真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑭
天智天皇 律令の選定
(2017.2.20) (戻る)
宮内省や大蔵省の名はこの頃に生まれました。明治政府のような近代的な省庁・組織体制というのは、現代では西洋に倣って作られたように教えられていますが、今日の内容でおわかりのように、日本においては大化の新政 天智天皇の時代に既に完成していたのですよ。しかも学制まで整えられていた。なんだか今の日本史教育では、この頃の政治機構が古臭くて原始的、すごく遠いものであるかのよう感じさせる古代貶め偏向教育がなされてるわけですが、こうやって見れば、ものすごく身近で完全に現代に通じるものであったことが明快に伺い知れます。今回は驚きの内容ですからね ^▽^) すごいリアルだし、古代の人々って、現代人とそんなに変わらないんじゃないかって、きっと感ぜられることでしょう。それさえ気づけば千年前の人とだって二千年前の人とだって、その思いを一にして通じることが出来るわけです。
百年前の教科書や歴史学習教材と今の教材、ここまで読んできたら、今の教材はまるで話にならないこと、おわかりでしょう。昔の教材さえあれば、もう何もいらないのです。今の上っ面評論、俗物的な歴史書では、偉大な先人たちと心を通わせることが出来ません。
今後の歴史学習で聖徳太子がいなかったとされてしまうコチラで触れたのと同じような事例について、ゲーテ(1749-1832)は前にも紹介した『ゲーテとの対話』(エッカーマン 著・詳しくは右画像クリック)で次のように評してます、
「これまで世間では、たとえばルクレティアとかムキウス・スカエヴォラとかいった英雄精神が信じられてきた。それによって、心を暖められ鼓舞されてきたのだ。ところが今や歴史批評などというものがあらわれて、そういう人物は存在しなかったのであり、単にローマ人の偉大な精神がつくりあげたフィクションか寓話と見なすべきだ、というのだね。しかし、そんなみすぼらしい真実を聴いたところで、しょうがないよ! ローマ人が、そういうものを創作するほどに偉大であったのなら、われわれにだって、せめてそれを信ずるだけの偉大さがあってしかるべきだろうに。」
この通りゲーテの時代から先人の偉業をないがしろにする歴史改変は目立っており、そのような風潮をゲーテは嘆き、古代であれいつの話であれ、実在の先人が記した記録を後世で作り話だの寓話だのと見下す人々を信用せず、古代人、先人の偉大さ、その真実に気づいていました。
ハッキリ明言しておきますが、ローマ帝国や唐の國、そしてこの頃の大和朝廷の方が国家統治の完成度は現代の国家より高かったのですよ。現代国家の方がボロボロなのです。これほど優れた近代国家を打ち建てたのが、天智や文武の先帝だったのです。
『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より |
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天智天皇の御治蹟 近江の大津に奠都(てんと)―政治に勵(はげ)み給う―戸籍の修正(戸籍を造り 盗賊 浮浪を糺(ただ)す。庚午年籍(こうごねんじゃく)―学校の興起―後世 中興の英主と称し奉る(近江朝廷の政)。 天智天皇と藤原鎌足 律令の撰定 大寶(宝)律令の大要 |
〇大津宮遷都 旧帝都は、今の近江滋賀郡滋賀村にして、天智天皇6年3月 此に遷都し給う。当時、人民 遷都を好まずして、之を諷諫(ふうかん)し奉るものありしが、十年 天皇 此に崩じ給いて、天武天皇の即位に及び、大和の飛鳥 浄見原(きよみがはら)宮(高市郡飛鳥村)に遷都し給えり。 〇庚午年籍 天智天皇の9年2月、新に戸籍を造りて盗賊 浮浪のものを糺斷(ただす)せしめ給う。此の年 庚午の年に当れるを以て、庚午年籍(こうごねんじゃく)と云い、後来 戸籍の原簿として永く除かず、之によりて氏姓の紛乱を正せり。 〇中臣鎌足と多武峯談山神社 中臣氏は天児屋根命(アメノコヤネノミコト・コチラ参照)に出づ。鎌足は御食子(ミケコ)の子にして夙(つと・早くから)に大志あり。皇極(コウギョク)天皇の3年、神祇伯に拝せられしがつかず、此の時に当り、蘇我入鹿父子 無道にして不臣の心を挟む。鎌足 憤然として匡済(きょうさい・悪を正し乱れをすくうこと)の志あり。賢明なる中大兄皇子に親近し奉りて志を語り、共に皇室を輔翼(ほよく)し奉らんとす。されど人の嫌疑を恐れ、共に南淵請安(コチラ参照)に学ぶに托し、往来に事を図る。鎌足 皇子に勸(すす)め奉り、蘇我倉山田石川麿(ソガノクラヤマダノイシカワマロ)と婚を結ばしめて皇子の輔佐とし、また佐伯子麿(サエキノコマロ)等を與黨(よとう・くみする仲間)とす。翌4年6月、三韓進調の日を以て事を挙げ、皇子と共に入鹿を誅す。入鹿の父 蝦夷また自殺して蘇我氏の本宗 此に滅亡す。孝徳天皇 即位に及び、内大臣となりて大織冠を授かる。而して大化改新は、皆 鎌足が中大兄皇子と図りて画策せる所なり。尋(つい)で中大兄皇子(天智天皇)未だ即位し給わるざるに当り、鎌足に命じて律令撰定に着手せしめ給う。天智天皇の2年10月、鎌足 疾あるに及び、天皇 親臨して其の病を訪ひ給い、更に皇大弟 大海人皇子(オホアマノミコ)を遣わして大織冠を授け、且つ内大臣として左右大臣の上位に在らしめ、また藤原朝臣の姓を賜う。此月年56を以て薨ず。其の薨ずるや、摂津三島郡阿威(アヰ)山に葬りしが後、大和磯城郡多武峯に改葬し、廟塔を建てて木造を安置す。後の談山神社 是なり。藤原氏の盛時には、朝野の尊崇(そんすう)甚だ厚く、明治7年朝廷 鎌足の功を追賞して、談山神社を別格 官幣社に列し給えり。 天智天皇は律令の必要を思し召し給い、未だ即位し給わざるに当り、始めて中臣鎌足に命じて之が編纂に着手せしめ給う。かくて天皇即位の年に至りて全22巻成る。之を世に近江朝廷の令と云う。後に天武天皇の修正をへて、持統天皇の3年に全一部22巻の発表せられしもの即ち是なり。 天武天皇の御事蹟 天皇 即位し給いてより、精勵(せいれい・つとめはげむ)治(よい政治が行われること)を図りて朝制・法令等ますます改進し給い、朝儀・官制・兵制・刑罰・風習など大に整理し給えり。即ち親王以下 人民に至るまで服用の差別を定め、跪禮(きれい・地べたにひざまずいて礼をすること)葡匐(ほふく・腹ばいになって手と足ではうこと)の禮(礼)をやめて立禮にふくし、爵位を改めて朝服の色を定め、諸氏の族姓を改めて八色の姓を作り、任官陞(昇)進の法・社寺土地の制を定め、民業を奨めて浮浪の徒を戒め、兵の上を定め、また各戸に兵馬を貯えしめ、軍器を軍役所に収めしめて兵制を改め、其の他 刑罰を整え学術技芸をすすめ給えり。 〇忍壁親王 忍壁を一に刑部(ぎょうぶ)に作る。親王は天智天皇の皇子なり。天武天皇の9年 詔を奉じて帝紀及び上古の事を撰し、朱鳥(しゅちょう)元年 封百戸を加えらる。文武天皇の4年、勅を以て藤原不比等と律令を撰す。後 親王となりて三品に敍(じょ・位を授かる)し、大宝元年 知太政官事(ちだじょうかんじ・太政大臣の職を知る官)となり、慶雲元年 封二百戸を增し、翌年 越前の地 百町を賜わり五月 薨す。 〇藤原不比等 内大臣 鎌足の二子なり。持統・文武・元明・元正の四天皇に仕え、累進して和銅元年 正二位右大臣となり、養老2年 太政大臣に任ぜられしも辞して受けず。文武天皇の4年、勅を奉じて律令を撰し、慶雲元年 封八千戸を增し、同4年 天皇其の勤労を嘉(か)みし封五千戸を賜いて子孫に伝えしめ給う。不比等 其の二千戸を受け一千戸を以て子孫に伝う。養老4年 疾を以て薨ずるや元正天皇 深く悼惜し給い、為に朝を廃し、詔して太政大臣正一位を贈り文忠と諡(し・おくりな)らせ給う。時年62。其の四子 武智麻呂・房前・宇合・麻呂 皆あらわれ一女の宮子媛は文武夫人となり、光明子は聖武皇后となる。 〇大宝律令の説明と我史上重要の所以 大宝律令は主として唐の制度にならい、我が國 古来の習慣を斟酌(しんしゃく)して定めたるものなり。されば大禮に於て朝廷の政治の基本となりて永く用ゐられ、武家政治の起るに及び、其の費用少なくなりしも、管制の如きは名義を存して明治維新に至り、王政復古の管制 之によること多く、明治18年の管制改革にまで及べり。 〇弾正臺(だんじょうだい) 今の警視廳(庁)の如く、風俗を粛清し内外の非違を糾正する役所にして、長官を尹(いん)と云い、其の下に弼(ひつ)・大少忠・大少疏(そ)あり。 〇左右京職と摂津職 左右京職は、京都 左右雨京の民政を掌(つかさど)り、兵士を簡(えら)び、租税を収め、訴訟を聴き武器を修むるなど諸般の事を行う。また摂津職は、職掌 概ね左右京職に同じく、船舶の停る津港地に在るを以て、特に此の職を置かれたれば、郵驛・伝馬を備え、舟具を検する等の事をも掌る。 〇大宰府 府址は今の筑前筑紫郡水城村に在り。此の府は四邊の要鎭にして、西海道九國三島を官し、兼ねて外寇に備え外交の事を掌る。長官を師と云い、其の下に大少貳(弐)・大少監・ 大少典等あり、大宝元年設置の後、天平14年 之を廃し、同17年 之を復せしが、後 次第に衰え、源頼朝 鎭西奉行(ちんぜいぶぎょう)を置きてより有名無実となれり。 〇律令と格式 大宝律令の制定せられてより、此の律令は著しき修正なし。而して律は今の刑法に等しく、令は政治上必要なる種々の規則を網羅せるものなり。若し之が修正増補の必要起る時は、別に詔勅または太政官符等にて之をなす、之を格と云う。また律令を施行するに当りて、必要なる細則は別に之を定む。之を弐と云う。 〇四部官 大宝令にて制定の諸官衛には、概ね長官(かみ)次官(すけ)判官(じょう)主典(さくわん)の四等の官吏あり。之を四部官と云う。長官は各官衛の長にして其の政務をすべ、次官は長官を助け、判官は官衛の取締をなし、主典は書記をつとむ。例えば八省にて長官を卿とし、次官は大少輔とし、判官を大小丞とし、主典を大少錄とし、また弾正臺にて長官を尹とし、次官を弼とし、判官を大少忠とし、主典を大少疏とし、國にて長官を守とし、次官を介とし、判官を大少掾とし、主典を大少目とし、郡にて長官を大領とし、次官を少領とし、判官を主政とし、主典を主帳とするが如し。 〇五衛府 禁衛を掌れる官府を五衛府と云う。五衛府とは衛門府・左右衛士府・左右兵衛府を云う。 〇軍團(団) 非常に備うるため諸國に配置したる軍營(営)にして、今の師団の少なる如きものなり。其の兵士は管内の男子二十歳以上六十歳以下の正丁中、其の三分の一を徴発して一軍団を組織す。概ね四郡に一軍団を置き、各軍団の兵員同一ならず、千人以上を大軍団とし、六百人以上を中軍団とし、五百人以下を小軍団とす。各団兵士を検し武器を具え弓馬を調へ陣列を閲(えつ・見て確かめる)す。而して軍団中より上京して禁中に宿衛するものを衛士と云い、邊防に出づるものを防人(コチラ参照)と云う。 〇口分田 天下一般に各人に等しく給与せる田地を云う。人生れて六歳に至れば一人毎に二段を給し、女には其の三分の二を与え、各力作して租を上に納め、其の餘(余)を己が食料とし、身死すれば公に還へす。故に政府は、六年毎に人民の生死を調査して其の収授を行う。之を班田収授の法(コチラ参照)と云う。此の方法は大宝令の時 制定せられしが、後 暫く実行せられず、承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱(皇紀1595―1601・平将門の乱と瀬戸内海での藤原純友の乱の総称)後に至りて、廃絶するに至る。 |
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