日本の面影

Glimpses of Japan
失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

高貴だった日本女性 ~ 子供の想い出を胸に生きる
阿弥陀寺の比丘尼 小泉八雲『心』より

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(2020.10.27)
【あみだ寺の比丘尼(びくに)】
おとよの夫は、おとよのまたいとこで、たがいに思い思われた中で婿にきた男である。その夫が、領主に呼ばれて京へのぼった時、おとよは、ことさらさきざきのことなど案じもしなかった。おとよは、ただ心ぼそいと思った。が、両親もそばにいることだったし、それに、このことはじぶんではおくびにも出さなかったが、おとよには、生みの親よりもはるかに愛着の深い、小さなせがれがあったのである。のみならず、おとよは、ふだん自分のする用がたくさんある体だった。いろいろ家の切りもりにも当たらなければならなかったし、絹や木綿の機を織る仕事もいっぱいある身だった。
おとよは、日に一度ずつ、いつも決まった時刻に、留守の夫のために、夫がふだん寝起きしていたなじみのふかい部屋へ、きれいな塗りもの膳に手落ちなく整えた、蔭膳をすえた。蔭膳というのは、先祖代々の霊や神棚にそなえる、お供え膳のまねことのようなものである。このかげ膳は、いつも必ず、座敷の東側に供えられた。そして膳の前には、型のように、夫の敷きなれた座ぶとんが敷かれた。膳を東向きにするのは、夫が東の方へ旅立ったからである。おとよは、膳のものを下げる前に、いつも忘れずに、小さな汁椀のふたをとって、そのふたの内側に湯気がたまっているかどうかをあらためて見た。供えた汁椀のふたの内がわに湯気がたまっていれば、旅に出ている人は無事息災だというのである。湯気がたまっていないと、その人は死んでいるのである。つまりそれは、その人のたましいが食べ物を求めに帰ってきたというしるしなのである。おとよは、来る日も来る日も、椀のふたに、湯気のしずくが大きな玉になっているのを見た。
子供は、おとよが常住(じょうじゅう:永遠不変なこと)のよろこびであった。まだやっと三つであったが、この子は、よく神様でなければほんとの答えは御存知ないようなことばかり、好んで聞きたがった。子供が遊びたいといえば、おとよはいつもしかけた仕事の手をおいて、いっしょに相手になって遊んでやった。子供が眠くなると、おとよは、きまっておもしろい話をしてきかせたり、余人にはとてもわからないようなことを尋ねる子供の問いに、いちいち克明に答えてやったりした。夕方になると、仏壇や神棚に、小さなお灯明があがる。すると、おとよは、片言まじりに、子供に父親の無事を祈ることを教えてやるのである。そんなことをしているうちに、やがて、子供が床に寝つく。するとおとよは枕元へ仕事をもってきて、がんぜない子供の寝顔を、いつまでも、いつまでも、見守って飽きないのである。どうかすると、眠っている子供が、夢の中でにっこり笑ったりすることがある。それを見ると、おとよは、これはきっと観音さまが夢の中で、坊やといっしょに遊んでいらっしゃるのだとこころえて、「世上一切の祈願の音声(おんじょう)を常住に観じ給う」あの処女菩薩に向かって、さっそく口の中でお経の文句をとなえるのだった。
春になって、毎日、うち晴れた天気が続くようになると、おとよは、よく子供を負ぶっては、ダケヤマ(嵩山)へ登った。こういう遊山を、子供は大へんよろこんだ。あれは何、これは何と、母親からおもしろい物を見せてもらえるほかに、いろいろのおもしろい物を聞かしてもらうことができたからである。爪先あがりの細い径(こみち)が、藪や森の中を抜けて、だらだらとのぼっていく。ときには、草の生えた斜面を通ったり、そうかと思うと、おもしろい形をした岩の根かたを回ってゆくこともある。そうして、そこにはさまざなの物語をしべの奥にひそめた花だの、木精(こだま)を宿した大きな木だのがあった。山鳩がクルー、クルーと鳴いているかと思うと、土鳩がオワォ、オワォと悲しそうな声で鳴いていたり、蝉が、ミンミン、ジージー、カナカナ鳴いていたりした。

(略)

こうした参詣の日に、おとよと子供が家に帰りつくのは、いつもたいてい、夕闇が静かにあたりを立ちこめる頃であった。道のりもかなりあったし、それに往きも帰りも、町をかこむ渺々(びょうびょう)とした水田を小舟で渡らなければならなかったので、ずいぶんお練りの道中であった。そんなわけで、どうかすると帰りみちには、星かげや蛍火がふたりを照らすこともあったし、ときには月さえのぼることがあったりした。そんなとき、おとよはいつもしずかな声で、お月さまを歌った出雲の国のわらべ歌を、子供にうたって聞かせるのだった。

ののさん(あるいは、お月さん)いくつ
十三 ここのつ
それはまだ 若いよ
わかいも 道理
赤い色の 帯と
白い色の 帯と
腰にしゃんと 結んで
馬にやる いやいや
牛にやる いやいや

すると、あたりがとっぷりと水いろの夜に暮れきるまで、幾里も幾里も果てしなくつづく、一面の水田から、しずかに泡立つような蛙の合唱がわきおこってくる。まるでそれは、大地の底からわきおこるような一大合唱であった。おとよは、蛙のことばを、いつも子供に言ってきかせるのだった。――「ほらね、メカユイ、メカユイ。――目がかゆいよ、ねむくなったよって、蛙が鳴いてるだろ。」
そうして、こうしているうちは、なにもかもがほんとに楽しい時であった。

やがて、そうこうしているうちに、わずか三日のあいだに、永遠の神秘に属する生と死とをつかさどる神の摂理が、つづけざまに二度までも、おとよの心を打ちのめしたのである。まず最初に、おとよは、自分があんなにいくどとなく無事を祈ったやさしい夫が、とうとう不帰の客となった――この世の借りものである一切の形骸から、もとの塵にかえってしまったことを知らされたのである。それからまもない二度目の時には、おとよは、自分の子供が、漢方医の手でも醒ますことのできない、深い眠りについたことを知らされたのである。おとよがこれらの出来事をさとったのは、一閃(いっせん)、キラリとひらめく稲妻の光の中で、物の形をパッとさとったのと同じであった。そして、この二つの稲妻の閃(ひらめ)きと閃きの間も、それからその先も、ともにいっさいは神の慈悲なる絶対無明の闇であった。
やがて、その闇もいつとなしに去ってしまうと、ようやくのことで起き上がったおとよは、こんどは、「おもいで」という百年の仇敵に行きあった。この仇敵以外のものの前では、おとよは、あいかわらず依然と同じように、いつもにこやかな、愛くるしい顔をしていられたのである。けれども、この「おもいで」という客と差し向かいになると、おとよは、つくづく自分の無力を感じた。おとよは、よく畳の上に小さなおもちゃを並べてみたり、小さな着物を広げてみたりして、じっとそれを打ち眺めては、小声でなにか話しかけたり、物も言わずにひとりでにたにた笑ったりした。けれども、その微笑は、いつもかならずその果ては、激しいむせび泣きに終わるのが常だった。そうして、畳に頭をすりつけては、たわいもない問いを神仏にかけるのが癖のようになった。

(略)

こうして、春は去り秋は来たり、いくどかの季節が去っては来たりして、やがておとよの父親は、娘にもういちど婿を迎えてやろうと思い立った。そして、母親にいった。
「うちの娘にも、あれでもういちどせがれでもできたら、あれにとっても大きな喜び、わしらにとっても大喜びだがのう。」
ところが、物のわかった母親は、それに答えていった。――
「あの娘は、けっこうあれでしあわせでいますよ。再縁するなんて、とてもあの娘には思いもよりません。この節じゃ、すっかりもう、苦労も罪もなんにも知らない、ほんのねんねえになってしまいましたもの。」
おとよが、真の心の痛みを覚えぬようになったことは、事実だった。ところが、だいぶ前からおとよは、どんな品にかぎらず、きわめて小さなものに、ふしぎな嗜好を見せはじめていた。最初はまず、自分のふだん寝起きする蒲団が、どうもこれでは大きすぎると言いだしたのである。おそらくこれは、添い寝する子を亡くしたあとの、空虚な感じからいうのであったろうが、そのうちに、だんだん日がたつにつれて、他の品でも、何によらず大きすぎるように思われてきだしたのである。げんに、住んでいる家からしてがそれで、長年住みなれた座敷やら、見慣れた床の間やら、床の間にある大きな花瓶やら、――しまいには、日常つかう膳椀のような什器までが、大きすぎるように思われてきた。飯をたべるにも、おとよは子供の用いるような、ごくちいぽけな椀から、お雛さまのような箸で食べたがった。
こうしたことにも、おとよは、家では親たちから慈愛ふかく、なにごとも気まかせにされていた。そうして、ほかのことにはかくべつ変った選り好みはなかったのである。そんなわけで、年とった親たちは、暇さえあれば、しじゅう娘のことで、折につけては談合した。とうとうしまいに、父親がこんなことを言いだした。
「うちのおとよも、あの分じゃ、いまさら見ず知らずの赤の他人といっしょに暮らすのも辛かろう。といって、わたしたちももう寄る年なみだ。おっつけ、あれを跡にのこしてゆくことは知れている。まあ、あれひとりで身すぎとでもいうことになれば、まず尼さんにでもするよりほかに、道はあるまいぞ。どうだな、ひとつあれのために、小さな堂でも建ててやることにしては。」
そのあくる日、母親は、おとよに尋ねてみた。――
「おまえね、尼さんになるのは、おいやかい? 尼さんになって、小さな須弥檀(しゅみだん)だの、小さなご本尊さまをお供えしてさ、ごくもうちんまりとしたお堂で、おまえ、暮らす気はないかい? お父っあんやおっ母さんも、しじゅうそばにいてあげるんだよ。おまえがもしその気がおありなら、お坊さんにお願いして、おまえにお経をおしえていただくようにするけどねえ。」
おとよは、それを希望した。そして、ごく小さな尼の法衣を一枚こしらえてくれ、といって頼んだ。けれども、母親はいった。――
「そりゃおまえ、ほかの物なら、なんでも小さくしてこしらえて上げられるけれど、法衣だけはだめだよ。尼さんというものはね、大きな法衣を着なければいけないものなんだよ。お釈迦さまが、そうおきめになったんだからね。」
そういわれて、おとよはようやくのことで、よその尼さんたちと同じ法衣を着ることを承知したのである。

やがて、両親はおとよのために、むかしあみだ寺という大きな寺のあった境内に、一宇の小さな庵寺を建立した。そして、この庵寺も、おなじようにあみだ寺と呼び、名のごとく、あみだ如来を本尊に安置し、ほかの諸仏も勧進した。堂には、ごく小さな須弥檀に、おもちゃのような仏具をそなえた。ちいさな経机に、ちいさな経本、小さな衝立、ちいさな鐘、小さな掛け物などが、そこに並べられた。そして、おとよは、両親のみかまったのちも、この庵寺でながく暮らした。ところの人たちは、おとよのことを、あみだ寺の比丘尼と呼んだ。
おとよは、毎日、朝の托鉢(たくはつ)をすませてしまうと、小さな機台の前に坐るのがならわしであった。けれども、おとよの織る手織りの布は、とても満足な用には立たないような、織り幅の狭いものであった。それでも、おとよが織った手織り地は、彼女の身の上を知っている幾軒かの商店主が、きまって買いとって行った。そういう商店主たちは、おとよに、ごく小さな茶わんだの、小さな花瓶だの、庭におく枝ぶりの変った盆栽などを贈り物にした。
このおとよが、一ばんおおきな楽しみにしていたことは、子供たちと仲よしになることだった。それには、おとよはいつも事欠かなかった。いったい、日本の子供の生活というものは、たいていはお寺の境内で過ごされるもので、このあみだ寺の境内でも、ずいぶん多くの楽しい幼少年時代が過ごされたものである。おなじ町内の母親たちは、みんなこの寺の境内で、自分たちの子供を遊ばせることを好んだ。そのかわり、比丘尼さんのことを決して馬鹿にしてはいけないよと、子供たちにくれぐれもよく注意してやった。母親たちは、よく言い言いした。「どうかするとね、妙なまねをなさるようなことがあるかもしれないけれど、それは前に一度、あの比丘尼さんは、ご自分にかわいい坊ちゃんがおありになったのを、お亡くしになったもんだから、その辛さが、お母さんとして胸いっぱいにおありになるんだからね。だから、おまえたちも、比丘尼さんには、ようくおとなしくして、失礼のないようにしなくちゃいけないよ。」
子供たちは、みなおとなしかったけれども、相手を敬うという意味では、あんまり礼を欠かない方だとはいえなかった。固苦しい行儀を守るよりも、子供たちは、万事よろしきようにやることをこころえていた。それでもかんしんに、おとよのことを「比丘尼さん、比丘尼さん」と呼んでは、ていねいにお辞儀だけはするのだが、それはその時こっきりで、そうでない時は、自分たちと同じ仲間並みにあつかった。そして、一緒に仲間に入れては、いろんな遊びをするのだったが、おとよの方では、子供たちに小さな茶わんでお茶を出したり、豆粒ぐらいな餅を山とこしらえてやったり、そうかと思うと、子供たちの人形の着物に、木綿や絹の布地を、わざわざ織ってやったりした。そんなわけで、おとよは子供たちにとって、肉親の姉のようになった。
ところで、そうやって毎日のように、おとよと一緒に遊んでいた子供たちも、いつのまにか、おとよと昔のように遊ぶには、もうすっかり成人した大人になってしまい、あみだ寺の境内を去って、それぞれ世の中の辛い仕事にたずさわるようになり、やがて父となり母となって、こんどは自分たちの子供を代りに遊びによこすようになった。そして、そういう子供たちも、親たちがしたと同じように、みんな比丘尼さんのことを好くようになった。こんなふうにして、あみだ寺の比丘尼は、このお寺が建てられた時分のことをおぼえている人たちの、子供や、孫や、曾孫たちといっしょに遊ぶまで、長生きをしたのである。
近所の人たちも、おとよが不自由な思いをしないようにと、何かにつけてよく目をかけてくれた。そんなわけで、おとよのところには、いつでもおとよが自分一人で事足りる以上の、余分な喜捨があった。したがって、おとよはそれらの子供たちに、なんとか思うままの親切をつくしてやることができたし、犬・猫のような動物などにも、ありあまるほどの餌をやることができた。小鳥たちは、お堂の中に巣をつくって、おとよの手から餌をついばんだ。おとよは、そういう小鳥たちに、仏さまの頭などに止まってはいけませんよ、といって教えた。

おとよの葬式がすんでから、幾日か経った後のことである。ある日、わたくしの家へ大ぜいの子供たちが、打ちそろって訪ねてきた。九つばかりの女の子が、みんなに代って、次のように述べた。
「おじさん、わたいたち、お亡くなりになった比丘尼さんのことで、お願いがあってきたんやで。比丘尼さんのお墓に、大へん大きなお石塔が立ったの。とても立派なお墓やわ。でも、わたいたちも、みんなして、ごく小さな小さなお墓をひとつ立ててあげたいと思うんです。比丘尼さんがまだ生きてござった時分に、お墓ならごく小さなお墓が好きやて、よくいうてござったでね。で、石屋さんに聞いたら、お金さえ出せばこしらえたる、いいのをこしらえたる、いうんです。そげすて、おじさん、おじさんもいくらか出してごすなさいな。」
「ああ、出しますとも」とわたくしは言った。「でも、あんたがた、これから、遊ぶところがなくなってしまったでしょう。」
すると、女の子は、にこにこ笑いながら、答えた。
「いいえ、わたいたち、やっぱりあみだ寺の御境内で遊ぶわ。比丘尼さんは、あすこに埋められてござるでね。きっと、わたくしたちの遊んでいるのを聞いて、喜んでごしなさるわ」

◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆

ずっと前から載せたいと思っていた、私がとても心をつき動かされたエピソード。何度か紹介していますが、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『東の国から・心』(恒文社)より(詳しくは右画像クリック)。

昔は独身となった女性は出家して尼になる人も多かったわけですが、今はその選択肢さえ難しくなりました。こんな時代でも、実際に尼になれたような人はある意味、恵まれてるように思えます。

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『日本書紀』より、「(古代朝鮮半島の日本府)任那滅亡」

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(2020.10.9)
今の歴史学者と呼ばれてる連中は、明らかに学者というより、歴史屋にすぎません。
政治家が、金儲けのため商売で政治を利用する、政治屋になってしまったのと同じです。
私は解説本なんかより、出来るだけ原本を読むようにしてます。それはたとえば武士道とかにしろ、ガイドブックを読んだら知った風な気持ちになるでしょうが、原本(といっても邦訳ですが)を読むとかなり違っていることも多いからです。だからここの皆さんにも、それなりに知識を持たれている方は、出来るだけ原本から入っていった方がいいように感じます。原本さえ読めば他を読む必要もありません。原本といっても原文で書かれているものでなく、現代語に訳されているものでかまいません(ただ最近は古典や外国本の訳書もかなりひどいものが多いので注意が必要)。昔の古典はさすがに原文では普通の人にはしんどいでしょうから。それでも、ここで紹介している『和俗童子訓』とかは原文でも現代日本人が十分理解できるほど平易ですよ。
日本書紀についても、全部読むのはさすがに大変ですが、関心ある部分については、現代語訳を読んでおいた方がいいです。

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(2013.7.4)   (戻る)
『日本書紀』(720年)は、日本最古の正式な歴史書(詳しくは右画像クリック)。
これには、倭の官家(みやけ)が治める古代朝鮮半島南部の任那や百済はじめ、新羅や高句麗などとの激しい攻防の記録が、実に生々しく記載されてます。

以下は『日本書紀』の任那(みまな)についての記述から。
新羅の侵攻により、徐々に倭国は朝鮮半島内の勢力圏を失っていきます。きっとこれを読めば、当時の朝鮮半島に支配域を持っていた古代日本人、天皇陛下らの無念の思いが痛いほど伝わってくることでしょう。
古代日本と朝鮮半島の関係、民族の根幹に関わる、これだけ詳細な史実を教えないどころか、デタラメの捏造朝鮮史観を教えている日本の学校教育は狂ってます。朝鮮スリ寄り歴史学者らは万死に値します。
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【聖明王 任那復興の協議】
百済の聖明王は任那の早岐(かんき)らに語って、
「日本の天皇(すめらみこと)の意志は、もっぱら任那の回復を図りたいということである。どんな策によって任那を再建できるだろうか。皆が忠を尽くして御心を安じようではないか」といった。
任那の早岐らが答えて、「先に再三新羅とは話し合いましたが、まだ返事もありません。また相談したことを新羅に告げても、回答することもないでしょう。今皆で使いを遣わして、天皇に申しあげましょう。任那を復興しようということの大王(聖明王)のお考えに異議はございません。しかし任那は新羅に国境を接していますので、恐れることは卓淳(とくじゅん)らと同じ滅亡の運命にさらされないかということです」

・・・(聖明王は)「昔、新羅は高麗(当時の高句麗のこと)に助けを乞い、任那と百済を攻めたけれども、勝てなかった。新羅がどうして独力で任那を亡ぼすことができようか。今自分がお前たちと力と心をあわせ、天皇の威力に頼れば、任那はきっと復興できる」といった。

【新羅謀略の戒め】
聖明王は任那に対して、
「世の中でもあとをつぐ者は、父祖の業を担って、それを盛んにし、功績を成し遂げることを尊ぶ。だから今からでも、先祖の図った親交を尊重し、天皇の詔勅に従って、新羅が掠めとった国、南加羅・喙己呑(とくことん)らを奪いかえし、もとの任那に返し、日本を父とも兄とも立てて永く仕えようと考えている。これこそ自分が物を食べても旨からず、寝ても安からぬ程の気掛りである。過ちを悔い今後を戒め、気を配って行こう。新羅が甘言を用いて策略することは、天下周知である。うっかり信用して、すでに計略にはまっていた。

任那の国境は新羅に接しているから、警戒をおろそかにはできない。計略にはまれば、国を失い家を亡ぼし身は虜となる。自分はこれが心配で安心できない。聞くところでは任那と新羅が策を決定する際も、(新羅は)土壇場で蜂や大蛇のような本性を表すと、世の人はいう。
禍いの兆しは、人々の行動を戒めるために現れるのである。天災は人々にその非を知らせる。天の戒めはまさに先祖の霊の知らせである。禍に遭ってから悔い、亡んでから興そうと思っても及ばない。今われと共に天皇の勅を承って任那を立てよう。

・・・誠心を尽して任那を栄えさせたい。天皇に仕えることは昔のように、今後のことを充分配慮し、はじめて安泰がある。
今、日本府が詔のまま任那を救えば、天皇からもほめられ賞禄もあろう。日本の諸卿は長く任那の国に在って、新羅に交わり、新羅の実状はご存知である。任那を侵し、日本の力をはばもうとするのは久しいもので、今年のみではない。だがあえて新羅が動いていないのは、近くは百済を警戒し、遠くは天皇を恐れてである。朝廷を巧みにあやつり、偽って任那と親しくしている。新羅が任那の日本府に取入っているのは、まだ任那を取れないから、偽装しているのである。今その隙間をうかがい兵をあげ討ちとるのがよい。天皇が南加羅・喙己呑を建てよと勧められることは、近年のことだけではない。新羅がその命に従わぬことは、卿らもよく知っている。天皇の詔を承って、任那をたてるためにこのままでよいことはない。卿らが甘言を信じて偽りにのせられ、任那国を亡ぼし、天皇を辱めたてまつることのないよう充分慎んで欺かれないように」
といった。

【日本への救援要請】
五月八日(552年)、百済・加羅・安羅は、中部徳率木刕今敦(ちゅうほうとくそつもくらこんとん)・河内部安斯比多(こうちべのあしひた)らを遣わして奏上し、「高麗(高句麗のこと)と新羅と連合して、臣の国と任那とを滅ぼそうと謀っています。救援軍を受けて不意を突きたいと思います。軍兵の多少についてはお任せします」といった。
(天皇は)詔して、「今、百済の王、安羅の王、加羅の王、日本府の臣らと共に使いを遣わして、申してきたことは聞き入れた。また任那と共に心を合わせ、力を専らにせよ。そうすれば、きっと上天(あめ)の擁護の福を蒙り、天皇の霊威にあずかれるであろう」といわれた。

【任那の滅亡】
二十三年(562年)春一月、新羅は任那の官家(みやけ)を打ち滅ぼした。総括して任那というが、分けると加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞きん国(こっきん)、稔礼国(にむれ)の合わせて十国である。

夏六月、(天皇は)詔して、
新羅は西に偏した少し卑しい国である。天(きみ)に逆らい無道で、わが恩義に背き、官家をつぶした。わが人民を傷つけ、国郡(くにこおり)を損った。
神功皇后は、聡明で天下を周行され、人民をいたわりよく養われた。新羅が困って頼ってきたのを哀れんで、新羅王の討たれそうになった首を守り、要害の地を授けられ、新羅を並み外れて栄えるようひきたてられた。神功皇后は新羅に薄い待遇をされたろうか。わが国民も新羅に別に怨があるわけでない。しかるに新羅は長戟(ながきほこ)、強弩(つよきゆみ)で任那を攻め、大きな牙、まがった爪で人民を虐げた。肝を割き足を切り、骨を曝し屍を焚き、それでも何とも思わなかった。

任那は上下共々、完全に料理された。王土の下、王臣として人の粟を食べ、人の水を飲みながら、これをもれ聞いてどうして悼まないことがあろうか。太子・大臣らは助け合って、血に泣き怨をしのぶ間柄である。大臣の地位にあれば、その身を苦しめ苦労するものであり、先の帝の徳をうけて、後の世を継いだら、胆や腸を抜きしたたらせる思いをしても奸逆をこらし、天地の苦痛を鎮め、君父の仇を報いることが出来なかったら、死んでも子としての道を尽くせなかったことを恨むことになろう」
といわれた。

【伊企儺(いきな)の妻 大葉子】
捕虜にされた調吉士伊企儺(つきのきしいきな)は、人となりが猛烈で最後まで降伏しなかった。
新羅の闘将は、刀を抜いて斬ろうとした。ムリに褌(はかま)をぬがせて、尻を丸出しにし、日本の方へ向けさせて大声で、「日本の大将、わが尻を喰らえ」と言わせようとした。すると(伊企儺は)叫んで言った。「新羅の王、わが尻を喰え」と。責めさいなまれても前の如く叫んだ。そして殺された。
その子の舅子(おじこ)も、また父の屍を抱いて死んだ。伊企儺の言葉を奪えぬことこのようであった。諸将もこれを惜しんだ。

その妻の大葉子も、また捕虜にされていたが、悲しみ歌って、

「からくにの きのへにたちて おほばこは ひれふらすも やまとへむきて」
韓国の城の上に立って大葉子は、領巾(ひれ。肩にかけた飾りの白布。これを振るのは惜別の行為)を振ろう。日本の方へ向って。

ある人がこれに和して歌った。

「からくにの きのへにたたし おほばこは ひれふらすみゆ なにはへむきて」
韓国の城の上に立って大葉子は、領巾を振っておられるのが見える。難波の方へ向いて。
伊企儺について詳しくはコチラもご参照を


夏四月十五日(571年)、(欽明)天皇は病に伏せられた・皇太子は他に赴いて不在であったので、駅馬を走らせて呼び寄せた。大殿に引き入れて、その手をとり詔して、「自分は重病である。後のことをお前にゆだねる。お前は新羅を討って、任那を封じ建てよ。またかつてのごとく両者相和する仲となるならば、死んでも思い残すことはない」といわれた。
この月、天皇はついに大殿に崩御された。時に年(みとし)若干。
五月、河内国古市に殯(もがり)した。
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この通り、欽明天皇は最後まで任那復興を夢見ながら亡くなられます(百済の聖明王は554年に戦死)。
任那十国は、天皇を奉る藩のようなものだったといえましょう。
日本書紀には任那、当時の朝鮮半島の情勢が詳細に記述されており、上記は一部引用にすぎません。
任那(日本府)滅亡後も、日本は百済を拠点に朝鮮半島内における勢力圏を持ち続けますが、白村江の戦い(663年)で倭・百済連合軍と唐・新羅連合軍が対決、日本(倭国)は敗北し百済も滅亡。それにより日本は朝鮮半島内における覇権を完全に失ってしまいました。

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◆朝鮮人は、朝鮮半島に住んでいた古代日本人を蹂躙した侵略者!

(戻る)◆古代日本史における朝鮮半島の倭国領を歴史から取り返さなければならない! ~ 朝鮮に文化をもたらし、古代朝鮮半島南部を支配した倭人

◆こないだまで、古代日本は朝鮮半島南部を支配していたと教えられていたのに ~ 日本府 任那を消し去った売国奴学者列伝 実は朝鮮人か!?

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑦ 朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

◆神棚と天照大神について ~ 日本神話 “アマノイワト”伝説の美しい絵本から

◆イザナギとイザナミに見る、日本における男女のあり方 ~ 日本神話を題材に

◆日本神話の絵本について ~ 子供たちに日本と天皇へ愛着を持たせましょう

◆失われた日本人の精神性と天皇の祈り① ~ 信仰とは信条を持つこと。神を信じる否かは関係ない ~ 母と子が父の無事を祈る『里の秋』

◆性善説的な視点に立った教育勅語、「修身」道徳教育の補完としては、「毒をもって毒を制す」のマキアベリズムこそ最適

◆日本の童謡の世界は比類ない最高のもの ~ それと子供には神話絵本も!

◆日本が好きな親なら子供には教育勅語! ~ 小学生以上なら暗唱できるよう覚えさせてみませんか?

◆日本神話が題材のスペクタクル巨編 映画 『 日本誕生 』について

◆天照大神が女神だからと女系天皇を主張するノーナシ左翼を一網打尽に論破、撃沈さす! ~ 男系継承を堅持したアマテラスとスサノオの子供たち

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消し去られる朝鮮半島の日本府 任那
~ 子供を日本人でなく地球人に育てる驚愕の社会科教科書

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(2011.6.6)
ちなみにNTTドコモがイメキャラ使用する韓国アイドル KARA(から)の名前の由来ですが、これは加羅(から)から来ています。

かつて古代日本は朝鮮半島を領有し、その地域は任那(みまな)と呼ばれていました。日本が朝鮮半島を領有していた事実は、日本書紀はもちろん三国志などにも記録されています。
このことは1980年代まで日本の学校でも定説として教えられていたのですが、古代 朝鮮半島に日本領などなかったとする朝鮮捏造史観の押し付け教育が始まって以後、教えられなくなってしまってます。なので今の30代以下の殆どの方が、この歴史的事実を知りません。

古代の朝鮮半島に日本領なんてなく、まとまってない地域があっただけというのが朝鮮側の歴史観であり、その地域のことを捏造 朝鮮史観では加羅(から)や伽耶(かや)と呼んでいます。
つまり、KARA=加羅とは、かつての日本領 任那と呼ばれる地域の、朝鮮半島に日本領なんてなかったとする韓国側の呼称
奴らが日本へ強力にプッシュする、朝鮮アイドル KARAのネーミングには、このように極めて政治的、朝鮮捏造史観を日本に定着させる教育上の狙いなど、深い意味があります。

日本では今後、朝鮮半島を任那半島とでも呼んでいったほうがいいですね。
加えてオホーツク海は北日本海、東シナ海は南日本海、いっそのこと太平洋も東日本海とでも呼んでいいくらいでしょう ^^)
次はこちらから、MIMANA=みまな(任那)というアイドルでも送り込みましょっか。

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(戻る)  (2011.5.16)
このところ古代日本が朝鮮半島を領有していた事実を強くPRしてますが、そんな昔のことなんて、どうだってよさそうに言ってくる人が多いのに、案の定という感を覚えます。
恐らく、古代日本が朝鮮半島に領有していた任那にこれほど触れたサイトは他の保守系サイトにはなかったよう思うし、偽装右翼にとって、この話はとっても痛いはずだからです。もちろん朝鮮系エセ右翼のみならず、今では正確な古代日本史が教えられていない日本人も非常に増え、ことの重要性もわからない多くの天然工作員が生まれてしまっている模様。

そもそも古代日本のルーツを侵されることは、日本民族の存立に関わってきます。わかる人にはわかるでしょうが、このことは枝葉末節的な南京大虐殺や従軍慰安婦等の戦争責任問題等より遥かに重要であり、奴らは古代日本と朝鮮半島の歴史、つまり日本のルーツを壊すことに最大限、力を注いでいます。
そして日本のルーツを奪われるということは、ズバリ、天皇を奪われることにも直結します。奴らは天皇まで狙っているんです。

いくら日本国内で「朝鮮人は最低だ!」とか騒いでも、それだけでは国際的に見ても何の効力もありません。
しかし、古代日本が朝鮮半島を領有していた事実を強くアピールし、このことが日本及び世界に向けて再度広まることは、現代日本における歴史教育はもちろん、国際的に見ても、いろんな意味で日本の正当性を主張することにつながり、奴ら朝鮮人の捏造史観も完全に論破できるようなります。

このところ任那に関する記事を書き続けて、古代日本が朝鮮半島を領有していた事実を教えられていない、知らない方が如何に多いか、あらためてよくわかりました。しかし20数年前まで、このことは定説として教えられていたんです。ここに無関心でいることは、完全に奴らへの敗北につながります。

これらのことから、奴らが歴史教育で本当に目をつけられたくないところ、古代日本史の重要性が見えてきました。
変な風にやたら日本はスゴイとか騒いでる偽装右翼の目的が、何となくわかってきたのです。それだけでは日本人がマスターベーション的にやってるだけで、奴らにとっては痛くも痒くもありません。子供たちへの教育にも関係なく、これでは今の子供たちに対して何もやってないに等しいです。
しかし、朝鮮半島に日本府 任那があった歴史に触れられると、奴らにとっても対岸の火事では済みません。子供たちの教科書にだって大きく関わってきます。
このことに気づいたのは、実は私もつい最近です。

日本府 任那を日本史に取り返さないとマジやばいよ!
すべては朝鮮由来!? 教科書での“渡来人=朝鮮人”マンセーも深刻!

韓国で初めて万博が開催された時(大田EXPO1993)、私は初めて韓国へ取材で行きました。その時は、あるイベントで知り合った韓国人の紹介で、梨花女子大という日本のお茶の水女子大のような韓国の名門大学の日本語を専攻していた学生を、経費も安くなりそうに思って通訳スタッフとして採用しました。もちろん当時の私は今のような嫌韓的感情は持ってなかったし、日本人を嫌ってる韓国人がこれほど多いことなんて知りませんでした。ソウルのカラオケパブで私は日本語の歌を堂々と歌ってきましたが、普通の韓国人が日本人に持つ感情を知っていたなら、そんなこと恐らくしなかったでしょう。

通訳の卵だった学生の彼女に、私が朝鮮半島で古代日本が領有していた任那の話に触れた時、彼女が言うには韓国ではそういう風に教えられておらず、伽耶(かや)と呼ばれる当時はまだまとまっていない地域があっただけと教えられてると言われました。
私が“伽耶(かや)”という名称を初めて聞いたのはその時です。“伽耶(かや)”は今の日本では加羅として教えられ、韓国どころか今や日本の学校教育でも日本府 任那とは教えられていません。
しかし伽耶とは、あくまで現代の韓国人が名づけた名称であり、考古学上の文献に“加耶”という文字は一切出てきません。
朝鮮半島内の一部地域が当時の日本 倭国の一部(任那)であったことは、日本書紀はもちろん、中国の三国志にも記載されてます。

Tatsuyaさんが、中学生のお子さんの社会の教科書を調べてくださいました。
以下は現代日本の教科書からの引用。

新編 新しい社会 歴史 (東京書籍) より
(日本の中学校の半分は、東京書籍の歴史教科書を採用しています)

【古代までの日本】
1 文明のおこりと日本の成り立ち
大王の時代  中国・朝鮮との交流
大和政権は、百済や、小国が分立していた加羅(任那)地方の国々と結んで、高句麗や新羅と戦いました。

この通り、日本が領有していた日本府 任那を教えないどころか、さらに史実と逆に、日本が新羅らを攻撃して脅かしたような記述になってます。実際は古代日本人が住んでいた地域を唐・新羅連合軍に滅ぼされてます

次に渡来人についての記述。

【大陸文化を伝えた渡来人】
朝鮮の諸国との交流がさかんになると、朝鮮半島から日本列島に、一族でまとまって移り住む人々が増えました。
こうした渡来人は、鉄製の農具を広め、かんがい用の大きなため池をつくる技術のほか、かたい質の土器(須恵器)や高級な絹織物をつくる技術を伝えました。
渡来人はまた、漢字を伝えて、朝廷の記録や外国への手紙の作成にあたるなど、財政や
政治でも活躍しました。
漢字とともに、儒教の書物も伝えられました。
6世紀半ばに仏教を日本に伝えたのも渡来人でした。

この通り「渡来人マンセー!」、まるですべてが朝鮮人から伝わったように、完全に朝鮮人を褒め称えてます。
既に韓国では、古代において韓国人が日本本土に渡っていくつかの地域を支配したとまで教えられてます。いずれ日本でも、朝鮮人が海を渡って天皇となり、日本を支配したと表立って言われだすでしょう。日本の朝鮮系右翼は今でもそう信じてますし。

そして、最後に「現代の日本と世界」についての記述。

第7章 現代の日本と世界  2 国際社会と日本  これからの日本と世界
【世界の一体化と日本の役割】
世界の一体化が進むなかで、日本がどのように生きていくのか、これが21世紀の大きな課題となっています。
日本国民として、同時に国際社会に生きる人間(地球市民)として、よりよい社会づくりを考えていきましょう。

この通り、今の教科書は完全に、子供たちを日本人でなく “地球市民 = 地球人” に洗脳するためのツールと化してます。

今の日本の歴史教育が如何にひどいものであるか、よくおわかりでしょう。小さな頃からこんな風に教わってきた私より下の世代では何の違和感も持たないでしょうが、私から上の方々だと、違和感どころか大変驚かれるはずです。
近代の自虐史観からの脱却も大切ではありますが、それより最重視すべきはルーツとなる古代日本史です。正しい日本人の歴史を取り返さなければなりません。それと、“子供の地球人化”を防がなければなりません。
お子さんお孫さんをお持ちの方は、至急、子供の教科書をチェックして、歴史観を修正させましょう。子供の教育は親がするしかないんです。   (続く)

これら歪んだ朝鮮史観のプロパガンダを図っていたのが朝日新聞であったこと、さらには古代の朝鮮半島内に倭国(日本)が支配していた地域があったことを示す、日本にしかない前方後円墳や日本原産でしかないヒスイが半島内の遺跡から出土していることも、ここに詳しく書いてます。

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(続き)◆未来の歴史教科書より ~ ルーツを守らない日本人の未来

(戻る)◆朝鮮人は、朝鮮半島に住んでいた古代日本人を蹂躙した侵略者!

(始めから)◆竹島を武力行使で即奪回せよ! そして、まずは容易に取り返せる古代における朝鮮半島の日本府“任那”を日本史上に奪還し、日本人に再教育せよ! ~ 韓土の日本領も奪回! 朝鮮半島にある前方後円墳

◆韓国アイドル KARA のギュリが、「福山雅治に惚れさせたい!」とラブ・コール

◆『昔の日本はアメリカと同じくらい広かった!』~ 日本人としての自信を持たせた祖母の言葉

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑤ 朝鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

◆排外デモで逮捕者が出たっていうけど ~ 日本が韓国へ謝罪、日韓慰安婦合意・安倍政権糾弾デモに行ってきました!

◆“地球” “平和” “命” に注意! ~ 左翼に乗っ取られる保守系団体の典型例

◆『ぐりとぐら』 『こどものとも』の児童書 福音館は反日出版社 ~ 天皇を貶め、自虐史観に満ちた子供向け絵本

◆今の宮崎駿/ジブリ作品は本当に日本のアニメなのか!?~ ディズニーだって、創価の配下?

◆日本人で韓国好きが62%!・・・って ~ NHKの偏向報道どうすればいい?

◆反日マスコミの本丸は電通!~メディアをウラで操る電通を攻撃すべし

◆反日企業の雄 ヤフー、ソフトバンクの正体 ~ 男をイヌに仕立て貶める!

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ヒトラーが画家を目指していた頃、ナチス台頭期のドイツに行ってみよう
~ 帝政崩壊とルール占領、ハイパーインフレ

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(2015.02.10)

第一次世界大戦敗戦後の、今の世界の通説では極悪国家だったとされているナチス ドイツですが、実際のところ、ナチスが台頭する前のドイツとはどんな風だったのでしょう。

強国だったドイツ帝国もオーストリア帝国もオスマン=トルコ帝国も、敗戦国はすべて第一次世界大戦で滅び、領土の多くを失い、皇位も廃絶、共和国としてスタートすることになりました。加えて有名なロシア革命も起きます。
ドイツは払えるはずもない巨額の賠償金をフランス等宛に支払うようヴェルサイユ条約で命じられましたが、支払いが滞り、フランスは「賠償金を支払わないならルール地域をよこせ!」と、ドイツの工業生産の中心たるルール地方へベルギーと共に侵攻、占領するという暴挙に出ます。あのフランスがですよ。こんなこと学校の世界史では習っていませんよね? そしてそのフランスには、莫大な戦費を英米から借りていたため、ドイツに返してもらったカネを英米に返さなければならない事情もありました。要するに、とどのつまりの債権者は英米だったのです。
フランスがルール工業地帯を占領すると、ストライキの多発などで状況はいっそう悪化、ドイツは賠償金を支払どころではなくなり、ドイツ経済は大混乱、通貨増刷でハイパーインフレに陥ってしまいました。

これから日本はインフレ目指していくということで、公務員を除く庶民にはツライ未来になりそうな感じもありますが……
ちなみに当時この頃のドイツの激しいインフレの状況が、前にコチラでも紹介した、ドイツ留学中だった鈴木鎮一氏の著作に克明に記されています。

『愛に生きる~才能は生まれつきではない』(1966)より
(詳しくは右画像クリック)
『わたしが留学していた第一次世界大戦後のドイツは、やがてヒトラーが出なければならないような、あの大戦争が起こらなければどうしようもないような、恐ろしいインフレと、それに伴う悪質な内外人の跳梁がありました。たとえば、わたしのような一学生をつかまえてさえ、
「五階建ての大きなビルが売りに出ている。一万円も出せば手にはいりますがどうです」
という話を持ちこむ者もいたほどです。わたしは、金儲けに来ているのではない、といってそれを拒否しましたが、それでも、ドイツの老婦人から頼まれて、名器グァルネリウスを、わずか二千円で手に入れるということが起こりました。
ひとは運がよかったとうらやむでしょう。しかし、それは決していいことではなかった。思うに、いつの時代においても、不当の利のあるところには、ひとは知らずして何らかの禍根をつくるのです。

・・・1920年(大正9年)の10月27日です。わたしは23歳になっていました。
すでに書いたように、ときのドイツは恐ろしいインフレで、ほとんどお金を使わないですむありさまでした。日本の十円が六百マルクから始まり、やがて百億、千億マルクに変化していったのです。わたしは予定の一年間をいつか忘れてしまい、むろん一万五千円でやれたわけではありませんが、とうとう八年間ドイツで勉強することになりました。』

こんな中で、ヒトラー率いるナチスが政権を取っていきました。
そして第二次世界大戦が始まり、初期のドイツはまさに電光石火のごとく快進撃、フランスをはじめ欧州をほぼ制圧します。
第一次世界大戦で失位した最後のドイツ皇帝 ヴィルヘルム2世(1851-1941)はドイツ軍がパリを陥落したのを見て、ヒトラーに祝電を打ち、手紙で「今活躍しているドイツ軍の将軍たちはかつて私の教え子だった者たちである。ある者は少尉として、ある者は大尉として、ある者は少佐として私のもとで世界大戦を戦ったのだ」と誇らしげに語っています。ヴィルヘルム2世は独ソ戦が始まる直前に死去。ナチスによるユダヤ人迫害については、それを憂慮した手紙(娘宛)が残っています。

映画『アドルフの画集』は、前にも何度か触れてますが(コチラコチラ参照)、ヴェルサイユ条約の頃(1918)を舞台とした、画家を目指していたアドルフ・ヒトラーを描いた作品です。巷ではヒトラーをキチガイのように描いたプロパガンダ映像ばかり溢れてますが、ヒトラーがとっても人間ぽく描かれている私の大好きな映画。もちろんヒトラーを人間的に描いてるということで、一部から激しい批判の声も挙がったそう。
下は実際にヒトラーの描いた絵です。 (コチラ参照


私はドイツ人ではないのに、なぜかこの映画中のヒトラーの演説が模された場面、何度見ても、いつもホロリとしてしまいます。下記はその演説シーンより。

『以前、散歩をしていた時、ある人物に出くわしたのだ
黒い長衣を着て 黒髪を垂らしてた
最初の疑問はこうだ 「これがユダヤ人?」
その人物を見てるうちに 私の疑問は変わっていった
「こいつがドイツ人か?」と
ユダヤ人どもがいるだけで 文化はすべて汚染されてしまう
腐った肉を切ると そこには何が?
ウジ虫がいるはずだ それがユダヤ人
人が町を造るようになり ユダヤ人が現れた
ユダヤ人は迎え入れられ そしてすぐに経済活動を始めたのだ
つまり金貸し業
ユダヤ人は今 大勢いる
商業も金融も独占しているのだ!
そして第2段階へ
ユダヤの特色を薄め ドイツ的な特色を前面に
何と我々ドイツ人に 成りすましているのだ!
文化が汚染された
美術も文学も演劇もだ
宗教もあざけりの的
倫理観も道徳も否定され
ドイツ娘は 娼婦にされたのだ 娼婦だ!
ユダヤ人は本来の姿を現し 吸血鬼と同じ存在になっている
奴らは血をすする吸血鬼なのだ
ドイツ人の血を吸う 吸血鬼だぞ
吸血鬼のユダヤ人ども!』

ここにある「ユダヤ人」という言葉を「朝鮮人」に置き換えると、今の日本の状況に何とピッタリ当てはまってしまうことでしょう! 特に「ドイツ娘が娼婦にされてしまった」という言葉、意味がわからない人も多いかもしれないけど、これこそ今の日本娘にピッタリ当てはまってしまうことも見過ごしてはいけません。フェミニズム、拝金主義に洗脳されてる人ではすぐにはピンとこない。
そう。「結婚相手の男の年収は○百万円以上じゃないと。」「仕事はやればお金もらえるけど、お金ももらえない家事や子育てなんて評価されるわけでもなく、やってもしょうがないし」なんて恥ずかしげもなく言ってる人たちのことですよ!

けれどユダヤ人は本当に頭がいいのかもしれないけど、朝鮮人にそれほどの頭脳はないはずで、朝鮮人、奴らを操ってる勢力がいること、決して看過してはいけない。朝鮮人にしか目が向かなくなるようだと、ナチス ドイツの二の舞になってしまうのでしょう。
ナチス ドイツのユダヤ迫害、これはヒトラー=ナチスを徹底的にコケにしたチャップリン映画とかで逆上し、ユダヤ人排除がますますエスカレートしていったのが真実ではないでしょうか。その辺の陰謀論でよくある、ヒトラーがユダヤ自演の工作員だったとかいうのはデタラメで、ナチスドイツを挑発してますます反ユダヤ感情を焚き付け、当時は欧州事情に関心のなかったアメリカ人の反ナチスドイツ感情まで呼び起こして対立を激化させたユダヤ人、その張本人こそチャップリンらであって、チャップリンは第一級の工作員として多大な働きをしたのです。
ナチスは、当初は捕らえたユダヤ人を穏便にどっかに追い出そうとしてたけど、チャップリン映画『独裁者』をはじめとする英米の反ナチスプロパガンダで、他国による受け入れがままならなくなったため、それにブチ切れたヒトラー、ナチスドイツではユダヤ人への扱いがかえって乱暴になり、収容所で死ぬ人も増えた。それでもあっち側の映画とかにあるようなガス室だの大虐殺というのはウソっぱち。
ナチス ドイツはあれだけのユダヤ人を捕まえたけど、何も変わらず、結局負けた。雑魚のユダヤ人をいくら何十万人捕まえてもどうにもならないし、そもそもユダヤ人という括りで見てはいけない。ドイツや世界を動かすほどの金融勢力を牛耳るユダヤ人を含むグループなんて、他のところでピンピン元気にしてたってこと。

映画『アドルフの画集』(2002)より  詳しくは右画像クリック
監督: メノ・メイエス 出演: ジョン・キューザック 他
2002年のハンガリー、カナダ、イギリス合作映画。日本では2004年2月7日に公開。この映画はフィクションだと思ってましたが、どんな文献が参考にされたのかは知りませんが、かなり事実を元に作られてるようで、全くのフィクションというわけではないようです。これに出てくるユダヤ人画商のモデルというのも、映画とは異なりながらも、ヒトラーの周りにきっといたんだと思います。

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(2016.11.22)
第一次世界大戦後のドイツ経済の凄まじさ、ドイツでは1914年から1923年までの10年間で、何と一兆倍の大インフレとなりました(対ドル換算。右写真は給料として支給された札束)。なぜこのようなことが起こったかというと、最大の原因は、ドイツが戦勝国への巨額の賠償金を負わされ、その支払いのため、とにかく紙幣を刷りまくったからです。

では、今の日本でも、日本の借金は千兆円を超えたけど気にする必要はないなんて言う人もいるわけですが、その種の人がそう言う理由に「国にとって、紙幣(お金)なんて刷ればいくらでも出来るから」というのがあります。そんなこと平然と言ってる奴ら、当時のドイツ経済を知っていれば、その正体、その目的、ピンとくるのではないでしょうか。

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◆マイケル・ジャクソンやデヴィッド・ボウイのような天才たちと共に、ヒトラーと対話してみませんか?

◆人間 真実のヒットラー ~ ヒトラー本と絵本『ヒットラー』から

◆日本破壊・売国バラ撒き“クールジャパン”国策で支援されるキチガイ劣悪音楽・アニメ・デタラメ日本文化(=暗黒勢力・朝鮮文化)

◆朝鮮ピンクに注意! ~ もはや極刑に処すべきひどさの朝鮮系色使い

◆亡国のシナリオ ① ~ GDPの倍、国家税収の20倍以上の借金でさらに借金を増やせと叫ぶ売国奴

◆亡国のシナリオ ② ~ 日本を、過去に滅んだロマノフ朝やハプスブルク帝国になぞらえたパターン

◆左翼メディアの日本人白痴化洗脳工作について ~ 『 人間獣化計画 』 と 『 中共対日工作要綱 』

◆『シオン議定書』 – 第二次世界大戦を勃発させた人間獣化計画の基本文書

◆現代の紛争や不可解な流行、ゴリ押し 行き着くところはユダヤ国際金融 ~ ユダヤ人や朝鮮人は被害者や弱者なんかではない

◆専業主婦がいなくなれば、TV・ラジオはもたない ~ マヌケ腐れマスコミ ~ 米国911テロと、ビル爆破工事の酷似

◆戦前の道徳教科書『修身』に見る加藤清正の武勇伝 ~ 自虐史観の正反対から見る豊臣秀吉の朝鮮侵攻

◆古代日本史における朝鮮半島の倭国領を歴史から取り返さなければならない! ~ 朝鮮に文化をもたらし、古代朝鮮半島南部を支配した倭人

◆朝鮮人による朝鮮人叩き。いわゆる“在日認定”のカラクリ ~ 左翼による左翼叩きの目論見まで  ≪工作員入門≫

◆朝鮮人というより問題はパチンコ。国連も左翼も朝鮮パチンコが支配

◆うるさい街宣右翼 実は反日朝鮮人 ~ 愛国心を貶める反日分子たち

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戦後の歴史教育を捨てよう。
歴史教育 再興 ① 永久保存版 戦前の国史(日本史)学習年表

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(2016.6.19)
皆様、いつもありがとうございます、
実は戦前の国史(日本史)資料をいろいろ集めました。まずは今日は、その中から戦前の歴史学習で使用されていた年表とシンプルな概略文を一つ、公開します。
単に人名や年号、事件の名前等だけ、膨大な項目を覚えても、有機的につながった歴史を学べない今の学校における歴史教育というのは、いくら学んでも何も身につきません。あれではいくら勉強して憶えても何もやってないに等しいんです。戦前の歴史教育は、そのような細かな事項名だけをやたら覚えたりするのでなく、実在の事件や人物等、それがどういったプロセスを経ていったか、その判断の仕方などに重点が置かれてます。

まずは年表。(下画像クリックで拡大画像が出ます。窓が開いても字が小さい時はさらに画像をクリックすれば拡大されると思います。)
「高等小学国史 附図」年表(昭和十三年一月十五日発行:立川文明堂)より

そして下記は、昔の歴史年表にある国史概略文、そのままの内容です。
「小学 国史絵巻年表」より(監修:中村孝也 昭和十一年三月一日発行:学習社)
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時代の発展
この文を、繰り返し読んで、国史の各時代がどのように発展して来たかを考えてください

神代(かみよ・じんだい)
神代の昔、天照大神は、天孫ニニギノミコトに向かい、
「この国は、わが子孫の王(きみ)たるべき地なり、汝(なんじ)皇孫(こうそん)ゆきて治めよ。皇位の盛なること、天地と共にきはまりなかるべし。 」
と仰せられた。わが国の基(もとい)は、この時定まった。ニニギノミコトは、この神勅をいただき、三種の神器をささげて、日向にお下りになられた。それから三代の間、その地に居られた。これまでを神代と申し上げる。

大和時代
神武天皇は、日向から大和においでになり、樫原宮(かしわらのみや)で天皇の御位におつきになられた。この年がわが国の紀元元年である。その後、崇神天皇は四方に将軍を遣わされ、垂仁天皇は天照大神を伊勢にまつりたてまつり、日本武尊(やまとたけるのみこと)は熊襲(くまそ)や蝦夷(えぞ)を征伐せられ、神功皇后は朝鮮半島の諸国を従えたまい、應神天皇の御代には儒教が伝わり、欽明天皇の御代には仏教が伝わり、推古天皇の御代には聖徳太子が立派な政治をなされ、孝徳天皇の御代には大化の新政が行われ、天智天皇の御代には、都を近江にうつされたけれど、後、まもなくまた大和へ還られた。この長い間を大和時代といい、わが国は、外国の文化を取り入れて、健やかに成長してきた。

奈良時代
元明天皇が平城京(奈良の都)におうつりになってから、凡そ七代七十余年の間は、文化の華の美しく咲き匂うたときで、これを奈良時代という。聖武天皇・光明皇后は篤く仏教を信ぜられ、大きな寺々が沢山つくられた。

平安時代
桓武天皇に居たり、都を山城(やましろ)の平安京にうつされたが、それより凡そ四百年程の間を、平安時代という。その初めの間は、朝廷の御威徳が広く行きわたり、蝦夷も平定せられて皇化に浴したが、中頃から藤原氏の一族が摂政・関白となって政治を運用し、栄華に耽り、その末頃には、世の中が乱れて、保元の乱や平治の乱が起こり、平氏が一時権勢を振るったけれど永くは続かず、やがて源氏に滅ぼされてしまった。

鎌倉時代
源頼朝は平氏を滅ぼして後、征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉に幕府を開いて、七百年にわたる武家政治を開いた。しかし、僅かに三代で亡び、北條氏が執権として勢力を振るった。北條氏には義時・高時のような逆臣もあったが、泰時・時頼のように民政に力を盡したものや、時宗のように元寇を撃破した英雄もあった。

建武中興 及び 吉野時代
武家政治は、わが国体の本義に悖っているから、後醍醐天皇は、天皇親政の正しき御代にひきかえそうと思召され、鎌倉幕府を倒して建武中興を成し遂げられた。しかし足利尊氏が叛いたので、中興の政治は永く続かず、天皇は吉野に幸(みゆき)せられた。それより五十七年の間を吉野時代といっている。楠木正成・同 正行・新田義貞・名和長年・北畠親房・菊池武光などは、この間に出た忠臣である。

室町時代
吉野時代の次に足利義満が京都の室町の幕府で政治を取ってから、凡そ百八十年間を室町時代という。この間は戦乱が多く、中にも應仁の乱後は、天下が麻のように乱れ、群雄が四方に割拠して争ったから、これを戦国時代という。武田信玄・上杉謙信・北條氏康・毛利元就などは、その中でも名高い英雄である。

安土桃山時代
戦国諸雄の中、織田信長は、まず京都に入り、皇室を尊びたてまつり、四方を平定したが、事業半ばにして斃れた。豊臣秀吉は、その後を受けついで全く国内を平定し、更に明国を征伐しようとして兵を朝鮮に出し、国威を海外に輝かした。信長は近江の安土に居り、秀吉は山城の伏見(後の桃山)に居たから、この間を安土桃山時代という。

江戸時代
徳川家康は秀吉の薨(こう)じた後、関原の役で石田三成を斃し、江戸に幕府を開いた。それより十五代二百六十五年の間を江戸時代といい、外国との交際を狭くし、国内は泰平を楽しみ、産業は発達し、学問・芸術は進歩し、国力が養われた。殊に国学や、国史や、儒教や、神道などが学ばれて、天皇を中心にいただくわが国体の本義が明らかになり、その上、諸外国から開国を促され、ついに江戸幕府は倒れ、武家政治が滅びて大政復古となった。

現代
明治維新は現代の黎明(よあけ)であった。それより六十余年の間、明治天皇・大正天皇・今上天皇陛下の御威徳の下にあって、わが国運は隆々として盛(さかん)になり、領土は広まり、富は増し、学問は進み、国威は全世界に発揚された。私共はこの立派な国史を顧みて、ますます忠君報国の心を堅くするのである。
*********************************************************

今の日本史で教えられてる内容との大きな違い、おわかりでしょうか。
ちなみにこの監修者の中村孝也氏は、これでもバリバリの皇国史観とは異なるタイプの歴史学者だったようですが、それでもGHQ占領による保守系教育者の総公職追放により、教壇を去られた一人です。

まずは日本の紀元にかかわる、古代における縄文時代・弥生時代というのはGHQ占領期に唯物的な左翼学者に創作されたデタラメの歴史。「ウソも百回言えば本当になる」を地でいって実現させたのが戦後の歴史教育であるわけで、縄文だの弥生だの、そんな時代は日本には元々存在しないし、縄文人だの弥生人だのは捏造された言葉です。天皇以前に邪馬台国が支配してたなんてのもとんでもない話神武帝による建国後を大和時代とし、それより前は正しくは“神代”(かみよ:じんだい)なのです。日本人のルーツ、天皇に関わるこの“神代”を歴史教育に復活させねばなりません。もちろんここの読者は、正しくは「神代なんだよ」って子供たちに教えてあげてくださいね。
また、上の年表には神代における日本武尊(やまとたける)の活躍や神功皇后の朝鮮征伐、朝鮮半島の日本府 任那の滅亡など、今の日本史では教えられなくなった日本書紀や古事記にある事柄についてもしっかり記載されてます。そしてもちろん、年表の通り当時の年号表記はすべて皇紀○○年なのです。これら日本の歴史の基本が、GHQ占領後にすべて書き換えられました。

そして建武中興以後の、今では南北朝時代なんてされてる頃も正しくは「吉野時代」。足利尊氏は後醍醐天皇に叛いた逆賊、足利氏の立てた北朝と呼ばれるところの正当性は存しません。楠木正成・正行の父子、そして新田義貞などの忠臣たちが、日本人の美徳の象徴として、戦前の教育ではとにかく大きく扱われています
また豊臣秀吉の朝鮮出兵についても、国威を輝かせたものとして触れられてます。

今日は、まずは年表と概略文でしたが、集めた戦前の教材等を引き続きいろいろ公開していくつもりですので、ぜひ保存、周りにも広めてくださいね。いずれも貴重な資料となりますので、その意義は大きいと思ってます。今の日本人がこれまで勉強してきた歴史を見直していく上で、グダグダと文章を並べるよりも具体的資料の提示で反論余地もありませんし、一目瞭然ですから。

今まで学んだものを捨て、真の歴史を勉強しなおしていきましょうね。学習中の方は教科書を捨てるわけにもいかないでしょう……けれどそれらは受験のため、と割り切ってそれらとは全く別の歴史を学んでいく必要があります。
前に比べて少なくなったとはいえ、それでもここにはかなりの方が今でも見に来られてるし、その中に、ある程度の方がおられれば大きな影響及んでいくこともあるかもしれない。命絶えても思いをつないできた日本人のこれまでの歴史、魂を信じて。

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◆古代日本史における朝鮮半島の倭国領を歴史から取り返さなければならない! ~ 朝鮮に文化をもたらし、古代朝鮮半島南部を支配した倭人

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ① 神代 皇基の遼遠

◆仁・義・礼・智・忠・孝……五倫、四徳、五条、四端の心から道を修むる ~ 侍が学んだものを学び、偉大な先人たちと志を一にす

◆戦前は逆賊歴史学として処罰されてた、左翼学者による皇統否定の「縄文・弥生」時代の敗戦後の普及 ~ 汚染される皇室。救う手だては皇室奪回

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑥ 第二十七 足利氏の僣上

◆武士の子女教育カリキュラム ~ 貝原益軒『和俗童子訓』より

◆忠臣の象徴 楠木正成公を称える唱歌『青葉茂れる桜井の』(櫻井の訣別)を10歳の子供にピアノ弾き語りで歌ってもらいました!

◆大日本帝国の唱歌を歌い継ごう!⑥ ~ 神武天皇が即位、日本建国の日とされる『紀元節』 9歳 ピアノ弾き語り

◆未来の歴史教科書より ~ ルーツを守らない日本人の未来

◆“道徳教育”と称して進められる、これからの日本人家畜化教育について ~ もはや大多数の家畜化は逃れらない

◆サルが人になったとする進化論と、日本人・陛下がサメの子孫とした日本神話、あなたはどっちを信じますか?

◆左翼教育者が持ち上げる、フランス革命を引き起こしたルソーの人間獣化思想 ~ ルソー生誕300年で、日教組やPTA左派が暗躍中

◆こないだまで、古代日本は朝鮮半島南部を支配していたと教えられていたのに ~ 日本府 任那を消し去った売国奴学者列伝 実は朝鮮人か!?

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マイケル・ジャクソンやデヴィッド・ボウイのような天才たちと共に、
ヒトラーと対話してみませんか?

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(2017.9.17)
スリラーの前のマイケルの大ヒット曲。作詞作曲もマイケル自身、日本でもスズキのCMで大ブレイク!(詳しくは右画像クリック)

『今夜はドント・ストップ』 マイケル・ジャクソン (1979)
Michael Jackson – Don’t Stop ‘Til You Get Enough

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(2015.2.5)
ナチス映画『意志の勝利』と、マイケル・ジャクソン『ヒストリー』PVの比較映像
Triumph of the Will & History  Nazi films & Micheal Jackson


ヒトラーに共感を示したデヴィッド・ボウイがかつて冷遇されていたことにココで触れましたが、ボウイに限らず、マイケル・ジャクソンも、内心ではヒトラーへの大変な崇敬の思いを抱いていたのでしょう。
『意志の勝利』(1934・詳しくは右画像クリック)は、女優出身の女流監督 レニ・リーフェンシュタールが、彼女の映画に感銘を受けたヒトラーの依頼を受けて制作した、第6回ナチス党大会の記録映画。整然とした美しい行進、隊列の映像美は海外でも高く評価され、1935年のヴェネツィア・ビエンナーレでは金メダル、1937年のパリ万博でグランプリを獲得している(もちろんこの評価は戦後さんざんなものとされ、リーフェンシュタールも犯罪者同然の扱いを受ける)。
デヴィッド・ボウイやマイケル・ジャクソンに限らず、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーもこの映画を熱心に見ていたという。このビデオの最後に「ボクはユダヤの社会の中で生きている」と言うマイケル、その本心はどこにあるでしょうね。
リーフェンシュタールは、多くの日本人選手も登場するベルリン・オリンピックの記録映画『オリンピア(民族の祭典/美の祭典)』(1938)も監督し、これも後のドキュメンタリーに多大な影響を与えた傑作とされています(詳しくは右画像クリック)。

『意志の勝利』には、後に作られた冷酷で滑稽な独裁者のイメージのヒトラーではなく、とてもカッコいいヒトラーがいます。ヒトラーと言われただけで、独裁だの軍国だのファシズムだの、そんな発想しか思いつかなくさせられてることこそ洗脳の極み。
ヒトラーを持ち出しただけで、とたんにチョビ髭とチャップリンのようなコミカルな振舞を見せてヒトラーを貶めたり、ヒトラーの演説に熱狂する民衆が危険なもののように見せる、奴らのプロパガンダ手法の繰り返し。
欧米では日本でフェミ批判がタブー視されてるのと同じく、ヒトラーを擁護しただけで社会的に抹殺されます。なぜ奴らがこれほど必死になってマスコミらと全力を挙げて社会的、世界的な統制をかけているのか、よく考えてみましょう。
もちろん、ヒトラーのやったことはいいことばかりではないだろうけど、ヒトラーの真実に触れさせないため、世界的にいったいどれだけの圧力がかけられているとお思いですか?
デヴィッド・ボウイやマイケル・ジャクソンのような天才たちと同じように、一度でもいいからそこのところをよく考えていただきたいものです。
亡きマイケルと同じように、貴方も一度、ヒトラーと真剣に対話してみませんか!?

デヴィッド・ボウイ 『ブルー・ジーン』(1984)
Blue Jean – David Bowie 詳しくは右画像クリック
世界的に成功した『レッツ・ダンス』直後の大ヒット曲。グラム・ロックと呼ばれていた初期のボウイを彷彿させる派手なファッションと、ただのPVに収まらない二役のボウイによる面白いストーリーが展開されます。ボウイの研ぎ澄まされた美意識は、ナチスの映画の影響あってこそでしょう。


チャールズ・チャップリン 『独裁者』より 「床屋のヒゲ剃り」
The Great Dictator (1940)
  詳しくは右画像クリック
ブラームス ハンバリー舞曲第5番が使用された、この有名なシーンはヒトラーと関係ありませんが、当時の米国はまだ参戦していなかったにも関わらず、ユダヤ人であるチャップリンがヒトラーを“独裁者”としてコケにしたプロパガンダ映画(Wikiにはチャップリンはユダヤ人ではないなんて書いてあるが嘘八百。この顔、どっからどう見てもユダヤ人じゃねえか、ボケナス!)。ユダヤ、米国の激しい反ヒトラー/ナチス・キャンペーンはこの頃から始まる。日本を挑発して戦争を仕組んだルーズベルトももちろんユダヤ人。チャップリン初のトーキー映画だが、当時のドイツと友好関係にあった日本では戦後1960年まで公開されなかった。

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(2016.1.13)
デヴィッド・ボウイも亡くなりハフィントン・ポスト 2016.1.12、かつてのポピュラーミュージックの大御所たちがどんどん消えていく21世紀。マスコミ ゴリ押しによるものでなく、“本物”であった彼らがいなくなったあと、残るのはナリフリ構わず必死になって、貧相なクズ芸術で金儲けに奔走する屑マスコミや音楽産業だけになっていきます。有害なマスコミが「流行りだ」と垂れ流すものでなく、古典などとにかく過去のものに目を向けていきましょう。

『ダンシング・イン・ザ・ストリート』 詳しくは右画像クリック
Dancing In The Street – David Bowie & Mick Jagger(1985)
出演もしたチャリティコンサート LIVE AID(1985)でミック・ジャガーと共演のこのPVが初公開されて大ヒットしたカバー曲。ボウイ 38歳、ミック 41歳、ファンでさえも老いてきたと思ってた当時のボウイの元気な姿が見れて、世界中のファンには大変なプレゼントになったと思います。オリジナルはマーサ&ザ・バンデラス(1964・視聴はコチラ)

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◆ヒトラーが画家を目指していた頃、ナチス台頭期のドイツに行ってみよう ~ 帝政崩壊とルール占領、ハイパーインフレ

◆デヴィッド・ボウイ – 火星の生活(Life On Mars?) ピアノ弾き語り(13歳)

◆子供も大人も注意! 講談社は最大の左翼出版社 ~ 女の堕落と男のフヌケ化はワンセット ~ 『 のだめカンタービレ 』に見る、現代の病理とヒトラーの予言

◆少子化は自虐史観に関連性あり!? ~ 日独伊 敗戦三国のみが異常な少子化傾向

◆左翼メディアの日本人白痴化洗脳工作について ~ 『 人間獣化計画 』 と 『 中共対日工作要綱 』

◆紛れもなく陰謀は実在しますが、表に出てる陰謀論者は結論を誘導し、真実を誤魔化します

◆陰謀論と新世界秩序、そして3S政策について ~ NY911事件を予言していたハリウッド ~ 世界全体が巨大劇場と化した現代。アルカイダやISISは劇団と同じ

◆人間 真実のヒットラー ~ ヒトラー本と絵本『ヒットラー』から

◆専業主婦がいなくなれば、TV・ラジオはもたない ~ マヌケ腐れマスコミ
~ 米国911テロと、ビル爆破工事の酷似

◆亡国のシナリオ ② ~ 日本を、過去に滅んだロマノフ朝やハプスブルク帝国になぞらえたパターン

◆卑劣な左翼芸術家に追放された世界の藤田嗣治 ~『私は日本に捨てられた』

◆『シオン議定書』 – 第二次世界大戦を勃発させた人間獣化計画の基本文書

◆日本人なら『ねずみの嫁入り』の世界観を!~ 陰謀の黒幕を考えるのでなく全体として捉えられる感覚を持ちましょう

◆サルが人になったとする進化論と、日本人・陛下がサメの子孫とした日本神話、あなたはどっちを信じますか?

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こないだまで、古代日本は朝鮮半島南部を支配していたと教えられていたのに
~ 日本府 任那を消し去った売国奴学者列伝 実は朝鮮人か!?

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(2011.7.15)  (始めから)
今のように何でもかんでも朝鮮由来みたいな歴史観が日本で教育されるようなったのは、1980年代に始まり、90年代に入れば、気づかぬうち、その捏造史観教育工作がほぼ完了されてたように思います。
そして、その発端となったのが、北朝鮮の歴史学者 金錫亭(キムソクヒョン)がこれまでの日本における歴史観と真逆の歴史観を主張したことに始まり、それを大々的に日本へ広めたのが朝日新聞であったこと、私は書いてます。

もともと私の世代まで、古代朝鮮半島において、日本は任那(みまな)をはじめとする支配地域を持っていたと教えられていたし、すべての文化が朝鮮半島から渡ってきたといった今のような教え方はされていませんでした。古代日本が朝鮮半島南部を支配していたというのは常識だったんです。
南京大虐殺や従軍慰安婦なんて話もありませんでした。

当時の日本における教科書の記述は以下の通り。

写真は当時の日本の中学校の教科書 (画像クリックで拡大)
1972年版 中経出版『日本の歩みと世界』(監修:豊田武)より

(以下、この教科書の記述より)
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4世紀の後半になると、大和朝廷は、朝鮮半島に勢力を広げた。そのころの朝鮮半島には、北に高句麗、その南に新羅と百済が国を建てていた。大和朝廷は、まとまりの遅れていた南の任那をおさえ、そこを足場に、一時、百済・新羅を従えて高句麗と戦った。
いっぽう、5世紀には、中国が南と北とに分かれた(南北朝時代)。大和朝廷は、朝鮮半島南部における日本の立場を認めてもらおうとして、南の王朝にたびたび使いを送った。

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1990年代以降の歴史教育を受けて育った世代からすれば、きっと目から鱗の内容でしょう。その後の白村江の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に、倭・百済連合軍が敗れるまで、日本は朝鮮半島内に多大な勢力圏を持っていたのです。
つまり当時の朝鮮半島南部の多くの地域は、日本の支配下にあったということ。。
当時、任那はもちろん百済の王や官僚だって、日本人(倭人)が多数を占めていたわけ

しかし、その後はどんな風に教えられるようなったか。
以下は小学館の『日本歴史館』(1993年発行)という分厚いカラー図鑑の記述から。手元に今の歴史教科書がありませんので、うちにある歴史書からの引用です。
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倭は朝鮮半島内での対立構造によって、その援助が強く期待されることが多く、積極的にその対立に関わった。およそ6世紀の初めまで、そうした構造は維持される。
倭国はそのような関係のもとで、伽耶の南部諸国および百済から先進の文化・技術を入手し、その見返りとして兵力を提供した。そうした出兵で、朝鮮半島内の抗争に巻き込まれることになるが、およそ支配を及ぼすような関係ではなかった。


・・・日本では『日本書紀』の記事のままに伽耶諸国を“任那”ということもあるが、それは本来の正しい用法ではなく、伽耶の一国(金官国)の別の呼び方にすぎない。
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この通り、倭国が朝鮮半島に支配を及ぼしていたどころか、進んでいた半島の技術を入手するため倭国が兵力を提供したとか、それまでの日本における歴史観から180度転換のムチャクチャな論説がなされています。
正に朝鮮学者 金錫亭(キムソクヒョン)の主張そのままなわけで、今の教科書はどこもこれに倣っています。こんな内容で今の日本の歴史教育では子供たちに教えられているわけです。

そもそも、“朝鮮半島から先進の文化・技術を入手するため”なんてことのために、その見返りとして国民の命を献上してまで海を隔てた半島にまで膨大な兵力を提供する・・・そんな非現実的、バカなこと、絶対にありえません!

ちなみにこの本の古代史の執筆者  現:京都教育大学名誉教授 和田 萃(あつむ)
1944年、満洲国遼陽市生まれ。生後間もなく日本に移り、奈良県磯城郡田原本町で育つ。京都大学文学部卒業、日本古代史の専門家とされてるらしい。その筋では権威があるのでしょう。

きっと今では、この種の反日自虐 左翼 売国奴 歴史学者というのがゴロゴロいるんでしょうね。
この種の売国歴史学者の名前、情報ご提供いただければ、売国奴 歴史学者列伝として、どんどん追記していきたいと思います。

南京大虐殺や従軍慰安婦問題より前に、すべてが朝鮮由来とされる朝鮮従属の現代日本の歴史観、こっちの方が何百倍も重大です。
カギは近代史より、古代史にあります。
何より守るべきは、古代日本、古代朝鮮半島における倭国の先人たちが支配した地域。
日本人のルーツ、ここを守らないと、日本人は奴らにそれこそ根こそぎ奪われます

このこと、ぜひ政治家や関係機関など、みなさまからも各所へご進言いただければと思います。
ここのURL https://nihon-omokage.com/?p=832 を貼り付けてのメール攻勢も非常に有効です。

尚、和田萃は、上田正昭という歴史学者の門下だそう。上田は韓国から勲章までもらってるね。

【以下、Wikiより 2011.7.16現在】
上田 正昭(うえだ まさあき、1927年4月29日 – )は兵庫県出身の日本の歴史学者。
京都大学名誉教授、大阪女子大学名誉教授、西北大学名誉教授。勲二等瑞宝章。修交勲章崇禮章(韓国から)。
門下生に千田稔(国際日本文化研究センター名誉教授)、和田萃(京都教育大学名誉教授)、井上満郎(京都産業大学教授)、灘本昌久(京都産業大学教授)、田中俊明(滋賀県立大学教授)などがいる。
教科書に竹島を記述することについては「するべきでない」と発言。
八木晃介、水野直樹らと一緒に「朝鮮学校を支える会」の呼びかけ人となっている。

(続く)

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(続き)◆古代日本史における朝鮮半島の倭国領を歴史から取り返さなければならない! ~ 朝鮮に文化をもたらし、古代朝鮮半島南部を支配した倭人

(戻る)◆未来の歴史教科書より ~ ルーツを守らない日本人の未来

(始めから)◆竹島を武力行使で即奪回せよ! そして、まずは容易に取り返せる古代における朝鮮半島の日本府“任那”を日本史上に奪還し、日本人に再教育せよ! ~ 韓土の日本領も奪回! 朝鮮半島にある前方後円墳

◆『日本書紀』より、「(古代朝鮮半島の日本府)任那滅亡」

◆消し去られる朝鮮半島の日本府 任那 ~ 子供を日本人でなく地球人に育てる驚愕の社会科教科書

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑦ 朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

◆子供には生の声、楽器音を聴かせましょう ~ ボーカロイドなんかダメ

◆個性の追求、結婚できない無縁社会の到来 ~ 漱石に見るネコの意味するもの

◆売国企業はユニクロだけじゃない。言い始めればキリがないし、もっと現実を見なければなりません

◆朝鮮人は、朝鮮半島に住んでいた古代日本人を蹂躙した侵略者!

◆古代日本が朝鮮半島を領有していた事実をもっと広めなければなりません

◆日本が朝鮮人の植民地に!売国 民主党政権 ~ 犯罪率4倍!朝鮮人の実態

◆排外デモで逮捕者が出たっていうけど ~ 日本が韓国へ謝罪、日韓慰安婦合意・安倍政権糾弾デモに行ってきました!

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もしも日本がアメリカより先に原爆を開発していたら、どうしていたか

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(2012.8.7)
あの戦争について、日本が幕末から続いた『百年戦争』を戦ってきた帰結であるという考え方があって、これは『大東亜戦争肯定論』(1964・林房雄)という著作が元になってます。
【欧米・白人 対 アジアの日本一極】、宿命的ともいえる百年戦争という概念、これには私も大いに賛同できるのですが、この本では、よくある保守風・右派風サイトにあるように日本がアジアや有色人種解放のため戦ったのだとして、あの戦争を肯定的にとらえてる側面があります。短絡的な右派が、他のアジア諸国などに日本が感謝されてるからと日本マンセーになってしまう論拠になってるわけで、そこは私と大いに異なります

あの戦争は明治維新の頃から始まっていた百年戦争の帰結。
しかし100年前から日本が世界の一角を占めるほど強大化することまで白人たちが予測していたかというとそれは違うと思うし、日本人が力を持てたのは日本人自身の手によるものであり、日本があそこまで大きくなって扱いにくくなってしまったのは、白人たちにとってもやっぱり誤算だったのでしょう。

日本人の中には、戦前から日本人は既に白人たちと同等で彼らの仲間入りしてると勘違いしてた人が多そうですが、やはりそれは間違ってると思うし、決して白人たちは今だって日本人を仲間とは見なしていないと思います。

物議を醸しそうだけど、いつかはやってみたかった調査(投票)があります。
もしも日本が先に原爆を開発していたなら、米国へ原爆投下することに日本人がどう判断していたか。

左翼や反米的な右派層はアメリカの原爆投下を非難するわけでしょうが、当時は日本でも原爆開発をやっていて、日本の原爆研究費は当時の金額で約2000万円。
アメリカのマンハッタン計画(原爆開発)では約12万人の科学者・技術者が動員され、加えて約22億ドル(約103億4千万円、当時の1ドル=4.7円)が投入されてました。要するに3桁違ってたってこと。

あの戦争については開戦したこと自体が負けに等しかったのでしょう。
よく言われるように、追い込まれた日本は本当にやむなく開戦するしかなかったのか。
勝つか負けるかでなく、たとえ勝てなくとも負けないための策が何かなかったか・・・石油が禁輸されたからとかよく言われるけど、そうされない策を日本が取れなかったのはやはり(外交上の)失敗が存在していたからとも言えるわけで、2・26事件で殺された高橋是清が生きていれば、戦争は、米国との開戦は避けられたと思うし。
だからといって戦争となったからには何としても勝たなきゃいけなかったわけで、そんな中で、もしも日本が戦争中に原爆を先に開発していたというなら、もちろん私は躊躇なく、アメリカが降伏するまで原爆を落としまくることに賛同したように思います。
そうなるとアメリカ人が多数死んでしまってたわけだけど、それは日本を守るためやむなしと考えるだろうし、それは私が世界市民でなく、やっぱり日本人だからであって、逆に私がアメリカ人に生まれていたなら日本が降伏するまで原爆を落としまくれと、もちろん当時の状況ならなっていたよう感じます。

現実には2発の原爆をアメリカに落とされて日本は降伏したわけですが、アメリカに徹底的にやり返せるものならやり返したい・・・だけどそれをやっても死んだ者が戻るわけでもなく、きっと空しいだろう・・・そういう当時の日本人の決して一筋縄ではいかない複雑な心情、『サイボーグ009』のこの作品などに非常によく表れてます。

「米国の空襲や原爆投下は国際法違反だ!」、「ソ連は条約を破った!」とか安っぽいヒューマニズム掲げるのでなく、大体、生きるか死ぬかの戦争やってる中で道理を求めるというのもナンセンス。
国際法だの条約だのそんなものを信用して、中途半端な日本的な道徳意識から抜け切れられず、価値観の異なる外国人、世界相手にそんな甘っちょろいこと言ってるから、欧米・アングロサクソンに敗北したともいえるわけで(詳しくはマキアベリズムをご参照)。
生きるか死ぬか・・・死ぬというのは命だけあれば、国だけあればいいというのでなく、伝統や文化を殺されるのも民族として死に等しいわけ。

日本は空襲や原爆投下こそされたけど本土侵攻まではされなかった。ドイツなんかは首都ベルリンの中枢部まで戦車が侵攻し、それこそ街は壊滅、貴重な文化遺産だって全滅、略奪され、女子供は蹂躙されていった。当時のドイツの惨状はロッセリーニのネオ・リアリスモ三部作を締めくくる、実際に戦後廃墟と化していたベルリンをロケに撮られた映画『ドイツ零年』(1948)なんか見れば痛々しくてならないし(ドキュメンタリータッチだがフィクション)、あんなのに比べれば日本はまだマシだったのかもしれないとさえ思えるくらい。

あと、日本人が有色人種だから原爆を落とされたという説もあるけど、ドイツ降伏時はアメリカでもまだ原爆が完成していなかったわけで、もちろんドイツだって細々と原爆開発はやっていたし、もしもアメリカがもっと早く原爆を開発していたら、当然ドイツに落としていたと私は思う。もともと米英は、ドイツに先んじられるのを恐れて原爆開発を急いでもいたわけで。

『彼女はサイエンス』  トーマス・ドルビー  (1982)
She Blinded Me With Science – Thomas Dolby

坂本龍一とのコラボでも知られる鬼才 トーマス・ドルビー(詳しくは右画像クリック)。MTV黎明期の大ヒット曲。

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◆放射能は確かに危険だが、あんまり子供の命や健康にこだわりすぎるのは

◆朝鮮・同和・原爆・弱者 ← 左翼の食い物 ~ 利権あさりと誹謗中傷に明け暮れる左翼

◆『昔の日本はアメリカと同じくらい広かった!』~ 日本人としての自信を持たせた祖母の言葉

◆ヒトラーが画家を目指していた頃、ナチス台頭期のドイツに行ってみよう ~ 帝政崩壊とルール占領、ハイパーインフレ

◆あなたは反米? 親米? それとも反ユダヤ?① ~ マッカーサーとパチンコと朝鮮人

◆天皇陛下万歳! 大日本帝国万歳! ~ 愛国者なら大ヒット作『明治天皇と日露大戦争』は必見!

◆戦争を煽って日本を破滅に追いやった朝日新聞 ~戦後は日本弱体化扇動の急先鋒

◆ジョンとヨーコの愛と平和は、誤魔化しのインチキ! ~ 家族を捨てた逃げ口上

◆特攻隊の青春群像 映画『決戦の大空へ 』と、フィリピンの神風記念碑

◆終戦日に寄せて。世界各国が自国のため戦ったことを歌っている、ドノヴァンの『ユニヴァーサル・ソルジャー』について

◆見ておきたい戦争映画の名作

◆ホモ監督の制作で左翼が大好き、名作とされる映画 『 二十四の瞳 』について

◆食糧備蓄の必要性 ~ 天から放射能物質が降ってきたら・・・

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『昔の日本はアメリカと同じくらい広かった!』
~ 日本人としての自信を持たせた祖母の言葉

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(2019.12.9)
恐ろしい法案や政策が立て続けに出てたり、今の日本の状況や人々を見てて、正直すごくツライです。みんな脳なしのゴイムにされていくことを考えると絶望的なんです。他にもいろんなことがあって、泣きそう、くじけそうにもなります。何とか子供だけはと、一筋の望みだけをつなぎたい思いで毎日います。その一心だけでここをやってます。同じ思いの方も多いのでしょうか。

とにかく私は………お婆ちゃんに会いたい、そしてあの時ではわからなかったこと、いろんなこと聞いてみたい、ずっと前から、いつもそんなことばかり考えてます。どっかにも書いてるでしょうが、私は両親が全然好きではなかったし、愛されてると愛情が感じられていたのは私にとってお婆ちゃんだけだったんです。お婆ちゃんにとっても私は初孫だったことが今ではわかってる。お婆ちゃんは後妻で入った人だったので実家にいた従兄弟たちはお婆ちゃんの直の孫ではなかった。お婆ちゃんも何人か子供を産んでますが、しかもその中で子を産んだのは私の母だけだったんです。
幼少期の夏と冬はいつもお婆ちゃんのところに行ってました。夏は蚊帳の中で寝て、お婆ちゃんの匂い、今でもしっかり覚えてます。仏壇のお供え物を食べて怒られたこともあります(でもそれも、「従兄弟から食べていいよ」と言われてたから妹と一緒に食べただけだったのですけどね。しかも今じゃ、その妹も……)。
二人で急いで電車に乗って、私が持ってた二人分の切符をなくして、駅事務所で揃って留められたこともあったり…… 忘れられない今でも心と目に焼きついてる思い出……

お婆ちゃんが学校でどんなことを教えていたのか、もうわかりません。生前の母に聞いておけばもっと何かわかっていたかもしれない。でももう手遅れでそれも出来ない。
どうしてもお婆ちゃんのことをもっと知りたい。旧師範学校、今の教育大に尋ねたりもしたのですが(空襲で焼けたこともあって)何も記録が残ってないそうです。

私はマッチ売りの少女がすごく好きなんです。最後にお婆ちゃんに会えて……抱きしめられて……
ここでも紹介してるこの絵本『女の子がだ~いすきなお話』(下画像クリック)の絵は素晴らしいものが多いのですが、「マッチ売りの少女」のお婆ちゃんに会えるところ、本当に私にはグ~ッと来てしまんです……

   

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(2011.5.24)
古代 朝鮮半島を領有していた古代日本史に関する資料が、今では希少になりつつあり、探してもなかなか見つからないようです。
このページ下から、昔の歴史教材に掲載されていた古代 東アジアの年表や地図のPDFファイルがダウンロードできます。ぜひ、お子様たちの教育にご活用ください。
高校の頃の世界史・日本史の教科書は私も残念ながら失くしてますが、なぜか副教材のこの本だけはとっていました。
もし、他にも日本府 任那などについて記載された昔の教科書や教材等お持ちの方いらしたら、ぜひ保管しておき、拡散していただければと思います。
40歳以下(団塊ジュニア以下)だと、恐らく任那が教えられておらず知らない方ばかりでしょう。40歳以上でも中には教えられてない方、多そうです。
わずか20数年前まで当たり前にあった古代日本に関する歴史教育の資料、これからは本当に希少で、重大な価値あるものになっていくかもしれません。
日本人はルーツを守らないと、完全に奴らにやられますよ。今の私があるの、そしてこんなサイトまでやってるのは、この祖母がいたおかげでもあります。

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(2010.10.21 追加)
この記事に関連し、朝鮮半島の日本府 任那についてです。
朝鮮半島南部の日本府 任那の存在は、『日本書紀』や中国の『三国志』などの記載からも明らかな通り、私の時は学校で、朝鮮半島に任那日本府があったことが教えられていて、昔はそれが定説でした(恐らく1980年代頃まで?)。しかし今では、任那がなかったかのようされるのが定説となってます。
どうしてこんなことになったのか、調べてましたが、ちょうど捏造 朝鮮史観が押しつけらる過渡期に当ると思われる1978年刊行の、学研の全15巻からなる「人物群像 日本の歴史」という図鑑を取り揃え、その第一巻『古代の大王』に次の記述がありました。
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そうした日本古代史あるいは日・朝交渉史の根本的な歴史認識の改変を迫ったのは、朝鮮民主主義人民共和国の社会科学院歴史研究所所長 金錫亭(キムソクヒョン)氏が、これまでの日本古代史とは全く逆の考え方を提案したことが転機になっている。つまり、大和朝廷による南部朝鮮支配を全面的に否定する中で、むしろ、朝鮮の三韓(馬韓・辰韓・弁韓)・三国(高句麗・新羅・百済)から日本へと渡来人が移住し、その分国をつくったとするのである。(金錫亨「分国論」1963年)
*********************************************************
今のような朝鮮史観が押し付けられるようなったのは、ここが始まりのようです。
そして、この北朝鮮の学者 金錫亨の歴史観を発行部数1000万部ほどの新聞で連載紹介し、古代日本史関連の書籍でも取り上げ、朝鮮史観洗脳プロパガンダを大々的に図っていたのが朝日新聞であることも判明しました。

下記の通り朝鮮半島南部で、日本固有の前方後円墳が多数発見され、日本原産のヒスイが出土していることからも、半島南部の任那が当時の大和朝廷 日本の勢力下にあったこと、疑いの余地はありません

【 任 那 (みまな) について 】  (2010.10.20 Wikiより)

3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条の項目において朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)であると書かれている
記紀の記述や考古学的成果、他に傍証として、広開土王碑、『宋書』倭国伝等の記述をもとに、任那日本府は倭国の軍事を主とする外交機関であり、倭国は任那地域に権益(おそらく製鉄の重要な産地があった)を有していたと考えられている。

1960年代頃から朝鮮半島では民族主義が広がり、既存説への反動から、記紀に記されているヤマト王権の直接的な任那支配は誇張されたものだとの主張がなされた。また日本でも1970年代に入り、それらに同調する主張がなされた。

しかしながら、朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次ぎ、これまでのところ全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳があることが確認されている。
朝鮮半島の前方後円墳は、いずれも5世紀後半から6世紀半ばという極めて限られた時期に成立したもので、百済が南遷する前は金官伽耶を中心とする政治的領域の最西部であったとする説がある地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている。

そのため、ヤマト王権と深い関連を持つ集団(ヤマト王権から派遣された官吏や軍人、交易商人、ヤマト王権に臣従した在地豪族)が、伽耶地域とその西隣の地域において一定の軍事的影響力および経済的利権を有していたことについては、ほぼ確実視されるようになった。

ヤマト王権の勢力を示す他の傍証としては、新羅・百済・任那の勢力圏内で大量に出土(高句麗の旧領では稀)しているヒスイ製勾玉などがある。戦前の日本の考古学者はこれをヤマト王権の勢力範囲を示す物と解釈していたが、戦後に朝鮮から日本へ伝来したものとする新解釈が提唱されたこともあった。 しかし、朝鮮半島にはヒスイの原産地がなく、古代においては東アジア全体でも日本の糸魚川周辺以外にヒスイ工房が発見されないことに加えて、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じことが判明し、日本からの輸出品であることがわかった。

関連記事:『日本書紀』より(古代朝鮮半島の日本府)任那について

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(2010.6)
たとえ日本が滅びても、良識ある同志なら、古き良き日本人の精神を子供には徹底的に叩き込み続けよう。

けど・・・・・
「今の多くの日本人はだらしないし、本来の日本人じゃないから安直に信用するな!」
ということも、残念ながら付け加えていかなければなりません。

私は母方の祖母から、

「戦争に負ける前の日本は、アメリカと同じくらい広かった!」

と言われたことがあります。

小学校3年生の時、足を折って入院しました。
この頃、付きっ切りで面倒見てくれていたのが、お婆ちゃんでした。

病室で聞いたその言葉は、子供だった自分に強烈な心象で残っています。
日本人としての意識と自信を決定付けた言葉です。
別に、その言葉を聞いた途端、日本人としての自信にみなぎり始めたとか、そんなんではありません。
その言葉は、生涯にわたって自分のマインドに影響し続けたということです。

変な左翼的な人たちが、他のアジアの人々のところへ行って来ては、
「悪いことをしてきて、すみませんでした」、と謝ってきたという話を聞くと、
いつも何だか知れない不愉快な気持が、若き自分にも湧き上がっていたものです。

母方は古い商家ですが、武家の出から嫁入りした祖母は師範学校(戦前の教員養成学校)の教師までやっていたそうで、私が幼い頃、祖母にそう言われていたことが、私の日本人としての誇りに、これまでどれだけつながっていたことか・・・・・

朝鮮人のババアたちが、
「自分は昔、売春婦だった!」、「日本軍に無理矢理やらされていたのだ」
と、孫たちに偉そうに聞かせるのとは、エライ違いです。

中学校で日本史教育を復活させることになったようですが、売国政府によって、これから日本の子供たち全員が、
「日本は悪いことばかりしてきた」
・・・・・そんな風に教育されていくであろうことを思うと、気が滅入ります。

自分が高校の時の、昔の貴重な歴史教材、今も持ってます(図1・2)。
それにはシッカリ、4世紀の朝鮮半島のとこに旧日本府 任那(みまな)と表示されています(図2)。
20数年前まで、古代の朝鮮半島には日本領があったと、日本では教えられていたのです。
他の教科書なんか捨ててるのに、なぜこんな本だけ残したのか・・・・・
何か今の危機を予見させる本能が働いたのか・・・・・
日本史より世界史が好きだったが、とにかく歴史は大好きだった。

そして戦前の日本、
朝鮮半島、台湾、樺太、関東州(中国)、満洲・・・・・
このあたりはみんな日本だった(図1)。
「戦争に負ける前、日本はとっても広かったんだ」
と、しっかり子供たちに教えていきましょう。

今の教材では当然、任那=日本府なんて出ていません。
この資料をお持ちでない皆さんも、PDFファイルでダウンロードできますので、プリントして子供たちに見せてあげ、「アメリカに戦争で負ける前、日本はアメリカと同じくらい広かったんだ」、ぜひ、そう教えていただきたいです。
特に小学校低学年、8歳ぐらいまでのお子さんだと、そのヒトコトの言葉、それこそ大変な心象として、お子さんの生涯に残り続けることでしょう。

そして子供たちも、そのヒトコトから、きっと何かを学ぶでしょう。
もしもアメリカに負けなかったら・・・・・、戦争しなかったら・・・・・、どうして戦争したのか・・・・・、もしも勝っていたら・・・・・、

ヒトコトから子供たちが、いろんな思考を働かせるようなるかもしれません。

この図面では中国侵略と書かれていたり、他にも植民地経営や軍部の独断的軍事行動だのと記述されてるのが気になりますが、それをちょっと手書きとかで訂正し、「侵略ではなく進出の間違いだ」、「植民地にしたんじゃない」とか、今の日本が抱える問題点を子供たちに認識させるため、そう教えておくのも、かなり効果があるように思います。むしろ小学校高学年以上なら、そういった話も、理解できるのではないでしょうか。
こういった教材を使うことで、言葉使い一つに神経を張り巡らせるようなるでしょう。

人生とは、ヒトコトの言葉で変わるもの。
“広い”という、小さな子供にもイメージしやすい、わかりやすい言葉。「日本だって広かった」
モンゴル人やローマ人は、「広い領土を持っていた」、彼らもその言葉を聞くだけで自信を持ちます。歴史の英雄になれるのです。
シンプルな言葉ほど、子供にもわかりやすい。ビジュアルがあればなおさら。
その使い道一つで、良くも悪くも、子供たちは育っていきます。

(図1) 戦前戦中の日本 (画像クリックで拡大図)

(図2) 4世紀頃の朝鮮半島/任那=日本府 (画像クリックで拡大図)

上記図面 PDFファイル ダウンロードしてプリントできます。

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