日本の面影

Glimpses of Japan
失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑮
奈良奠都 (史書撰修) 隼人 及 西南諸島の服属 (支那との交流)

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(2017.2.22)  (戻る)
今日は奈良 平城京奠都(てんと)、そして当シリーズの原典である國として初めての史書 古事記、そして日本書紀や風土記の編纂、南九州の服属まで達成され現在の日本列島がほぼ完成する流れになります。この後も蝦夷における反乱に対して坂上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられての征行などがありますが、その辺りは現代教育でも一応は教えられており、本シリーズにおける取り上げはいったんここまでとします(後にもう少し先までやる可能性ありますが)。これ以降の歴史は現代の歴史教育でも一応合ってるところもあるのですが、今回掲載分の直後、和気清麻呂や菅原道真のエピソード等、現代教育ではほとんど教えられていません。もちろん建武の中興などの正しい歴史についても。そういったものについては後に別途、本書や戦前の国史教科書等を元に取り上げていくつもりです。

現在の歴史教育では、奈良時代ぐらいまでの神代・古代とされる時代の部分は非常に浅くしか教えられていません。しかも皇統否定、朝鮮史観に偏向してますし。ここで掲載の参考書なら、千年以上前のことでも非常にリアル、現代人でもとっても身近に感ぜられたことと思います。今の作る会とかも工作員の巣窟と化してるし、あそこの教科書とかもムチャクチャですよ。ネットだって今や胡散臭くてアッチ臭い歴史サイトばかり氾濫してますが、昔の歴史学習書の掘り起こし、最も大事でとってもシンプルなことなのに今までそれを誰もやっていない。ここではそれをやっていきます。ロデム自らやってますよ。これは偉大な作業だと信じてますし、後にきっと、ここにあることはジワジワ広がっていくでしょう。そういうのさえ知っていれば、商業主義、小銭稼ぎでポコポコと売りに出されてるような歴史関係書なんてほとんど不要なんです。戦前の人々が学んでたものをまずは土台にしておく、それだけで今の教育で育った人々とは全然違った歴史観が持てますし、その上で独自探求を深めていけばいい。それだけのことです。
断絶された歴史を学び、戦前の人々の思いに通じてくださいませ。それでは今後とも、ご支援のほどよろしくお願いいたします。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

奈良奠都
元明天皇(天智天皇の皇女)の御即位―神武天皇以来の歴代遷都―國運の進歩―支那との交通頻繁―壮大の帝都の必要起る―和銅3年 奈良に奠都―結構 唐の制に倣う―條・坊の区画等完備(平城京の称)―建築の壮麗―政治の繁多―都下の人口増加―遷都の事 困難となる―光仁(こうにん)天皇に至る迄 七代70餘年間の帝都―奈良時代の称(奈良朝とも云う)。

和同開珎の鋳造
元明天皇の朝 武蔵より和銅を献ず―和銅と改元―和同開珎の貨幣鋳造―物々交換の代りに貨幣の適用―商業の進歩を促がす。

國史 地誌の撰修
稗田阿礼(ヒエダノアレ)古伝を暗記す―太安万侶(オホノヤスマロ)古事記を上る(和銅5年 歴史の始)元正(ゲンショウ)天皇(天武天皇孫女)元明(ゲンメイ)天皇に次いで御即位―舎人親王(トネリシンノウ) 日本書紀を上る(養老4年に成る漢文の國史)―六國史 成る―元明天皇の時 諸國より地誌を上る(地誌の始)―風土記。

隼人の服属
九州南部の隼人―其の一部の反乱―元正天皇の時また騒擾(そうじょう)す―大伴旅人(オホトモノタビト)の隼人平定―隼人の服従。

西南諸島の服属
掖久(やく・屋久島)・多褹(たね・種子島)・奄美(推古天皇の朝より)人の来朝―文武天皇の時に度感(吐噶喇・トカラ)内附す―元明天皇の時に信覺(信覚・しがき・石垣島)・求美(くみ・久米島)の諸島 服属す―西南邊陲(へんすい・くにざかい)の地 皇化に服す。

支那との交通
支那との國交回復―文武天皇の時 粟田眞人(アワダノマヒト)以下 遣唐使を命ぜらる―使節の往来 頻繁―留学生・留学僧の入唐―当時 使船の航路。


〇神武天皇以来 歴代遷都
上古の世は諸事なほ冠位にして質樸なるが上に、建築の衛も甚だしく進歩せざりき。されば宏大なる都城を経営するの必要なきのみならず、遷都のこともまた頗(すこぶ)る容易なりしかば、神武天皇 橿原(かしわら)の地に宮殿を営み給いしより、歴代大抵都を改められ、殆ど之が慣例(なれ)の如くなりしなり。
〇奈良京の條・坊
奈良の都は元明天皇 和銅3年の遷都にして、之を平城京と云う。今の奈良市の西に在りしなり、此の都域は規模 頗る宏大にして、東西約四十町南北四十五町に及び、羅城(らじょう)を周囲にめぐらし、南面に羅城門を設く。大内裏は北部に在りて、其の大内裏より南面 羅城門に至れる中央に大道あり、之を朱雀大路(すざくおほぢ)と云う。此の朱雀大路を以て、東西両京に分つ。其の東を左京と云い、其の西を右京と云う。條・坊の区画は後の平安京が、八戸を行とし、四行を街(または町)とし、四街(または四町)を保とし、四保を坊とし、四坊を條とし、條を九條になせるに、ほぼ同じとす。
〇七代七十餘年
古来 奈良の朝を七代七十餘年と称す。その七代は、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の御七代を云い、七十餘年は和銅3年より桓武天皇の延暦3年 山城の長岡(乙訓部向日町)に遷都ありし迄、七十五年に渉(わた)れる間を概称せるものなり。此の時代を世に奈良の朝とも、奈良時代とも云う。(尤も以上の御七代中 聖武天皇は恭仁宮・難波宮に居給い、淳仁天皇は保良宮(ほらのみや)に居給いしことあるも皆 一時のことなりしなり。)
〇和同開珎
此の銭貨は和同年間に鋳造せしを以て此の名あり。銀と銅との二種ありて、銀銭は径八分重二匁一分強、銅銭は径八分重一匁、銀銭一文は銅銭四文に当る(匁・もんめは尺貫法による重さの単位。一匁は一貫の千分の一。三・七五グラム)。和銅元年5月、始めて銀銭を行い、同年8月 銅銭を行う。此の開珎の珎の字を珍とせる説あれども、寶(宝)となすをよろしと信ず。
〇物々交換
上古は諸事簡易にして、すべて交易には互に物品を以てして、貨幣の媒介によるの必要起こらず、従いて未だ鋳銭(じゅせん)の事あらざりき。されど早くより、支那・朝鮮の銭の我に伝われるありて銭のこと古書に見えたり。其の後、世事 漸(ようや)く複雑に向うに及びて、貨幣の便あること知られ、持統・文武両天皇の御代に、鋳銭司(じゅせんし)を置かれし事ありしも、なほ普(あまね)くは行われざりき。元明天皇の御代に、和同開珎の鋳造せられ、奈良朝の頃より、銭貨の使用を奨励せられなどして、次第に之を用うるに及び、物々交換の不便を減じて、商業などの進歩を促がすに至れり。
〇稗田安禮(阿礼・ヒエダノアレ)
天武天皇の御代の人なり。人となり聡明にして、目にわたれば口によみ、耳にふるれば心に勤(しる)すと云う。天皇 諸家に伝えたる帝紀など既に正實(実)にたがい、虚偽を加うること多く、其の失を改めざれば、久しからずして其の旨の亡びんことを憂い給い、安禮に勅して帝皇の日継(皇位を継承すること)及び先代の旧辞(古事記や日本書紀以前の歴史書)を謡習せしめ給う。安禮 時に年28、和銅4年に至り、元明天皇 太安麿(オホノヤスマロ)に詔して安禮がよむ所の勅語の旧辞を撰録して上らしめ給う。之を古事記と云う。
〇太安麿(太安万侶・オホノヤスマロ)
神武天皇の皇子 神八井耳命(カンヤイミミノミコト)の後なり。文武・元明・元正の三天皇に仕え、累進して従四位下に叙せられ、氏の長者となりて後 民部卿に拜(拝)す。元明天皇の和銅4年9月、古事記修撰の詔をうけ、翌年正月成りて献上す。養老4年5月、舎人親王等と勅を奉じて日本書紀を修む、成りて之を上る。養老七年七月卒(しゅっ)す。
〇古事記
上中下三巻より成りて書体は漢字の音訓を並び用い、専ら古伝旧聞を其の儘(まま)に録せんことを勉む。我が國 開闢(かいびゃく)より推古天皇に至る迄の事を記せる歴史にして、我が国に現存せる史籍の最も古きものなり。上巻は天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)より彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)以前、中巻は神武天皇より応神天皇以前、下巻は仁徳天皇より推古天皇までの各の事蹟を記せり。元明天皇 和銅5年正月28日、太安麿が稗田安禮より聞き取りたるものを修めて上りしものなり。此の古事記に本居宣長が注釈詳解をなしたる四十八巻を古事記伝という。
〇舎人親王
天武天皇の第三皇子(或は六皇子とし或は五皇子とす)なり。文武天皇の御代に親王となりて二品に叙し、元正天皇の養老2年一品に進む。翌3月 優詔ありて封八百戸を加え前と通じて二千戸(一品は八百戸を定とす)を賜わる。さきに勅を奉じて修むる所の日本書紀、養老4年に至りて之を上る。此の年8月知太政官事(ちだいじょうかんじ)となり、聖武天皇即位に及び封五百戸を増し、天平七年に薨す。年60。詔して太政大臣を贈り給いしが、御子 淳仁天皇即位に及び、天平宝字3年 崇道尽敬(スドウジンキョウ)皇帝の號(号)を上り給えり。
〇日本書紀と六國史
日本書紀は三十巻より成り、神代より持統天皇に至る迄の事実を漢文にて編年体に記せる正史なり。神武天皇以下歴代の記述は、古事記より詳なれども、支那の史記・漢書等に則りて彼の人にも見すべきように漢文を用いたれば、文飾に流るゝの欠点あり。一品 舎人親王 勅を奉じて太安麿等と之を撰修し、養老4年5月に至りて此の三十巻と系図一巻とになし、之を献上せしなり。此の書は菅野真道(スガノノマミチ)等の撰なる続日本紀(文武天皇元年より桓武天皇 延暦10年に至る)藤原緒嗣(オツグ)の撰なる日本後紀(桓武天皇 延暦11年より淳和(ジュンナ)天皇 天長10年に至る)藤原良房の撰なる続日本後紀(天長10年より嘉祥3年に至る)藤原基経等の撰なる文徳貫録(嘉祥3年より天安2年に至る)藤原時平等の撰なる三代実録(天安2年より仁和3年に至り)と共に本朝の六國史と云う。
〇風土記
諸国の土地の肥塉(ひしゃく・塉は痩せ地の意)及び山川原野名號の源由、また古老相伝の旧聞異事、竝(並)に各地より出づる産物等を漢文にて記したる我が國 最古の地誌なり。元明天皇 和銅6年5月、始めて諸国に令して此の風土記を上らしめ給いしより、諸国 漸次に之を上りしなり。今に伝われるは、常陸・出雲・播磨・肥前・豊後の五風土記のみにして、他は散佚(逸)して存せず。
〇隼人
上代に九州の南部 大隅・薩摩地方に住みし人種なり。其の性質 頗る勇猛にして敏捷(びんしょう)なりしより之を隼人(はやと)と名づく。日本書紀に、隼人は彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト・山幸彦のことである)の御兄 火闌降命(ホノスソリノミコト・つまり海幸彦)の裔と見えたるより之を大和民族となし、また熊襲と同地方に住み而も正史に熊襲を記せざるに及びて隼人のことを記せるを以て之を同種族となし、また熊襲・隼人 同種族の証なきを以て、大和民族にも熊襲・隼人 両種族にもあらざる種族となせるあり。
〇大伴旅人
大納言 安麿の長子なり。元明天皇の御代に正五位上に叙せられ、累進して元正天皇 霊亀(れいき)元年従四位上 中務卿となり、養老2年中納言に拝し正四位下 山背(山城国)攝官となる。時に大宰府の隼人反して大隅の國守を殺す、旅人 征隼人持節大将軍となりて之を平ぐ。同五年 功を以て従三位に叙せらる。此の年 元明天皇崩じ給い、旅人 山陵の事を監す。聖武天皇の神亀(じんき)の初年、正三位に叙せられて山城の國事を兼知せしが、出でて大宰師となる。天平二年、召し還されて大納言となり、翌年 従二位に叙せられ尋(つい)で薨ず。年67。旅人文才あり、また和歌をよくす。
〇奈良時代の歴史・地誌の撰修
安麿の著なる古事記、舎人親王・太安麿の著なる日本書紀、諸国より上らしめられたる風土記 是なり。
〇奈良朝の重要著作
古事記・日本書紀・風土記の外、萬葉集・懐風藻(かいふうそう・現存する最古の日本漢詩集) 等なり。

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◆日本神話の絵本について ~ 子供たちに日本と天皇へ愛着を持たせましょう

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◆子育て、死生観が変わる。読んでおきたい日本の古典 ~ 『土佐日記』と、一茶の俳句

◆昨年の国内旅行から ~ 奈良、京都、宮島、姫路、萩……

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この記事に対するコメント

  • 呉PASS出版という出版社が戦前の「國史概説」を復刻出版してるみたいです。他にも色々と良さそうな本を復刻出版していたのでぜひご確認ください。金子堅太郎の帝国憲法に関する本や、戦前の支那の見聞録など面白そうです。
    こういった出版社は応援したいので買うときは新品で注文しようかなと思ってます。Amazonを中心に販売しているみたいです。

  • 日本史の授業では魅力的な観光地を建てられた偉人達がたくさん出てきて面白かったです。「風土記」の記述は「古事記」や「万葉集」の昔の言葉で書かれている、というのはこれこそが日本の古来の精神そのものでりそういうことを意識しながら学んでいけることもとても素朴で情緒や風情がある。日本はいつ日本になったのか、この辺りの歴史も特に重要であり、遷都という概念が大切ですね。

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