日本の面影

Glimpses of Japan
失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

反シナ・反朝鮮というだけの短絡的なネトウヨがマンセーする、日本における拝金主義・フェミニズムの権化 福澤諭吉について ②

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(2014.5.22)
黒人にひれ伏し、英米とは日本国民一人残らず命を棄てて戦えと言う福澤諭吉

ここで福沢のシナ人への論評=「シナ人などの如く、我国より外に国なき如く、外国の人を見ればひとくちに夷荻々々(いてき)と唱え・・・」 (『福翁自伝』)を引用してますが、この文、実は次のように続きます。

『・・・理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落とさざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。』

この中の【日本国中の人民一人も残らず命を棄てて】という文言が非常に気になります。誰もが後の「一億総玉砕を!」を想起することでしょう。命を懸けてなら、まだ少しはわかります。道とか理とか国の恥辱とか一国の自由独立とか、日本人の好みそうな言葉が上っ面では使われていますが、(はなから)命を棄てて…… 戦時でもないのにちょっと勇ましすぎませんか。
要するに国のためなら、日本人全員死のうと別にええじゃないかと言ってるわけですが、全員が命を棄てたら国は失くなります。福澤の言う国ってのはなんなんでしょう。
伝統的な日本人の文化・価値観のような中身にこだわらない福沢のイデオロギーでは、たとえ日本が左翼国家、共産主義国家になっても、国の中身を問わずそれを守れと言ってるようにしか私は思えない。
それなのに、こんな風に命を棄てて国のため戦えとだけは、福沢は言ってる。しかし、これでは国のため死ねと言ってるだけで、何のため死ななきゃいけないのかまるでわからない。福沢の人の命に対するこの発想は、人を道具や肉の壁のようにしか扱わない典型的な旧ソ連型の左翼、これではソ連みたいな国で、ただ死んで来いと言われてるに等しいものにしか思えません。

少なくとも、軍の司令官が福沢と同じようなことを言うタイプだったら大変なことですよね(実際、戦中はそういう猪突猛進の指揮官も大勢いたわけですが)。私はそんなリーダーの元では命を懸けたくありません。命をつなぐための戦いではなく、自滅するための戦いにすぎないからです。

人権は、もちろん左翼の利権の温床になってますが、否定の仕方によっては、戦時の闇として、命が使い捨て消耗品のように扱われることになりかねません。
人が戦うのは本来、家族や子孫のためであるべきと私は思っています。
それなくして、いきなり国のために皆、死ねとなるのは、ここでも書いてますがソ連のような第二次世界大戦で最も命を粗末にした共産主義国家と同じになります。
また圧力による義務感より、まずは奉公・忠義心の美徳を育てるのが正しいやり方と思います。

上記『福翁自伝』文言と『脱亜論』をつなげば、福澤はつまり、こういうことを言ってることになります。
「朝鮮、シナとは縁を切る。そしてクロンボ(や他の有色人種には)にひれ伏すこともあれど、英米との対決では国民総玉砕をもいとわない」、これって完全に、「アジア解放のため」なんてうまくおだてあげて日本人をその気にさせて無謀な戦いに引きこみ、実は日本弱体化、滅亡を企む某勢力筋にとっていいこどだらけ。

「英米をも恐れず、一人残らず命を棄てて」、福澤のこの言葉は後の戦争の予言といえるほど大そうなものではないでしょう。アッチ側のエージェントでもあった福沢は、アチラさんからそういう話を暗に指し示されることもあったのでしょう。戦前(特に朝日新聞等)に「鬼畜米英!」と罵りながら、一億玉砕まで煽って戦争継続を主張していた勢力にもピッタリ重なってしまう。
しかしWW2戦前の実際の歴史は、福澤晩年に書かれた『福翁自伝』上記引用の言葉とは違い、福澤が没した1901年の何と翌年である1902年、日本は英国と同盟を結んで当時の覇権国であった英国側についたので、まだ日本は現実的な選択をすることで、日露戦争、第一次世界大戦と、うまく勝ち組となって日本は躍進、繁栄しました。英米と強力なコネクションを持つ高橋是清らが殺され(二・二六事件・1936)、石油も止められて(1940.7)英米と対決せざるを得なくなってしまうまでは。

日本に浅はかな戦争させ、日本人滅亡を図る勢力が当時から存在していたということ、留意しておくべきでしょう。そいつらは道とか理とかキレイな言葉を並べてくることがあろうことも。
福澤が1901年に没していなかったら、もしかしたら日英同盟もなく、もっと早く「鬼畜米英!一億総玉砕!」が声高々に叫ばれ、英米と対決することになっていたこともあったかも……しれませんね。

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(2012.12.5)   (始めから)
四民平等を唱えながらも、娘婿には士族出身でないと拒否
ルソーと同じく、早期教育を否定していながら、いち早く幼稚部を設置
金儲けだけはうまい、信念なき、ルソーと同じ“矛盾の人”

1874年(明治7年)に発足した慶應義塾幼稚舎では、1877年(明治10年)以降しばらくの間、男女を共に教育していました。これは近代以降の日本における、いち早い男女共学であり、希有なことでした。

福沢諭吉には4男5女の子供がいますが、自伝たる『福翁自伝』(1898・詳しくは右画像クリック)には、こんなことが書かれています。
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『福翁自伝』 より 「子供の教育法」
子供の教育法については、私はもっぱら身体の方を大事にして、幼少の時から強いて読書などさせない。まず獣身を成して後に人心を養うというのが私の主義であるから、生れて三歳五歳まではいろはの字も見せず、七、八歳にもなれば手習をさせたりさせなかったり、マダ読書はさせない。それまではただ暴れ次第に暴れさせて、ただ衣食にはよく気を付けてやり、また子供ながらも卑劣なことをしたり賤しい言葉を真似たりすればこれを咎めるのみ、その外は一切投げやりにして自由自在にしておくその有様は、犬猫の子を育てると変わることはない。すなわちこれがまず獣身を成すの法にして、幸いに犬猫のように成長して無事無病、八、九歳か十歳にもなればそこで初めて教育の門に入れて、本当に毎日、時を定めて修業をさせる。なおその時にも身体のことは決してなおざりにしない。
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早期教育の否定、幼少期の放ったらかしはルソーの主張と同じであり、福沢の教育理念にはルソーの強い影響が感じられるのに加え、子供の教育に“犬猫”とか“獣身”という言葉を使ってるところからして、あの人間獣化計画まで思い起こさせます。
しかも福沢は子供の早期教育を否定していながらも、実際は、いち早く自分の学校には幼稚部をちゃっかり設置するなど、その金儲けのうまさには特筆すべきものがあります。

福沢の本の詳細も知らずに短絡的に福沢をマンセーして保守派を自認してるなんてのは、ルソーの本の中身も知らず、一部の言葉だけ取り上げて、これこそ真の保守教育だなんて言ってるパッパラパーに同じ。さも日本的愛国者なんだとそのイデオロギーすり替えで福沢を持て囃す、アッチ側のマインド・コントロール工作の成果ともいえましょう。福澤のイデオロギー中身を知ってる確信犯は論外だが、無知だから許されるってものでもない。

フランス革命において、その思想基盤としてルソーのものが元になったのと同じように、今の拝金主義的な“日本革命”における思想基盤はすべて、福澤諭吉のものが元になっていると言うことができます。

福沢はさらに、上っ面では“四民平等”「人の上に人を作らず」と唱えながらも、次女 房の結婚相手となる士族出身でない男との縁談を、「娘の相手とするには身分が違う」と言うことで破談させたことがあります。こと自分のことになると、やっぱりそうなってしまうわけですね。結局、房の娘婿となったのは、甲斐の武田家に仕えていた家柄の岩崎家の桃助という人物ですが、その福沢桃介は後に巨万の富を蓄え、“電力王”とも呼ばれるようなったということで、なんか今の電力を巡る攻防を考えると意味深です (笑)。

戦前の福沢諭吉は本は売れていながらも、その存命中から民権論者やフェミニストの頭領のような存在に見なされていて大した評価されてなかったし、今のような神格化もなされてなかった。
対照的に、江戸時代の教育指南書『和俗童子訓』などを著した貝原益軒は、戦前までの教育では偉人として当時の教科書に何度も登場します。
福沢が評価されだしたのは戦後であり、特にその傾向が強まって、さも代表的なカリスマ日本人であるかのよう持ち上げられ、それを象徴するかのよう肖像が一万円札に採用されだしたのが1980年代半ばから。
福澤諭吉こそ、拝金主義蔓延による混乱する現代日本の象徴であり、1万円札で使用されてるのも、それを端的に示しているわけ。福沢のイデオロギーに現代日本人が無知であることを利用して、福沢なんかが代表的日本人であるかのよう勘違いさせるため、奴らにプロパガンダが図られてるにすぎない。

だから、ネット上に愛国保守を装って福沢諭吉なんかをマンセーする勢力がいることからしても、表のマスコミが煽ってるものに限らず、マスコミにはない、ネットで派手に煽られてるものについても、その逆を行かなければならないということ。奴らは当然、ネット上にも手は打ってあるのだから

福澤諭吉の『学問のすゝめ』(1872)は明治期に40万部以上売れたようで、現代なら人口比で100万部超のベストセラーに匹敵。また女権推進を奨める『女大学評論・新女大学』も以後の自由民権運動や女権拡張運動の隆盛に併せて五十版もの増刷が重ねられてます。この大ヒットは、今の左翼マスコミの作為的なヒット捏造と同じ、最初のアッチ側、日本史上初の左翼・金融勢力筋による話題作り、日本人に欧米かぶれ洗脳を施すための扇動仕掛け工作だったのではないかとさえ私は疑ってるよ。

過激なフェミ・左翼の福澤諭吉なんかをマンセーするアホなネトウヨを見て、左翼はニンマリ。フェミウヨともいうべき片山さつきや小池百合子なんかをやたら持ち上げてる発信源も、同じような筋なのでしょう。
また拝金主義・資本原理主義的な、かの小泉、竹中のような市場開放グローバル化全力推進の一派とも非常に相性が良さそうに感じます。ていうか、きっと福澤マンセーの発信源もこの筋に近いことでしょう。

加えて『学問のすゝめ』序文にあるシナ人についての論評から。
「シナ人などの如く、我国より外に国なき如く、外国の人を見ればひとくちに夷荻々々(いてき)と唱え、四足にて歩く畜類のようにこれを賤しめこれを嫌い、自国の力をも計らずして妄り(みだり)に外国人を追い払わんとし、却ってその夷狄に苦しめらるるなどの始末は、実に国の分限を知らず」(夷狄とは、未開の民や外国人、野蛮な民族を指す)

どうも、今の短絡的で排外的なだけの日本のネトウヨに向けて言ってるにも等しい内容に思えてなりませんが、こんなことまで言ってる福沢を、ましてや日本の排外主義者がマンセーしてるとするなら、サル、ピエロでしかありません。

日本にフェミニズムを輸入し拝金主義の権化ともいえる福沢諭吉なんかを、シナ・朝鮮叩きしてるというだけで短絡的にマンセーしてるネトウヨは、その無知蒙昧ぶりを曝け出してるといえましょう。
拝金主義、フェミニスト、平等論者、武士道精神の否定・・・福澤諭吉のような超リベラリストをマンセーしてる無知なネトウヨでしかないのなら、B層D層だの揶揄されても当然。そんなの左翼の思うツボ、ただの操り人形じゃん。

反朝鮮・反シナなんてだけで、到底、真の保守と言えるはずもありません。
軽々しく福澤諭吉なんてマンセーする前に、今も入手可能な『学問のすゝめ』や超強烈なフェミニズム啓発書『女大学評論・新女大学』とか読めばわかりますが、まともな保守層からすれば、福澤の思想書なんてとんでもない悪書だし、とても頭に入ってくる内容のものではないです。

坂本龍馬がユダ金(グラバー)の手先だったとか叩かれてるのはよく見るけど、ああいうのもどうでもいい方向へ陰謀論で誘導を図って攪乱、あっち側の工作にすぎないもの。
短絡的なネトウヨのシナ・朝鮮叩きに利用され、今や日本のおカネの顔にも成り上がり、拝金主義や平等・フェミニズムのイデオロギー基盤とされた福沢諭吉こそ、それこそユダ金・金融勢力の手先・筆頭だったと考えてしかるべき。ユダヤ陰謀論で坂本龍馬だのH・G・ウェルズだの、どうでもいいの叩いてるくらいなら、まずは福澤諭吉を叩けよ。

私は前から福沢諭吉が何となく好きになれませんでした。理由として、まずはあの顔です。これは冗談でなく、あの顔に嫌なものを感じるし、私は福沢の顔が嫌いです。これは私だけでなく、福沢の顔が、生理的だか直感的だかわからないけど、嫌いとか、気持ち悪いと感じてる人というのは、実は案外多いのではないかと思ってます。
要するにあの顔は理屈っぽい左翼の顔なんです。だから受け付けられないものがあったってこと。
あの気持ち悪い『こびとづかん』を意図的に流通させて子供に見慣れさせてしまえば、あんなのでさえ気持ち悪いと思わなくなってしまうわけで、それと同じく福沢の顔が日常的に誰もが使う紙幣に映っていれば、あの顔を見慣れさせてしまう効果を与えることになるのでしょうね (^^;

最後に、「シナ、朝鮮とは付き合うな」と書かれてるということで、福沢諭吉マンセーの元とされてる『脱亜論』について。
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『脱亜論』  (現代語訳)   (1885.3.16 時事新報)
日本の不幸は中国と朝鮮半島だ。
この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているが、
もともと人種的に異なるのか、教育に差があるのか、日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。
情報がこれほど早く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、
過去に拘り続ける中国・朝鮮の精神は千年前と違わない。
この近代文明のパワーゲームの時代に、教育といえば儒教を言い、
しかもそれは表面だけの知識であって、現実面では科学的真理を軽んじる態度ばかりか、道徳的な退廃をももたらしており、たとえば国際的な紛争の場面でも
「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。
・・・
もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。
「東アジア共同体」の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。
日本は、大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。
ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない。
この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。
悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。
私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。
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『脱亜論』には、シナ・朝鮮が堕落したのは儒教のせいであるかのよう書かれてますが、よく読めば儒教本来の教えをこの『脱亜論』で福沢が否定したというところまでには至らないのですが、他の著作を読めばわかりますが、いずれにしろ福沢は儒教に否定的でした。

ただし福沢が『脱亜論』で言う、“儒教について表面だけの知識”というのは、俗にいう「論語読みの論語知らず」という言葉が示す意味と同じでありましょう。当時のシナ・朝鮮は既に、国・国民全体がそんな「論語読みの論語知らず」ともいうべき状況に陥ってると福沢は見なしたわけです。
つまり当時の朝鮮やシナにおいては、既に奥の深い儒教文化なんて形骸化し、中身の伴わないスッカラカンとなった退廃した精神しか残っていなかったという風に、『脱亜論』で福沢は言ってるわけです。

しかし、日本の武士道にもつながる忠義・奉公精神の拠り所とされたのが四書五経をはじめとする、それこそ儒教の教えが元でした。江戸時代までサムライの子女たちは必ず四書五経(詳しくは右画像クリック)を、現代のような解説書からでなく、原文の素読みによる読破で勉強させられていました。そして儒教の教えは日本の封建制度下においても脈々と守られ続けてきたし、当時の武士が最大の価値を置いたのはカネではなく、俗物を超越する忠義心などの崇高な精神が美徳とされました。

そして、この福沢諭吉の『脱亜論』を利用しての、よくある「朝鮮には手を出すな」なんて言葉をやたらマンセーしてるのには、偽装右翼勢力が多そうです。少なくとも発信源は極めてその可能性が高い。
日本が朝鮮・シナに全く手を出さないなら、それで喜ぶのは寧ろ朝鮮とシナの方です。日本がシナ・朝鮮に何も仕掛けないというなら、日本はこのまま負けてしまいます。そして現代の日本がやるべきは、領土侵攻でなく精神侵略でしょう。
あっち側(朝鮮の方)は日本に手を出しまくって、こっちはやられっぱなしで乗っ取られそうなのに、こっちには朝鮮に手を出すなと言ってるってことは、実は奴らが本当に守ろうとしてるのは日本ではなく朝鮮の方なのだと考えた方がいい。朝鮮系エセ右翼の方にこそ、この『脱亜論』の福沢の言葉は利用価値がある。

では、福澤諭吉の朝鮮人に対する実際の心象とはどういうものだったのか。『福翁自伝』に福澤の出身地たる中津藩(今の大分)の武士についての論評にこんな記述があります。
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【本藩に対してはその卑劣、朝鮮人の如し】  『福翁自伝』 より
日本国中の大名の家来は大抵みな同じことであろう。藩主から物を貰えば拝領と言って、これに返礼する気はない。馳走になれば御酒下されなんと言って、気の毒にも思わずただ有難いとお辞儀をするばかりで、その実は人間相互いの附き合いと思わぬから、金銭のことについてもまたその通りでなければならぬ。私が中津藩に対する筆法は、金の辞退どころかただ取ることばかり考えて、何でも構わぬ、取れるだけ取れという気で、一両でも十両でも旨く取り出せば、何だか猟に行って獲物のあったような心持がする。拝借と言って金を借りた以上はこっちのもので、返すという念は万々ない。かりそめにも自分の手に握れば、借りた金も貰った金も同じことで、後のことは少しも思わず、義理も廉恥もないその有様は、今の朝鮮人が金を貪ると何にも変わったことはない。嘘も付けば媚も献じ、散々なことをして、藩の物をただ取ろう取ろうとばかり考えていたのは可笑しい。
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福澤は、とにかく朝鮮人は金に目がない人種だと見なしてるようですが、朝鮮人に限らず日本のサムライだって、金を見ればただ貪ろうとする朝鮮人と変わりなく、それは中津藩に限らずサムライ全般に亘って皆こんな風に浅ましいもので、だから日本のサムライだってそんな大した存在ではないのだと言ってるわけで、サムライさえも貶めようとしてる意が見えるんですね。

福澤の『脱亜論』は、日本にそれまでの日本を捨てさせて近代化させることが第一義
その近代化・欧米化を、同じアジア隣国のシナ・朝鮮と共に目指そうというのでなく、
単に、シナ・朝鮮は見捨てて日本のみで目指そうと主張してるにすぎない

福澤が『脱亜論』を書いた背景には次のようなものがあります。
福澤は当時の朝鮮国内の開化派であった金玉均を支援したが失敗してしまいました。だから福澤には日本の近代化・西洋化を、朝鮮も混じえて一緒に推し進めていこうという目論見が当初はあって、その延長上に出来ればシナも一緒にというのが、福澤の眼中にあったのですが、福澤はそれは叶わぬことだと判断、見切りをつけたわけです。

だからこの『脱亜論』、福澤の頭の中では、とにかく日本はこれから近代化、西洋化を目指していかねばならないという命題ありきだったわけだけど、歴史的に古くから付き合いのあったシナや朝鮮と共にそれを目指そうなんて愚かなことは考えず、シナ・朝鮮と付き合っても足を引っ張られるだけなので、日本だけが今までの日本から生まれ変わっていこうという、単にそれだけの意図、視点から書かれたものにすぎません。
日本が“新しい日本”を目指していく上で、その後の国策ともされた“脱亜入欧”という言葉が示す通り、“脱亜”すなわち欧米化することで、それまでの日本的・封建的なものサムライ的なものを含め、日本の伝統・文化的な価値観など捨ててしまう方向へ持っていくために必要だとする“脱亜論”なのです。
当時の日本の“近代化”(あるいは合理化や欧米化)に近いイメージとしては、現代なら“グローバル化”という言葉がそれに匹敵するでしょう。要するに福澤諭吉という人物像は、「(現代日本で)何が何でもグローバル化」と考えてるような人をイメージすればわかりやすいでしょう。

要するに福澤諭吉の『脱亜論』には、日本が伝統・文化を守りながら、これからも日本が日本たりえるため、日本らしさを守りながら、それなりの近代化を図ろうといった、良識的な保守系知識人のような観点は完全に欠落してるということです。古き良き日本を捨て、それまでの日本を破壊するための“脱亜論”であって、言い換えれば“日本革命論”の一端にすぎず、日本を欧米的な社会とする“日本革命”を達成するための過激な“脱亜論”にすぎなかったのだということ。
『脱亜論』の一文を取り出して、福澤諭吉が愛国保守かのよう取り上げるなんてデタラメ、とんでもない欺瞞、詭弁といえます。仮に愛国左翼とはしても、到底、保守とはいえない。

福澤の視点というのは常に唯物的であり、そこには心が感じられません。カネに拘らなかったサムライや、いざとなれば命をかけて忠義を尽くすという、日本人が有していたそれまでの武士道精神の高尚性など、福澤には何も見えてなかったに等しいのだと思います。
むしろ福澤の頭の中は、そういう日本の古い封建的な価値観こそ日本の近代化を阻害し、人の自由まで侵害・束縛してしまう有害なものだという認識、思いでいっぱいだったのに違いありません。

福澤諭吉がおカネの代名詞にされてるのは、決して日本で一番偉大な人物だから一万円札の顔になってるというわけでなく(左翼やフェミニストにとってはそうかもしれないが)、福澤のイデオロギー中身を知るアッチ側の連中からすれば、福澤は大いに利用価値ある人物だということ。

福澤のイデオロギーは、とても日本的な真の保守と言える代物ではないよ。
福澤諭吉は、いわば日本におけるフェミニズムや短絡的なフェミウヨの教祖。

ここまで書いて、福澤諭吉のイデオロギーを知った上で、日本で保守派称して福澤なんかをマンセーする者がいるとするなら、もはやそやつは精神論なき、ただの拝金主義の奴隷たるエセ保守を自称してるにすぎない。福澤諭吉マンセーなんて、あっち側の手先と化してるも同然です。  (続く)

『トゥー・トライブス』フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド
Two Tribes – FRANKIE GOES TO HOLLYWOOD(1983)

昨日の『リラックス』に続いてフランキーの代表曲の一つ(詳しくは右画像クリック)。“Two Tribes”とは、二つの民族の意。当時の米ソ首脳、レーガンとチェルネンコのソックリさんの格闘シーンは今見てもおもしろい。過激なビデオが大変話題となり、英国では9週連続1位という大ヒットした反面、当人のいる米国ではいまいちヒットしませんでした。

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(続き)◆慶応大 広告学研究会 女子大生集団レイプ輪姦 凌辱撮影ビデオ バラ撒き事件の顛末 ~ 続・エセ保守がマンセーの福沢諭吉 ③

(始めから)◆反シナ・反朝鮮というだけの短絡的なネトウヨがマンセーする、日本における拝金主義・フェミニズムの権化 福澤諭吉について ①

◆左翼教育者が持ち上げる、フランス革命を引き起こしたルソーの人間獣化思想 ~ ルソー生誕300年で、日教組やPTA左派が暗躍中

◆要するにアリの世界 ~ 男女共同参画だの左翼の社会ってのは

◆戦前の道徳教科書『修身』に見る加藤清正の武勇伝 ~ 自虐史観の正反対から見る豊臣秀吉の朝鮮侵攻

◆仁・義・礼・智・忠・孝……五倫、四徳、五条、四端の心から道を修むる ~ 侍が学んだものを学び、偉大な先人たちと志を一にす

◆朝鮮人による朝鮮人叩き。いわゆる“在日認定”のカラクリ ~ 左翼による左翼叩きの目論見まで  ≪工作員入門≫

◆キチガイ講談社『たのしい幼稚園』付録の卑猥な最低デザイン ~ 最近の書店の子供向けコーナーから

◆反シナ性を利用して、チベット、ウイグル問題から保守層・保守系政治家を左翼に取り込むカラクリ

◆男の子が赤いランドセル背負ってるのってどうよ? ~ 男女観破壊、左翼イデオロギー刷り込みのベネッセCM

◆日本人なら『ねずみの嫁入り』の世界観を!~ 陰謀の黒幕を考えるのでなく全体として捉えられる感覚を持ちましょう

◆エセ保守 捏造ノスタルジーの映画『ALWAYS 三丁目の夕日』について

◆シナ人のモラル劣化より、日本人のモラル劣化の方が心配

◆ちょっと未来へ行って、家畜と化した人類を見てきました ~ 映画『タイム・マシン』 H・G・ウェルズ原作より

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この記事に対するコメント

  • 【前サイトURLのこの記事へのコメント】

    > 理由として、まずはあの顔です。
    1万円札の顔はインチキっぽいですね。
    聖徳太子とは格がちがうと思います。樋口一葉もインチキだと思います。というか紙幣に使うほどの貢献を日本にしていないと思います。
    AO7 | 2012/12/06 7:13 PM

    短絡的でアホなネトウヨとはまさにその通りでネットはこの手の手合い非常に多いですね。
    自分も前から福澤諭吉の思想には色々な物が入り組んでいそうだとは思っていましたが、ここまでとは知らずに非常に勉強になりました。
    本当の保守とはなんなのか常に考える姿勢が大事だと感じます。
    ピコピコ | 2012/12/06 9:37 PM

    保守のブログで、福澤諭吉の言葉を引用しているのを見かけて、保守的な人なのかとインプットしそうになってました。
    そこしか取り上げてなかったからですが、前回に引き続き、今回も読ませていただいて、福澤さんがイヤになってしましました。
    子育ての話とか、肩書きで娘の縁談を壊した話も腹が立ちます。
    昨日も読んでて思いましたが、福澤さんこそ陰謀の人。
    後世に生きる私たちは、大いに苦しんでますね・・。
    神社に多く祀られている、聖徳太子様にぜひ戻ってほしいです・・。
    樋口一葉もさっぱりありがたみが感じられません。
    唯物思想ばかりに感じるのですが、福澤さんには、信仰心はあったのでしょうか。
    敬いの心のない方のようにも見受けました。

    >トゥー・トライブス
    映像がとても面白かったです。
    時代が違うのに、色々感じるところがありました。
    今の日本では、業界も死んでるし、、世界に対してもへっぴり腰でこんな斬新なものは作れないのではと思いました。
    緑 | 2012/12/07 12:56 AM

    明治以来の、私たちの「 欧米理解と、 欧米文化受容の仕方 」は、今現在の時点で考えると、完全に間違った方向へ進んでいた。
    今や、「 第二の文明開化 」に着手するべき時である。最早、「 単なる西洋崇拝の輩 」は、居ないはずであるが・・・。
    渋茶 | 2014/05/22 8:47 PM

    慶應義塾幼稚舎は小学校です
    慶應義塾に幼稚園はありません
    慶應義塾は中学校と小学校の表記ないから勘違いしやすいんですよ
    それに慶應義塾幼稚舎は師範学校令以前に立てられましたので
    小学校という考えすらなく生徒の年齢はばらばらでした
    大体10歳前後で入学していた方が多かったようです
    あい | 2015/05/12 7:39 PM

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