日本の面影

Glimpses of Japan
失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑫
大化の新政

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(2017.2.15)  (戻る)
近代国家の礎ともなった輝かしい大化の新政なのですが、古代 氏族制度における権力争いの総括的な流れ、その行き付いた先ともいえましょう。そして肝心なのが、大化の新政(改新)こそ本来あるべき天皇親政を奪回したものであったということ。現代の教育ではここが教えられておらず、ただ単に皇室をめぐる権力争いにすぎなかったかのようにされてますが、本質は天皇親政の奪回、ここなのです。そしてそれは、鎌倉幕府に始まる武家政治によって崩され、後醍醐帝による建武の中興でごく一時期取り返したものの、しばらく天皇親政の体制はないがしろにされ、徳川光圀公による水戸学で江戸時代の間その思いがくすぶり続け、明治維新によって後醍醐帝500年越しの思いを明治天皇が実現、ようやく取り戻したのです。私が何度も言ってる天皇親政こそ日本の正当な政治制度である、その意味がここに来てようやくわかっていただけるのではないでしょうか。戦前の歴史教育における重要な点はそこであり、そして戦後また天皇親政が打ち倒されてしまったということ。だから敗戦後に押し付けられた民主主義制度による現政権なんてものは、利にくらんだ幕府・武家政治と変わらぬ邪な賊軍政治にすぎないのです。
それと「“天皇制(政)”なんてなかった。戦前に打倒 “天皇政”を掲げて共産主義者が作った言葉だ」なんて言って、天皇政という言葉を消し去ろうとしてる者がよくいますよね。あれって日本の歴史がよくわからなくなってしまった現代の日本人に対するデマ、戦前はこの通り天皇親政、つまり天皇政だったんですよ。陛下が政治の中心だったのですから。それが敗戦によって廃されたわけで、もう既に天皇政は打倒されたのです。だから彼らは今さら天皇政という言葉が使われるのを嫌がり、天皇政なんて元からなかったんだってことにしたいわけ。それゆえ「天皇政なんてなかった」と拘る連中こそエセ保守であり、とにかく彼らは天皇政が日本に存在しなかったことにしたい連中ですからね。「天皇政の言葉を使うなって、なんかおかしなことにこだわってる人たちだな」って奇妙に感じられてた方も多いのではないかと思いますが、こういうことなので惑わされちゃダメですよ。もちろんそういう人々は戦後民主主義狂信の左翼であり、他に言ってること見てれば何か変に感じてくるでしょうから、すぐわかりますよ。疑問が一つ解けたでしょう? だから日本の歴史を顧みて真の保守であるなら「天皇政を守れ!天皇政復活!」こそ正しいスローガンなのです。

そして大化の改新といえば今も戸籍や班田収授があげられますが、平安時代中期までは継続されていた奴婢の存在等の記録も生々しく、皆様、興味深い内容かも。何度も禁止された奴婢制度や人身売買、平安中期以降は表向きなくなってるはずですが密かに利用されてるとこもあったようです。また兵庫県の由来は、天智天皇が其の地を兵器の倉庫(兵庫)としていたことに始まることも今日の内容から知れます。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

國勢の推移
古来の官職―家々 之を世襲す―大臣(オホオミ)・大連(オホムラジ)・國造(クニノミヤツコ)・縣主(アガタヌシ)等 土地・人民の私有―中央 及び地方の豪族の威権―弊害 甚だ多くして皇威 軽し―大臣・大連(政権を擅(ほしいまま)にせしもの)の滅亡―學問(学問)及び佛教(仏教)・技術の伝来(韓土より)―支那の文物 直に輸入す―留学生の帰朝―國勢の推移―政治改革の必要。

新政の端緒
推古(スイコ)天皇 孝徳(コウトク)天皇に御譲位―難波に遷都―皇太子 中大兄皇子の輔佐(補佐)―蘇我氏 滅亡の後 天皇の御親政―都鄙(とひ・都と田舎)共に政治上の弊害多し―皇太子 鎌足に謀りて政治の改革―皇太子の御英断―支那の制度に倣い我が舊習(きゅうしゅう・旧習)を参酌(さんしゃく・他と比べ合わせて参考にする)す―中臣鎌足 内大臣に任ず―安倍内麿(アベノウチマロ)左大臣に任ず―蘇我石川麿 右大臣に任ず―天皇 御即位の年を大化元年とす(年号の始)留学生 高向玄理(タカムコノゲンリ)・僧 旻(ミン)の國(国)博士―東國の國司に田畝(でんぽ・たはた)を校し(校する=比べて考える意。校合(きょうごう)する)戸籍を造らしむ―朝廷に鐘匱(しょうき=かねひつ・その首長を介して民の訴状を匱に投書させ、訴えが取り上げられない時は訴人に鐘を打たせるためのもの)を設けて訴に便ならしむ―奴婢の法を定むー使を諸国に遣わして兵器を収めしむ―土地の私賣(買)を禁ず。

新政の詔 下る
豪族 恣(ほしいまま)に土地人民を私有す―勢力者の兼併(けんぺい・他の所有地や国を併合すること)―皇威の不振―宿弊(年来の悪習)の矯正―新政の詔 下る(大化2年)。

新政の大要
私有の土地・人民を朝廷に収む―食封(じきふ)又は布帛(ふはく)を賜わる―京都及び國郡の制を定む―畿内を區畫(区画)し地方を國・郡・里に分つ―戸籍を作り口分田(くぶんでん)の制を定む(班田収授法)―旧来の貢・徭役(ようえき)をやめ租・庸・調の税法を定む―國司・郡司を置く―旧國造 中のものを郡司に選抜す―國司は京都より交代赴任(ふにん)す―要地に関塞(せきそこ・関所)を設(もう)く―九州に防人(さきもり)を置く―驛馬(えきば・駅馬)・傳馬(でんま・伝馬)の制を立つ。

中央集権の基礎固定
八省・百官の設置―新に官位・礼法を定む―才能によりて官職を授く―人才 登庸(用)の道開く―中央集権の基礎固定す―種々の制度また備わる。

〇上古 官職の世襲
我が國の上古は家々一定の職業ありて、代々 之を相つぐの俗あり。即ち大伴部・物部は兵士となり、中臣部・斎部は祭祀に従い、玉作部は玉を作り、土師部は土器を製するなど、皆 定まれる職ありて之を世襲し、而(しか)も各部民には之をすぶるものありて、また之を家職として世襲す。其の大伴氏・物部氏の如きは兵士を卒ゐて(兵士を集めて)宮中を警衛し、中臣氏・斎部氏の如きは祭祀を主(つかさ)どりて、以て各朝廷に仕え奉り、又 大伴・物部両氏の連の家に出でて大政に参与せるものを大連と云い、蘇我氏等の臣の家に出でて大政に参与せるものを大臣と云う。是等の官職は國造(コチラ参照)などと共に子孫 皆 之を世襲したり。
〇大臣・大連等の擅権(せんけん・専権)と其の衰亡
大臣・大連・国造・縣主等 皆 其の官職を世襲し、年をふるに伴いて多くの土地・人民を私有し、従いて威権を恣にし専横なること甚だしくなりぬ。中にも大連の職に在りし家柄にて、大伴氏は欽明天皇の御代に金村の隠退(いんたい)せしより顯(あら)われず、物部氏は用明天皇の御代に至り守屋 蘇我氏の為に亡ぼされぬ。是より大連の職 久しくたゆ。而して大臣の職に在りし家柄は、武内宿禰(タケノウチノスクネ)の後に葛城(かつらぎ)・平群(へぐり)・巨勢(こせ)・蘇我の諸氏ありしが、葛城氏は圓(つぶら・円)安康(アンコウ)天皇の崩後に誅せられ、其の一代にしてまた出でず。平群氏も眞鳥(まとり)仁賢(ニンケン)天皇の崩後に殺され、其の一代にして亡び、巨勢氏も継体天皇の御代に男人(ヲヒト)出でし後また顯(あら)われず。尋(つい)で蘇我稲目の大臣となるや政権を擅(ほしいまま)にし、其の子 蝦夷 其の孫 入鹿 大臣の職に在りて無道なること甚だしかりしが、蝦夷・入鹿の父子 遂に誅に伏して大化の改新 行われ、ここに大臣・大連の職すたれて其の擅権(専権・思うままに権力をふりまわすこと)の如き弊害 全くやむに至れり。
〇年号(年號)の始
支那にて年號を定めしは、漢の考武帝の世(皇紀521年)に建元(ケンゲン)の號を立てしを始とす。我が國にして、大化の改新以前に僧侶の間には、私に年號をとなへ居りしことありて。之を世に私年號(しねんごう)という。されど支那の例にならいて、朝廷より公に年號を定め給いしは、實(実)に大化を以て始なりとす。是より後は、天皇の御即位 其の他 吉凶の大事等によりて、常に改元ありしが、明治の昭代に及び一世一元(一せい一げん)と定められたり。
〇校田(こうでん)と造戸籍
是より先き、権力ある者は恣に土地・人民を私有して、田地の制もすたれ、戸籍の法もみだれたりき。大化元年八月、天皇 東國等の國司(こくし)を召し、詔して各其の管内の田地を校(しらぶ)し戸籍を造らしめ給い、又 大和の國の六縣に使を遣わし、戸籍を造り田地を検せしめ給えり。是れ等はやがて大化改新の政治の行わせらるる先軀(駆・さきがけ)とも云うべきなり。
〇鐘匱(しょうき=かねひつ)の設置
大化元年八月、朝廷に鐘(かね)匱(はこ)とを設け、詔し給いて曰く、若し憂え訴うる人あらば、各尊長などに考えて之を奏すべく、尊長などもなくして、訴うる所を審にせざるものに、牒(かきつけ)を匱に納るれば、各其の罪を以て罰せん、其の牒を収むるものは、朝夕に牒を取りて内裏に奏すべし、或は官吏 怠りて理ならず、或は阿黨(あとう・阿党・権力のある者におもねり組すること)して訴を曲ぐることあらば以て鐘をつくべしと。のたまい給う。
〇奴婢の法
大化元年八月、奴婢の法を定め給う。即ち良男良女の生む所の子は其の父につけ、良男の婢によりて生む所の子は其の婢につけ、良女奴によりて生む所の子は其の奴につけ、奴婢の生む所の子は其の婢につけ、寺家の子は良人の法にしたがい、若し別に奴婢に入れば、奴婢法にしたがうべしと定めさせらる。
〇兵器を収む
大化元年八月、閑曠(かんこう・あき地)の所に兵庫(つわものぐら)を作りて國郡に在る刀・甲・弓・矢を収め、近く蝦夷と境を接する邊國(辺国)には、盡(ことごと)く其の武器を集め、なほ本の主にあづけしめ給い、翌九月 使を諸国に遣わして種々の兵器を集めしめ給う。
〇土地 私賣(売)の禁
孝徳天皇即位の頃は、天下の百姓なほ乏しくして、勢力あるものは土地を分割して私有とし、百姓に売与して年々其の儥を求む。是に於て大化元年九月、詔して土地を賣るを禁じ、妄(みだ)りに主となりて劣弱のものを兼併(他の所有地や国を併合する)することなからしめ給う。
〇大化改新の詔
大化2年正月賀正(年始)の禮 崋るや、改新の詔を下し給う。其の一曰く、昔 天皇等の立てし所の子代の民(名を後世に伝うる為に設けし民)處々(ところどころ)の屯倉(みやけ・コチラ参照)及び別に臣・連・國造等の有せる民と處々の土地とを罷(や)めよ。其の二曰く、初めて京師(けいし・みやこ)を修め、畿内に國司・郡司・関塞(せきそこ)片候・防人(さきもり)驛馬(えきば)・傳馬(てんま)を置き、鈴契(すずしるし)を造り山河を定めよ。凡そ京には坊(まち)毎に長を置き、四坊に令一人を置き、戸口を検し好非を察することを掌らしむ。其の三に曰く、初めて戸籍計帳(数を記す帳 班田収授之法を造る。凡そ五十戸を里とし毎里に長を置き、戸口を検し農業を課し悲違(法に背くこと)を禁じ賦役をを催さしむ。其の四に曰く、舊(旧)い賦役の法をやめて祖・庸・調の法を行う。
〇食封・布帛(織物・きれじ)の下賜
食封(じきふ)は勲功・位階・職分あるものに賜わる課戸(かこ・戸中に調庸を諭す男、即ち其の課に一人以上ある戸を云う)を云う。大化改新の時、一般に私有の土地・人民を収めて公地・公民とし給いしを以て、大夫(後の五位以上のもの)以上には各差を以て食封を賜い、其の他の百官人民には各差を以て布帛(ふはく)を賜う。後世 食封には、位封・職封・功封の別定まり、位封(一品 八百戸より四品 三百戸に至る正一位 三百戸より従三位百戸に至る)は位階あるものに、職封(太政大臣三千戸より大納言八百戸に至る)は官職あるものに、功封(五位功を以てす大功は三世に伝え上功二世に伝え中功子に伝え下功一代限)に勲功あるものに各賜りたり。
〇畿内の区画
東は名墾の横川(伊賀の名墾川(西川)(か)より、南は紀伊の兄山(せのやま 紀州附近か)より、西は播磨の赤石の櫛淵(今の明石郡)より、北は近江の狭々波の合坂山(今の滋賀群)までとす。此の時未だ国を定めず、唯 京都に近き四方の地を以て畿内を確定せしなり。
〇郡里の制
凡そ50戸を一里とし、其の40里を大群とし、30里以下4里以上を中群とし、3里を小郡とす、大寶(宝)以後には大上中下小の五等に分ち、20里以下16里を大郡とし、12里以上を上郡とし、8里以上を中群とし、4里を下郡とし、2里以上を小郡とす。
〇班田収授の法
此の時 班田収授の法を設け、天下の人民に男女ともに一定の田地を班(わか)ち授け、其の人 死すれば之を収めたり。之を区分田(くぶんでん)という。大寶(宝)令によれば、男子 生れて6歳に至れば、田二段を班ち授け、女には其の三分の一を減じて給す。
〇租・庸・調
租は田地の収穫の一部を納めしめ、調は織物等の産物を納めしめ、庸は力役の代りに布米を納めしむるを云う。即ち租は凡そ段毎に稲二束二把を納め、調は凡そ田一町毎に、絹一丈 䊶二丈、戸別に布 一丈二尺を納め、調の副物として鹽(塩)等土地の産物を納め、庸は凡そ戸別に租一丈二尺 米五斗を納むる定めとす。後しばしば改正ありて、大宝令の制には、租は田一段毎に稲二束二把、調は正丁一人歳役十日の代りに、布二丈六尺の割合にて、納むるを定めとす。而して稲一束は舂五升を得(舂とは穀物などを臼に入れてつくこと)、当時の一升は現今の枡にて四合餘に当る。
〇國司・郡司
國司は朝廷より諸國に置ける地方官の称にして、各國衛(役所)に在り、勅を奉じて其の管内の政務を行うものを云う。上古には國宰とも書して、之をクニノミコトモチとよび、早く神功皇后摂政の時に、新羅の宰を置き給い、仁徳天皇の時に遠江の國司、雄略天皇の時に任那の國司を置き給いしも、未だ一般に設けられしにあらず。大化元年 新に始めて東國に國司を置かれ、翌2年 畿内に之を置かれしより諸国一般に國司あるに至る。かくて大宝令によりて大に備わり、國衛に在りて政務を主(つかさど)れるものは、守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さくわん)の四部官の総称となり、年限も6年に定めらる。後 國司の年限は4年となり、また6年にふくし更に弘仁(こうにん)6年に4年となり天長元年介以上6年となりしが、承和(じょうわ)2年以後は4年となる。郡司は國司の下に属したる郡家(郡役所を云いまた郡院とも云う)に在りて各郡内の政務を行うものを云う。孝徳天皇の大化2年 之を置き、國造の清廉にして時務(その時々の急務)に堪うるものを其の長官とし、聰敏(そうびん・賢く物わかりが早いこと)にして書算に巧みなるものを其の下役に任ず。大宝令にて郡司も大領(かみ)小領(すけ)主政(じょう)主帳(さくわん)の四部官を定められ、其の下に郡の大小によりて書生・案主(あんず)を置かる。而して郡司は世襲たり。
〇關塞
關(関)は塞(せ)く意なり。国境及び要害の地に設けたる門にして之に吏を置きて往来の人をせきて糺(ただ)すを云う。天武天皇の御代に鈴鹿關・龍田山・大坂山の關など見えたり。
〇驛馬・傳馬
驛馬(えきば)は紅葉にて官吏の諸国に赴く為に、各駅に備え置く馬を云う。之をハユマと云えるは、ハヤウマの約にて早馬の義なり。傳馬(てんま)もまた官吏の乗用に供する為に備えたる馬なり。驛馬と傳馬とは、同じく管理の公用の為に乗るものなれども、事急なれば驛馬に乗り、事緩なれば傳馬に乗るを定とす。故に傳馬をまた早馬といえれど、驛馬とは其の間に軽重の差ありしなり。驛馬・傳馬を使用する時は、官吏 其の賜わりたる鈴を鳴らして徴発のしるしとす。之を驛鈴と云う。
サキモリと云うは、埼守の義にて邊(辺)要の地を守れる兵士を云う。早くより邊要を守れるものを置かれしが、未だ防人と称せず。大化2年に至り、始めて防人を定め置かる。大宝令に防人司を置きて之をすべしめ、諸国軍団の兵士を遣わして、三年間邊要(九州及び東國)の地を守らしめらる。其の後 廃地ありしが、対馬の如きは此の防人を弘安年間まで置かれたり。
〇大化の改新
既に前に掲げたる大化改新の詔 以下の各項の要領を云うなり。
〇大化の改新に重要なる人物
中大兄皇子の外に中臣鎌足・蘇我石川麿・僧 旻(ミン)・高向玄理等は改新に輿(よ)って大に力ありし人人なりとす。
〇本邦政治の三大変革
大化の改新と鎌倉幕府の創立と明治維新との三を以て政治上の三大変(變)革となす。大化改新は上古の氏族制度や部民(コチラ参照)制度を廃し、唐風に倣(なら)いて中央集権の制を採用し、上は官制より下は社会上の組織に至るまで広き範囲に亙れる改革なり。又 鎌倉幕府の創立は、久しき間 実力を養い来りし武門の朝臣に代りて天下の政権を掌握し、此に簡易なる武家政治の始をなしたるものにして、未曽有の変革なり。又 明治維新は、源頼朝の武家政治を始めしより、七百年間 天下の政権を掌握したりし幕府倒れて、武家封建の制度壊れ、政権 再び朝廷に還りて古の王政に復し諸藩の改革 行われ、泰西(西洋)の文物輸入せられて、全く従来の面目を一新したる変革なりとす。
〇大化改新と明治維新と相似の點(点)の比較
大化改新と明治維新とは、我が國 政治上の大変革にして、其の旨 赴の同一なるのみならず、其の施設もまた相似の点 少しとせず。
(1)蘇我氏の専横と徳川幕府の政権を掌握せることと何れも久しく、其の討滅と政権訪韓とによりて、並びに旧来の積弊(長い間に積もり重なった弊害)を一洗して改新の気運を啓(ひら)くに至る。
(2)中央集権の断行に当り、大化改新には有力者の私有せる土地・人民を公収し、明治維新にありては、各藩主の領有せる封土を朝廷に納れしむ。
(3)諸般の制度を改むるに及び、大化の改新には、従来の國造・縣主等を廃して國司・郡司を置き、畿内を区画し、郡・里の制を定め、租・庸・調の法を設け、驛馬・傳馬を置く、明治維新には、先づ徳川氏 直轄の地に府・藩・懸を置き、諸藩の封土を奉還するに及び、一般に知事・郡長を配布し、東京を奠(さだ)め、鉄道・港湾を設けて交通を便利となす。
(4)大化改新には、才幹あるものは國造と雖(いえど)も之を郡司に任用し、廣(広)く人材を選抜せしが、明治維新の施政方針の第一條に、広く会議を興し萬機を公論に決すべしと宣し給いて、広く天下の人才を集め給い、而も大化改新には、制度の隋唐の文物・典章に斟酌(しんしゃく・あれこれ照らし合わせて取捨すること)すること多くして、後、大宝令の制定となり、明治維新には、泰西の法礼、規則を参考すること少なからずして、やがて憲法の発布をも見るに至る。
〇大化新政の要領
本章に記せる大化改新の詔の大略より、以下 防人設置に至るまでの各事項は、即ち大化改新の要領なりとす。

(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑬ ~ 蝦夷の服属 韓土の変遷(百済 高句麗の滅亡・新羅の朝鮮半島統一)

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◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑩ 佛教の興隆 美術・工藝の進歩

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◆往年の日本映画を子供が見はじめました! ~ 『山椒大夫』 『隠し砦の三悪人』

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◆戦前は逆賊歴史学として処罰されてた、左翼学者による皇統否定の「縄文・弥生」時代の敗戦後の普及 ~ 汚染される皇室。救う手だては皇室奪回

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