日本の面影

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失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ②
第二十三 楠木正成

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(2017.3.26)  (始めから)
(尋常小学国史より)第一回目をお読みになればおわかりの通り、今教えられてる歴史はデタラメ。目先の近代史ばかりが本質攪乱のためか騒がれてるが、実際は古代そして建武の中興を主とした中世などが特に輪をかけてひどい。よくある「新しい歴史」だの「経済から見る」だの……他、次々と出される歴史関連書の類も時間のムダ、お金のムダ、あの種の本も読んではいけない。つくる会の教科書なんてのもまるで使い物にならない。新しいものを追い続けるのでなく、本物は過去の本にあります。まずは昔の歴史教科書を読めばそれですべて足りるんです。やるべきことの答えはとってもシンプルなのに、誰もそれをやろうとしない、それをやりましょうとも誰も言わない。連中にとってそれでは儲からないから。そして日本人が本質的問題に気づかれても困るから。だから私はここを見られてる方にはそれが出来るようやっていこうと。今じゃ戦前の教科書を誰も知らない。何も知らないのにああでもないこうでもないと無駄な論議ばかりやらされてる。
昔の教科書は歴史の本当のおもしろさも知れる。それらを土台に独自に掘り下げていけばいい。今の歴史教育は唯物的、道義もない、ゆえに日本人の心を育てるものが何もありません。戦後の無味乾燥な歴史教科書でいくら勉強しても、どんなに高度な歴史の受験勉強しようとも何も学べないんです。

第二回の今回は、天皇への忠義をまっとうした武将として戦前は最も崇敬されていた英雄 大楠公。

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

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尋常小学国史 第二十三 楠木正成(くすのきまさしげ)

尊氏の野心
鎌倉幕府が倒れて政権が朝廷にかえってから、朝廷の御威光は再び盛んになった。けれども、武士の中には、長い間幕府の政治になれていたため、君臣の大義を忘れ、朝廷の賞罰に不平を持ち、かえって武家の政治をよろこぶものが少なくなかった。足利尊氏は、かねがね将軍になりたいと望んでいたので、これら不平の武士を、ひそかに手なづけていた。
護良親王が害されなさった
護良(もりなが)親王は、早くも尊氏の野心をさとって、これを除こうとせられたが、かえって尊氏に讒言(ざんげん)させられ、これがために鎌倉に送られておしこめられたもうた。この頃、尊氏の弟の直義(ただよし)がその地を治めていたが、たまたま北條高時の子の時行(ときゆき)が兵を起して、鎌倉を取り戻そうとした。この戦に、直義は敗れて鎌倉を逃出したが、その時、おそれ多くも人をやって親王を害したてまつった。
鎌倉宮
親王の御年は、時にまだ二十八であった。鎌倉宮(かまくらのみや)は、親王をおまつり申し上げたお社(やしろ)である。
尊氏がそむいた
尊氏は、征夷大将軍となって東国を治めたいと、朝廷にお願い申したが、まだその御許しもないうちに、勝手に鎌倉に下って時行をうち破り、まもなく、その地に拠って朝廷にそむいた。天皇は、義貞をやって、これをお討たせになった。ところが、官軍は竹下(たけのした)や箱根の戦に敗れて退いたので、尊氏は、直義と共に、京都へ攻上って来た。天皇は、これを避けて、しばし比叡山にお出ましになった。けれども、この頃、天皇の御子 義良(のりなが)親王をいただいて奥州を守っていた北畠顕家(きたばたけあきいえ)も、また朝廷の御命令を受け、親王のお供をして、兵をひきいて京都へ上って来た。
尊氏兄弟が九州に走った
そうして、正成や義貞らと力を合わせて大いに賊軍を破り、尊氏や直義を西国へ走らせたので、天皇はふたたび京都におかえりになった。
尊氏兄弟が京都に攻上って来た
尊氏は、九州にいて勢いを盛り返し、直義と共に海陸両軍をひきいて、京都へ攻上って来た。そこで、義貞がこれを兵庫で防ごうとしたが、賊の勢がたいへん盛なので、天皇は、正成をやって、義貞を助けさせられることになった。この時、正成は、しばらく賊の勢を避け、その勢が衰えるのを待って、一度にうち滅ぼそうという謀を建てたが、用いられなかった。それ故、正成は、おほせに従って、ただちに京都を立った。
正成が桜井の駅で正行をさとした
途中、桜井の駅に着いた時、かねて天皇からいただいていた菊水(きくすい)の刀を、かたみとして子の正行(まさつら)に与え、「この度の合戦には、味方が勝つことはむづかしい。自分が戦死した後は、天下は足利氏のものとなろう。けれども、そなたは、どんなつらい目にあっても、自分に代わって忠義の志を全うしてもらいたい。これが何よりの孝行であるぞ。」と、ねんごろにさとして河内へ帰らせた。それから、進んで湊川(みなとがわ)に陣を取り、直義の陸軍と戦ったが、その間に、尊氏の海軍も上陸して、後から攻めかかって来た。正成は大いに奮戦した。けれども、小勢(こぜい)で、かように前後(まえうしろ)に大敵を受けてはどうすることも出来ず、部下はたいてい戦死し、正成も身に11個所の傷を受けた。
正成が湊川で戦死した
そこで、もはやこれまでと覚悟して、湊川の近くにある民家にはいって自害しようとした。この時、正成は弟の正季(まさすえ)に向って、「最期にのぞんで、何か願うことはないか。」とたずねた。正季は、ただちに「七度(ななたび)人間に生まれかわって、あくまでも朝敵をほろぼしたい。ただそればかりが願である。」と答えた。正成は、いかにも満足そうににっこり笑い、「自分もそう思っているぞ。」と言って、兄弟 互いに刺しあって死んだ。時に、正成は年四十三であった。
湊川神社
今、正成をまつった神戸の湊川神社のあるところは、正成が戦死した地で、境内には、徳川光圀(とくがわみつくに)の建てた「嗚呼 忠臣 楠子之墓」(ああ ちゅうしん なんしのはか )としるした碑がある。


古今 忠臣のかがみ
実に正成は古今忠臣の鏡である。わが国民は、皆、正成のような真心を以て、大いに御国のためにつくさねばならぬ。

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(続き)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ③ 第二十四 新田義貞

(始めから)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ① 第二十二 後醍醐天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より 中世~近代 【目次】

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ④ 第二十五 北畠親房と楠木正行

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑤ 第二十六 菊池武光

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑥ 第二十七 足利氏の僣上

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ④ 日本武尊 成務天皇

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑪ 蘇我氏の無道

◆忠臣の象徴 楠木正成公を称える唱歌『青葉茂れる桜井の』(櫻井の訣別)を10歳の子供にピアノ弾き語りで歌ってもらいました!

◆戦前の絵本から ~ 真実の日本軍。最強だったその勇姿 ②

◆仁・義・礼・智・忠・孝……五倫、四徳、五条、四端の心から道を修むる ~ 侍が学んだものを学び、偉大な先人たちと志を一にす

◆『サスケ』の父に見る子育て ~ 理想的な父親像と男を立てる女たち

◆特攻隊の青春群像 映画『決戦の大空へ 』と、フィリピンの神風記念碑

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真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ①
第二十二 後醍醐天皇

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(2017.3.25)
戦後のド腐れ歴史教育に染められた日本中を震撼させた、百年前、戦前の歴史教科書準拠参考書の神代・古代史の掲載に続き、お待たせしておりましたが、今回は戦前の国定歴史教科書 尋常小学国史から掲載していきます(昭和10年版を採用。もちろん図表類も戦前の学習資料から取り入れます。現代日本人にわかりやすくするため、仮名遣い表記は現代に近づけます)。

戦前の子供たちが学び、現代日本ではまるで教えられていないものに、建武の中興や後醍醐帝の正当性があります。なのでもちろん、本日、第一回目のテーマはこれです。これを知らずして戦前の人々の思いは理解できません。今の左翼史観では南朝と呼ばれる吉野朝の華麗なる忠臣たちが続々登場する時代、逆賊 足利尊氏の不逞、現代と全く異なる戦前歴史教育の一大キーポイントであり、後に天皇が、武士(徳川幕府)から政権奪回した明治維新達成(大政奉還)の本来の意義につながります。また今では建武の新政と教えられているものも、天皇陛下あっての日本という見方からすれば、建武の中興が正しいのです。そして戦後、政権は天皇の元から再び奪われ、今また日本は危機を迎えており、再び取り返さねばならない時が来ているのです。

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

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尋常小学国史 第二十二 後醍醐天皇

天皇が政権を取り戻そうとなさった
弘安の役から40年ばかりたって、第96代 後醍醐天皇が御位にお即きになった。天皇は、後宇多天皇の御子で、聡明な御生まれつきであらせられたから、お小さい時から、御祖父の亀山上皇にたいそうかわいがられていらっしゃった。また学者を召して、広く学問をお修めになり、政治に御心をお用いになって、早くから鎌倉幕府のわがままなふるまいをお怒りになっていたから、後鳥羽上皇の御志をついで、政権を朝廷に取り戻そうとお考えになった。
北條高時
この頃、幕府では、北条時宗の孫の高時が政治を行っていたが、おろかな生まれつきで、昼となく夜となく宴会を催したり、数千匹の犬を集めて、そのかみ合いを見物したりして、少しも政治に力を入れなかったため、たいへん人望を失った。
天皇が笠置山に行幸をなさった
そこで、天皇は、かねてからの御志をしとげるのはこの時であると、ひそかに武士をお召しになった。ところが、この事が、いつのまにか、鎌倉に漏れ聞こえたので、高時は大いに驚き、急に兵を京都へ上がらせて来た。天皇は、これをお避けになって、山城の笠置(かさぎ)山に行幸をなさった。
楠木正成が行在所にまいった
河内の国 金剛山の麓に住んでいた楠木正成は、天皇の御召によって、まっさきに笠置の行在所(あんざいしょ)にまいった。そうして、天皇に拝謁して、「賊軍がどんなに強くても、謀をめぐらせば、これをうち破ることは、さほどむづかしくはありせん。けれども、勝敗は軍の習(ならい)でありますから、たまには敗れることがあっても、決して御心配下さいますな。正成一人なお生きているとお聞きなさっている間は、御運はいつかお開けになるものと、御心を安らかにしていらっしゃるようお願い申します。」と力強く申し上げた。それから、河内に帰って赤坂に城を築き、天皇をお迎え申そうとした。が、まもなく賊軍が笠置をおとしいれてしまった。
天皇が隠岐におうつされになった
天皇は、藤原藤房(ふぢふさ)らを従がえられ、御徒歩(かち)で笠置をおのがれになったが、その途中の御難儀は、まことにおそれ多く、昼はかくれ、夜になると、あてもなくさまよわせられる御有様であった。お供の藤房らは、三日の間も、食事をしなかったため、身も心もすっかり疲れはてて、しばらく木かげに休んでいた。その時、こずえの露が落ちて、天皇の御衣をぬらしたので、天皇は、

さしてゆく 笠置の山を出でしより、
あめが下にはかくれがもなし。

とおよみになった。藤房は、もったいなさに、涙をおさえながら、

いかにせん 頼むかげとて立ち寄れば、
なほ袖ぬらす松のしたつゆ。

とお答え申し上げた。まもなく、天皇は、賊兵に捕らわれて、隠岐の島におうつされになった。
護良親王が吉野にたてこもられた
笠置が破れた後、賊軍は赤坂城を囲んで、とうとうこれをおとしいれてしまった。正成は、そこをのがれて、しばらく隠れていたが、ほどなく、ふたたび兵を集めて、城を金剛山の千早(ちはや)に築いた。天皇の御子 護良(もりなが)親王もまた、吉野にたてこもって、義兵を四方にお募りになった。けれども、すぐ賊の大群がおし寄せて来たので、吉野がまず陥った。この時、村上義光が親王の御鎧をいただき、これを着て、自ら親王と偽って自害したので、親王はやっと危ない難をおのがれになった。
正成が千早城にたてこもった
一方、正成は、わずかの兵を率いて千早城にたてこもり、さまざまに謀をめぐらして、たびたび賊軍を悩ました。この間に、国々では、親王の御命令を受けて、勤王の軍を起すものが多くなった。
天皇が伯耆に渡って名和長年をお召しになった
天皇は、この有様をお聞きになると、ひそかに隠岐から伯耆(ほうき・今の鳥取県西部)に渡って、その地の豪族 名和長年(なわながとし)をお召しになった。長年は、天皇の仰せを受けて大いに感激し、ただちに一族を呼び集めてこの事を伝えた。皆いずれも奮いたって、「この度、天皇の仰せをいただいたことは、この上もないわが家の名誉である。天皇の御ためには、たとい屍を戦場にさらしても、名を後の世に残さねばならない。急いでお迎えにまいろう。」といって、大急ぎで行宮を船上山(せんじょうさん)に造り、ここに天皇をお迎えして、兵を集めてお守り申し上げた。


足利尊氏らが六波羅をほろぼした
そこで、天皇は、大勢の大将をやって、六波羅を攻めさせられた。高時は、これを聞いて大いに驚き、足利尊氏らにいいつけて、急いで兵を率いて京都へ上らせた。ところが、尊氏は源義家の子孫であるから、かねがね北條氏の下にいることを不平に思っていた。それ故、この時にわかに朝廷に従い、勤王の人々と力を合わせて、賊軍を討ち、とうとう六波羅をおとしいれた。よって、天皇は、さっそく船上山をお出ましになり、京都へお向いになった。
新田義貞が鎌倉をおとしいれた
新田義貞もまた、義家の子孫である。さきに、賊軍に従って千早城を攻めたが、前々から、朝廷にお味方しようと考えていた。そこで、ひそかに護良親王の御命令を受けると、病と偽って上野(こうつけ)に帰り、義兵を起した。そうして、進んで鎌倉を攻め、稲村崎(いなむらがさき)からうち入って、高時らを破って北條氏を滅ぼした。頼朝以来140年餘り続いた鎌倉幕府はここに滅びてしまった。
天皇が京都におかえりになった
船上山から京都へ向わせられた天皇が、兵庫にお着きになった時、義貞の使が来て、鎌倉を平げたことを申しあげた。正成も、また、部下を率いて兵庫に来た。天皇は、正成を御そば近くにお召しになって、大いにその手柄をお褒めになり、正成を前躯(ぜんく)として京都にお帰りになった。時に紀元1993年(元弘3年)であった。
建武の中興
これから、天皇は、御自ら天下の政治を行わせられることになった。そうして、護良親王は、その御手柄によって、征夷大将軍におなりになり、尊氏・義貞・正成・長年らも、皆それぞれあつく賞せられた。こうして、政権は再び昔のように朝廷にかえった。この時、年号が建武と改ったので、世にこれを建武の中興というのである。

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(続き)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ② 第二十三 楠木正成

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より 中世~近代 【目次】

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ③ 第二十四 新田義貞

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ④ 第二十五 北畠親房と楠木正行

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑦ 第二十八 足利氏の衰微

◆戦後の歴史教育を捨てよう。 歴史教育 再興 ① 永久保存版 戦前の国史(日本史)学習年表

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑫ 第三十三 織田信長

◆戦前は逆賊歴史学として処罰されてた、左翼学者による皇統否定の「縄文・弥生」時代の敗戦後の普及 ~ 汚染される皇室。救う手だては皇室奪回

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑫ 大化の新政

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑨ 聖徳太子 支那へ使節派遣

◆戦前の絵本から ~ 真実の日本軍。最強だったその勇姿 ①

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑤ 朝鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ② 神武天皇

◆旧皇室(旧宮家)の復活について、どう思われますか? ~ GHQ占領下、11宮家51名が皇族から離脱させられましたが・・・

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真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑫
第三十三 織田信長

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(2019.7.22)  (戻る)
今日は現代でも最も人気ある武将の一人 織田信長。戦前の日本史教科書で重要なのは、他の戦国武将の扱いと同じく、やっぱり信長の皇室への忠勤です。そして幼い頃から乱暴者だった信長の回心を願って自決、若き信長の心に命をもってその忠誠を刻んだ家臣 平手政秀(ひらでまさひで)の存在。信長の天下統一(目前)なんて話よりずっと大事なのがこういう逸話なんです。ここまで書いて、ここの読者なら何か感ずいた方はおられませんか? そう、先日、靖国神社で自決した沼山光洋公、きっとあのお方はこの信長の忠臣 平手政秀の話を知っていたのだと思います。沼山公は戦争で散華された方たちを英霊と呼ばず、忠霊と呼んでいたそうです。英霊はただ、英雄たちの霊ということになりましょうが、忠霊は誰かへの忠誠を含むことになり少し意味が違ってきます。もちろん英霊たちの忠は天皇陛下に向けてのもの、だから沼山公はあえて忠霊と呼ぶことにこだわっていたに違いありません。そして沼山公の自決も主君である天皇陛下への忠のため、なんとか陛下や皇族たちに靖国御親拝してほしい、その思いが伝わってほしい……平手正秀が主君 信長に何とかして思いを伝えたいと、「殿、このままではいけません」と、命を引き換えに決行した自決、それと同じく、「陛下、このままでは日本がダメになります」……沼山公も何とか自分の主君たる陛下や皇族たちにこの思いが伝わってほしい、そう願って命を差し出して自決したのです。それは決して陛下を責めたりしているのではなく、あくまで沼山さん自身、己(おのれ)がいたらなかったせいだという気持からです。
沼山さんのこの思い、私にはニュースを知った当初から痛いほど伝わってきていました。だから、この平手政秀のエピソードを少しでも早くここを見られてる方々に伝えたい、そう思って、この尋常小学国史シリーズの続編制作を急ぎ、本日、織田信長の章、ようやくアップすることが出来ました。
戦前の教育で育った忠霊たちも当然、もれなくこの信長の忠臣 平手政秀のことを知っている。でも戦後教育で育った現代日本人は誰も知りません。結局、現代人は濫発されている本をいくら読んで知ったかぶりしようが、戦前の教育で学びなおさない限り、偉大な先人たちと、その思いでつながることは出来ないのです。ここを読まれてる方々こそ、その思いで先人たちと通じることの実現がかなうのです。
どうか誰か陛下に、この沼山光洋公の思い、伝えてあげてください。ここをご覧になっている政治家や役人の方がおられるなら、くだらない法律作ったり利権ばかりにこだわってないで、どうか沼山さんが命と引き換えに託したこの思い、伝えてあげてください。心あるマスコミ、TV局の方などおられるなら、陛下にその思いが届くよう、このこと大々的に正しく取り上げてください。

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

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尋常小学 国史より ⑫ 第三十三 織田信長(おだのぶなが)

戦国時代に諸国に起った英雄は、だれも、われこそ京都に上って天下に号令しようと望んでいたが、一人としてそれをしとげるものがなかった。ところが、織田信長が出て、はじめて、その目的を達し、取分け朝廷を尊んで、大いに忠勤をはげんだ。
信長の生い立ち
信長は、平重盛の子孫だといわれている。その家は、代々、尾張(おわり)にあったが、父の信秀(のぶひで)は勇武な人で、しきりに近国と戦って、領地を広めた。信長は幼い時から非常な乱暴者で、荒々しいふるまいが多く、家をついでからも、武術ばかりはげんで、少しも政治をみなかった。家臣の平手政秀(ひらでまさひで)は、たいそう心配して、たびたび諫めたが、どうしても聞入れないないので、とうとう書置(かきおき)して自殺した。時に、信長は二十歳であったが、その忠義に深く感激して、これから全く心を改め、行をつつしむようになった。後に、信長は政秀寺(せいしゅうじ)を建てて、手厚く政秀をとむらって、その忠節にむくいた。
桶狭間の戦
この頃、駿河に今川義元がいた。義元は、前々から信秀と争っていたが、遠江(とおとうみ)と三河(みかわ)との二国を従えたので、この上は、織田氏を滅ぼして京都に上ろうと思い、三国の兵 四万五千を率いて尾張に攻め入った。たまたま、信長は清洲(きよす)の城中で、家臣たちと夜話にふけっていたが、このしらせを受けても顔色さえ変えず、落ち着きはらって、そのまま笑い興じていた。しかし、翌朝、味方の砦(とりで)が危ないと聞くと、すぐさま馬を走らせて、打って出た。ところが、義元は、はや諸城を攻め取って気がおごり、桶狭間(おけはざま)に陣取って、将士といっしょに、酒宴を開いて楽しんでいた。信長の兵は、わづか二千に足らぬ小勢であったが、折からの暴風雨につけこんで、不意に義元の本陣にうち入り、敵兵が上を下へとうろたえ騒いでいる間に、目ざす義元を斬った。その時、義元は四十二歳、信長は二十七歳の血気ざかりであった。信長の威名(いめい)は、これから、たちまち四方に広がっていった。
正親町天皇のおほせを受けた
第百六代 正親町(おほぎまち)天皇は、日頃 朝廷の衰えたのをおなげきになり、どうかして天下の乱を鎮めたいと、お考えになっていらっしゃった。はるかに信長の武名をお聞きになると、わざわざ勅使(ちょくし)をお遣わしになって、古今にならびない名将とお褒めになり、御料地の回復をおほせつけられた。もともと、信長は勤王の心が深いので、天皇のおほせを受けると感涙にむせび、一身をささげて御心をおやすめ申さねばならぬと、堅く決心した。
京都に入って朝廷の御為に盡くした
時に、幕府もまた勢が衰えるばかりで、その命令はほとんど行われなくなり、将軍 義輝(よしてる)は部下に殺され、弟 義昭(よしあき)は助を信長にたのんで来た。そこで、信長は、義昭をいただいて京都に入り、朝廷に申しあげて、義昭を将軍の職につかせた。これから、信長は、皇居をつくろい、御費用をさし上げて、一心に朝廷の御為に盡くしたので、長い間絶えていた御儀式もはじまり、諸国に逃げていた公卿も、おいおいに帰ってきて、京都は、やっと、もとの有様に立ちかえるようになった。
足利将軍が滅んだ
それから後、信長は、しだいに近畿(きんき)の諸国を平げ、士民をあわれんで、よい政治をしたので、その名はますます高くなった。義昭は、これを見て快く思わず、しまいには将軍の職も奪われるのではないかと心配して、信長を除こうとたくらんだ。信長は大いに怒って、義昭を追出したので、足利将軍は全く滅びてしまった。時に、紀元二千二百三十三年(天正元年)で、義満(よしみつ)が将軍となってから、およそ百八十年餘りたっていた。
安土城を築いた
やがて、信長は、城を近江(おうみ)の安土(あづち)に築いた。城は琵琶湖に臨み、七重の天守閣(てんしゅかく)は高く雲間にそびえて、人目を驚かした。信長はここを根拠(こんきょ)として、四方を治めようと考え、まず羽柴秀吉(はしばひでよし)を中国(ちゅうごく)にやって、毛利輝元(もうりてるもと)を攻めさせた。そのうちに、秀吉から援兵を求めて来たので、信長は自ら中国に向おうとし、明智光秀(あけちみつひで)らを先発させ、自分は京都に入って本能寺(ほんのうじ)に宿をとった。
本能寺の変
ところが、光秀は、かねてから、その主のきびしい仕打(しうち)を怨んでいたので、本能寺の警戒が手薄いのにつけこんで、にわかにそむいて攻めかかった。信長は、自ら森蘭丸(もりらんまる)らと共に、必死に防いだが、かなわず、とうとう寺に火をつけて自殺した。時は天正十年、歳は四十九歳であった。
信長の手柄
信長は、さきに天皇のおほせを受けて以来、早く天下を平げて、御心をおやすめ申そうとつとめ、今ひといきでその大事業を成しとげようとしていたのに、たちまち逆臣(ぎゃくしん)の手にかかって倒れたのは、まことに惜しいことである。朝廷では、その手柄をお褒めになって、特に太政大臣従一位をお贈りになった。京都の建勲(たけいさお)神社は、信長を祀ったお社である。

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(戻る)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑪ 第三十二 後奈良天皇

◆陛下の靖国参拝こそが核心。総理や閣僚の参拝は本質問題ではない

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑩ 第三十一 毛利元就

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑨ 第三十 上杉謙信と武田信玄

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑰ 和氣淸麻呂(朝廷に於ける僧侶の勢力)

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ① 第二十二 後醍醐天皇

◆大日本帝国の唱歌を歌い継ごう! ⑧ 10月30日は教育勅語発布日 ~ 教育勅語を称える、唱歌『勅語奉答』を10歳の子供にピアノ弾き語りで歌ってもらいました!

◆仁・義・礼・智・忠・孝……五倫、四徳、五条、四端の心から道を修むる ~ 侍が学んだものを学び、偉大な先人たちと志を一にす

◆仏教も乗っ取る、反日・フェミ・同和・在日朝鮮人 キチガイ勢力の猛威~ 部落差別につながるからと、廃止が進められる“お清めの塩”

◆三船敏郎、チャールズ・ブロンソン、アラン・ドロン 往年の豪華キャスト ~ 侍の武士道の美徳が満開! 映画『レッド・サン』を見ました

◆性善説的な視点に立った教育勅語、「修身」道徳教育の補完としては、「毒をもって毒を制す」のマキアベリズムこそ最適

◆放射能は確かに危険だが、あんまり子供の命や健康にこだわりすぎるのは

◆『 耳なし芳一 』 安徳天皇の短い生涯にむせび泣く平家の亡霊 ~ ドラマ『日本の面影』より⑤(終)

◆「国を守ろう!」、「一つになろう!」 ・・・これって左翼のスローガンにもなるってわかってます?

◆日本には「安倍ヤメロ!キチガイ教」か、「安倍さんスゴイ!カルト自民真理教」の選択肢しかない。

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真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑪
第三十二 後奈良天皇

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(2019.7.16)  (戻る)
戦国時代の不憫だった皇室や公卿のエピソード、戦後教育ではまったく教えられていません。当時のひどい状況でも陛下、後奈良天皇は民を思って祈られていた。このことを知って国民があらためて皇室や歴史上の天皇への敬意を持つということも大切ではあるのですが、本当はこういう話、どんな人が一番に読んでおくべき、知っておくべきでしょう。確かに国民も知っておかねばならないでしょうが、最もこういう話を知っておかなければならないのこそ御皇族の方々ではないでしょうか。今の御皇族はこういう話をはたして知ってるのでしょうか。
皇女と結婚しようとする怪しい男に多くの国民が不信感を持ってるのに、当の眞子様はもちろん、佳子様まで「お姉ちゃんの恋が成就しますように」なんてノー天気なチャラいことを仰せになってる。もっとも私は今の秋篠宮家はすべて北朝鮮系がスリ替わったニセモノだと認識してるので、ニセの悠仁様が天皇になった時点で日本の皇室は完全に終わると見なしてます。皇女が変な男に入れ込んで国民を騒がせるような現状、「(安易に体を許して男に狂ったり、気高い気品もない)今の皇族って、もう教育がなってないじゃないか」というより、秋篠宮家がニセモノであれば当然だし、そんなもの自体どうだっていいという話になります。これまでの本物の御皇室への崇敬の念を持ってればいいんです。日本の素晴らしい高貴なる真の皇室は確かに存在していたんです。今の御皇族が明治帝や後醍醐帝への敬意を持ってるかどうか、非常に怪しい。秋篠宮家はキリスト教のICUなんかに大切な内親王殿下をおやりになってるわけですが、何を考えてるのでしょう。皇族がキリスト教徒になってるのでしょうか。なんなんでしょう、いったい。学習院が反日左翼に乗っ取られてるからと国際基督(キリスト)教大学(=ICU)なんかに通わせ始めてた時、喜んでたあいつらも、いったいなんなんでしょう。それに外国への留学なんてどうだっていいんです。語学なんか皇族が出来ようと出来まいがどうだっていいんです。被災地慰問なんてのもどうだっていいことなんです。
眞子様は変な男に熱を上げて、佳子様もパンツを見せてハダカ同然で下品なフィギュアスケート、おヘソを出してあんな格好で踊り狂って……このチャラチャラした今の皇族ってなんなんでしょう。秋篠宮様はなぜそんなことを御承諾になったのでしょう。このままでは悠仁様についてはもっとひどい事態になるであろうと思ってます。陛下のため死んでいった忠霊のための靖国詣ですらされない日本の皇室、なんなんでしょう、いったい。対して、我が身を捧げて散っていった楠木公や新田公のため、たとえ不利になっても断固として邪な足利に頭を下げなかった後醍醐帝。威力を誇示する武士にさえ決して媚びなかった後醍醐帝の揺るぎない日本再興への思い、隠岐にまで流されても屈せず、強靭な精神力でもって信念をまっとうした真の大帝の偉大さを今一度考えていただきたいです。

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尋常小学 国史より ⑪ 第三十二 後奈良天皇(ごならてんのう)

公卿の苦しみ
戦国時代には、北條・武田・上杉・毛利の四氏の外にも、豪族が所々にたてこもって、互いに土地を奪いあい、いつも戦争が絶えなかった。それ故、国々にある公卿の領地はいうまでもなく、皇室の御料地でさえ、いつのまにか、勢力のある豪族におかされるという有様であった。ところが、幕府も貧しくて、皇室の御費用をさし上げることが出来なかったので、公卿のうちでも、縁をたよって地方に下るものが多く、京都に残ったものは、衣食にも事かくほどであった。ある時、身分のある公卿に面会を申しこんだ人があった。その人は、「この寒い時候に、夏の着物では面目ないから。」と、ことわられたので「いや、それで結構です。」といって、会ってみると、公卿は、素肌に蚊帳(かや)をまとっていたそうである。当時の公卿が、どんなにあわれな暮らしをしていたかは、この話からでも、おほかた知ることが出来よう。
朝廷が衰えられた
後奈良天皇の御代には、朝廷は取分け衰えていられたので、御所の築地(ついぢ)が破れても、これをつくろうことが出来ず、賢所(かしこどころ)の御(み)あかしの光は、遠く三條の橋から見えたといわれている。こういう御有様であるから、おそれ多くも、天皇の毎日の御用さえ御不自由なことが、たびたびであったという。
天皇は御儀式を御再興なさった
けれども、天皇は、このように乏しい御費用の中からもなほ御倹約をなさって、長い間すたれていた朝廷の御儀式を御再興になった。それのみか、伊勢神宮の御建物がたいそうあれていたので、これをお造りしようとお考えになった。けれども、御心のようにならなかったので、いたしかたなく伊勢には奉幣使(ほうへいし)をさし向けて、そのわけをことわらせられた。殊に、天皇は、御あわれみの御心の深い御方であった。それ故、たまたま少しの貢でもさし上げるものがあると、これをすぐ皇族や公卿に、お分ちになった。
天皇の御仁徳
また、日頃 大御心(おおみごころ)を萬民の上におそそぎなさることも、ひととおりでなかった。ある年、長雨が降り続いた上に、悪病がはやり、そのために大勢の人が死んだ。天皇は、これを深く御心配になって、御みづから経文を写して国々にお下しになり、そのわざわいがとれるように祈らしめられた。天皇が、御身のお苦しみを少しも御心にかけられず、ただ一心に萬民をおめぐみくださった御仁徳のかたじけなさには、一人でも感泣(かんきゅう)しないものがあろうか。

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(続き)◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑫ 第三十三 織田信長

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◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑨ 第三十 上杉謙信と武田信玄

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ① 第二十二 後醍醐天皇

◆戦前の日本史教科書準拠 参考書より ㉗ 後三條天皇 院政 僧兵

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑦ 第二十八 足利氏の衰微

◆スリ替えられた秋篠宮家。消えた本物の秋篠宮殿下。拉致か、それとも……

◆フランス革命に見る人権派による残虐な子供の管理 ≪ルイ十七世の惨劇≫ ~ キチガイ左翼組織 児童相談所に拉致された子供たちを一刻も早く取り返せ!

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑰ 和氣淸麻呂(朝廷に於ける僧侶の勢力)

◆真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑮ 奈良奠都 (史書撰修) 隼人 及 西南諸島の服属 (支那との交流)

◆フェミ左翼、グローバル反日勢力に乗っ取られた大相撲 ~ 悪の巣窟 評議員制度、協議会、第三者委員会、放送倫理委員会BPO等も

◆大日本帝国の唱歌を歌い継ごう! ⑦ 10月17日は神嘗祭 ~ 唱歌『神嘗祭』を10歳の子供にピアノ弾き語りで歌ってもらいました!

◆失われた日本人の精神性と天皇の祈り① ~ 信仰とは信条を持つこと。神を信じる否かは関係ない ~ 母と子が父の無事を祈る『里の秋』

◆『ぐりとぐら』 『こどものとも』の児童書 福音館は反日出版社 ~ 天皇を貶め、自虐史観に満ちた子供向け絵本

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