日本の面影

Glimpses of Japan
失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑤
朝鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

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(2017.1.28)  (戻る)
今回は、古代朝鮮半島の情勢、日本府 任那の由来、初の摂政となった神功皇后の新羅征伐など、興味深い内容がいっぱいですよ。また、ここでは韓土(朝鮮)よりいろんな文化人や職人(女)が来たという記録がありますが、勘違いしてならないのは、それらの人々が日本人とは全く別の人種と考えてはいけないことです。朝鮮半島南部の日本府 任那を足掛かりに、既に多数の倭人が当時から朝鮮には住みついており、朝鮮半島には純粋な倭人もいれば、倭人と百済人等の混血も多数いたはずで、ひとまとめに(百済系)渡来人なんて現代で呼ばれてしまう人々の多くは、日本に帰化する前から、単に朝鮮にいたというだけの日本人にすぎないのです。それなのに、日本領 任那にいた完全な日本人が日本にやってきてても、今では朝鮮半島から来た渡来人にされてしまう…… 韓国南部では古代日本特有のいくつもの前方後円墳が見つかってるし、日本に服属していた百済においても倭人系豪族が強く、王妃などには多くの倭人を迎え入れてた上、しかも百済 武寧王などは日本生まれでもあります。百済に限らず当時の古代朝鮮半島南部では倭人系豪族が大きな勢力を振るっていました。尚、支那人系もいて、ここに出てくる漢学博士 王仁(ワニ)や阿知使主(アチノオミ)等についは支那人だと記録されています。また、日本には漢字が伝わる以前から神代文字があったという、最近では何やら怪しい情報まで出回っていますが、ここではそのようなものは出所不明で後世に作られたものだということでキッパリ否定されています。

またここにもある通り、新羅の建国は神武天皇の兄(稲氷命・イナヒノミコト)がなしたという伝承も日本側にありますが(『新撰姓氏録』)、朝鮮側(『三国史記』新羅本紀)にも倭人が関わっていたことが記されていて新羅本紀では倭人と組んだ朴氏の新羅建国後、同じく倭人系の昔氏が継ぎ、後に金氏が継承していった流れになってますが、元から新羅へは支那人もかなり流入していたりで(支那側にそのような記録もあり、さらには新羅を建国したのは秦の部族だという主張まである)、日本本土の日本人とは実際かなり違う人種となっていたと見なしてます。そして金氏については倭人系との記録はなく、新羅は金氏の頃から日本人とは全く異なる今の朝鮮(韓国)人につながる民族に完全に支配され、シナ(唐)と組して日本と対立するようになったと私は確信しています。なので、今の日本人の古代史への無知を利用し、古代日朝史に通じてるフリして新羅なんかに親近感持たせようとデタラメ論ふりまいてる連中というのは、アッチ系の工作員なのです。
逆に百済については、その建国に倭人が関わったという記録はどこにもなく、百済が日本と深いつながりを持ち、日本と同化し始めたのは建国から後のことです。

それでは戦後教育で断絶された古代日本と朝鮮半島の関わり、そして任那の記憶、これらを読んでよーく思い出してくださいね。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

古朝鮮
古朝鮮の版図―殷の王族 箕子(キシ)の来王―箕子の子孫代々平壌(へいじょう)に都す―燕の人 衛満(エイマン)王となる―支那の併有(へいゆう)。

三韓
朝鮮半島南部の国々―馬韓(ばかん)―辰韓(しんかん)―弁韓(べんかん)―我が国との関係。

三国及び任那
新羅(しらぎ)―高句麗(こくり)―百済(くだら)―新羅 大伽羅(おほから・大伽耶)を侵す―大伽羅 我に保護を仰ぐ―塩乗津彦(シオノリツヒコ)の差遣(さけん)―日本府の起―任那(みまな)国名の起

神功皇后の征伐
仲哀天皇の御即位―天皇の熊襲御親征―筑紫の橿日宮(カシイノミヤ)―天皇の崩御―神功(ジングウ)皇后の新羅御征伐―武内宿禰(タケノウチノスクネ)と吉備鴨別(キビノカモワケ)―新羅王 波沙寐錦(ハサムキン)の降伏―新羅王の誓約(チカイ)―百済・高句麗の服属―内官家(うちつみやけ)の設置―皇威 海外に及び熊襲 復叛かず―皇后の御凱旋(がいせん)―応神(オウジン)天皇の降誕―皇后の摂政―神功皇后の御追号(ついごう)

学問の伝来
支那の文化 韓土に影響す―日本と韓土と往来―阿直岐(アジキ)及び博士 王仁(ワニ)百済より来る―王仁 論語及び千字文を上る―阿直岐・王仁の二人 菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)皇子の師となる―漢学伝来の始―支那人 阿知使主(アチノオミ)・都賀使主(ツガノオミ)父子の帰化―阿知使主・王仁等の子孫 朝廷の記録を主どる―東文氏(ヤマトノフミウヂ)と西文氏(カワチノフミウヂ)―東西文部

工芸の伝来
百済王 縫工女を貢す―支那人 弓月君(ユツキノキミ)及び努理使主(ヌリノオミ)の帰化―養蚕紡織に従事す―阿知使主 呉(くれ・ご)に使す―呉の縫女・織女来る―船工・陶工・鍛工・酒造工等 韓土より来る―我が文化の進歩を促がす。

〇箕子の来王
朝鮮の伝えに、初め壇君(ダンクン)と云う長ありて平壌に都し、国を朝鮮と号したりと云う。我が紀元前430年の頃に、支那の殷(いん)の紂王(チュウワ)の諸父(おぢ)なる箕子(キシ)本国の亡ぶるを見て、支那人五千をつれて朝鮮に入り、周より封ぜられて平壌に都す。古朝鮮の名 此に起こる。箕子の後40代をへて準(ジュン)の時に至りぬ。時に今の直隷省の河間府の以北より、遼東に至れる地を領せる燕と云う国あり。此の国に盧綰(ろくわん)なるもの王たりしが、其の内乱の起こるに及び、衛満(エイマン)なるもの、此の朝鮮に来り準を逐(お)いて王となる。
〇我が国と三韓との関係
神代に於て、既に素戔嗚尊(スサノオノミコト)の新羅の国に往き給いしこと伝えられ、出雲地方の人民には、早くより往来せしものありしなり。九州地方にても、其の豪族の彼の地にゆくものあり、韓土の人民もまた渡来せるものありて、互に交通行われしなり。我が開花天皇の御時に、支那の漢の武帝なるもの、今の遼東地方を従えて、其の威を振うに及び、九州の豪族のまた支那にも赴くものありて、漢人は当時の九州諸国を倭と呼びたり、神武天皇より崇神天皇の頃までは、韓土との交通は、専ら九州地方の豪族によりて行われ、崇神天皇の御代に大伽羅(おおから)の使節の来るにいたりしなり。
〇大伽羅の使節
大伽羅は即ち任那なり。任那は加羅・安羅(あら)等の十国をすぶるを以て、大の字をかぶらす。今の慶尚南道の金海府地方なり。当時、隣国の新羅に攻められ、崇神天皇の65年、蘇那曷叱智(ソナカシチ)を遣わして、我に朝貢せしめて救を乞いたり。
〇塩乗津彦命の差遣
第五代孝昭天皇の皇子、天足彦国押人命(アメノタラシヒコクニオシヒトノミコト)の四世の孫を彦国葺命(ヒコクニフキノミコト)と云う。塩乗津彦命(シオノリツヒコノミコト)は此の彦国葺命の孫なり。崇神天皇の御代に任那奏して曰く、臣が国の東北に三巴汶(サンコモン)の地あり、地方三百里にして人民また富む。新羅と争いて彼此治むること能わず、兵戈(へいか)相つぎて人民生をたのします。将軍を遣わして治めしめば、日本の属地となるべしと。天皇 大に悦び給い、群臣に勅して遣わすべき人を奏せしめ給う。群臣 塩乗津彦の身は長五尺に達し、力衆人にすぎまた勇悍なるを以て、此人を遣わし給うべきを奏す。是に於て塩乗津彦 勅を奉じ、任那に赴きてここに鎮座す。是より子孫相つぎて彼の地に在りしかば、我が勢力永くつづきたり。
〇日本府の起
崇神天皇は、塩乗津彦を遣わして任那を援わしめ、其の地に官家(みやけ)を起きて鎮守せしめ給う。是れ任那に日本府あるの起りとす。其の管するところの地は、今の全羅南北・慶尚南北・忠清南北の六道に跨(またが)る。
〇任那国名の起
崇神天皇の御名を御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエ)天皇と申す。天皇の御代に任那の使来朝せんとして道に迷い、北海より出雲をへて敦賀に至りしに、天皇の崩にあい、此に留まって垂仁天皇に仕う。其の使の帰国せんとするに当り、天皇詔して曰く、汝 道に迷わずして来らば、崇神天皇に仕うを得べし、よりて御間城入彦天皇の御名をとりて汝の国名とせよとのたまい、物を賜いて本国に返さしめ給う。任那(みまな)の国名、此に起る。
〇仲哀天皇の熊襲征伐
天皇の2年、神功皇后 角鹿(つぬが敦賀)に行啓し給い、天皇南方を巡幸して紀伊の徳勒津(ところつ)の宮(紀の川口)を行宮とし給う。時に熊襲また反きて朝貢せざりしかば天皇之を討たんとし、行宮を発して穴門(あなと長門)に幸し、使を遣わして皇后を召し給う。天皇 豊浦の行宮(長門)にとどまり給い、皇后も亦至り給う。かくて8年天皇九州に幸し、橿日(かしい)宮(筑前香椎)にて熊襲討伐を議し給う。此の時 皇后は、先づ新羅を征せば、熊襲は自ら皇威に服せんことを奏し給いしが、天皇強いて熊襲を伐ち給う。翌年2月に至り、天皇 遂に軍中に崩じ給う。
〇神功皇后の新羅征伐
仲哀天皇の崩後、神功(ジングウ)皇后は武内宿禰(タケノウチノスクネ)と議して、新羅の征伐を決し給う。皇后乃ち橿日宮を発して、松峡(まつのを)宮(筑前朝倉郡)に遷り給い、尋(つい)で層増岐野(そそきの・朝倉郡安野村)に赴き、更に山門(やまと)縣(筑後山門郡)に転じて土賊を平げ、北松浦縣(肥前)に出で、橿日浦に至り給う。此の年9月 戦船を集め、松浦湾より出帆し給いて和珥(わに)津(対馬)に着し、十月此を発して新羅に向い給う。新羅王 我が軍威を見て大に恐れ、白旗を挙げて出で降りぬ。
〇吉備鴨別
景行天皇の40年、日本武尊の蝦夷征伐に従軍せし吉備津彦命の三男なり。神功皇后の新羅を征伐せんとし給うに当り、鴨別をして熊襲を撃たしめ給う。熊襲 忽(たちまち)
にして服従す。応神天皇の御代 波久岐(ハクキ未詳)の国造に任ぜらる。後世の笠田氏の祖たり。
〇新羅王の誓約
新羅王の皇軍に降るや、誓いて曰く、東より出づる日 西に出で、鴨緑江(おうりょくこう)の水 逆(さかさま)に流れ、河の石昇りて星となるにあらざれば、春秋の朝貢をかき奉らずと。是より我に貢物を上るに至る。
〇内官家
屯倉及び屯家をも、官家と同じく皆ミヤケとよむ。また国々に朝廷の御料田ありて、その御料田に成れる稲穀を蔵め置く御倉や官舎をも合せてミヤケと云う。屯倉はその御倉につきて書し、屯家・官家は其の本義なる役所につきて書す。今や韓土を征服せられたれば、皇国内の屯家になぞらへて、新羅を官家国(みやけのくに)と云い、そこに官所(やくしょ)を置き之を内官家とよびしなり。
〇摂政
天皇を輔け奉りて、すべての政を行う職なり。仲哀天皇 崩じ給い、神功皇后 新羅征伐の後、応神天皇 御幼少にまししかば、皇后摂政し給う。第三十三代 推古天皇の時、皇太子 厩戸皇子 摂政し給い、第三十七代斉明天皇の時、皇太子中大兄皇子 摂政し給う。ここに於て摂政始まる。
〇支那文化の韓土に影響
箕子の韓土に来王するや、後の高麗の地に在りしかば、支那の文物の既に伝来せしこと知らるべく、又百済より渡来せし王仁(ワニ)の論語・千字文を上りしを以て、百済にも其の巳前に伝来せしなり。新羅はもと支那の秦(しん)、漢(かん)流亡の人民の渡来せしに起りしかば、支那の文物の早くより伝わりしこと知らる。かくして韓土は、支那の文化の影響をうけしなり。
〇阿直岐と王仁
阿直岐(アジキ)は百済国王の後にして阿直史(アチノフヒト)等の祖なり。阿直岐を一に阿知吉師(アチキシ)とあり、其のシの音をキシにつづめて阿直岐と云う。応神天皇84年、百済主阿直岐をして良馬を献ぜしむ。天皇 之を阿直岐に飼わしめ給う。阿直岐よく漢文をよむを以て、天皇 菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)皇子の師たらしめ給う。天皇また阿直岐にききて王仁をめし給う。翌年 王仁来朝す。王仁は支那の漢の高祖の後なる鸞(ラン)に出づ。鸞の後、王狗(オウク)なるもの百済に来りて往す。王仁は王狗の孫なり。王仁来りて論語と千字文とを献ず。是に於て皇子 稚郎子の師となりて学問を授け奉る。王仁の子孫 河内に散在し、河内文首(カワチノフミノオビト)と云うもの即ち王仁の後なり。
〇漢学伝来の始
我が国の上古には未だ文字なくして、其の事実は貴賤老少口々に相伝えたりと云わる。応神天皇の御代に阿直岐来りて稚郎子皇子に学問を授け、王仁また来りて皇子の師となり論語・千字文をを上る。是れ我が国に文字ある始にして、又漢学伝来の始なりとす。因みに上古文字の有無につき論あれども、文字なしとする説よろしきが如し。神代文字として伝えられたるものの如きは、出所不明にして後世のものの作なるべし。
〇阿知使主(アチノオミ)
阿知は名にして、使主は外国の使の事を主る職名なりしが、後に併せて姓名の如くなりしと云う。此の人は支那の後漢の霊帝(レイテイ)の後なり。応神天皇の89年に、其の子 都賀(ツガ)使主と共に当類(とうるい)十七縣の民を率いて我が国に帰化せり。後106年、阿知使主父子 呉(クレ、次を見よ)に使して工女を求め帰りぬ。大和漢直氏(ヤマトノアヤノアタヒウジ)は此の阿知使主の後にして、坂上・文氏等は都賀使主(ツガノオミ)の後なり。
〇呉の国
呉とは我が国より今の支那の揚子江以南の地方を云える称なり。支那の三国の時代(皇紀881年~920年代頃)の呉(ゴ)国の地に当りしより、其の後の南朝の時代(皇紀1100年頃~1250年頃)までも、なお呉の文字を以て之を唱えしなり。呉をクレと云うは、我が国が東方 日出の朝(あさ)の位置に在るに対し、其の西方 日没の暮れ(くれ)の位置に当れるよりして之を呼びしならんと云う。
〇東文氏と西文氏
文氏(ふみうぢ)の文は職名にして、其の文書を掌(つかさど)るに起る。王仁来りて漢書を上り、且つ文字を習う事を掌りしより、其の子孫 文の氏を賜わりしなり。其の漢直(あやのあたい)より別れたる子孫は、大和に居たりしゆえ、之を東文氏(ヤマトノフミウヂ)と云い、王仁の子孫の河内(かわち)に居たりしゆえ、之を西文氏(カワチノフミウヂ)と云う。やがて其の東西文氏の朝廷に仕えて、文字記録などを掌れるものを東西史部(やまとかわちのふひとべ)と云う。
〇弓月君
支那の始皇帝十二世の孫を融通(ユウツウ)王と云う。我が国にて之を弓月君(ユツキノキミ)と云う。応神天皇の83年百済より来り、其の領民百二十縣、新羅に止められて加羅に在るを奏す。天皇の85年、平群木菟(ヘグリノツク)新羅を伐つに及び、漸く弓月君の人夫を率いて帰るを得たり。弓月君の子を普洞(フドウ)王と云う。秦の姓を賜わりて秦公(ハタノキミ)称し、後世 秦氏(はたうじ)の宗家となる。即ち秦氏は、此の帰化の秦人に賜へる姓にして、其の従い来りし領民を称して秦の民と云う。仁徳(ニントク)天皇の御代 之を諸郡に配置し給い、雄略(ユウリャク)天皇の御代には、此の秦の民九十二部1万8670人ありと云わる。其のこれを統(す)ぶるものを秦造(ハタノミヤツコ)と云う。
〇葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)
武内宿禰の子なり。応神天皇の5年 新羅使を遣わして調貢せしめ、先に質とせし微叱許智(ミシコチ)を伴ないて還らしむ。神功皇后 偽(いつわり)り奏請せるを覚(さと)らずして、襲津彦に護送せしめ給う。襲津彦 対馬に至りて欺かるるを知り、使者を囚(とら)えて之を殺し、新羅に赴きて其の草羅城(ツワラノサシ)を抜き、其の民を虜(とりこ)して帰る。尋(つい)で新羅貢せず、龍津彦 之を討ち、83年加羅に使して弓月君の領民を召し、新羅に留まること3年に及ぶ。平群木菟(ヘグリノツク)新羅を討ちて降すに及び、襲津彦 之と共に弓月君の領民を率いて還る。其の女 磐之媛(イワノヒメ)は仁徳天皇の皇后となりて、履中(リチュウ)・反正(ハンゼイ)・允恭(インギョウ)三天皇を生み、又其の子 葦田宿禰(アシダノスクネ)の孫女 ハエ媛(くさかんむりに夷・ハエヒメ)は、市辺押磐皇子(イチノヘノオシハノミコ)に嫁して、顕宗(ケンゾウ)・仁賢(ニンケン)二天皇を生む。
〇工芸の伝来
応神天皇の御代に百済王より縫衣(ぬいもの)工女・絹織(きぬおり)の職工 並に鍛冶(かぢ)醸酒(さけつくり)の技師を貢し、又新羅王よりは船匠(ふね大工)を献じ、阿知使主の如きは呉より裁縫の工女を携えて還える。かくして韓土より諸種の工芸伝来して、大に我が国の工芸の進歩を促せり。
〇努理使主
百済の貴族にして、応神天皇の御代に帰化す。子孫 養蚕・機織(はたおり)の業を世々にし、顕宗天皇の御代に絹織の物を貢ぎ献りしより、調(ツギ)の姓を賜わる。努理使主(ヌリノオミ)は調氏(しらべし)の祖なり。
〇上代日韓の関係
我が国と朝鮮とは、一葦帯水を隔てて近く相接したれば、太古より交通ありて神武天皇の皇兄 稲氷命(イナヒノミコト)は海を渡りて新羅の国王となり給いしことを伝う。かくて第十代崇神天皇の時 新羅 加羅を攻めしかば、天皇65年加羅の使者 蘇那曷叱智なるもの朝貢して救を乞う。次帝 垂仁天皇の時、塩乗津彦命なるもの命を奉じて赴き、尋で天皇 加羅の使者に勅して国号を任那と改めしめ給う。是れ任那に日本府あるの起原とす。其の後 第十四代 仲哀天皇の時、神功皇后は熊襲の屡(しばしば)叛くを以て、新羅の後媛に頼めるを思召し給い、武内宿禰と謀りて之を伐ち給いしに、新羅先づ降り、尋で百済・高麗(高句麗のこと)も亦降りて、三韓我が国に服属したり。是より漢学を始め、工芸・美術・佛教等伝来して大に我が文物の進歩を促したり。
〇神功皇后 新羅征伐及び其の効果
(前出)神功皇后の新羅征伐と新羅王の誓約と内官家と工芸伝来と学問伝来の始とを見て、前記の上代 日韓の関係の説明を見るべし。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑥ ~ 仁徳天皇と雄略天皇 顕宗 仁賢 両天皇

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(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ④ 日本武尊 成務天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑦ 朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡 

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑬ 蝦夷の服属 韓土の変遷(百済 高麗の滅亡・新羅の朝鮮半島統一)

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑲ 韓土の(朝鮮半島)変遷(支那との関係) 渤海の入貢

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ③ 崇神天皇と垂仁天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑪ 蘇我氏の無道

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ② 神武天皇

(始めから)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ① 神代 皇基の遼遠

◆古代日本史における朝鮮半島の倭国領を歴史から取り返さなければならない! ~ 朝鮮に文化をもたらし、古代朝鮮半島南部を支配した倭人

◆古代日本が朝鮮半島を領有していた事実をもっと広めなければなりません

◆未来の歴史教科書より ~ ルーツを守らない日本人の未来

◆竹島を武力行使で即奪回せよ! そして、まずは容易に取り返せる古代における朝鮮半島の日本府“任那”を日本史上に奪還し、日本人に再教育せよ! ~ 韓土の日本領も奪回! 朝鮮半島にある前方後円墳

◆戦前の小学歴史教科書準拠 学習問題から ④ 神功皇后

◆『昔の日本はアメリカと同じくらい広かった!』~ 日本人としての自信を持たせた祖母の言葉

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑧ 佛教の伝来と蘇我 物部 両氏の争

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