日本の面影

Glimpses of Japan
失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑦
朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

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(2017.2.2) (戻る)
古代日本帝国は一大転換期を迎え、いよいよクライマックス、任那滅亡から朝鮮半島における覇権喪失への流れに入っていきます。韓土の日本領 任那の攻防が生々しく描かれ、倭国(古代日本)に対する新羅の不逞により、何度も決行された新羅征伐。韓土をめぐってのめまぐるしい攻防、その失政や日本軍におけるいざこざ、そして任那を失ってしまっていった詳細な経緯が記録されてます。「新羅の大将、この尻 喰らえ」の古代日本 最大の英雄 伊企儺(イキナ)、そしてその妻 大葉子と、父の亡骸を抱いて死す伊企儺の子 舅子の悲哀。他にも、現代ではまるで教えられなくなってしまった古代日本史の武将達が今回、続々と登場しますよ。イキナについて詳しくはコチラもご参照を。
これほど克明な記録を、ただの作り話だの神話だのとのたまう現代の学者どもはすべて誅すべき連中です。

そして失意の中、崩じた欽明天皇の任那復興への熱い思いも、こちらにより詳しく載せてありますよ。ちなみに、ここの本文中に出てくるような「我」という言葉は、陛下や倭国のことを意味するのが基本ですね。

下図左は任那 最盛期の朝鮮半島、そして右は百済へ徐々に割譲された後、新羅に滅ぼされるまでの任那 変遷図。元々、私がコチラで初掲載したものですが、「任那といえばコレ」って風に、今では方々で利用されてますね ^▽^) 尚、朝鮮半島南部にはいくつもの古代日本人特有の前方後円墳が発掘されてますが、コチラで紹介の韓国 光州の巨大なツイン前方後円墳は半島南西部にあり、最盛期の任那なら任那領内、少し後なら百済領内ということになります。


また、この地図では新羅が356年~となってますが、これは現代の一般年表でそうなっており、その年は今の朝鮮人につながる金氏の新羅となった年。ここの記事にある通り、三韓のうち新羅の建国が最も古いとされる所以、『新羅本紀』では(倭人系ともいわれる)昔氏、朴氏にまで遡ることになり、それゆえ新羅が最も古いとされるのです。新羅建国に倭人が関わってたという建国神話を消したいから、今では金氏の356年にされているのでしょうね。

任那、そして百済まで滅ぼした憎っくき新羅こそ、今の朝鮮人の国。韓国では高給ホテルの代名詞でもある新羅ホテルのように、韓民族を象徴する国家として新羅は冠されてます。
古代日朝史の関係についてヤケにしっかり作りこまれたサイトとか、目にすることありますが、日本人のルーツを破壊するためデタラメ書かれてるところが多いです。日本人である新羅が朝鮮人である百済を滅ぼしたとか、確信的な悪意の塊といえる言説……出典元がないようなのはまず怪しんでください。テキトー好き勝手、一次資料を示して書かれてないところはウソ八百、まず信用なりません。同じ類で最近よくあるのが、英米・金融勢力による日本乗っ取り防ぐために先人は日本分裂を回避して明治維新を達成したのに、英米や金融勢力の目的を達成させるため明治維新がなされたとか、正に本末転倒。よくバナー広告でその種のデタラメ史観ふり撒いてるようなところはアッチ系、やってる連中もまず日本人じゃない。西ナンチャラとか。なぜかあいつらは資金が豊富。その種のサイトは無知層・情弱系をタラしこんで日本人の感覚をブッ壊すための左翼系陰謀論サイトと同じく、日本の先人たちが義ではなく私利のためだけに動いてたかのような価値観流布、偉大な先人貶め、日本人の魂 破壊、パッパラパー化のため用意されています。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

征韓後 韓土の形勢
任那・百済は常に服事す―新羅は不臣―荒田別(アラタワケ)・鹿我別(カガワケ)の新羅征伐―上毛野(カミツケヌ)・竹葉瀬(タケハセ)の問罪(新羅闕貢・けっこう)、紀小弓(キノヲユミ)・蘇我韓子(ソガノカラコ)・大伴談(オホトモノカタリ)の新羅征伐―大伴談の戦死―紀小弓の病死―蘇我韓子の遭害(そうがい)―高句麗 朝貢を怠る―高句麗 百済を滅す―百済の再興―高句麗の征伐。

我が鎭将の反亂(乱)
任那國司 吉備田狭(キビノタサ)の反―紀大磐(キノオホイワ)の反。

大伴金村の失政
大伴金村(オホトモノカナムラ)の威權(権)―韓土の処置を誤る―任那の地を百済に割与す―任那 我を怨む―日本府の動揺―金村の勢望衰う。

磐井の反
新羅 屢(しばしば)任那を侵す―近江毛野(オウミノケヌ)の差遣(さけん)―新羅 筑紫國造 磐井(いわゐ)に結ぶ―磐井 毛野の軍を遮(さえぎ)る―物部麁鹿火(モノノベノアラカヒ)の磐井討伐―御井(みゐ)郡の戦―磐井の誅。

任那日本府の滅亡
新羅 益(ますます)百済・任那を侵す―再び近江毛野遣わさる―毛野 鎭撫の策を誤まる―韓土の動揺―毛野の召還―大伴磐(オホトモノイワ)・同狭手彦(サデヒコ) 任那を救う―日本府の滅亡―調伊企儺(ツギノイキナ)の義烈(ぎれつ)―伊企儺の妻 大葉子(オホバコ)―紀男麻呂(キノヲマロ)・河邊瓊缶(カワベノニエ)の新羅征伐―皇軍の不利 瓊缶 虜となる―任那回復の遺詔(いしょう)―任那の回復成らず―任那の日本府 永く絶ゆ。

〇新羅の無礼
新羅は三韓中、其の建国 最も早く、百済と隣睦(りんぼく)の好を修めしことあるも、其の富強を恃(たの)みて、屢(しばしば)百済に入寇す。神功皇后の摂政47年、百済王初めて我に朝貢す。此の時、新羅の使者、其の貢物の珍異(めづらし)なるを見て之を奪い、新羅の貢物と称して献ず。朝廷 乃ち千熊長彦(チクマノナガヒコ)をして、之を責めしめ給う。是より後も常に我に無礼のこと多し。
〇荒田別・鹿我別の新羅征伐
新羅 百済の朝貢を奪うや、朝廷 荒田別(アラタワケ)・鹿我別(カガワケ)をして百済の使者と共に渡韓せしめ給う。両将 乃ち大に新羅を撃破し、安羅(あら)・多羅(たら)・加羅(から)等の七国を定め、南蠻(蛮)の忱彌多禮(枕弥多礼・とむたれ)の地を取りて百済に与う。百済主 大に喜び、永く西蕃(繁・せいばん)と称し春秋に朝貢を絶たざることを盟(ちか)い、且 千熊長彦に使者附して送還す。
〇紀小弓等の新羅征伐
新羅 既に撃破せられしも、後なほ朝せず。朝廷 葛城襲津彦(カヅラキノソツヒコ)をして之を討たしめ給う。雄略天皇の御代に至り、新羅また朝貢せざるのみならず、高麗(高句麗のこと)の貢を止め、且 百済を侵しぬ。天皇の9年 紀小弓(キノヲユミ)、蘇我韓子(カラコ)、大伴談(カタリ)、同 小鹿火(ヲカビ)の四将をして之を伐たしめ給う。小弓等新羅の諸城を破り、喙(トク・任那の構成国)の地を略(ほ)ぼ定めしも未だ悉(ことごと)く下す能わず、談 戦死して小弓もまた病死す。小弓の子 大磐(オホイワ)専ら威命を用いて、小鹿火及韓子と隙(すきま)を生ぜしが、大磐 遂に韓子を殺しぬ。かくして此の役に皇軍 終に戦功を奏すること能わざりき。
〇吉備田狭の反
雄略天皇の7年、吉備田狭(キビノタサ) 任那国司に任ぜらる。田狭 事によりて天皇を怨み奉り、援を求めて新羅に入らんとす。時に新羅朝貢せず、天皇 田狭の子 弟君(オトギミ)等をして新羅を伐たしめ給う。かくて弟君 既に百済に入りしが、路遠きを思い、新羅を伐たずして還らんとす。田狭 之を知り、竊(ひそか)に人を百済に遣わし、吾巳に任那に拠(よ)りて日本に帰らず、汝もまた百済に寄りて反せんことを勧めしむ。弟君の妻 樟媛(クスヒメ)其の謀叛を悪(にく)み、密に弟君を殺して還りぬ。
〇紀大磐の反
父 小弓の新羅征伐の陣中に病没するや、小鹿火の掌れる兵馬の權(権)を執りて、専ら威令を用う。小鹿火 之を怨み、韓子に詐(いつわ)り告げて曰く、大磐 将に韓子の掌れる兵馬の權をも奪わんとすと。韓子また大磐を悪む。かくて韓子 大磐を殺さんとせしが、却って大磐の為に殺さる。顕宗天皇の3年に至り、大磐 任那に拠りて高麗に通じ、将に三韓に王たらんとして宮府を設け、又百済の将を殺さんとす。百済王 大に怒りて大磐を殺さんとせしが、大磐 逆へ撃ちて一度は百済の軍を破る。既にして大磐は兵つき力つきて事の済らざるを見て任那より還る。
〇高句麗 百済を滅す
高句麗は早くより朝貢せず、応神天皇の97年、使を遣わして朝貢せしむるや、其の上表文に「高麗王 教 日本国」(高麗王 日本国に教ゆ)と記する程にて、固より我を重んぜず。かくて高句麗の百済と干戈(かんか=戦)を交えしが、雄略天皇の20年、高麗王 大軍を出して遂に百済を滅しぬ。翌年 天皇 之を聞き、久麻那利(くまなり)の地を百済に賜いて、其の国を復興せしめ給う。越えて23年、筑紫の軍士 五百人を差遣して、東城(トウジョウ)王を百済に立てしめ舟師を発して高麗を伐たしめ給う。
〇大伴金村と其の失政
金村は武持(たけもち)の曾孫にして、談の子なり。仁賢天皇の崩じ給うや、大臣 平群眞鳥(マトリ)専横にして叛を図る。金村 太子に謂いて之を討滅し、太子(武烈天皇)即位に及びて大連となる。かくて武烈天皇 崩ずるに及び、金村 繼體(ケイタイ・継体)天皇を迎え立て、大臣 許勢男人(コゼノオヒト)大連 物部麁鹿火(モノノベノアラカヒ)と共に国勢を執り、威権 甚だ熾(さかん)なりき。6年 百済の使 朝貢し、任那の哆唎(タリ)、牟婁(ムロ)等 四縣の地を得んことを奏請す。哆唎の國守 穂積押山(ホサカノオシヤマ・ホヅミノオシヤマ)また百済に之を与うるの利なるを主張す。時に大兄皇子は、之を止めんとし給いしが及ばず。是より任那 我を怨み、新羅ますます侵略を恣(ほしいまま)にし、韓土の政策 大に困難となりて、日本府も動揺し、金村・押山 百済の賄賂をうけし流言さえありて、金村の勢 望大に衰う。
〇磐井の反
継体天皇の21年、天皇 近江毛野に兵6万を率いて任那に往き、新羅の侵地をかえさしめ給う。時に筑紫國造の磐井なるもの叛を図らんとす。新羅 之を知りて、密に賄賂を贈り、毛野の軍を遮(さえぎ)り止めしむ。磐井 乃ち火・豊(肥豊)の地に拠り、外は海路を支えて三韓の朝貢を誘致し、内は毛野の軍を止めんとせり。
〇物部麁鹿火と磐井の誅
麁鹿火は伊コ弗(イコフツ・コはくさかんむりに呂)の玄孫にして、父を麻佐良(マサラ)と云う。仁賢天皇以下の五朝に仕えて大連となる。継体天皇の21年 磐井の反するや、近江 毛野軍を任那に進むることを得ず。天皇 磐井征伐の将を群臣に問わせ給う。金村等、麁鹿火の正直にして兵事に通ずること其の右に出づるものなきを奏す、天皇 乃ち親(みずか)ら斧鉞(ふえつ)を授け、勅し給うて曰く、長門以東は朕 之を制せん、筑紫以西は汝 之を制せよと。翌年11月、麁鹿火 進んで磐井と筑紫の御井郡(筑後三井郡)に戦いて之を斬る。餘衆もまたことごとく平ぐ、宣化(センカ)天皇の元年に至りて麁鹿火 薨ず。
〇近江毛野の召還
磐井の誅せられし翌年、朝廷 再び毛野を任那に遣わし給う。毛野の任那に至るや、新羅・百済 各其の臣を遣わして命をきく、時に任那王来朝し、新羅の侵地を訴えて救を請う。朝廷 毛野に勅して両国を和解せしめ給いしも、両国各使者を遣わして国王来らず、毛野 大に怒りて之を卻(しりぞ)けしかば、使者 怖れ帰りて各国王に告ぐ、新羅 更に使者に兵三千を附して来らしめ勅を請(こ)わしむ。毛野 其の兵勢の熾なるを見て出でず。かくて使者留まること久しく、兵食乏しくなりしかば、近邑を掠め人畜を驅(か・駆)りて帰る。其の後、毛野 韓土に留まる二年、怠惰にして事を視ず人民 之を怨む。天皇 乃ち使を遣わして之を召し給う。毛野 恐れて還ること能わず、屢(しばしば)新羅 百済の兵に攻撃せられ、後 対馬に至りて病没す。
〇大伴磐と同狭手彦
磐(イワ)・狭手彦(サデヒコ)は兄弟にして金村の子なり。宣化天皇の2年、新羅 任那を侵す、金村 詔をうけて、磐・狭手彦をして任那を救わしむ。磐は筑紫に留り、其の国政をすべて三韓に備え、狭手彦は任那を鎭し且 百済を救う。
欽明(キンメイ)天皇23年、狭手彦 将となって高麗を討ち、百済の計を以て大に之を破り、遂に高麗の王宮に入り、珍寶(宝)及七織帳・鐡(鉄)屋を獲て帰る。其の七織帳を天皇に上りて甲及刀等を蘇我稲目に与え、鐡屋を長安寺に置く。
〇調伊企儺(ツギノイキナ)
努理使主(ヌリノオミ・コチラ参照)の後なり。人となり勇烈なり。欽明天皇の御代、紀男麿(きのおまろ)の軍に従いて新羅の罪を問う。されど皇軍 利ならずして、伊企儺 執(とら)えらる。此の時 伊企儺 屈せざりしかば新羅の将 刀を抜きて之に逼(せま)り、其の尻を日本に向けて日本の将 之を食えと呼ばしむ。伊企儺 乃ち、新羅王 我が尻を食えと大呼す。新羅王 大に怒りてますます侵辱を加えしも、伊企儺なほ前の如く之を呼びて變(変)せず、遂に殺さる。
〇大葉子(オホバコ)
調伊企儺の妻なり。伊企儺の難に遭いし時、其の子 舅子も其の父の屍を抱きて死し、大葉子もまた擒(とりこ)にせらる。之を痛める歌に「からくにの きのへにたちて 大葉子は ひれふらすも やまとへむきて」と。其の日本の方をしたひて城の上に立ちて領巾(ひれ・両肩にかけて垂らす女性装身具)をふるは実にいたましきことなり。
〇紀男麿の新羅征伐
欽明天皇の23年、新羅 任那を侵して遂に日本府を滅しぬ。朝廷 紀男麿(キノヲマロ)を将とし、副将 河邊瓊缶(カワベノニエ)と共に赴き、新羅 任那を攻むるの状を問わしめ給う。其の任那に至るや新羅 我が軍の計を知り、卒(つい)に大兵を起して来り戦う。尋(つい)で兵 敗れて降を乞う。男麿 勝を取り、師を旋(かえ)して百済の營(営)に入り、其の軽進を戒む。河邊瓊缶 独り転戦して進み、皆 之に捷(勝)つ。新羅 白旗を挙げて降る。瓊缶 其の意を覚(さと)らず。又 白旗を挙げて進む。新羅の将 之を逆へ撃ちて大に破り、遂に河邊瓊缶及其の妻を擒(とりこ)にせり。
〇任那 國司回復の遺詔
欽明天皇の32年、天皇 疾(や)み給う。皇太子を召し詔して曰く「朕が疾(やまい)甚し、後事を以て汝に屬(属)す、汝 新羅を討ちて任那を建つること、舊(旧)日の如くならしむべし、死も恨なし」とのたまいて、遂に崩じ給う。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑧ ~ 佛教の伝来と蘇我 物部 両氏の争

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◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑤ 朝鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑬ 蝦夷の服属 韓土の変遷(百済 高麗の滅亡・新羅の朝鮮半島統一)

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ④ 日本武尊 成務天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ③ 崇神天皇と垂仁天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑨ 聖徳太子 支那へ使節派遣

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑲ 韓土の(朝鮮半島)変遷(支那との関係) 渤海の入貢

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より はしがき・もくじ

◆『日本書紀』より、「(古代朝鮮半島の日本府)任那滅亡」

◆朝鮮人は、朝鮮半島に住んでいた古代日本人を蹂躙した侵略者!

◆家庭内における戦前の教育再現 ~ わが家で使ってる子供用教本 ~ 修身と国語副読本

◆『昔の日本はアメリカと同じくらい広かった!』~ 日本人としての自信を持たせた祖母の言葉

◆古代日本史における朝鮮半島の倭国領を歴史から取り返さなければならない! ~ 朝鮮に文化をもたらし、古代朝鮮半島南部を支配した倭人

◆竹島を武力行使で即奪回せよ! そして、まずは容易に取り返せる古代における朝鮮半島の日本府“任那”を日本史上に奪還し、日本人に再教育せよ! ~ 韓土の日本領も奪回! 朝鮮半島にある前方後円墳

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この記事に対するコメント

  • 古代日本史最大の英雄伊企儺。以前の記事にもありましたが、任那は小学生の時習いましたが、伊企儺は知りませんでした。私の想像ですが、お、イキダねとか粋な人って、ここから来てる気がします。

  • アリーシャ・ロデムさん御無沙汰しています
    日本を否定する(タルタリアやフラットアース、マッドフラッド)連中、本当に許せません! 怒

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