日本の面影

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失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ②
第二十三 楠木正成

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(2017.3.26)  (始めから)
(尋常小学国史より)第一回目をお読みになればおわかりの通り、今教えられてる歴史はデタラメ。目先の近代史ばかりが本質攪乱のためか騒がれてるが、実際は古代そして建武の中興を主とした中世などが特に輪をかけてひどい。よくある「新しい歴史」だの「経済から見る」だの……他、次々と出される歴史関連書の類も時間のムダ、お金のムダ、あの種の本も読んではいけない。つくる会の教科書なんてのもまるで使い物にならない。新しいものを追い続けるのでなく、本物は過去の本にあります。まずは昔の歴史教科書を読めばそれですべて足りるんです。やるべきことの答えはとってもシンプルなのに、誰もそれをやろうとしない、それをやりましょうとも誰も言わない。連中にとってそれでは儲からないから。そして日本人が本質的問題に気づかれても困るから。だから私はここを見られてる方にはそれが出来るようやっていこうと。今じゃ戦前の教科書を誰も知らない。何も知らないのにああでもないこうでもないと無駄な論議ばかりやらされてる。
昔の教科書は歴史の本当のおもしろさも知れる。それらを土台に独自に掘り下げていけばいい。今の歴史教育は唯物的、道義もない、ゆえに日本人の心を育てるものが何もありません。戦後の無味乾燥な歴史教科書でいくら勉強しても、どんなに高度な歴史の受験勉強しようとも何も学べないんです。

第二回の今回は、天皇への忠義をまっとうした武将として戦前は最も崇敬されていた英雄 大楠公。

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

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尋常小学国史 第二十三 楠木正成(くすのきまさしげ)

尊氏の野心
鎌倉幕府が倒れて政権が朝廷にかえってから、朝廷の御威光は再び盛んになった。けれども、武士の中には、長い間幕府の政治になれていたため、君臣の大義を忘れ、朝廷の賞罰に不平を持ち、かえって武家の政治をよろこぶものが少なくなかった。足利尊氏は、かねがね将軍になりたいと望んでいたので、これら不平の武士を、ひそかに手なづけていた。
護良親王が害されなさった
護良(もりなが)親王は、早くも尊氏の野心をさとって、これを除こうとせられたが、かえって尊氏に讒言(ざんげん)させられ、これがために鎌倉に送られておしこめられたもうた。この頃、尊氏の弟の直義(ただよし)がその地を治めていたが、たまたま北條高時の子の時行(ときゆき)が兵を起して、鎌倉を取り戻そうとした。この戦に、直義は敗れて鎌倉を逃出したが、その時、おそれ多くも人をやって親王を害したてまつった。
鎌倉宮
親王の御年は、時にまだ二十八であった。鎌倉宮(かまくらのみや)は、親王をおまつり申し上げたお社(やしろ)である。
尊氏がそむいた
尊氏は、征夷大将軍となって東国を治めたいと、朝廷にお願い申したが、まだその御許しもないうちに、勝手に鎌倉に下って時行をうち破り、まもなく、その地に拠って朝廷にそむいた。天皇は、義貞をやって、これをお討たせになった。ところが、官軍は竹下(たけのした)や箱根の戦に敗れて退いたので、尊氏は、直義と共に、京都へ攻上って来た。天皇は、これを避けて、しばし比叡山にお出ましになった。けれども、この頃、天皇の御子 義良(のりなが)親王をいただいて奥州を守っていた北畠顕家(きたばたけあきいえ)も、また朝廷の御命令を受け、親王のお供をして、兵をひきいて京都へ上って来た。
尊氏兄弟が九州に走った
そうして、正成や義貞らと力を合わせて大いに賊軍を破り、尊氏や直義を西国へ走らせたので、天皇はふたたび京都におかえりになった。
尊氏兄弟が京都に攻上って来た
尊氏は、九州にいて勢いを盛り返し、直義と共に海陸両軍をひきいて、京都へ攻上って来た。そこで、義貞がこれを兵庫で防ごうとしたが、賊の勢がたいへん盛なので、天皇は、正成をやって、義貞を助けさせられることになった。この時、正成は、しばらく賊の勢を避け、その勢が衰えるのを待って、一度にうち滅ぼそうという謀を建てたが、用いられなかった。それ故、正成は、おほせに従って、ただちに京都を立った。
正成が桜井の駅で正行をさとした
途中、桜井の駅に着いた時、かねて天皇からいただいていた菊水(きくすい)の刀を、かたみとして子の正行(まさつら)に与え、「この度の合戦には、味方が勝つことはむづかしい。自分が戦死した後は、天下は足利氏のものとなろう。けれども、そなたは、どんなつらい目にあっても、自分に代わって忠義の志を全うしてもらいたい。これが何よりの孝行であるぞ。」と、ねんごろにさとして河内へ帰らせた。それから、進んで湊川(みなとがわ)に陣を取り、直義の陸軍と戦ったが、その間に、尊氏の海軍も上陸して、後から攻めかかって来た。正成は大いに奮戦した。けれども、小勢(こぜい)で、かように前後(まえうしろ)に大敵を受けてはどうすることも出来ず、部下はたいてい戦死し、正成も身に11個所の傷を受けた。
正成が湊川で戦死した
そこで、もはやこれまでと覚悟して、湊川の近くにある民家にはいって自害しようとした。この時、正成は弟の正季(まさすえ)に向って、「最期にのぞんで、何か願うことはないか。」とたずねた。正季は、ただちに「七度(ななたび)人間に生まれかわって、あくまでも朝敵をほろぼしたい。ただそればかりが願である。」と答えた。正成は、いかにも満足そうににっこり笑い、「自分もそう思っているぞ。」と言って、兄弟 互いに刺しあって死んだ。時に、正成は年四十三であった。
湊川神社
今、正成をまつった神戸の湊川神社のあるところは、正成が戦死した地で、境内には、徳川光圀(とくがわみつくに)の建てた「嗚呼 忠臣 楠子之墓」(ああ ちゅうしん なんしのはか )としるした碑がある。


古今 忠臣のかがみ
実に正成は古今忠臣の鏡である。わが国民は、皆、正成のような真心を以て、大いに御国のためにつくさねばならぬ。

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(続き)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ③ 第二十四 新田義貞

(始めから)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ① 第二十二 後醍醐天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より 中世~近代 【目次】

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ④ 第二十五 北畠親房と楠木正行

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑤ 第二十六 菊池武光

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑥ 第二十七 足利氏の僣上

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ④ 日本武尊 成務天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑪ 蘇我氏の無道

◆忠臣の象徴 楠木正成公を称える唱歌『青葉茂れる桜井の』(櫻井の訣別)を10歳の子供にピアノ弾き語りで歌ってもらいました!

◆戦前の絵本から ~ 真実の日本軍。最強だったその勇姿 ②

◆仁・義・礼・智・忠・孝……五倫、四徳、五条、四端の心から道を修むる ~ 侍が学んだものを学び、偉大な先人たちと志を一にす

◆『サスケ』の父に見る子育て ~ 理想的な父親像と男を立てる女たち

◆特攻隊の青春群像 映画『決戦の大空へ 』と、フィリピンの神風記念碑

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この記事に対するコメント

  • 大楠公の真実の姿。現代の歴史教育はあまりに中世史を軽視している。中世こそ日本の時代区分の中でも古代近世近代を繋ぐ文明の揺籃期なのに。

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