隣に振ひ、国運 益(ますます)盛大となる。小野妹子の髄に使せしは、恰(あたか)も此の煬帝の時なり。
〇小野妹子
妹子は天帯彦国押人(アメノタラシヒコクニオシヒト)の後なり。推古天皇に仕えて大禮となり。其の15年 隋に使し、鞍作福利(クラツクリノフクリ)を通辯(弁・つうべん・通訳)とす。妹子の隋に至るや、隋人 之を蘇因高(ソインコウ・小野をサヌと唱え之を約(つづ)めて蘇ソとし又 妹子のイモコを因高と呼びしか)と名づく。翌年 妹子帰るに及び、煬帝 其の臣 裴世清(ハイセイセイ)等に之を送り、且つ日本に使せしむ。尋(つい)で隋使 裴世清の帰らんとするに及び、朝廷また妹子を大使とし、難波雄成(なにわのおなり)を小使とし、鞍作福利を通辯として差遣し給う。明年 妹子 隋より帰りて大徳 冠に進む。
〇隋に贈り給いし我が國書
推古天皇の15年 遣隋使 小野妹子の齎(もた)らしし時の國書に「日出處(所)の天子 書を日没處の天子に致す」とあり、其の再び齎らしし時の國書に「東天皇 敬んで西皇帝に白(まお)す」とありて、其の日出は日本を云い、日没は支那を云う。而(しか)して共に天子と云い、皇帝と云えるは、対等の称号を用ゐ給いしなり。
〇高向玄理(タカムコノゲンリ・クロマロ)
其の先 支那の魏(ぎ)の文帝の後に出づ。推古天皇の16年 小野妹子に従い留学生として僧 旻(ミン)等 八人と共に隋に赴く。帰路は新羅をへて、舒明天皇の12年に帰朝す。孝徳天皇の大化2年 國博士となりて改新の顧問(こもん)にあづかり、小徳冠を授けらる。同年また新羅に使して人質を徴し、5年僧 旻と共に八省・百官の設置に與(あた)る。後、白雉(はくち)5年 大唐押使となりて唐に赴きしが、遂に彼の地に卒す。
〇僧 旻
推古天皇の16年 留学僧として、高向玄理等と共に隋に赴き、舒明天皇の4年、唐使 高表仁(コウヒョウジン)の来るに従いて帰朝す。11年 偶長星の西北に現わるゝや、彗星(ほゝきぼし)なるを云う。孝徳天皇の大化元年、國博士に任ぜられて改新の顧問となり、又 十師(じっし)を定め給うに当り、其の一人となりて衆僧を教導し佛教の修行を督す。かくて深く天皇に崇信せらる。5年 更に詔を受けて高向玄理と八省・百官を制定す。白雉4年 疾(やまい)に臥(ふ)すや、天皇 親臨して之を問い、且 恩命を勅し給う。此の年 遂に寂(じゃく)す。
〇隋 滅びて唐 起る
隋 煬帝は一時 其の盛を極めしが、在位12年にして國内 大に乱れ、我が推古天皇の26年 隋 遂に亡び、李淵代りて帝位に即く(この原本では北宋 初代皇帝 趙匡胤・ちょう きょういんの名になってるが李淵の間違いであろう)、之を唐の高祖とす。かくて我が國と唐との國交また始まる。
〇犬上御田鍬(イヌカミノミタスキ)
推古天皇の22年に隋に使し、翌年 帰朝す。冠 大禮(礼)より進みて大仁となる。隋 亡びて唐 起るに及び、舒明天皇の2年、大仁 薬師恵日(クスシエニチ)と共に始めて唐に使す。時に唐は高祖の弟 太宗 帝位に在り。越えて4年、太宗 高表仁を使とし、御田鍬を送って日本に至らしむ。是に於て我が國と唐との國交始まる。実に御田鍬を以て遣唐使の始なりとす。
〇遣唐使の航路
当時 支那に差遣せられし使者は、難波の三津崎(今の大阪の木津川尻の千本松堤を擬す(なぞらえる)水岸の変遷 屡(しばしば)なるを以て細に考えがたし)より出帆して博多に寄港し、是より朝鮮沿岸を通過し、北路を迂回して支那の渤海湾に入り、今の山東角に上陸して陸路 長安に至るにあり。されど後には、朝鮮沿岸を通過し、是より南路をとりて直に揚子江岸に上陸し、陸路 長安に至るもの多くなれり。
〇四天王寺
用明天皇の2年、蘇我馬子の諸皇子群臣と物部守屋を滅すに当り、聖徳太子は四天王の木像を作りて頂髪(たきふさ・髪を手繰り上げて房のように束ねたところ)に置き、戦 勝てば寺塔を建つることを誓い給う。乱 平ぐの後、推古天皇の元年始めて四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に立て給う。よりて荒陵山 難波寺とも称し(今の大阪安倍野の北荒陵の東北に接する地に在り)歴朝崇敬の大寺なり。堂塔は屡(しばしば)火災にかゝり、文化9年 大坂の商人 廣(広)く財を募りて工事を起し、其の功 竣(おえ)るに及びて頗(すこぶ)る舊観(きゅうかん・旧観・もとの姿)に復しぬ。
〇法隆寺
大和の生駒郡法隆寺村に在りて斑鳩(イカル)寺と云う。七大寺の一にして。推古天皇の15年に建立し、天智天皇の時 火災にかゝりしが、後 再建したるものなり。本寺は法相宗(ほっそうしゅう)の本山にして、寺域内に大小の塔宇を立て、就中(なかんずく・とりわけ)五重塔中門は絶大なり。本寺の建築は、推古朝の典型(かた)を後世に示せるものにして、最も世に重ぜらる。(法隆寺は1950年に法相宗を離脱、現在は聖徳宗の本山)
〇譲位・女帝・人臣摂政の起原と現行制度
譲位は前天皇の御位を皇嗣(こうし)に譲り給うを云う。神武天皇以降 二十五代の間は、其の譲位のことなかりしが、第二十六代 継体天皇 宝祚(ほうそ・皇位)を皇子 安閑(アンカン)天皇に伝え給いて即日 崩御し給う。之を譲位の始とす。後 九代を経て第三十五代 皇極(コウギョク)天皇の御位を孝徳天皇に譲り給い、第四十一代 持統(ジトウ)天皇また位を文武(モンム)天皇に譲り給いしより、歴朝譲位のことあるに至る。又 女帝の始は巳(すで)に推古天皇にも見え、人臣摂政(じんしんせっしょう・皇族ではない摂政)の始は(9歳 清和天皇、外祖 太政大臣 藤原良房の摂行)に見ゆ。而して現行制度には、天皇譲位の制なく、天皇崩御し給えば、皇嗣 踐祚(せんそ・天皇の地位を継ぐこと)して祖宗の神器を受けさせ給うこと、皇室典範 第十条に見え、皇室典範 第一条に、大日本國皇位は祖宗の皇統にして男系の男子 之を継承すると定められ、女帝即位の制なし。又 皇室典範第五章に摂政の制あるも、其の摂政は皇族に限り、人臣の摂政を置く事なきの定めなり。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑩ ~ 仏教の興隆 美術工芸の進歩

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(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑧ 佛教の伝来と蘇我 物部 両氏の争

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑦ 朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑪ 蘇我氏の無道

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑥ 仁徳天皇と雄略天皇 顕宗 仁賢 両天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑫ 大化の新政

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ④ 日本武尊 成務天皇

◆旧皇室(旧宮家)の復活について、どう思われますか? ~ GHQ占領下、11宮家51名が皇族から離脱させられましたが・・・

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ② 神武天皇

◆戦前の小学歴史教科書準拠 学習問題から ⑥ 聖徳太子

◆戦前の絵本から ~ 真実の日本軍。最強だったその勇姿 ②

◆忠臣の象徴 楠木正成公を称える唱歌『青葉茂れる桜井の』(櫻井の訣別)を10歳の子供にピアノ弾き語りで歌ってもらいました!

◆大浮世絵展に行って思ったこと

◆往年の日本映画を子供が見はじめました! ~ 『山椒大夫』 『隠し砦の三悪人』

◆子育て、死生観が変わる。読んでおきたい日本の古典 ~ 『土佐日記』と、一茶の俳句

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真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑧
佛教の伝来と蘇我 物部 両氏の争

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(2017.2.6)  (戻る)
日本中が注目の、戦前の学習資料による、大好評「真実の日本の歴史(古代日本史)」シリーズ。全部、仕上がってますが間をおいてアップしていきます。挿し絵類も、すべて戦前の学習資料にあるものを利用していますよ。
今日は仏教の伝来から、今ではきちんと習えなくなった蘇我氏と物部氏の争いです。昔の教育ではきちんと天皇が時系列で出てきます。今の学校では推古天皇ぐらいまで天皇の名前なんてほとんど出てきませんよね。こういう流れを知っておくことで、日本は天皇を中心に動いてた国なんだって、感覚的にわかっていけるわけです。今ではサラッとしか教えられない、後に蘇我氏が誅されることになる大化の改新にもつながっていく、仏教や皇嗣をめぐっての蘇我氏と物部氏の争いの流れ、その登場人物、きっちり知っておきたいところですね。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

佛教の伝来
佛教は古く印度に起る―釈迦 始めて之を唱(とな)う―東支那を経て朝鮮に入る―司馬達等(シバタチト)支那より帰化す―司馬達等 私に仏教を奉ず―当時 未だ行われず―欽明天皇の時に百済王 佛像経文を献ず―佛の功徳を説く―禮佛(らいぶつ・礼仏)の可否―大臣 蘇我稲目(ソガノイナメ)之を禮(礼)せんとす―大連 物部尾輿(モノノベノヲコシ)・中臣鎌子(ナカトミノカマコ) 之が不可を論ず―試に稲目に礼仏せしめらる―稲目 向原(むくはら)の宅を寺とす―佛寺の始。

蘇我 物部 両氏の争
舊(旧)家の盛衰―饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の裔(えい) 物部氏 尚家名を墜(おと)さず―竹ノ内宿禰の裔 蘇我氏獨り栄ゆ―物部・蘇我 両氏 竝(並)に朝廷に立つ―佛教の伝来に及び両氏 烈しく争う―物部尾輿・中臣鎌子の排佛(はいぶつ)―蘇我稲目の崇佛(そうぶつ)―偶悪疫 大に流行す―物部尾輿等 寺を焼き佛像を難波堀江に投ず―欽明天皇の崩後 敏達天皇の御即位―稲目の子 馬子(ウマコ)―尾輿の子 守屋(モリヤ)―馬子・守屋 各父の志を継ぎて相争う―馬子 新に寺を建て百済より来れる仏像を祀る―守屋等 其の寺塔を焼き佛像を棄つ―敏達天皇崩後 用明天皇の御即位―用明天皇の御母は馬子の妹―厩戸皇子(ウマヤドオウジ)の崇佛―用明天皇の崩後 皇嗣(こうし)問題起る―守屋 皇弟 穴穂部皇子(アナホベオウジ)を立てんとす―馬子 遂に守屋を攻め滅し祟峻(スシュン)天皇を立て奉る―馬子ますます其の勢い恣(ほしいまま)にす―崇峻天皇 大に馬子を悪み給う。馬子の無道。

〇司馬達等(シバタチト)
支那の南梁(朝)(皇紀1161-1217年)の人なり。継体(ケイタイ)天皇の16年に来朝し、大和の高市坂田原に草堂を結びて佛を奉じぬ。されど当時の人 未だ佛の何物たるを知らず、唯 異域(ゐいき)の神とよぶ。後、司馬達等 姓を鞍作(クラツクリ)と賜わる。蘇我馬子(ソガノウマコ)と心を協せて佛法を興すに力む。其の女 島(シマ)は尼となり、百済にゆきて戒をうけ、其の男 多須奈(タスナ)も用明天皇崩御の時、天皇の為に出家せり。
〇蘇我稲目(ソガノイナメ)の崇佛
欽明天皇の13年、百済王の使い来りて佛像及経論等を献じ、且 佛の功徳(くどく)を説く。天皇 群臣を召して、之を礼すべるや否やを問わせ給う。時に稲目大臣たりしが、諸国 皆 之を礼す。我が國 獨り背くべけんやと奏上す。大連 物部尾輿(モノノベノヲコシ)等 之に反対せしかば、天皇 試に稲目に之を祭らしめ給う。稲目乃ち喜び受けて之を崇め、向原(大和高市郡飛鳥村)の家をきよめて寺として、此に安置す。
〇物部尾輿等の排佛
大臣 蘇我稲目の佛を崇めんとするや、大連 物部尾輿は中臣鎌子(ナカトミノカマコ)と共に之に反対し、我が国に天神・地祇(ちぎ)ありて四季に之を祭る、今 佛を礼せば國神の怒を致さんことを奏上す。偶疫疾流行して人民多く死す。尾輿等乃ち、國神の怒をなして疫疾流行す、よろしく佛像を棄つべしと奏上す。天皇 奏のままに有司をして佛像を難波の堀江に投じ、火を寺に放ちて之を焼かしめ給う。
〇馬子と守屋
稲目の子を馬子と云い、尾輿の子を守屋と云う。馬子・守屋の二人 各父の職をつぎて敏達天皇の朝 大臣・大連となる。天皇の6年、百済より佛教及僧尼・佛工・寺工等を献じ、越えて8年、新羅より佛像を送り、13年また百済より佛像二体至る。此の年 馬子其の二体を請い、司馬達等等を遣わして四方に僧侶を求めしめ、高麗の僧 恵敏(エビン)を師とし、司馬達等の女 島を尼とし、其の弟子二人をも尼とす。かくして馬子 父の志をつぎて佛教を崇め、此の三尼を敬いて盛に佛教を治む。是より佛教起る。然るに守屋、父の志をつぎて佛を排せんとす、天皇の14年、疫病流行するや、佛法を崇むる為なりと奏上せしかば、天皇 勅して之を断たしめ給う。守屋 乃ち佛像・佛殿を焼き、其の焼餘を難波の堀江に投じて三尼を市にうつ。尋(つい)で馬子疾むに及び、佛法の力によらざれば、治すべからざるを奏上せしかば、天皇 獨り之を馬子に崇めしめ給い、三尼を之に与え給う。かくて馬子・守屋の争 烈しくして馬子 遂に守屋を殺すに至る。
〇皇嗣問題
初め敏達天皇崩じ給いて皇嗣(こうし) 未だ定まらざるや、馬子 炊屋姫(カシギヤヒメ)皇后と謀りて、其の女の出なる大兄皇子を立て奉らんとす。而して守屋は、大兄皇子の弟 穴穂部(アナホベ)皇子を立て奉らんとし、皇子もまた即位の御志ありき。皇后 馬子と謀りて、大兄皇子を立て給う。之を用明(ヨウメイ)天皇と申す。是に於て穴穂部皇子甚だ平ならず、かくて用明天皇崩じ給うや、馬子は泊瀬部(ハセベ)皇子を立てんとす。守屋なほ他 皇子をおきて穴穂部皇子を立てんとし、遊猟(ゆうりょう)に托(たく)して之を図らんとす。然るに誅 泄(も)れ、馬子 炊屋姫皇后の旨を以て、兵を穴穂部皇子の宮に遣わして遂に之を滅ぼしぬ。尋(つい)で馬子 諸皇子・群臣と共に、兵を率いて守屋を攻む。守屋 其の子弟と共に稲城(いなき)を築きて防戦し、其の勢 頗(すこぶ)る盛なりしが、守屋 遂に迹見赤檮(トミノイチビ)に射殺せられて亡びぬ。炊屋姫皇后 乃ち群臣と謀りて泊瀬部皇子を立て給う。之を祟峻(スシュン)天皇と申す。
〇継体天皇の事蹟
天皇即位の年、勤農桑の詔を下し給い、3年 使を百済に遣わして亡人を檢(検)し、任那に在る者を本國に還らし給う。6年 大伴金村 任那四縣の地を百済に割輿(与)するや、百済 其の賜地を謝し、博土 高安茂(コウアンモ)を貢し、前年 貢せし五経博士 段楊爾(タンヨウニ)に代らしめしが、任那 大に之を怨み、韓土 漸(ようや)く動揺す。21年 近江毛野(オウミノケヌ)を遣わして任那を討たしめ給う。偶 筑紫國造 磐井、新羅に通じて毛野を遮り止む。天皇 乃ち物部麁鹿火(モノノベノアラカヒ)をして之を誅せしめ、23年 再び毛野を新羅に遣わし給う。毛野 鎮撫(ちんぶ)の才なく、却て粉擾(ふんじょう=乱れる)を増せしかば、翌年 之を召し給う(コチラ参照)。
〇探湯
探湯(くかだち)は、上代に於て正邪を判別せんが為に、神明に誓いて熱湯を探らしむるを云う。其の爛傷(ただれきづづく)せざるを正とし、爛傷せるを邪とす。応神天皇の時、武内宿禰(タケノウチノスクネ)其の弟 甘美内宿禰(ウマシウチノスクネ)に讒(ざん)せられしを以て、兄弟探湯せしに、甘美内 爛傷して武内無事なりしこと日本書紀に見えたり。
〇本邦上古氏族制度と部民の制
我が國 上古の社会組織は、氏族制度によりて成り、朝廷の官職及び地方官を始め、概ね各一定の職を世々にし、其の職名を家号となし、やがて又 一族の名称ともなれり。其の称を氏と云い、又 同族の祖先より出でたる血族のものは、皆 其の名を称し、之を氏族と云う。即ち大伴氏・物部氏の称は、大伴部・物部の兵士を掌(つかさど)り、中臣(ナカオミ)氏・斎部(インベ)氏の称は、中臣部・斎部の祭祀を掌れるより起れるが如し。其の大伴部・物部・斎部と云えるは、即ち部民の称なり。而して此れ等、部民には、なほ中臣部・弓削(ゆげ)部・玉作部・服部など数多(あまた)あり。而して各統領(即ち氏の上)ありて之を率い、朝廷に奉仕す。其の統領もまた家業にして代々相継ぐ、連・首・造等の名あり。大伴連・中臣連・斎部首・服部造などの如き是なり。部民統領の意にあらずして、天皇に仕えて政務を主(つかさど)るものを臣と云う。蘇我臣・平群臣・穂積臣の如し。是れ等を姓(かばね)と云い、各家族(氏族)の尊卑をあらわすものにして朝廷より賜わる。されば此の姓はもと各家の職名なりしも、其の家柄の貴賎を分つに至りて世襲せる各職名の実を失い、遂に貴族の称号の如くになりしなり。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑨ ~ 聖徳太子 支那へ使節派遣

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(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑦ 朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑩ 佛教の興隆 美術・工藝の進歩

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑪ 蘇我氏の無道

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑥ 仁徳天皇と雄略天皇 顕宗 仁賢 両天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑤ 朝鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ① 神代 皇基の遼遠

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑫ 大化の新政

◆大東亜戦争(太平洋戦争)の起こったわけ (完答)

◆戦前の絵本から ~ 真実の日本軍。最強だったその勇姿 ①

◆戦後の歴史教育を捨てよう。 歴史教育 再興 ① 永久保存版 戦前の国史(日本史)学習年表

◆大日本帝国の唱歌を歌い継ごう! ④ ~ 天皇陛下のご降誕を祝う『天長節』 9歳 ピアノ弾き語り

◆戦前は逆賊歴史学として処罰されてた、左翼学者による皇統否定の「縄文・弥生」時代の敗戦後の普及 ~ 汚染される皇室。救う手だては皇室奪回

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真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑦
朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

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(2017.2.2) (戻る)
古代日本帝国は一大転換期を迎え、いよいよクライマックス、任那滅亡から朝鮮半島における覇権喪失への流れに入っていきます。韓土の日本領 任那の攻防が生々しく描かれ、倭国(古代日本)に対する新羅の不逞により、何度も決行された新羅征伐。韓土をめぐってのめまぐるしい攻防、その失政や日本軍におけるいざこざ、そして任那を失ってしまっていった詳細な経緯が記録されてます。「新羅の大将、この尻 喰らえ」の古代日本 最大の英雄 伊企儺(イキナ)、そしてその妻 大葉子と、父の亡骸を抱いて死す伊企儺の子 舅子の悲哀。他にも、現代ではまるで教えられなくなってしまった古代日本史の武将達が今回、続々と登場しますよ。イキナについて詳しくはコチラもご参照を。
これほど克明な記録を、ただの作り話だの神話だのとのたまう現代の学者どもはすべて誅すべき連中です。

そして失意の中、崩じた欽明天皇の任那復興への熱い思いも、こちらにより詳しく載せてありますよ。ちなみに、ここの本文中に出てくるような「我」という言葉は、陛下や倭国のことを意味するのが基本ですね。

下図左は任那 最盛期の朝鮮半島、そして右は百済へ徐々に割譲された後、新羅に滅ぼされるまでの任那 変遷図。元々、私がコチラで初掲載したものですが、「任那といえばコレ」って風に、今では方々で利用されてますね ^▽^) 尚、朝鮮半島南部にはいくつもの古代日本人特有の前方後円墳が発掘されてますが、コチラで紹介の韓国 光州の巨大なツイン前方後円墳は半島南西部にあり、最盛期の任那なら任那領内、少し後なら百済領内ということになります。


また、この地図では新羅が356年~となってますが、これは現代の一般年表でそうなっており、その年は今の朝鮮人につながる金氏の新羅となった年。ここの記事にある通り、三韓のうち新羅の建国が最も古いとされる所以、『新羅本紀』では(倭人系ともいわれる)昔氏、朴氏にまで遡ることになり、それゆえ新羅が最も古いとされるのです。新羅建国に倭人が関わってたという建国神話を消したいから、今では金氏の356年にされているのでしょうね。

任那、そして百済まで滅ぼした憎っくき新羅こそ、今の朝鮮人の国。韓国では高給ホテルの代名詞でもある新羅ホテルのように、韓民族を象徴する国家として新羅は冠されてます。
古代日朝史の関係についてヤケにしっかり作りこまれたサイトとか、目にすることありますが、日本人のルーツを破壊するためデタラメ書かれてるところが多いです。日本人である新羅が朝鮮人である百済を滅ぼしたとか、確信的な悪意の塊といえる言説……出典元がないようなのはまず怪しんでください。テキトー好き勝手、一次資料を示して書かれてないところはウソ八百、まず信用なりません。同じ類で最近よくあるのが、英米・金融勢力による日本乗っ取り防ぐために先人は日本分裂を回避して明治維新を達成したのに、英米や金融勢力の目的を達成させるため明治維新がなされたとか、正に本末転倒。よくバナー広告でその種のデタラメ史観ふり撒いてるようなところはアッチ系、やってる連中もまず日本人じゃない。西ナンチャラとか。なぜかあいつらは資金が豊富。その種のサイトは無知層・情弱系をタラしこんで日本人の感覚をブッ壊すための左翼系陰謀論サイトと同じく、日本の先人たちが義ではなく私利のためだけに動いてたかのような価値観流布、偉大な先人貶め、日本人の魂 破壊、パッパラパー化のため用意されています。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

征韓後 韓土の形勢
任那・百済は常に服事す―新羅は不臣―荒田別(アラタワケ)・鹿我別(カガワケ)の新羅征伐―上毛野(カミツケヌ)・竹葉瀬(タケハセ)の問罪(新羅闕貢・けっこう)、紀小弓(キノヲユミ)・蘇我韓子(ソガノカラコ)・大伴談(オホトモノカタリ)の新羅征伐―大伴談の戦死―紀小弓の病死―蘇我韓子の遭害(そうがい)―高句麗 朝貢を怠る―高句麗 百済を滅す―百済の再興―高句麗の征伐。

我が鎭将の反亂(乱)
任那國司 吉備田狭(キビノタサ)の反―紀大磐(キノオホイワ)の反。

大伴金村の失政
大伴金村(オホトモノカナムラ)の威權(権)―韓土の処置を誤る―任那の地を百済に割与す―任那 我を怨む―日本府の動揺―金村の勢望衰う。

磐井の反
新羅 屢(しばしば)任那を侵す―近江毛野(オウミノケヌ)の差遣(さけん)―新羅 筑紫國造 磐井(いわゐ)に結ぶ―磐井 毛野の軍を遮(さえぎ)る―物部麁鹿火(モノノベノアラカヒ)の磐井討伐―御井(みゐ)郡の戦―磐井の誅。

任那日本府の滅亡
新羅 益(ますます)百済・任那を侵す―再び近江毛野遣わさる―毛野 鎭撫の策を誤まる―韓土の動揺―毛野の召還―大伴磐(オホトモノイワ)・同狭手彦(サデヒコ) 任那を救う―日本府の滅亡―調伊企儺(ツギノイキナ)の義烈(ぎれつ)―伊企儺の妻 大葉子(オホバコ)―紀男麻呂(キノヲマロ)・河邊瓊缶(カワベノニエ)の新羅征伐―皇軍の不利 瓊缶 虜となる―任那回復の遺詔(いしょう)―任那の回復成らず―任那の日本府 永く絶ゆ。

〇新羅の無礼
新羅は三韓中、其の建国 最も早く、百済と隣睦(りんぼく)の好を修めしことあるも、其の富強を恃(たの)みて、屢(しばしば)百済に入寇す。神功皇后の摂政47年、百済王初めて我に朝貢す。此の時、新羅の使者、其の貢物の珍異(めづらし)なるを見て之を奪い、新羅の貢物と称して献ず。朝廷 乃ち千熊長彦(チクマノナガヒコ)をして、之を責めしめ給う。是より後も常に我に無礼のこと多し。
〇荒田別・鹿我別の新羅征伐
新羅 百済の朝貢を奪うや、朝廷 荒田別(アラタワケ)・鹿我別(カガワケ)をして百済の使者と共に渡韓せしめ給う。両将 乃ち大に新羅を撃破し、安羅(あら)・多羅(たら)・加羅(から)等の七国を定め、南蠻(蛮)の忱彌多禮(枕弥多礼・とむたれ)の地を取りて百済に与う。百済主 大に喜び、永く西蕃(繁・せいばん)と称し春秋に朝貢を絶たざることを盟(ちか)い、且 千熊長彦に使者附して送還す。
〇紀小弓等の新羅征伐
新羅 既に撃破せられしも、後なほ朝せず。朝廷 葛城襲津彦(カヅラキノソツヒコ)をして之を討たしめ給う。雄略天皇の御代に至り、新羅また朝貢せざるのみならず、高麗(高句麗のこと)の貢を止め、且 百済を侵しぬ。天皇の9年 紀小弓(キノヲユミ)、蘇我韓子(カラコ)、大伴談(カタリ)、同 小鹿火(ヲカビ)の四将をして之を伐たしめ給う。小弓等新羅の諸城を破り、喙(トク・任那の構成国)の地を略(ほ)ぼ定めしも未だ悉(ことごと)く下す能わず、談 戦死して小弓もまた病死す。小弓の子 大磐(オホイワ)専ら威命を用いて、小鹿火及韓子と隙(すきま)を生ぜしが、大磐 遂に韓子を殺しぬ。かくして此の役に皇軍 終に戦功を奏すること能わざりき。
〇吉備田狭の反
雄略天皇の7年、吉備田狭(キビノタサ) 任那国司に任ぜらる。田狭 事によりて天皇を怨み奉り、援を求めて新羅に入らんとす。時に新羅朝貢せず、天皇 田狭の子 弟君(オトギミ)等をして新羅を伐たしめ給う。かくて弟君 既に百済に入りしが、路遠きを思い、新羅を伐たずして還らんとす。田狭 之を知り、竊(ひそか)に人を百済に遣わし、吾巳に任那に拠(よ)りて日本に帰らず、汝もまた百済に寄りて反せんことを勧めしむ。弟君の妻 樟媛(クスヒメ)其の謀叛を悪(にく)み、密に弟君を殺して還りぬ。
〇紀大磐の反
父 小弓の新羅征伐の陣中に病没するや、小鹿火の掌れる兵馬の權(権)を執りて、専ら威令を用う。小鹿火 之を怨み、韓子に詐(いつわ)り告げて曰く、大磐 将に韓子の掌れる兵馬の權をも奪わんとすと。韓子また大磐を悪む。かくて韓子 大磐を殺さんとせしが、却って大磐の為に殺さる。顕宗天皇の3年に至り、大磐 任那に拠りて高麗に通じ、将に三韓に王たらんとして宮府を設け、又百済の将を殺さんとす。百済王 大に怒りて大磐を殺さんとせしが、大磐 逆へ撃ちて一度は百済の軍を破る。既にして大磐は兵つき力つきて事の済らざるを見て任那より還る。
〇高句麗 百済を滅す
高句麗は早くより朝貢せず、応神天皇の97年、使を遣わして朝貢せしむるや、其の上表文に「高麗王 教 日本国」(高麗王 日本国に教ゆ)と記する程にて、固より我を重んぜず。かくて高句麗の百済と干戈(かんか=戦)を交えしが、雄略天皇の20年、高麗王 大軍を出して遂に百済を滅しぬ。翌年 天皇 之を聞き、久麻那利(くまなり)の地を百済に賜いて、其の国を復興せしめ給う。越えて23年、筑紫の軍士 五百人を差遣して、東城(トウジョウ)王を百済に立てしめ舟師を発して高麗を伐たしめ給う。
〇大伴金村と其の失政
金村は武持(たけもち)の曾孫にして、談の子なり。仁賢天皇の崩じ給うや、大臣 平群眞鳥(マトリ)専横にして叛を図る。金村 太子に謂いて之を討滅し、太子(武烈天皇)即位に及びて大連となる。かくて武烈天皇 崩ずるに及び、金村 繼體(ケイタイ・継体)天皇を迎え立て、大臣 許勢男人(コゼノオヒト)大連 物部麁鹿火(モノノベノアラカヒ)と共に国勢を執り、威権 甚だ熾(さかん)なりき。6年 百済の使 朝貢し、任那の哆唎(タリ)、牟婁(ムロ)等 四縣の地を得んことを奏請す。哆唎の國守 穂積押山(ホサカノオシヤマ・ホヅミノオシヤマ)また百済に之を与うるの利なるを主張す。時に大兄皇子は、之を止めんとし給いしが及ばず。是より任那 我を怨み、新羅ますます侵略を恣(ほしいまま)にし、韓土の政策 大に困難となりて、日本府も動揺し、金村・押山 百済の賄賂をうけし流言さえありて、金村の勢 望大に衰う。
〇磐井の反
継体天皇の21年、天皇 近江毛野に兵6万を率いて任那に往き、新羅の侵地をかえさしめ給う。時に筑紫國造の磐井なるもの叛を図らんとす。新羅 之を知りて、密に賄賂を贈り、毛野の軍を遮(さえぎ)り止めしむ。磐井 乃ち火・豊(肥豊)の地に拠り、外は海路を支えて三韓の朝貢を誘致し、内は毛野の軍を止めんとせり。
〇物部麁鹿火と磐井の誅
麁鹿火は伊コ弗(イコフツ・コはくさかんむりに呂)の玄孫にして、父を麻佐良(マサラ)と云う。仁賢天皇以下の五朝に仕えて大連となる。継体天皇の21年 磐井の反するや、近江 毛野軍を任那に進むることを得ず。天皇 磐井征伐の将を群臣に問わせ給う。金村等、麁鹿火の正直にして兵事に通ずること其の右に出づるものなきを奏す、天皇 乃ち親(みずか)ら斧鉞(ふえつ)を授け、勅し給うて曰く、長門以東は朕 之を制せん、筑紫以西は汝 之を制せよと。翌年11月、麁鹿火 進んで磐井と筑紫の御井郡(筑後三井郡)に戦いて之を斬る。餘衆もまたことごとく平ぐ、宣化(センカ)天皇の元年に至りて麁鹿火 薨ず。
〇近江毛野の召還
磐井の誅せられし翌年、朝廷 再び毛野を任那に遣わし給う。毛野の任那に至るや、新羅・百済 各其の臣を遣わして命をきく、時に任那王来朝し、新羅の侵地を訴えて救を請う。朝廷 毛野に勅して両国を和解せしめ給いしも、両国各使者を遣わして国王来らず、毛野 大に怒りて之を卻(しりぞ)けしかば、使者 怖れ帰りて各国王に告ぐ、新羅 更に使者に兵三千を附して来らしめ勅を請(こ)わしむ。毛野 其の兵勢の熾なるを見て出でず。かくて使者留まること久しく、兵食乏しくなりしかば、近邑を掠め人畜を驅(か・駆)りて帰る。其の後、毛野 韓土に留まる二年、怠惰にして事を視ず人民 之を怨む。天皇 乃ち使を遣わして之を召し給う。毛野 恐れて還ること能わず、屢(しばしば)新羅 百済の兵に攻撃せられ、後 対馬に至りて病没す。
〇大伴磐と同狭手彦
磐(イワ)・狭手彦(サデヒコ)は兄弟にして金村の子なり。宣化天皇の2年、新羅 任那を侵す、金村 詔をうけて、磐・狭手彦をして任那を救わしむ。磐は筑紫に留り、其の国政をすべて三韓に備え、狭手彦は任那を鎭し且 百済を救う。
欽明(キンメイ)天皇23年、狭手彦 将となって高麗を討ち、百済の計を以て大に之を破り、遂に高麗の王宮に入り、珍寶(宝)及七織帳・鐡(鉄)屋を獲て帰る。其の七織帳を天皇に上りて甲及刀等を蘇我稲目に与え、鐡屋を長安寺に置く。
〇調伊企儺(ツギノイキナ)
努理使主(ヌリノオミ・コチラ参照)の後なり。人となり勇烈なり。欽明天皇の御代、紀男麿(きのおまろ)の軍に従いて新羅の罪を問う。されど皇軍 利ならずして、伊企儺 執(とら)えらる。此の時 伊企儺 屈せざりしかば新羅の将 刀を抜きて之に逼(せま)り、其の尻を日本に向けて日本の将 之を食えと呼ばしむ。伊企儺 乃ち、新羅王 我が尻を食えと大呼す。新羅王 大に怒りてますます侵辱を加えしも、伊企儺なほ前の如く之を呼びて變(変)せず、遂に殺さる。
〇大葉子(オホバコ)
調伊企儺の妻なり。伊企儺の難に遭いし時、其の子 舅子も其の父の屍を抱きて死し、大葉子もまた擒(とりこ)にせらる。之を痛める歌に「からくにの きのへにたちて 大葉子は ひれふらすも やまとへむきて」と。其の日本の方をしたひて城の上に立ちて領巾(ひれ・両肩にかけて垂らす女性装身具)をふるは実にいたましきことなり。
〇紀男麿の新羅征伐
欽明天皇の23年、新羅 任那を侵して遂に日本府を滅しぬ。朝廷 紀男麿(キノヲマロ)を将とし、副将 河邊瓊缶(カワベノニエ)と共に赴き、新羅 任那を攻むるの状を問わしめ給う。其の任那に至るや新羅 我が軍の計を知り、卒(つい)に大兵を起して来り戦う。尋(つい)で兵 敗れて降を乞う。男麿 勝を取り、師を旋(かえ)して百済の營(営)に入り、其の軽進を戒む。河邊瓊缶 独り転戦して進み、皆 之に捷(勝)つ。新羅 白旗を挙げて降る。瓊缶 其の意を覚(さと)らず。又 白旗を挙げて進む。新羅の将 之を逆へ撃ちて大に破り、遂に河邊瓊缶及其の妻を擒(とりこ)にせり。
〇任那 國司回復の遺詔
欽明天皇の32年、天皇 疾(や)み給う。皇太子を召し詔して曰く「朕が疾(やまい)甚し、後事を以て汝に屬(属)す、汝 新羅を討ちて任那を建つること、舊(旧)日の如くならしむべし、死も恨なし」とのたまいて、遂に崩じ給う。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑧ ~ 佛教の伝来と蘇我 物部 両氏の争

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(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑥ 仁徳天皇と雄略天皇 顕宗 仁賢 両天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑤ 朝鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑬ 蝦夷の服属 韓土の変遷(百済 高麗の滅亡・新羅の朝鮮半島統一)

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ④ 日本武尊 成務天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ③ 崇神天皇と垂仁天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑨ 聖徳太子 支那へ使節派遣

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑲ 韓土の(朝鮮半島)変遷(支那との関係) 渤海の入貢

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より はしがき・もくじ

◆『日本書紀』より、「(古代朝鮮半島の日本府)任那滅亡」

◆朝鮮人は、朝鮮半島に住んでいた古代日本人を蹂躙した侵略者!

◆家庭内における戦前の教育再現 ~ わが家で使ってる子供用教本 ~ 修身と国語副読本

◆『昔の日本はアメリカと同じくらい広かった!』~ 日本人としての自信を持たせた祖母の言葉

◆古代日本史における朝鮮半島の倭国領を歴史から取り返さなければならない! ~ 朝鮮に文化をもたらし、古代朝鮮半島南部を支配した倭人

◆竹島を武力行使で即奪回せよ! そして、まずは容易に取り返せる古代における朝鮮半島の日本府“任那”を日本史上に奪還し、日本人に再教育せよ! ~ 韓土の日本領も奪回! 朝鮮半島にある前方後円墳

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真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑥
仁徳天皇と雄略天皇 顕宗 仁賢 両天皇

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(2017.2.1)  (戻る)
ここまでお読みになってくれば、今までさんざん歴史を勉強してきたつもりが、結局、実は何も学んでいなかったんだってことに気づかれた方が多いと思います。戦後、断絶された日本の歴史教育、引き続いてまいります。今日は第6回。
現代では忘れ去られた、昔は有名だった仁徳天皇の治世。この話を読めば、なぜ仁徳天皇陵(右写真)があれほど大きいか、そのワケがつながっていくわけですね。皇室への敬意も自然と持てるようなるし。
少し前までは「世界最大のお墓の仁徳天皇陵」と教えられていたのに、今ではそうじゃなく、ただ「大山(だいせん)古墳」って教えられるようなってるのはご存知ですか? 私らからすると「大山古墳……なんじゃそりゃ」って感じですが、今の教育ではそんな風に、あの種の大きな古墳が天皇とは特に関係ないかのような教え方がされてるんですよ。天皇陛下の御陵だってことを今の学校では教えなくなってるのです。じゃあ、あれは何なのかって……ただ、何か不思議な盛り土だなって…… 宇宙人がとか、ユダヤがとか…… そして天皇を追っての殉死が禁じられた後、陛下に仕え最後まで共にすべき人々の身代わりとして御陵に一緒に納められた数々の埴輪群も、単なるお飾り、嗜好品にすぎない、魂のないただの文化財でしかないわけですね。だから攪乱ネタの近代史ばかりで騒いでるようじゃ、日本人のルーツをメチャメチャにされ、民族としての土台を失っていきますよと、私は前々から警告してるわけです。日本人が日本人であるために、古代史、神代こそ一番大事なんだって。今では陛下や皇族さえ、自分たちが何者であるのかすら忘れてしまっており、非常に憂うべき事態となってます。
そして、自分が殺めた相手の妻を妃としたことから我が誅されることになった天皇の話。陛下といえども、人としての在り方を考えさせられる、安康天皇に起きた眉輪王の変や、財を意味する「大蔵」の由来、また古くから皇室と関わりのあった養蚕や、陛下が激情を抑制するにあたり当時の皇后様がとられた役割など、興味深い話もいっぱいですよ。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

難波遷都
応神(オウジン)天皇の崩後 皇太子 稚郎子(ワキイラツコ)の譲位―御兄 大鷦鷯尊(オオササギノミコト)の御即位(仁徳天皇)―当時 韓土との交通繁し―難波(今の大阪)に遷都。

仁徳天皇の御仁政
高臺(たかきや・高台)より御望遠―炊煙少く百姓 窮乏す―三年間 租税を免ぜらる―皇居 久しく修理せられず―天皇の御倹約ー民力の休養―交通を便にし農業を勧めらるー民富みてよく治まる―仁徳天皇の御陵。

磐之媛皇后
磐之媛(イワノヒメ)皇后―武内宿禰(タケノウチノスクネ)の孫―履中(リチュウ)・反正(ハンゼイ)・允恭(インギョウ)三天皇のご降誕―武内宿禰の子孫繁栄(蘇我=ソガ・葛城=カツラギ・平群=ヘグリの諸氏)。

産業の御奨励
眉輪(マユワ)王の変―雄略(ユウリャク)天皇の御即位―天皇の御勇壮―諌(かん・いさめ)を容(い)れ政に励み給う―養蠶(蚕)を勧め益 絹織の業を起さる―斎蔵(いみくら)・内蔵(うちくら)の外に大蔵(おほくら)の建立(三蔵分立)―蘇我満智(ソガノマチ)三蔵を掌(つかさど)る―(蘇我氏強大の基)

豊受大神宮
丹波より豊受(とようけ)大神を迎えらる―衣食(農桑)の榊―皇大(こうたい)神宮の傍に奉祀―外宮

幡梭姫(ハタビヒメ)皇后
皇后の御淑徳(ごしゅくとく)―内に天皇を助け又命により親(みずか)ら蚕を飼い給う―少子部栖軽(チイサコベスガル)の話

工業の進歩
呉より縫工・織工の女を召さる―百済より錦工・陶工・書工を招かる―衣服・家屋の発達―楼閣(ろうかく)の建築―上古の建築 漸(ようや)く改まる。

顕宗 仁賢 両天皇
雄略天皇の崩後 皇子 清寧(セイネイ)天皇の御即位―清寧天皇の崩後 履中天皇皇孫 顕宗(ケンゾウ) 仁賢(ニンケン)両天皇の御即位―民各業に安じ天下大に富む。

〇稚郎子(ワキイラツコ)皇子 (菟道稚郎子・ウジノワキイラツコ)
応神(應神)天皇の皇子にして、仁徳(ニントク)天皇の弟なり。応神天皇の84年 百済王の使 阿直岐(アジキ)の来るや、之に漢文を学び給い、翌年 王仁来るに及びまた之を師とし給う。97年 高麗王の使の朝貢するに当り、其の上表中に、高麗王 日本国に教ゆとありしかば、皇子 其の無礼を怒りて其の表を破り給う。天皇 固(もと)より皇子を愛し給い、109年 皇長子 大山守(オオヤマモリ)命をして、山川林野の事を掌らしめ給い、仁徳天皇(大鷦鷯尊・オホサザキノミコト)をして、皇太子を輔(たす)けしめ給う。応神天皇崩ずるに及び皇太子帝位に即き給わずして、之を大鷦鷯尊に譲り給う。尊は先帝の命あるを思いて、之を固辞し給う。かくて互に皇位を譲り給いて三年に及びしが、皇太子 遂に自殺し給う。是に於て、尊帝位につき給う。是を仁徳天皇と申す。
〇難波の遷都
神功皇后 三韓征伐の後、其の貢献の船を難波(今の大阪)の海に来らしめ給い、離宮を大隅(今の大阪の中にて高津宮の附近なるべし)に建て給いしが、仁徳天皇に至りて高津宮(今の大阪玉造石山の附近なるべし)に遷(うつ)り給いぬ。其の後 孝徳天皇の御代 再び長柄豊崎宮(ながらのとよさきのみや・今の天満川上 大阪城辺なるべく難波の宮も同所なるべし)に遷り給う。此の難波の遷都は、神武天皇の奠都(てんと)後、天智天皇の近江の志賀、元明天皇の大和の平城、桓武天皇の平安、明治天皇の東京の奠都と共に著名なるものとす。
〇眉輪王の変
安康(アンコウ)天皇は大泊瀬(オオハツセ)皇子の為に、大草香(オホクサカ)皇子の妹 幡梭(ハタヒ)皇女を聘(へい)せんとし給う。根使主(ネノオミ)使となりて、旨を大草香皇子に伝う。皇子 大に喜び私寳(宝)の押木曼縵(おしきのたまかづら)を捧げ給う。根使香主 之を奪いて己が寳(たから)とし、詐(いつわ)りて大草香皇子の命を奉せざる旨を奏上す。天皇 大に怒り、大草香皇子を圍(かこ)ましめて之を滅し、其の妻 中蒂(ナカシ)姫を宮中に納れ、やがて皇后とし給う。初め中蒂姫皇后は眉輪(マユワ)王を生みしが、是に至りて王もまた宮中に養わる。天皇一日皇后に語り給うて曰わく、朕 眉輪王を畏ると。王 楼下に在りて之を聞き、遂に天皇の熟睡し給うを伺いて、殺し奉るに至る。王 忽(たちま)ち誅に伏す。之を眉輪王の変(變)と云う。
〇三蔵分立
斎蔵(いみくら)内蔵(うちくら)大蔵(おほくら)を云う。斎蔵(いみくら)は斎(い・忌)み潔(きよ)めたるものを収むる場所にして、上古より之ありき。三韓征伐の後、韓よりの貢献多きにより、履中天皇の御代に、斎蔵の傍に内蔵を建てしめ給う。内蔵は内の蔵にて皇居内に物を収め置くの場所なり。此れ内蔵に収めし貢献物(こうけんもつ)は、安智使主・王仁に出納を記せしめらる。而して秦氏が貢献せしこのかた、諸国よりの貢調物も年々増加せしを以て、雄略天皇の御代に至り、別に大蔵を立てて之を収めしめ給う。かくて三蔵分立し蘇我満智(マち)をして之を主(つかさど)らしめらる。
〇蘇我満智
武内宿禰の孫にして、石川宿禰の子なり。履中天皇の御代に、平群木菟(ヘグリノツク)等と共に国政をとり行う。雄略天皇の御代に、更に三蔵を兼ね主(つかさど)らしめらる。是に於て蘇我氏 財政をも管するに至り、後に蘇我氏の強大となるの基をなせり。<〇豊受大神宮
伊勢の宇治山田市豊川町に在りて、衣食の神なり。初め天孫降臨の時、天照大神の詔にて、丹波の與謝(よさ)比沼の眞井(真井・まない・今の丹後中群五箇村に在り)に鎮座ありしが、雄略天皇の御代に至り、大神の託宣(おつげ)によりて、今の地に遷し奉り給う。後世 皇大神宮を内宮と云い、豊受大神宮を外宮と云う。古来 朝廷の御崇敬 甚だ厚く、二十年毎に改築ありて遷営せらる。臣民の崇敬もまた深く。参拝するもの絶ゆることなし。
〇幡梭皇后の御淑徳
雄略天皇の5年 葛城山に狩し給いし時、天皇 舎人(とねり)に一匹の暴猪を刺さしめ給う。舎人 恐れてにげ、猪 直に天皇にとびかかりしかば、天皇 弓にて之をさし止め、足をあげて踏み殺し給う。天皇乃ち舎人を責めて斬らんとし給いしに、皇后 之を諌め給いしかば、天皇 御心とけて舎人をゆるし「朕は狩して善言を得たり」とのたまい給う。皇后の常に天皇の御心を和らげ給えること知らる。皇后また天皇の命にて親(みずか)ら桑をとりて蠶(蚕)を養い、以て養蠶ををすすめ給えり。
〇少子部栖輕
天皇 養蚕を奨励し給い、蜾蠃(スガル)というものに、天下の蚕をあつめし給う。蚕は其の飼わる時にカヒコといい、基本の語は(こ)なり。よって栖輕(スガル)は蚕のコと子兒(児)のコとを誤りて、天下の小児をあつめて天皇に上る。天皇 大に笑わせ給い、其の小児を栖輕に賜りて養育せしめ給い、少子部連(ちいさこべのむらじ )の姓を賜わる。また以て天皇の農桑をすすめ給い、御仁愛の御心にとませ給うこと知らる。
〇仁徳・天智・聖武・醍醐 各天皇の都
仁徳天皇の都は難波遷都の條に見え、天智天皇は近江滋賀宮(今の滋賀群大津市)、聖武天皇は大和平城宮(添上=そえかみ・添下=そえじも(今生駒郡)両郡に跨(またが)る)に在しまし、醍醐天皇は山城平安(今の京都)に在しませり。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑦ ~ 朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

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(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑤ 朝鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ④ 日本武尊 成務天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ③ 崇神天皇と垂仁天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ① 神代 皇基の遼遠

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑧ 佛教の伝来と蘇我 物部 両氏の争

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ② 神武天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑨ 聖徳太子 支那へ使節派遣

◆『ぐりとぐら』 『こどものとも』の児童書 福音館は反日出版社 ~ 天皇を貶め、自虐史観に満ちた子供向け絵本

◆戦後の歴史教育を捨てよう。 歴史教育 再興 ① 永久保存版 戦前の国史(日本史)学習年表

◆日本神話の絵本について ~ 子供たちに日本と天皇へ愛着を持たせましょう

◆こないだまで、古代日本は朝鮮半島南部を支配していたと教えられていたのに ~ 日本府 任那を消し去った売国奴学者列伝 実は朝鮮人か!?

◆日本の童謡の世界は比類ない最高のもの ~ それと子供には神話絵本も!

◆萌え系 日本神話がひどい件

◆戦前の小学歴史教科書準拠 学習問題から ⑤ 仁徳天皇

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真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑤
朝鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

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(2017.1.28)  (戻る)
今回は、古代朝鮮半島の情勢、日本府 任那の由来、初の摂政となった神功皇后の新羅征伐など、興味深い内容がいっぱいですよ。また、ここでは韓土(朝鮮)よりいろんな文化人や職人(女)が来たという記録がありますが、勘違いしてならないのは、それらの人々が日本人とは全く別の人種と考えてはいけないことです。朝鮮半島南部の日本府 任那を足掛かりに、既に多数の倭人が当時から朝鮮には住みついており、朝鮮半島には純粋な倭人もいれば、倭人と百済人等の混血も多数いたはずで、ひとまとめに(百済系)渡来人なんて現代で呼ばれてしまう人々の多くは、日本に帰化する前から、単に朝鮮にいたというだけの日本人にすぎないのです。それなのに、日本領 任那にいた完全な日本人が日本にやってきてても、今では朝鮮半島から来た渡来人にされてしまう…… 韓国南部では古代日本特有のいくつもの前方後円墳が見つかってるし、日本に服属していた百済においても倭人系豪族が強く、王妃などには多くの倭人を迎え入れてた上、しかも百済 武寧王などは日本生まれでもあります。百済に限らず当時の古代朝鮮半島南部では倭人系豪族が大きな勢力を振るっていました。尚、支那人系もいて、ここに出てくる漢学博士 王仁(ワニ)や阿知使主(アチノオミ)等についは支那人だと記録されています。また、日本には漢字が伝わる以前から神代文字があったという、最近では何やら怪しい情報まで出回っていますが、ここではそのようなものは出所不明で後世に作られたものだということでキッパリ否定されています。

またここにもある通り、新羅の建国は神武天皇の兄(稲氷命・イナヒノミコト)がなしたという伝承も日本側にありますが(『新撰姓氏録』)、朝鮮側(『三国史記』新羅本紀)にも倭人が関わっていたことが記されていて新羅本紀では倭人と組んだ朴氏の新羅建国後、同じく倭人系の昔氏が継ぎ、後に金氏が継承していった流れになってますが、元から新羅へは支那人もかなり流入していたりで(支那側にそのような記録もあり、さらには新羅を建国したのは秦の部族だという主張まである)、日本本土の日本人とは実際かなり違う人種となっていたと見なしてます。そして金氏については倭人系との記録はなく、新羅は金氏の頃から日本人とは全く異なる今の朝鮮(韓国)人につながる民族に完全に支配され、シナ(唐)と組して日本と対立するようになったと私は確信しています。なので、今の日本人の古代史への無知を利用し、古代日朝史に通じてるフリして新羅なんかに親近感持たせようとデタラメ論ふりまいてる連中というのは、アッチ系の工作員なのです。
逆に百済については、その建国に倭人が関わったという記録はどこにもなく、百済が日本と深いつながりを持ち、日本と同化し始めたのは建国から後のことです。

それでは戦後教育で断絶された古代日本と朝鮮半島の関わり、そして任那の記憶、これらを読んでよーく思い出してくださいね。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

古朝鮮
古朝鮮の版図―殷の王族 箕子(キシ)の来王―箕子の子孫代々平壌(へいじょう)に都す―燕の人 衛満(エイマン)王となる―支那の併有(へいゆう)。

三韓
朝鮮半島南部の国々―馬韓(ばかん)―辰韓(しんかん)―弁韓(べんかん)―我が国との関係。

三国及び任那
新羅(しらぎ)―高句麗(こくり)―百済(くだら)―新羅 大伽羅(おほから・大伽耶)を侵す―大伽羅 我に保護を仰ぐ―塩乗津彦(シオノリツヒコ)の差遣(さけん)―日本府の起―任那(みまな)国名の起

神功皇后の征伐
仲哀天皇の御即位―天皇の熊襲御親征―筑紫の橿日宮(カシイノミヤ)―天皇の崩御―神功(ジングウ)皇后の新羅御征伐―武内宿禰(タケノウチノスクネ)と吉備鴨別(キビノカモワケ)―新羅王 波沙寐錦(ハサムキン)の降伏―新羅王の誓約(チカイ)―百済・高句麗の服属―内官家(うちつみやけ)の設置―皇威 海外に及び熊襲 復叛かず―皇后の御凱旋(がいせん)―応神(オウジン)天皇の降誕―皇后の摂政―神功皇后の御追号(ついごう)

学問の伝来
支那の文化 韓土に影響す―日本と韓土と往来―阿直岐(アジキ)及び博士 王仁(ワニ)百済より来る―王仁 論語及び千字文を上る―阿直岐・王仁の二人 菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)皇子の師となる―漢学伝来の始―支那人 阿知使主(アチノオミ)・都賀使主(ツガノオミ)父子の帰化―阿知使主・王仁等の子孫 朝廷の記録を主どる―東文氏(ヤマトノフミウヂ)と西文氏(カワチノフミウヂ)―東西文部

工芸の伝来
百済王 縫工女を貢す―支那人 弓月君(ユツキノキミ)及び努理使主(ヌリノオミ)の帰化―養蚕紡織に従事す―阿知使主 呉(くれ・ご)に使す―呉の縫女・織女来る―船工・陶工・鍛工・酒造工等 韓土より来る―我が文化の進歩を促がす。

〇箕子の来王
朝鮮の伝えに、初め壇君(ダンクン)と云う長ありて平壌に都し、国を朝鮮と号したりと云う。我が紀元前430年の頃に、支那の殷(いん)の紂王(チュウワ)の諸父(おぢ)なる箕子(キシ)本国の亡ぶるを見て、支那人五千をつれて朝鮮に入り、周より封ぜられて平壌に都す。古朝鮮の名 此に起こる。箕子の後40代をへて準(ジュン)の時に至りぬ。時に今の直隷省の河間府の以北より、遼東に至れる地を領せる燕と云う国あり。此の国に盧綰(ろくわん)なるもの王たりしが、其の内乱の起こるに及び、衛満(エイマン)なるもの、此の朝鮮に来り準を逐(お)いて王となる。
〇我が国と三韓との関係
神代に於て、既に素戔嗚尊(スサノオノミコト)の新羅の国に往き給いしこと伝えられ、出雲地方の人民には、早くより往来せしものありしなり。九州地方にても、其の豪族の彼の地にゆくものあり、韓土の人民もまた渡来せるものありて、互に交通行われしなり。我が開花天皇の御時に、支那の漢の武帝なるもの、今の遼東地方を従えて、其の威を振うに及び、九州の豪族のまた支那にも赴くものありて、漢人は当時の九州諸国を倭と呼びたり、神武天皇より崇神天皇の頃までは、韓土との交通は、専ら九州地方の豪族によりて行われ、崇神天皇の御代に大伽羅(おおから)の使節の来るにいたりしなり。
〇大伽羅の使節
大伽羅は即ち任那なり。任那は加羅・安羅(あら)等の十国をすぶるを以て、大の字をかぶらす。今の慶尚南道の金海府地方なり。当時、隣国の新羅に攻められ、崇神天皇の65年、蘇那曷叱智(ソナカシチ)を遣わして、我に朝貢せしめて救を乞いたり。
〇塩乗津彦命の差遣
第五代孝昭天皇の皇子、天足彦国押人命(アメノタラシヒコクニオシヒトノミコト)の四世の孫を彦国葺命(ヒコクニフキノミコト)と云う。塩乗津彦命(シオノリツヒコノミコト)は此の彦国葺命の孫なり。崇神天皇の御代に任那奏して曰く、臣が国の東北に三巴汶(サンコモン)の地あり、地方三百里にして人民また富む。新羅と争いて彼此治むること能わず、兵戈(へいか)相つぎて人民生をたのします。将軍を遣わして治めしめば、日本の属地となるべしと。天皇 大に悦び給い、群臣に勅して遣わすべき人を奏せしめ給う。群臣 塩乗津彦の身は長五尺に達し、力衆人にすぎまた勇悍なるを以て、此人を遣わし給うべきを奏す。是に於て塩乗津彦 勅を奉じ、任那に赴きてここに鎮座す。是より子孫相つぎて彼の地に在りしかば、我が勢力永くつづきたり。
〇日本府の起
崇神天皇は、塩乗津彦を遣わして任那を援わしめ、其の地に官家(みやけ)を起きて鎮守せしめ給う。是れ任那に日本府あるの起りとす。其の管するところの地は、今の全羅南北・慶尚南北・忠清南北の六道に跨(またが)る。
〇任那国名の起
崇神天皇の御名を御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエ)天皇と申す。天皇の御代に任那の使来朝せんとして道に迷い、北海より出雲をへて敦賀に至りしに、天皇の崩にあい、此に留まって垂仁天皇に仕う。其の使の帰国せんとするに当り、天皇詔して曰く、汝 道に迷わずして来らば、崇神天皇に仕うを得べし、よりて御間城入彦天皇の御名をとりて汝の国名とせよとのたまい、物を賜いて本国に返さしめ給う。任那(みまな)の国名、此に起る。
〇仲哀天皇の熊襲征伐
天皇の2年、神功皇后 角鹿(つぬが敦賀)に行啓し給い、天皇南方を巡幸して紀伊の徳勒津(ところつ)の宮(紀の川口)を行宮とし給う。時に熊襲また反きて朝貢せざりしかば天皇之を討たんとし、行宮を発して穴門(あなと長門)に幸し、使を遣わして皇后を召し給う。天皇 豊浦の行宮(長門)にとどまり給い、皇后も亦至り給う。かくて8年天皇九州に幸し、橿日(かしい)宮(筑前香椎)にて熊襲討伐を議し給う。此の時 皇后は、先づ新羅を征せば、熊襲は自ら皇威に服せんことを奏し給いしが、天皇強いて熊襲を伐ち給う。翌年2月に至り、天皇 遂に軍中に崩じ給う。
〇神功皇后の新羅征伐
仲哀天皇の崩後、神功(ジングウ)皇后は武内宿禰(タケノウチノスクネ)と議して、新羅の征伐を決し給う。皇后乃ち橿日宮を発して、松峡(まつのを)宮(筑前朝倉郡)に遷り給い、尋(つい)で層増岐野(そそきの・朝倉郡安野村)に赴き、更に山門(やまと)縣(筑後山門郡)に転じて土賊を平げ、北松浦縣(肥前)に出で、橿日浦に至り給う。此の年9月 戦船を集め、松浦湾より出帆し給いて和珥(わに)津(対馬)に着し、十月此を発して新羅に向い給う。新羅王 我が軍威を見て大に恐れ、白旗を挙げて出で降りぬ。
〇吉備鴨別
景行天皇の40年、日本武尊の蝦夷征伐に従軍せし吉備津彦命の三男なり。神功皇后の新羅を征伐せんとし給うに当り、鴨別をして熊襲を撃たしめ給う。熊襲 忽(たちまち)
にして服従す。応神天皇の御代 波久岐(ハクキ未詳)の国造に任ぜらる。後世の笠田氏の祖たり。
〇新羅王の誓約
新羅王の皇軍に降るや、誓いて曰く、東より出づる日 西に出で、鴨緑江(おうりょくこう)の水 逆(さかさま)に流れ、河の石昇りて星となるにあらざれば、春秋の朝貢をかき奉らずと。是より我に貢物を上るに至る。
〇内官家
屯倉及び屯家をも、官家と同じく皆ミヤケとよむ。また国々に朝廷の御料田ありて、その御料田に成れる稲穀を蔵め置く御倉や官舎をも合せてミヤケと云う。屯倉はその御倉につきて書し、屯家・官家は其の本義なる役所につきて書す。今や韓土を征服せられたれば、皇国内の屯家になぞらへて、新羅を官家国(みやけのくに)と云い、そこに官所(やくしょ)を置き之を内官家とよびしなり。
〇摂政
天皇を輔け奉りて、すべての政を行う職なり。仲哀天皇 崩じ給い、神功皇后 新羅征伐の後、応神天皇 御幼少にまししかば、皇后摂政し給う。第三十三代 推古天皇の時、皇太子 厩戸皇子 摂政し給い、第三十七代斉明天皇の時、皇太子中大兄皇子 摂政し給う。ここに於て摂政始まる。
〇支那文化の韓土に影響
箕子の韓土に来王するや、後の高麗の地に在りしかば、支那の文物の既に伝来せしこと知らるべく、又百済より渡来せし王仁(ワニ)の論語・千字文を上りしを以て、百済にも其の巳前に伝来せしなり。新羅はもと支那の秦(しん)、漢(かん)流亡の人民の渡来せしに起りしかば、支那の文物の早くより伝わりしこと知らる。かくして韓土は、支那の文化の影響をうけしなり。
〇阿直岐と王仁
阿直岐(アジキ)は百済国王の後にして阿直史(アチノフヒト)等の祖なり。阿直岐を一に阿知吉師(アチキシ)とあり、其のシの音をキシにつづめて阿直岐と云う。応神天皇84年、百済主阿直岐をして良馬を献ぜしむ。天皇 之を阿直岐に飼わしめ給う。阿直岐よく漢文をよむを以て、天皇 菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)皇子の師たらしめ給う。天皇また阿直岐にききて王仁をめし給う。翌年 王仁来朝す。王仁は支那の漢の高祖の後なる鸞(ラン)に出づ。鸞の後、王狗(オウク)なるもの百済に来りて往す。王仁は王狗の孫なり。王仁来りて論語と千字文とを献ず。是に於て皇子 稚郎子の師となりて学問を授け奉る。王仁の子孫 河内に散在し、河内文首(カワチノフミノオビト)と云うもの即ち王仁の後なり。
〇漢学伝来の始
我が国の上古には未だ文字なくして、其の事実は貴賤老少口々に相伝えたりと云わる。応神天皇の御代に阿直岐来りて稚郎子皇子に学問を授け、王仁また来りて皇子の師となり論語・千字文をを上る。是れ我が国に文字ある始にして、又漢学伝来の始なりとす。因みに上古文字の有無につき論あれども、文字なしとする説よろしきが如し。神代文字として伝えられたるものの如きは、出所不明にして後世のものの作なるべし。
〇阿知使主(アチノオミ)
阿知は名にして、使主は外国の使の事を主る職名なりしが、後に併せて姓名の如くなりしと云う。此の人は支那の後漢の霊帝(レイテイ)の後なり。応神天皇の89年に、其の子 都賀(ツガ)使主と共に当類(とうるい)十七縣の民を率いて我が国に帰化せり。後106年、阿知使主父子 呉(クレ、次を見よ)に使して工女を求め帰りぬ。大和漢直氏(ヤマトノアヤノアタヒウジ)は此の阿知使主の後にして、坂上・文氏等は都賀使主(ツガノオミ)の後なり。
〇呉の国
呉とは我が国より今の支那の揚子江以南の地方を云える称なり。支那の三国の時代(皇紀881年~920年代頃)の呉(ゴ)国の地に当りしより、其の後の南朝の時代(皇紀1100年頃~1250年頃)までも、なお呉の文字を以て之を唱えしなり。呉をクレと云うは、我が国が東方 日出の朝(あさ)の位置に在るに対し、其の西方 日没の暮れ(くれ)の位置に当れるよりして之を呼びしならんと云う。
〇東文氏と西文氏
文氏(ふみうぢ)の文は職名にして、其の文書を掌(つかさど)るに起る。王仁来りて漢書を上り、且つ文字を習う事を掌りしより、其の子孫 文の氏を賜わりしなり。其の漢直(あやのあたい)より別れたる子孫は、大和に居たりしゆえ、之を東文氏(ヤマトノフミウヂ)と云い、王仁の子孫の河内(かわち)に居たりしゆえ、之を西文氏(カワチノフミウヂ)と云う。やがて其の東西文氏の朝廷に仕えて、文字記録などを掌れるものを東西史部(やまとかわちのふひとべ)と云う。
〇弓月君
支那の始皇帝十二世の孫を融通(ユウツウ)王と云う。我が国にて之を弓月君(ユツキノキミ)と云う。応神天皇の83年百済より来り、其の領民百二十縣、新羅に止められて加羅に在るを奏す。天皇の85年、平群木菟(ヘグリノツク)新羅を伐つに及び、漸く弓月君の人夫を率いて帰るを得たり。弓月君の子を普洞(フドウ)王と云う。秦の姓を賜わりて秦公(ハタノキミ)称し、後世 秦氏(はたうじ)の宗家となる。即ち秦氏は、此の帰化の秦人に賜へる姓にして、其の従い来りし領民を称して秦の民と云う。仁徳(ニントク)天皇の御代 之を諸郡に配置し給い、雄略(ユウリャク)天皇の御代には、此の秦の民九十二部1万8670人ありと云わる。其のこれを統(す)ぶるものを秦造(ハタノミヤツコ)と云う。
〇葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)
武内宿禰の子なり。応神天皇の5年 新羅使を遣わして調貢せしめ、先に質とせし微叱許智(ミシコチ)を伴ないて還らしむ。神功皇后 偽(いつわり)り奏請せるを覚(さと)らずして、襲津彦に護送せしめ給う。襲津彦 対馬に至りて欺かるるを知り、使者を囚(とら)えて之を殺し、新羅に赴きて其の草羅城(ツワラノサシ)を抜き、其の民を虜(とりこ)して帰る。尋(つい)で新羅貢せず、龍津彦 之を討ち、83年加羅に使して弓月君の領民を召し、新羅に留まること3年に及ぶ。平群木菟(ヘグリノツク)新羅を討ちて降すに及び、襲津彦 之と共に弓月君の領民を率いて還る。其の女 磐之媛(イワノヒメ)は仁徳天皇の皇后となりて、履中(リチュウ)・反正(ハンゼイ)・允恭(インギョウ)三天皇を生み、又其の子 葦田宿禰(アシダノスクネ)の孫女 ハエ媛(くさかんむりに夷・ハエヒメ)は、市辺押磐皇子(イチノヘノオシハノミコ)に嫁して、顕宗(ケンゾウ)・仁賢(ニンケン)二天皇を生む。
〇工芸の伝来
応神天皇の御代に百済王より縫衣(ぬいもの)工女・絹織(きぬおり)の職工 並に鍛冶(かぢ)醸酒(さけつくり)の技師を貢し、又新羅王よりは船匠(ふね大工)を献じ、阿知使主の如きは呉より裁縫の工女を携えて還える。かくして韓土より諸種の工芸伝来して、大に我が国の工芸の進歩を促せり。
〇努理使主
百済の貴族にして、応神天皇の御代に帰化す。子孫 養蚕・機織(はたおり)の業を世々にし、顕宗天皇の御代に絹織の物を貢ぎ献りしより、調(ツギ)の姓を賜わる。努理使主(ヌリノオミ)は調氏(しらべし)の祖なり。
〇上代日韓の関係
我が国と朝鮮とは、一葦帯水を隔てて近く相接したれば、太古より交通ありて神武天皇の皇兄 稲氷命(イナヒノミコト)は海を渡りて新羅の国王となり給いしことを伝う。かくて第十代崇神天皇の時 新羅 加羅を攻めしかば、天皇65年加羅の使者 蘇那曷叱智なるもの朝貢して救を乞う。次帝 垂仁天皇の時、塩乗津彦命なるもの命を奉じて赴き、尋で天皇 加羅の使者に勅して国号を任那と改めしめ給う。是れ任那に日本府あるの起原とす。其の後 第十四代 仲哀天皇の時、神功皇后は熊襲の屡(しばしば)叛くを以て、新羅の後媛に頼めるを思召し給い、武内宿禰と謀りて之を伐ち給いしに、新羅先づ降り、尋で百済・高麗(高句麗のこと)も亦降りて、三韓我が国に服属したり。是より漢学を始め、工芸・美術・佛教等伝来して大に我が文物の進歩を促したり。
〇神功皇后 新羅征伐及び其の効果
(前出)神功皇后の新羅征伐と新羅王の誓約と内官家と工芸伝来と学問伝来の始とを見て、前記の上代 日韓の関係の説明を見るべし。

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◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑬ 蝦夷の服属 韓土の変遷(百済 高麗の滅亡・新羅の朝鮮半島統一)

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑲ 韓土の(朝鮮半島)変遷(支那との関係) 渤海の入貢

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ③ 崇神天皇と垂仁天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑪ 蘇我氏の無道

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