日本の面影

Glimpses of Japan
失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

戦前の道徳教科書『修身』に見る加藤清正の武勇伝
~ 自虐史観の正反対から見る豊臣秀吉の朝鮮侵攻

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(2012.5.16)
右のオススメにも載せてある、前にもご紹介した戦前の道徳教育『修身』教科書(詳しくは右画像クリック)、いつも学校へ行く前に子供と読んでます。
うちの子は毎朝、「行ってまいります」と言って学校に出かけてますよ~
時々、「行ってきます」になることもありますが、「“行ってまいります”の方がカッコいいよ」ってヨイショして、「行ってまいります」と言って出かけるのを見ると、わが子ながらホレボレしてしまいます ^▽^) もちろん毎朝、玄関で送ってあげてます。毎日が、戦時下で出征する子供を送り出すようなのとほぼ変わらない厳粛な気分で、1日が始まります。

毎朝、「お母さん、行ってまいります」と言って出かける子供を見てると、きっと皆さんの気持ちも変わっていくだろうと思います。逆に、お母さんがご主人を送り出す時は、毎日、敬意を示して送ってさし上げてくださいね。そして、ご主人が帰ってきたら必ず出迎えて上着をとってあげたりするだけで、家の中に全然違う空気が生まれますよ。

今朝の『修身』教科書は、日本の武将を代表する勇猛果敢な加藤清正の朝鮮侵攻にまつわるエピソード。テーマは「信義」(右写真クリックで原文や槍を携えた豪快な清正の挿絵が見れます)。ただ、この話は私も詳しく知らず、この内容だけではわかり難いところも多かったので、よく調べてみたので後に子供にも補足しようと思います。

それにシナ(明)と朝鮮を敵として戦う話なので、学校で子供が気安く話してしまうと余計なトラブルに巻き込まれかねないので、子供には注意しておくよう言いつけてあります。
でも、“世界はお友達”でなく、昔の日本の武将がシナ・朝鮮と命がけで戦っていた・・・リアルな日本の歴史の話だし、子供はノリノリで聞いてましたよ。

加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。肥後国熊本藩初代藩主。別名 虎之助(とらのすけ)
豊臣秀吉の家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。その後も各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国を与えられ、秀吉没後は徳川の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後一国を与えられて熊本藩主となりました。
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朝鮮侵攻(文禄・慶長の役)における加藤清正の痛快な活躍  2012.5.16 wiki参照

豊臣秀吉の命により、文禄元年(1592)に始まる文禄・慶長の役で、日本は朝鮮へ出兵した。

文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房などを傘下に置いた。同じく先鋒である小西行長率いる一番隊とは別路をとり、4月17日の釜山上陸後は行長と首都漢城の攻略を競い、5月3日南大門から漢城に入城した。漢城攻略後は一番隊や黒田長政の三番隊と共に北上し臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破る。その後黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい、海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定。現地の朝鮮人によって生け捕りにされていた朝鮮二王子(臨海君・順和君)を捕虜にした。
更に清正は朝鮮の国境豆満江を越えて、満洲のオランカイ(兀良哈)へ進攻。しかし当地は明への侵攻路から外れている上に得る物が乏しいため、早々に朝鮮領内へ引き上げ、咸鏡北道を帰順した現地朝鮮人の統治域とし、日本軍は吉州以南に布陣した。日本軍の去った咸鏡北道では朝鮮人の義兵が起こり、吉州を攻撃したがこれを撃破する。その後、明軍が現れた京畿道方面に配置転換が命じられ咸鏡道を引き払い漢城に入った。

文禄2年(1593)6月の第二次晋州城の戦いで加藤軍は北面からの攻城を担当し、亀甲車を作り、配下の森本一久・飯田直景が、黒田長政配下の後藤基次と一番乗りを競い城を陥落。

明・朝鮮と本格的な交渉が始まると、清正は主に惟政らに秀吉の講和条件を伝えた。だが秀吉の条件は明にも朝鮮にも到底受け入れられるものではなかった。このため、秀吉の命令を無視してでも和睦を結ぼうとする小西行長・石田三成らは、清正が講和の邪魔になると見て、彼を秀吉に讒訴。清正は京に戻され謹慎となる。増田長盛が三成と和解させようとしたが、清正は断っている。しかし慶長地震の際、秀吉のいる伏見城へ駆けつけ、その場で弁明したことにより許された。

慶長2年(1597)からの慶長の役では、左軍の先鋒となった小西行長に対し、右軍の先鋒となる。再び朝鮮に渡海する際、行長は明・朝鮮軍側に清正の上陸予想地点を密かに知らせ、清正を討たせようとしている。しかし敵の李舜臣はこれをワナだと判断して出撃せず、清正は攻撃を受けなかった

日本軍の作戦目標は先ず全羅道を徹底的に撃滅し、さらに忠清道へも進撃することと、その達成後は後退して拠点となる城郭群を建設することであった。西生浦倭城を発った清正は全羅道に向かって西進し、朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させると、全羅道の道都全州を占領。次に忠清道鎮川まで進出し、ここに最初の作戦目標を達成した。

日本軍の諸将は築城予定地まで後退。清正は西生浦倭城の東方に新たに築城される蔚山(うるさん)の地に入り、自ら縄張りを行った後、加藤安政等を配備して西生浦倭城に移った。蔚山倭城の建設は帰国予定の浅野幸長と宍戸元続等の毛利勢(毛利氏は他に梁山倭城の築城も担当)が担当した。加藤清正は西生浦倭城に加え蔚山倭城の守備担当であった。

慶長2年(1597)12月、完成が間近に迫った蔚山倭城へ5万7千人の明・朝鮮軍が攻め寄せて蔚山城の戦いが始まると、清正は急遽側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城した。未完成で水も食糧も乏しい状況で、毛利秀元や黒田長政等の援軍の到着まで明・朝鮮軍の攻撃に10日ほど耐え、この戦いを明・朝鮮軍に2万人の損害を与える勝利へと導いた。慶長3年(1598)9月にも再び蔚山倭城は攻撃を受けるが、この時には城も完成しており、前回ほど苦戦せずに撃退した。

清正は朝鮮の民衆から「犬、鬼(幽霊)上官」と恐れられた。なお、朝鮮出兵中に虎退治をしたという伝承が残り、そこから虎拳という遊びの元になった。セロリを日本に持ち込んだとされており、セロリの異名の一つが「清正人参」である。

京都市左京区の大徳寺総見院には清正が朝鮮より持ち帰ったとされる朝鮮石を彫り抜いて作られた掘り抜き井戸が残る。
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ちなみに加藤清正を明・朝鮮軍に売り渡そうとしたり、奴らのスパイになっていたようにさえ思える小西行長について。

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小西 行長(こにし ゆきなが)  2012.5.16 wiki参照

泉州堺の商家に生まれ、一時期は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となったキリシタン大名。
朝鮮での戦いが長引き、戦意を喪失した明軍と兵糧不足に悩む日本軍との間の講和交渉の際、行長は石田三成と共に明との講和交渉に携わり、明側の講和担当者・沈惟敬らと共謀し、秀吉には明が降伏すると偽り、明には秀吉が降伏すると偽って講和を結ぼうとする。この時、行長家臣の内藤如安(明側の史料では小西飛騨)が日本側の使者として明の都・北京に向かった。
この結果、明の使者が秀吉を日本国王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日する事になった。これは日本国王が明の臣下になることを意味するもので、秀吉が求めていた講和条件は何ら含まれないものだった。これを秀吉に報告する段階で行長は、書を読み上げる西笑承兌に内容をごまかすよう依頼したが、承兌は書の内容を正しく秀吉に伝えた。このため講和は破綻、この講和交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い死を命じられるが、承兌や前田利家、淀殿らのとりなしにより一命を救われる。
文禄・慶長の役の際、加藤清正と先陣を争った。関ヶ原の戦いにおいては西軍の将として奮戦したが敗北し、切腹を拒否して斬首された。

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この記事に対するコメント

  • 【前サイトURLのこの記事へのコメント】

    今の学校で習えないこと、大変勉強になりました。ありがとうございます。
    香奈 | 2012/05/17 6:02 AM

    気持ち良い挨拶での出発風景、こちらまで凛としてきます。
    大人になられた時、家庭での教育のありがたさに、お子様自身が気付かれて、感動されるのだろうなと思いました。
    親って、本当にありがたいですね。
    秀吉のその辺りのお話は、ドラマなどでも細かく描かれたものを見た事がないので、勉強になりました。
    ありがとうございます。
    緑 | 2012/05/17 11:19 AM

    秀吉軍は虐げられた朝鮮民衆の解放軍として迎え入れられ、多数の朝鮮民衆が秀吉軍に従軍したため、秀吉軍の半数が朝鮮人だった。
    ――――――
    「人心怨叛し、倭と同心」(人心は怨み叛き、倭に同調するのみ)
    「賊兵の数、半ばは我国人というが、然るか」(明の朝鮮支援軍が駆けつけると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であった)
    『宣祖実録』

    「倭奴幾ばくもなし、半ばは叛民、極めて寒心すべし」
    『鶴峯集』金誠一

    日本軍は朝鮮上陸後わずか二十日間で首都漢城を占領した。
    快進撃の背景には日本軍を解放軍として迎えた朝鮮民衆の支援もあったのだ。
    『秀吉が勝てなかった朝鮮武将』貫井正之

    景福宮などの焼失は、大部分の韓国の観光案内板によれば、「壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の兵によるもの」と書かれているが、それは嘘だ。
    李恒福の『白沙集』によれば、秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっていた。
    それは、民衆が兵乱と聞けばすぐに蜂起して、宮廷を襲い略奪したからだ。
    ことに奴婢は、秀吉軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った。
    それが歴史の史実だ。
    『龍を気取る中国 虎の威を借る韓国』黄文雄

    『宣祖実録』によれば、「人心怨叛し、倭と同心」するような社会状況の中で、明軍が朝鮮軍支援にかけつけてみると、「斬る所の首級半ば皆朝鮮の民」といったふうだったという。
    また、江戸時代末期に日本で書かれた『征韓偉略』によれば、秀吉の軍隊が京城に入城した時、兵士の半ばは朝鮮の民であったという。
    また、韓国の教科書には「文化財の被害も大きかった。景福宮が焼け、実録を保管した書庫が消失した」と書かれているが、火をつけたのは朝鮮の民であり、秀吉の軍隊が京城に入る前に、既にそれらの建物は焼け落ちていたのである。
    宣祖の京城脱出と同時に、日頃から怨念を抱いていた民衆が略奪・放火をほしいままにしたのであり、「虐げられた朝鮮の民衆にとって、外敵の侵入はまさに解放軍の到来と映った」との指摘すらある。
    『日韓・歴史克服への道』下條正男
    ――――――
    coffee | 2012/05/17 8:23 PM

    朝日新聞ベルマークの記事に書こうかと悩みましたが、歴史なのでこちらに。
    朝日新聞が「新発見! 週刊 日本の歴史」創刊だそうですが、古代史何でも朝鮮から伝わった、武士の歴史までも朝鮮ガーとか捏造満載じゃないかと嫌な予感です。
    http://publications.asahi.com/rekishi/
    http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=14879
    http://publications.asahi.com/news/325.shtml
    マリメッコ | 2013/06/12 1:33 PM

    ブログでいつも勉強させて貰っています。
    いくつかある修身の記事にて本の存在を知り、今年に入り本屋で見かけた修身の本を購入しました。
    私にも子供たちがおり、休日には子らと読み進めております。
    『修身』が当たり前だった時のように国民に広く浸透する事を願ってやみません。
    輝 | 2014/05/17 11:42 PM

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