真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑨
聖徳太子 支那へ使節派遣
(2017.8.31)
これをアップした直後に聖徳太子の表記が教科書から消されるというニュースが流れてきて、ひと騒動ありましたね。これでも私のブログはいろんな意外なところから注目されてるようなので、そういうのよくあるんですよ ^^) その時は何とか聖徳太子の名は残していくということになったようですが、安心はできませんし、問題は聖徳太子の表記だけではありませぬ。
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今では聖徳太子が教科書から消され、実在しない人物だのとひどい内容で教えられ始めてるのはご存知ですか? 「法隆寺も聖徳太子とは何の関係もない」だのと。
【参照:あの「聖徳太子」が教科書から姿を消すワケ。聖徳太子は実在しない。十七条憲法等も聖徳太子が作ったものではない 東洋経済 2016.5.25】
慰安婦や南京大虐殺だのの人々が食いつきやすい問題で大騒ぎさせてる間に、日本の成り立ちたる歴史の基盤がメチャクチャされてます。日本府任那などが歴史から消されたように、聖徳太子などもいなかったとして歴史から消され、今後の学校教育ではそれが歴史の常識とされてしまうわけです。
戦前の歴史学習書等がどうなってたか、ぜひ本シリーズでご確認されてください。現代学校教育はデタラメです。正しい歴史を、子供たち次代へ継承させていく思いを強く持ってくださいませ。
現代の日本人は知ってるようで、実はよく知らない聖徳太子。ちなみに、ただいま話題の天皇譲位や摂政問題で騒がれてる、この平成の世ですが、譲位の始まりや摂政についてなど、今回とても興味深い内容にも触れられてますよ。
『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より |
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聖徳太子の摂政 祟峻(スシュン)天皇の崩後 炊屋姫(カシキヤヒメ)皇后(推古天皇)の御即位―天皇は蘇我馬子の妹の出にて敏達(ビダツ)天皇の皇后(女帝の始)―皇太子 聖徳太子(厩戸皇子)の摂政―皇子の賢明と才智―政治の改革。 内政の改革 支那へ使節派遣 太子の佛教興隆 |
〇女帝の始 崇峻天皇崩じ給うや、群臣 炊屋姫(カシキヤヒメ)皇后に皇位を勧め奉る。皇后 之を辞し給いしが、百官勧め奉ること三度に及び、遂に即位し給う。之を推古天皇と申す。天皇は欽明(キンメイ)天皇の第二皇女にして、御母は蘇我稲目の女皇太夫人 堅塩媛(キタシヒメ)用明天皇の御同母妹なり。始め立ちて敏達天皇の皇后とならせ給いしが、是に至りて天位に即き給う。実に我が國 女帝の始なりとす。 〇聖徳太子の摂政 用明(ヨウメイ)天皇の第二皇子にして、初め厩戸(ウマヤド)皇子と云う。推古天皇 即位し給うに及び、女にして物を解せず、萬機(ばんき・政治上の多くの重要な事柄) 日に愼(つつし)むとのたまい、聖徳太子の賢明なるを以て庶政を委ねて摂行せしめ給う。是より先き、応神天皇ご幼少の時、御母 神功皇后 摂政し給いしが、此に至り皇太子始めて摂政し給えり。 〇聖徳太子の賢明と其の事蹟 太子の御母 解任にましましし時、禁中を巡行して馬官に至り、厩戸(うまやど)に当りて誕生し給う。よりて厩戸皇子(ウマヤドノミコ)と申す。太子 生まれながらにして能く言う。聖智あり、成長に及び一度に十人の訴を聞きてよく弁じ、兼て未然をも知り給う。而して佛法を高麗の僧 恵慈(エイジ)に習い、漢学を博士 覚哿(カクカ)学び給う。父帝 之を愛して宮の南の上殿に居らしめ給いしより、又の名を上宮 厩戸豊聡耳(ウマヤドノトヨトミミ) 太子 とも云う。(太子の事蹟は前項 摂政以下 四天王寺の建立等に至るまでを参照すべし) 〇冠位十二階 推古天皇11年12月、始めて冠位を行わせ給う。其は大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の十二階にして、並に当色の絁(あしぎぬ・古代日本に存在した絹織物の一種)を以て之を縫う。唯 元日には之に髻華(うず=髪飾り)をつく。翌年 之を諸臣に賜う。 〇暦日の採用 欽明天皇の御代に、百済より暦の博士 屡(しばしば)来りぬ。かくて推古天皇の十年に至り、陽胡玉陳(ヤコノタマフル)なるもの百済より来りし僧 観勒(カンロク)につきて暦法を学びしが、越えて12年正月 朔日(陰暦で月の第一日)より始めて暦日を用ゐらる。 〇憲法十七條(条) 推古天皇の12年 聖徳太子 自ら官民の訓戒となるものを作り給う。其の十七箇条より成るを以て之を憲法十七条と云う。乃ち 第一、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ 云々 第二、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり 云々 第三、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす 云々 第四、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本(もと)とせよ。それ民(たみ)を治むるの本は、かならず礼にあり 云々 第五、餮(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄(す)てて、明らかに訴訟(うったえ)を弁(わきま)えよ 云々 第六、悪しきを懲らし善(ほまれ)を勧むるは、古の良き典(のり)なり。ここをもって人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ 云々 第七、人各(おのおの)任有り。掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし 云々 第八、群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け 云々 第九、信はこれ義の本(もと)なり。事毎(ことごと)に信あれ 云々 第十、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり 云々 第十一、功と過(あやまち)を明らかに察(み)て、賞罰を必ず当てよ 云々 第十二、國司(くにのみこともち)・國造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に収斂(しゅうれん・縮む)することなかれ 云々 第十三、諸の官に任せる者は、同じく職掌を知れ 云々 第十四、群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ 云々 第十五、私を背きて公に向くは、是臣が道なり 云々 第十六、民を使うに時を以てするは、古の良き典なり 云々 第十七、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし 云々 〇朝禮(礼)の改正 推古天皇の12年 9月朝礼を改め、宮門を出入する時、両手にて地を押し、両足を跪(ひざまず)き梱(しきみ・門の内と外とのしきり)を越えて立ち行くこととし給う。翌年閏(うるう)7月、皇太子 更に諸王・諸臣に褶(しひら即ち上裳)をきせしめ、19年 諸臣の服色皆冠色に従いて、各 髻華(うず)をつけ、其の大徳・小徳は金を用ゐ、大仁・小仁は豹尾を用ゐ、大禮以下は鳥尾を用ゐしめらる。 〇國史の編纂 推古天皇の28年、皇太子は蘇我馬子とはかりて、天皇紀・國紀・臣・連・伴・造・國造等の各本紀を録せしめ給う。是れ実に本邦に於ける國史編纂の始とす。後、皇極天皇の4年、蘇我氏滅亡のとき、天皇紀、國紀などは、珍寳(宝)と共に焼失せり。 〇隋の隆盛 支那は我が允恭(インギョウ)天皇の御代の頃(皇紀1080年)東晋の亡びしこのかた、國内久しく紛亂(乱・ふんらん)せしが、我が崇峻(スシュン)天皇の御代の時(1249年)隋の文帝(楊堅・ヨウケン) 之を統一したり。我が推古天皇の13年 煬帝(ヨウダイ)立つに及び、威勢を四隣に振ひ、国運 益(ますます)盛大となる。小野妹子の髄に使せしは、恰(あたか)も此の煬帝の時なり。 〇小野妹子 妹子は天帯彦国押人(アメノタラシヒコクニオシヒト)の後なり。推古天皇に仕えて大禮となり。其の15年 隋に使し、鞍作福利(クラツクリノフクリ)を通辯(弁・つうべん・通訳)とす。妹子の隋に至るや、隋人 之を蘇因高(ソインコウ・小野をサヌと唱え之を約(つづ)めて蘇ソとし又 妹子のイモコを因高と呼びしか)と名づく。翌年 妹子帰るに及び、煬帝 其の臣 裴世清(ハイセイセイ)等に之を送り、且つ日本に使せしむ。尋(つい)で隋使 裴世清の帰らんとするに及び、朝廷また妹子を大使とし、難波雄成(なにわのおなり)を小使とし、鞍作福利を通辯として差遣し給う。明年 妹子 隋より帰りて大徳 冠に進む。 〇隋に贈り給いし我が國書 推古天皇の15年 遣隋使 小野妹子の齎(もた)らしし時の國書に「日出處(所)の天子 書を日没處の天子に致す」とあり、其の再び齎らしし時の國書に「東天皇 敬んで西皇帝に白(まお)す」とありて、其の日出は日本を云い、日没は支那を云う。而(しか)して共に天子と云い、皇帝と云えるは、対等の称号を用ゐ給いしなり。 其の先 支那の魏(ぎ)の文帝の後に出づ。推古天皇の16年 小野妹子に従い留学生として僧 旻(ミン)等 八人と共に隋に赴く。帰路は新羅をへて、舒明天皇の12年に帰朝す。孝徳天皇の大化2年 國博士となりて改新の顧問(こもん)にあづかり、小徳冠を授けらる。同年また新羅に使して人質を徴し、5年僧 旻と共に八省・百官の設置に與(あた)る。後、白雉(はくち)5年 大唐押使となりて唐に赴きしが、遂に彼の地に卒す。 〇僧 旻 推古天皇の16年 留学僧として、高向玄理等と共に隋に赴き、舒明天皇の4年、唐使 高表仁(コウヒョウジン)の来るに従いて帰朝す。11年 偶長星の西北に現わるゝや、彗星(ほゝきぼし)なるを云う。孝徳天皇の大化元年、國博士に任ぜられて改新の顧問となり、又 十師(じっし)を定め給うに当り、其の一人となりて衆僧を教導し佛教の修行を督す。かくて深く天皇に崇信せらる。5年 更に詔を受けて高向玄理と八省・百官を制定す。白雉4年 疾(やまい)に臥(ふ)すや、天皇 親臨して之を問い、且 恩命を勅し給う。此の年 遂に寂(じゃく)す。 〇隋 滅びて唐 起る 隋 煬帝は一時 其の盛を極めしが、在位12年にして國内 大に乱れ、我が推古天皇の26年 隋 遂に亡び、李淵代りて帝位に即く(この原本では北宋 初代皇帝 趙匡胤・ちょう きょういんの名になってるが李淵の間違いであろう)、之を唐の高祖とす。かくて我が國と唐との國交また始まる。 〇犬上御田鍬(イヌカミノミタスキ) 推古天皇の22年に隋に使し、翌年 帰朝す。冠 大禮(礼)より進みて大仁となる。隋 亡びて唐 起るに及び、舒明天皇の2年、大仁 薬師恵日(クスシエニチ)と共に始めて唐に使す。時に唐は高祖の弟 太宗 帝位に在り。越えて4年、太宗 高表仁を使とし、御田鍬を送って日本に至らしむ。是に於て我が國と唐との國交始まる。実に御田鍬を以て遣唐使の始なりとす。 〇遣唐使の航路 当時 支那に差遣せられし使者は、難波の三津崎(今の大阪の木津川尻の千本松堤を擬す(なぞらえる)水岸の変遷 屡(しばしば)なるを以て細に考えがたし)より出帆して博多に寄港し、是より朝鮮沿岸を通過し、北路を迂回して支那の渤海湾に入り、今の山東角に上陸して陸路 長安に至るにあり。されど後には、朝鮮沿岸を通過し、是より南路をとりて直に揚子江岸に上陸し、陸路 長安に至るもの多くなれり。 用明天皇の2年、蘇我馬子の諸皇子群臣と物部守屋を滅すに当り、聖徳太子は四天王の木像を作りて頂髪(たきふさ・髪を手繰り上げて房のように束ねたところ)に置き、戦 勝てば寺塔を建つることを誓い給う。乱 平ぐの後、推古天皇の元年始めて四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に立て給う。よりて荒陵山 難波寺とも称し(今の大阪安倍野の北荒陵の東北に接する地に在り)歴朝崇敬の大寺なり。堂塔は屡(しばしば)火災にかゝり、文化9年 大坂の商人 廣(広)く財を募りて工事を起し、其の功 竣(おえ)るに及びて頗(すこぶ)る舊観(きゅうかん・旧観・もとの姿)に復しぬ。 〇法隆寺 大和の生駒郡法隆寺村に在りて斑鳩(イカル)寺と云う。七大寺の一にして。推古天皇の15年に建立し、天智天皇の時 火災にかゝりしが、後 再建したるものなり。本寺は法相宗(ほっそうしゅう)の本山にして、寺域内に大小の塔宇を立て、就中(なかんずく・とりわけ)五重塔中門は絶大なり。本寺の建築は、推古朝の典型(かた)を後世に示せるものにして、最も世に重ぜらる。(法隆寺は1950年に法相宗を離脱、現在は聖徳宗の本山) 譲位は前天皇の御位を皇嗣(こうし)に譲り給うを云う。神武天皇以降 二十五代の間は、其の譲位のことなかりしが、第二十六代 継体天皇 宝祚(ほうそ・皇位)を皇子 安閑(アンカン)天皇に伝え給いて即日 崩御し給う。之を譲位の始とす。後 九代を経て第三十五代 皇極(コウギョク)天皇の御位を孝徳天皇に譲り給い、第四十一代 持統(ジトウ)天皇また位を文武(モンム)天皇に譲り給いしより、歴朝譲位のことあるに至る。又 女帝の始は巳(すで)に推古天皇にも見え、人臣摂政(じんしんせっしょう・皇族ではない摂政)の始は(9歳 清和天皇、外祖 太政大臣 藤原良房の摂行)に見ゆ。而して現行制度には、天皇譲位の制なく、天皇崩御し給えば、皇嗣 踐祚(せんそ・天皇の地位を継ぐこと)して祖宗の神器を受けさせ給うこと、皇室典範 第十条に見え、皇室典範 第一条に、大日本國皇位は祖宗の皇統にして男系の男子 之を継承すると定められ、女帝即位の制なし。又 皇室典範第五章に摂政の制あるも、其の摂政は皇族に限り、人臣の摂政を置く事なきの定めなり。 |
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